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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

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第1話 『朝の薬草園』

 目を覚ますと、まだ外は薄暗かった。


 春の朝の空気は冷たく澄んでおり、窓の外では雀が一羽、屋根の縁を蹴って飛び立った音が聞こえてくる。


 私は床から身を起こし、髪を一つに束ねた。

 毛先がまだ寝癖で跳ねているが気にしない。

 今日もどうせ、薬草園で土をいじるのだ。


 階下から、お母さんが(かまど)の火を起こしている音が響いてくる。

 乾いた小枝の折れる音、鉄鍋を置く音。

 それから、お湯の沸き始める密やかな音。


 お父さんはまだ井戸端だろうか。

 彼は私たち姉妹より早く起きて、薬草園に水を撒く、寡黙で堅実な人だった。

 一日のうちで彼が口にする言葉は、片手で数えられるほどしかない。


「寒いわね」


 私は寝間着の上に、母が織ってくれた粗い麻の上着を羽織り、部屋から出る。

 階段の前に差し掛かると妹、ニナの寝室の戸の隙間から、彼女の細い寝息が聞こえた。


 私は歩みを止め、そっと戸を開けて妹の姿を見た。

 ニナはまだ眠っている。


 ここ数ヵ月、彼女は朝が遅い。

 朝が遅いというより、起きていられる時間が、日に日に短くなっている。

 ずっと体調も悪く、体調が良い日など数えるほどしか無い。


 可哀想に――


 などと思っていると、銀色の細い髪が枕に流れていた。

 昨年の夏まで、ニナの髪は私と同じ薄い茶色だったのに。

 私は戸を閉め、階段を下りた。


「おはよう、お母さん」


 挨拶をするとお母さんは、竈の前で振り返った。

 彼女の頬には、火の赤い色が映っている。


「おはよう、ライラ。早いわね」


「うん。露が乾く前に、ハナクサを摘みたくて」


「ニナは?」


「まだ寝てる」


 お母さんはそれ以上は何も言わなかった。

 ただ、ふっと小さく息を吐いて、また鍋に向き直った。


 私達はニナの病気について、必要以上の言葉を交わさない。

 言葉にすると、それが本当のことになってしまう気がしてならないからだ。


 籠を抱えて外に出ると、お父さんが井戸の前に立っていた。

 桶に水を汲み、それを薬草園のほうへ運ぼうとしている。


「お父さん。私が運ぶよ」


「いい。お前は、ハナクサだろう」


「うん。でも、桶も持てる。だってまだ空だよ籠」


 お父さんは少し笑ったように見えた。

 口の端がほんの少し動くだけで、それが笑いだと分かるのは、家族だけだ。


「お前は、強情だな」


「お父さんに似たの」


 お父さんは答えなかった。

 ただ桶を私に預けて、自分は別の桶を取りに井戸へ戻った。


 薬草園は私達の村の北の端にある。


 私達の家から歩いて数分。

 村の他の家々の合間を抜けて、緩やかな斜面を登った先に、私達の薬草園が広がっている。


 春の朝、薬草はまだ眠っている。


 ハナクサは葉を閉じ、シロヨモギは霜に縁取られている。


 露が葉の先で球になって光っていた。

 私はしゃがみ、ハナクサの葉を根元から丁寧に摘む。


 強くは引かない。

 葉が傷つくと薬効が落ちる。

 指の腹で挟んで、軽く捻る。

 それで葉は、すんなりと茎から外れるからだ。


 籠の底に葉を一枚ずつ並べていく。

 重ねると蒸れるから広げて並べる。


 教えてくれたのはお母さんだ。


 ハナクサが熱を下げ、シロヨモギが咳を鎮め、クロセンが血を止める事。

 名前と効能、摘む時期と、煎じる時間。


 私は薬師の見習いとして十二歳の時から働いてきた。

 あと一年か二年で見習いを卒業して、正式な薬師として認められる予定()()()


 ニナがこうなるまでは。


 ニナの病は半年ほど前に始まった。

 最初はただの微熱だった。

 次に食欲が落ちた。

 その次は肌の色が白くなっていった。


 ある朝、私はニナの髪にひと筋の白い髪を見つけた。

 十歳の少女に白髪が生える筈がない。


 でもニナの髪は、それから少しずつ銀色に変わっていった。


 肌は青い血管が透けて見えるほど白くなった。

 瞳の色も、最初は私と同じ茶色だったのに、いまは薄い青が(にじ)んでいる。


 お母さんや周りの人達はこれを『神成り』と呼んでいる。


 神成り――

 神骸の欠片、大昔に居たとされる神様の遺体を呑み込んだ者が、神に近づき、しかし人としての形を失っていく病。


 大抵の場合はその力に耐えきれず、欠片を呑み込んだ瞬間から、数日のうちに死ぬ。

 ニナのように、数ヶ月もかけて緩慢(かんまん)に進行する例は、村の誰も見たことがないと言った。


 でもお母さんは、ニナが神骸の欠片を呑み込んだ筈がない、とも言った。

 私もそう思っている。


 私達はずっとニナを見ていた。

 ニナはそんな得体の知れない欠片など呑んでいない。


 それでも、症状は神成りそのものだった。


 私はハナクサを摘み続けた。

 手を動かしていないと考えてしまうからだ。

 考えてしまうと、胸の奥が冷たくなる。

 ニナのことを考えると、いつも胸の奥が冷たくなった。


 私は薬師だ。

 まだ見習いだけれど、それでも薬師だ。

 病を治すために、葉を摘み、根を掘り、湯を沸かす。

 それが私の仕事だ。


 でも、ニナの病に効く薬はなかった。


 半時ほど摘んだころ、お父さんがまた桶を持って薬草園にやってきた。


 彼はクロセンの(うね)に水を撒き始めた。

 彼の動きはゆっくりだが確かだった。


 私は薬草でいっぱいになった籠を抱えて立ち上がる。


「お父さん」


「なんだ」


「神官様達がもうすぐ来るって、本当?」


 お父さんは桶を傾けたまま、少し動きを止めた。


「……ああ。今日か、明日には到着する筈だ」


「久しぶりだね、来るの」


「冬を越したから薬草の受け取りに来たのだろう。冬の間には一回しか来なかったし。それと――」


 お父さんはそこで言葉を切った。


「それと?」


「いや。何でもない」


 彼はまた水を撒き始めた。


 私は、それ以上は聞かなかった。

 でも、彼が言いかけた言葉が何となく分かった。


 神官団は神成りの病人を()る。

 ニナのことは村から報告されており、神官団はそれを確かめに来るのだ。


 水やりを続ける父を後にし、私は薬草園を出ていった。

 家に戻る道すがら、村の中を抜けていく。


 テルナ村は薬師の村として知られている。

 怨使(えんし)様の領域の、石組みのさらに外側。

 大きな街道からも外れた、小さな集落だ。


 家は二十数軒しかない。

 住んでいるのは薬師か、薬師に薬草を売る農夫か、その家族達だけ。

 ほとんど誰もが、互いの顔と名前を知っている。


 道すがら、井戸端で水を()んでいた老婆が、私に声をかけた。


「ライラちゃん。ニナちゃんはどうだね」


「変わりません。眠っていますけど、ちゃんと息はありますよ」


「そうかい。気の毒に。困ったらすぐに相談しなね」


「はい、ありがとうございます」


 老婆は皺だらけの手で、私の腕を軽く撫でた。

 彼女の手は温かかった。


 老婆と軽く挨拶を交わした後、私はまた歩き出した。

 その先の家の前では、子供達が地面に木の枝で何かを描いて遊んでいた。


「何を描いてるの?」


 私が()くと、一人の男の子が得意げに胸を張って答えた。


「石組みだよ」


「石組み?」


「あっちのさ、こわいやつだよ」


 男の子は、村の南東の方角を指差した。

 そちらには、怨使様の領域の境界がある。

 巨大な石を組んだ神話の時代の遺構(いこう)

 通称、石組み。


 子供達はその向こうに行ってはいけないと、生まれた時から言い聞かされている。


「描いたら、石組みを越えたことになるって、お父さんが言ってたんだ」


「描いただけで? 越えたらどうなるの?」


 何を答えるのか知っていたが、私はあえて尋ねる。


「神成りになるんだよ。ライラ姉ちゃん知らないの?」


 男の子は大真面目な顔で言った。

 他の子供達もこくこくと頷く。


 私は笑わなかった。

 彼らの言うことは、村の大人たちの言うことの、そのままの繰り返しだったからだ。


 石組みの向こうは確かに怨使様の領域。

 そこには、神成りの群れが住んでいる。

 石組みのこちら側は辺境。


 領域内の大きな街に属する神官団の巡回で、()()使()()様の領域外は辛うじて秩序を保っている。


 でも、辺境にも神成りは現れる。

 山から下りてくることも、風に乗って神成りの遺体が飛んでくる事もある。


 だからこそ分かる。


 ニナは神骸の欠片など呑んでいない。

 そんな物はこの村の周辺には、一片足りとも存在しない。

 神骸の欠片が無い所に昔の人々が村を作り、私達はその村の外には基本的に出ない。

 神骸の欠片も、それ自体が汚染を引き起こす物質であるから、動かせるような代物でもない。


 それでもニナは神成りの症状を呈している。

 他の神成りとの接触すら無いというのに、だ。


 子供達にはそのことを言わない。

 彼らに、世界が思っているよりも怖いということを、教える必要はないから。


「うん、お姉ちゃんはあんまり詳しくないから。でもそれは、余り外に冒険に行かないようにする為の嘘よ。描いたり超えただけで神成りになっちゃうなら、商人なんて仕事は存在できないもの」


 男の子の頭を軽く撫でて、私は歩き続けた。


 ──ニナは、どうして。


 歩きながら、私は何度目か分からない問いを、また心の中で繰り返した。


 ──どうして、ニナだけ。


 家の戸を開けたとき、お母さんはちょうど、ニナの寝室へ向かう所だった。


「あ、ニナが起きたの?」


「うん、いま起きたところよ。お粥を持っていくの」


「私が持っていくよ。お母さんは休んでて」


 お母さんは頷いて台所の方へ戻った。

 私は籠を土間の隅に置き、湯気の立つ椀を盆に載せて、ニナの寝室へ向かった。


 戸を開けると、ニナはちょうど身を起こしたところだった。


 彼女は薄い銀色の髪を肩に流して、寝台に座っていた。

 肌は白い。陽の光に当てると、肌の下の血管が薄く透けて見えるほど、白い。

 瞳は青みがかった、かつての茶色を僅かに残した色をしていた。


 ニナは十歳とは思えないほど、整った顔に変わっていった。

 病が彼女の輪郭を、奇妙なほど精巧(せいこう)にしている。

 ぞっとするような美しさ、と言ってもよかった。


「お姉ちゃん」


 ニナは私を見て笑った。

 その笑いは子供のものだった。

 顔は変わっても、中身はしっかりと、私の大切で大好きなニナのものだ。


「おはよう、ニナ。お粥を持ってきたよ」


「ありがとう」


 私は寝台の脇に椀を置き、彼女の額に手を当てた。

 熱はなかった。

 ニナの肌はいつも、私の手より少し冷たい。


「ねえ、お姉ちゃん」


「うん」


 ニナは椀の縁を両手で持ったまま、ぼんやりとした目で言った。


「私、また夢を見たの」


「どんな夢?」


「分かんない。お空のずっと上にある、すごく綺麗だけど知らない景色。真っ白で綺麗な道。そんな高いところから、誰かが落ちていく」


「誰が?」


「分かんない。でも、その人は短い黒い髪の男の人だった。綺麗な赤い目をしてたの。近くには私よりも年下の可愛い女の子と、何か愉快そうな男の人もいた」


 ニナは椀の中の粥をひとさじ、口に運んだ。


「お姉ちゃん。あれは、誰なんだろうね」


 私は答えなかった。

 答えようがなかった。


 ニナは最近、こういう夢の話をよくする。


 古い、知らない時代の景色。

 誰かが空から落ちていく夢。

 あるいは、九十九の人影が、円になって座っている夢。


 全部、彼女が見たことのない筈の光景だった。

 私はおろか、父も母もこの村から外に出たことが無い。

 外の世界の事なんて何も知らないのだ。


 でも、ニナはそれを見ている。


 お母さんはこれも病の譫言(うわごと)だと言った。

 神成りの末期には、現実と夢の境が溶ける、と。


 私は黙って頷いた。

 でも、心のどこかで、頷ききれずにいた。

 ニナの夢の中身は、譫言にしては、奇妙に具体的だったから。


 ニナがお粥を半分ほど食べたところで、彼女はまた疲れた様子を見せた。

 私は椀を脇に置き、彼女を寝かせた。


「お姉ちゃん」


「うん」


「春が来るね」


「うん。来てるよ。もう」


「私、外に出られるかな」


 私はニナの髪を撫でた。

 銀色の髪は、絹のように細く、私の指の間を滑り落ちた。


「出られるよ。元気になったら。安心して」


「うん」


 ニナは目を閉じた。

 彼女が眠りに落ちるまで、私はその場に座っていた。


 戸を閉めてニナの寝室を出て階下に行くと、お母さんが台所で薬草を選り分けていた。


「眠った?」


「うん、食べたらすぐ寝ちゃった」


「ライラ」


「なに?」


「神官さまがいらしたら、ニナのことを、ちゃんと話しなさい」


「うん」


「でも、あまり気を落とさないようにね」


 お母さんは、私のほうを見ずに、薬草を選り分け続けていた。

 彼女は神官団がニナを助けてくれるとは、思っていなかった。


 私もそう思っている。


 神官団は神成りの病人を診る。


 でも、治すわけではない。


 ただ、確認するだけだ。


 そして、必要なら()()()()()を取る。

 適切な処置、というのが、何を意味するのか。

 私達は口にしなかった。



 ――



 朝飯を食べ、薬草の選別を手伝った後、彼女。

 ライラは薬草の籠をもう一度抱えて、家を出た。


 日はすでに中天に近い。

 春の陽射しはまだ弱く、村の屋根の上を、薄く撫でていくだけだった。


 彼女は薬草園に戻り、午前の続きのハナクサを摘もうとした。

 しかし、籠を地面に置いてしゃがんだ瞬間、彼女は手を止めた。


 風が止まっていた。

 北の方から、何か遠い音が聞こえてくる。


 澄んだ金属の音。

 馬の蹄の音と人の声。

 そして、何度も何度も鳴る、低く重い鐘の音。


 彼女は立ち上がった。


「神官様達だわ」


 冬を越して今年も訪れた、年に数度の巡回。

 その鐘が村の北の街道を、こちらに向かって近づいてくる。


 ライラは籠を腕に抱えたまま、しばらくの間、北のほうを見つめていた。


 彼女はただ、籠を抱え鐘の音を聞いていた。

 春の風がようやく動き出し、遠くから神官団がやってきた。

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