第4話 『契りの仔』
月の光が寝室の床に薄く落ちる。
ライラは、床に膝をついたまま、暗がりの中の小さな獣を見ていた。
黒い毛玉の獣。
羊に似た形、子犬ほどの大きさ。
目はなく、顔の部分には黒い毛があるだけ。
その謎の存在は動かない。
ただ、ライラの方を向いている。
寝室には、ライラの細い呼吸の音だけが、低く流れていく。
しばらくしてからライラは、ようやく口を開いた。
「あなたは、何?」
彼女の声はまだ震えていた。
しかし、その声は絶望に呑まれた者の声ではなかった。
獣はライラに答える。
「絶望した人の前に現れて、契約を提示する者だよ。私の事を知っている人間は、あまり多くはないけどね」
その声は、子供のような透き通った響きで、性別も年齢も分からない、奇妙に澄んだ声だった。
「色々な名前が私にはある。でも、最も一般的に呼称されているのは『契りの仔』と云う名前かな。悪魔だの詐欺師だの、心無い事を言う人間も中には居るけどね」
ライラは息を呑む。
契りの仔――
それは、聞いた事のない言葉だった。
村でも、薬師の教えの中でも、神官団の説教でさえ。
一度足りとも聞いたことのない言葉、聞いたことのない名前。
聞きたいことは様々あるが、まずは何よりも先に、ライラには聞くべきことがあった。
「契約……? 契約って、助けてくれるって本当なの?」
「うん、そうだよ。君の妹のニナを救う、という事が君にとっての『救済』なら、私の言っている事は本当だよ」
ライラの心臓が、一拍、強く跳ねた。
「あなたは……。ニナを、救えるの?」
ライラの声にはまだ警戒があった。
彼女は薬師の見習いだ。
どんなに重い病でも、簡単に治る薬はない事を知っている。
あったとしても、必ず重い副作用、即ち代償がある。
それは、ライラが十二歳から学んできたことだった。
訝しむライラに対し、契りの仔は答える。
「救える。完全に、完璧に」
「完全に……?」
「そう。ニナはね、実は神成りじゃないんだ。あの神官団の長の人、ヨアシムが言っている事は正しいよ。君の妹の症状は神成りに似ているけれど、別のものだ」
「じゃあ、何なのよ」
「神様が降りる為の身体。依代という物だ」
ライラは自分の意志とは無関係に息が一瞬止まった。
「依代……?」
「そうだよ。この世界には稀に、神様の魂が宿るに足る、器としての資質を持つ人間が生まれてくるんだ。君の妹はその器としての資質を持っていた。だから日に日に身体が変わって行ったんだよ。入る神様の形に合わせてね」
ライラが信じられなそうな顔をする。
しかし、そんな彼女にはお構いなしに、契りの仔は続けた。
「このままだと君の妹は、ニナは怨使様の領域の施設に連れて行かれるだろうね。神様の奇跡に縋る聖職者達にとって、ニナは正しく最高の被検体だ。その身体の一欠片まで観察されて、研究されて、最終的に神様が降りてくる。そうしたらニナはもう、ニナじゃなくなってしまうんだ」
ライラは両手の指を、床の上で強く握りしめる。
血の滲んだ指先が、また少し痛んだ。
「でも、私と契約すれば、その進行を完全に止められる。神様は降りてこないし、ニナは元の元気な状態に戻る。走れるし、笑えるし、食べられる様になる。簡単な話だろう?」
「本当なの……?」
「私は嘘をつかない。私の契約は、必ず履行されるよ」
ライラはしばらくの間、契りの仔を見ていた。
簡単に信じてはいけない、と、頭の片隅で自分に言い聞かせた。
願いが、こんなに簡単に叶う筈がない――
きっと代償があるはずだ――
何か、とても大きな代償が――
「代償は何。こんな奇跡が、なんの見返りも無しに起こる訳が無いわ」
ライラはまっすぐに、契りの仔に問うた。
契りの仔は少しの間、答えなかったが、しばらくしてゆっくりと答えた。
「君は賢いね。その通りだ。あらゆる事には代償が付き物だ。奇跡の裏には悲劇が。神秘の裏には災いが。そして救済の裏には、必ず『誰かの未来』が支払われる」
契りの仔は、黒い毛玉のまま微動だにしない。
だがその声だけは、まるで耳の奥に直接触れるように澄んでいた。
「奇跡はね、ライラ。正しい代価さえ支払われれば、いくらでも起こせるんだよ」
ライラの喉が、かすかに鳴った。
恐怖ではない。
理解してしまった者だけが抱く、冷たい予感だった。
「君が支払うべき代償。それは、君の心臓に『神骸の欠片』を埋め込むという事だ」
ライラの背筋が極限まで凍りついた。
「神骸の、欠片……」
薬師の見習いとして、彼女は知っていた。
神骸の欠片を呑んだ者の末路を。
ハナクサもシロヨモギも、神骸の欠片を呑んだ者には効かない。
欠片は身体の中で神に変わり、本来の自分の神としての姿に戻ろうとする。
そして人を、人ではないものに変えていく。
欠片を心臓に埋め込まれた人間は即死するか、もしくは数日のうちに神成りの末期に至り、死ぬ。
それが神骸の欠片を飲み込んだ者の末路だ。
「それは……。普通の人間ならすぐに死ぬ。私の命と引換えに、ニナを助けてくれるって事?」
ライラが尋ねると、契りの仔は黒い毛玉を左右に振って答えた。
「そうだね。だから私が介入するんだ。私が君の心臓を支え、神骸の欠片の力を私が抑える。だから君は、神成りにはならない」
「あなたはいつまで、私の心臓を支えてくれるの?」
「契約が続く限りだよ。君が、私を裏切らない限り」
「裏切る、というのはどういうこと?」
「契約を、自分から破棄するということ。それ以外なら、私はずっと君と共にある」
ライラは頷いた。
その答えに納得できたからだ。
契約には、契約者を縛る義務がある。
それは、薬師の組合の取り決めでも同じだった。
契約とはその大小に関係なく、等しく守らなければならない掟であるのだろう。
一度、深呼吸を挟んでからライラは続けて質問する。
「他には何を……。あなたは何を代償として求めるの」
「君に烙印を刻む事だ」
「烙印……?」
「そう。君の身体のどこかに印を刻む。そうすれば契約は成立し、君は祈神様の所有物になる」
ライラは息を呑んだ。
彼女は祈神について深く知らない。
四大使徒よりも偉く、すごい神様程度の認識でしかない。
すごく偉大で、世界の中央に居る神様――
毎朝、教会の鐘が鳴ると村人達が祈りを捧げる、その相手――
ライラも毎朝、家族と一緒に祈っていた。
その祈神の所有物になるとはどういう事なのかと、彼女は理解し切れずにいた。
「私が祈神様の所有物……」
「物として扱うわけじゃないよ。ただ、君が祈神様の管理下に入る、という意味さ。君の生活は何も変わらない。ただ、夜使徒が来る。それだけだよ」
「夜使徒って、何?」
知らない単語にライラは首を傾げる。
契りの仔は変わらず答えた。
「夜にしか出現しない、人ではない者だよ。手足が異常に長くて、顔がなくて、口だけが大きくて、目が無数にある。聖歌のような声で、泣きながら襲ってくる哀れな存在だよ」
ライラはぞっとした。
契りの仔は、続けた。
「あれはね、君の血肉を糧にして、さらに上位の存在になる為に襲いに来るんだ」
「上位の……? あの、四大使徒様と何か関係があるの?」
「それについては私の関知する所じゃないから何とも。夜使徒は、使徒の中で一番下の階層さ。だから、上に行きたい。烙印を持つ人間を喰らえば、上の階層に進める。上の階層に進めばまともな身体が手に入る。だから襲いに来る。とても合理的な動機だよ」
「私を、殺しに……」
「そう。でも、夜使徒は弱い。一体ずつなら、剣を振れる人なら倒せるよ。問題は数だね」
「そんなに多いの?」
「多いよ。まるでコバエみたいに群がってくる。君の村に夜使徒が押し寄せたら、村人達も巻き込まれて死ぬだろうね」
ライラは呼吸を忘れた。
村人達。
井戸端の老婆。
石組みの絵を描いていた子供達。
神官団に頭を下げていた村長。
皆が、彼らが夜使徒に襲われる。
自分の烙印のせいで。
「……それは、駄目」
ライラは低い声で呟いた。
「絶対に駄目」
「だろうね」
契りの仔の声には、僅かな優しさが滲んでいた。
「そう。だから、契約したら君は、村を出るしかない。君が村にいる限り、夜使徒は村に来る。村人達は殺される」
「……」
「両親も妹も君が村を出れば、夜使徒には襲われない。烙印を持つ君が村にいなければ、夜使徒は村を狙わないからね」
ライラはしばらく何も言わなかった。
契約をすれば、ニナは救われる。
しかし、自分は村を出る。
両親とニナと、もう一緒には暮らせない。
夜使徒に追われながら、どこか遠くで、生きていくことになる。
それは、自分の人生を全て、ニナの為に差し出すということである。
「両親は」
ライラは声を絞り出して言う。
「両親は、私がどこへ行ったか、知らないままになる」
「そうだね。君の両親は生涯、君の事を探し続けるだろうね」
「……」
「君は両親に説明するのかい?」
ライラはしばらく考えた。
両親に説明したら、自分の父と母は恐らく止めるだろう。
父は「お前を犠牲にすることはできない」と言うだろう。
母は泣いて「行かないで」と言うだろう。
そして、止められたらニナは明日、連れて行かれる。
ニナは人間としての尊厳を犯し尽くされ、最終的には人間ですらなくなる。
ニナが、ニナでなくなる。
それだけは何としても許容し難かった。
「両親には何も言わない」
ライラは低く、しかし、はっきりとそう告げた。
「言ったら止められる。止められたらニナは助けられない」
「君はそれでいいんだね」
「うん」
ライラの声にはもう、震えは無かった。
契りの仔もしばらくは無言のままだった。
それからしばらく経ち、ライラが再度訊いた。
「もう一つ、聞いていいかな」
「なんだい?」
「ニナは、誰の依代になるの? どの神様が降りるの? 神様ってずっと前に死んじゃったんでしょ?」
契りの仔は少しの間、考えるような間を設ける。
そして答えた。
「大きな神様だよ。大きくて、優しくて、悲しい神様だね」
「優しくて、悲しい……?」
「うん。とても優しくて、とても悲しい。君がニナを助けたい気持ちと、その神様がニナを使いたい気持ちは、どちらも優しさから来ているんだ。ただ、向かう方向が違うだけ」
ライラはその答えの中に、何かが伏せられているのを感じた。
しかし、契りの仔が嘘をついていないようにも感じた。
「神様の名前は何?」
「名前を呼ぶと聞こえてしまう神様もいるんだよ。だから、名前は言えないんだ」
ライラは頷いた。
それ以上は訊かなかった。
聞いても教えてくれそうに無かったから。
「じゃあ最後。祈神様ってどんな神様なの」
ライラは最後に訊く。
契りの仔はそれに答えた。
「世界の中央にいる神様だよ。皆が毎朝、祈りを捧げる神様。君も毎朝祈っているでしょ?」
「うん。教会の鐘が鳴ったら家族みんなで」
「君が毎朝祈っている、その相手。それが祈神様さ」
「……それは、知ってる。そういう事じゃなくて」
「祈神様は祈りを司る神様だよ。全ての祈りを束ね、全ての祈りの恩恵を人々に帰す。それが祈神様の全てだよ」
ライラはその答えの中に、また何かが伏せられているのを感じた。
しかし同時に、契りの仔の言葉は嘘ではなかった。
事実として、契りの仔が行ったことはどこの教会でも教わる、祈神プレイの神としての在り方そのものだったからだ。
「そう……。分かったわよ」
ライラは立ち上がろうとして、寝台の縁に手をついた。
血の滲んだ指は寝台の木に、薄く赤い跡を残していく。
ライラは寝台に座り直し、両手を膝の上で組んで、そして考えた。
ニナのこと。
両親のこと。
自分のこと。
妹は十歳。
まだ十歳。
あの子はまだ、生きていなければならない。
走って、笑って、食べて、夢を見て、大人になって、誰かと出会って、誰かを愛して、そうして生きていかなければならない。
その時間を私が与えたい。
私の人生を、ニナに捧げたい。
両親には、申し訳ないと心の底から思った。
お父さんとお母さんは、明日の夜、私が居ないことに気付くだろう。
書き置きを残すかどうかも、まだ決めていない。
でも、もし残しても二人は、私を理解しないかも知れない。
それでも、いい。
私の人生は私のもの。
私が自分で決める。
ライラは顔を上げる。
契りの仔はまだ、同じ場所に座っていた。
その毛玉はライラを見ていた。
目はない。
しかし、確実に見ていた。
「契約する」
ライラははっきりとそう告げた。
契りの仔もまた、彼女に答えた。
「ありがとう」
その声には何か重みがあった。
「後悔はしないでね。これは、君が選んだ事なんだ。誰に強制された訳でも無いのだから」
「しないわよ」
ライラにはもう迷いがなかった。
契りの仔はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、始めようか」
そして目のない黒い毛玉の獣が、寝台の方へゆっくりと歩み寄って行った。




