表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/22

第4話 『契りの仔』

 月の光が寝室の床に薄く落ちる。


 ライラは、床に膝をついたまま、暗がりの中の小さな獣を見ていた。


 黒い毛玉の獣。

 羊に似た形、子犬ほどの大きさ。

 目はなく、顔の部分には黒い毛があるだけ。


 その謎の存在は動かない。

 ただ、ライラの方を向いている。


 寝室には、ライラの細い呼吸の音だけが、低く流れていく。


 しばらくしてからライラは、ようやく口を開いた。


「あなたは、何?」


 彼女の声はまだ震えていた。

 しかし、その声は絶望に呑まれた者の声ではなかった。


 獣はライラに答える。


「絶望した人の前に現れて、()()を提示する者だよ。私の事を知っている人間は、あまり多くはないけどね」


 その声は、子供のような透き通った響きで、性別も年齢も分からない、奇妙に澄んだ声だった。


「色々な名前が私にはある。でも、最も一般的に呼称されているのは『契りの仔』と云う名前かな。悪魔だの詐欺師だの、心無い事を言う人間も中には居るけどね」


 ライラは息を呑む。


 契りの仔――


 それは、聞いた事のない言葉だった。

 村でも、薬師の教えの中でも、神官団の説教でさえ。

 一度足りとも聞いたことのない言葉、聞いたことのない名前。


 聞きたいことは様々あるが、まずは何よりも先に、ライラには聞くべきことがあった。


「契約……? 契約って、助けてくれるって本当なの?」


「うん、そうだよ。君の妹のニナを救う、という事が君にとっての『救済』なら、私の言っている事は本当だよ」


 ライラの心臓が、一拍、強く跳ねた。


「あなたは……。ニナを、救えるの?」


 ライラの声にはまだ警戒があった。


 彼女は薬師の見習いだ。

 どんなに重い病でも、簡単に治る薬はない事を知っている。

 あったとしても、必ず重い副作用、即ち代償がある。


 それは、ライラが十二歳から学んできたことだった。


 訝しむライラに対し、契りの仔は答える。


「救える。完全に、完璧に」


「完全に……?」


「そう。ニナはね、実は神成りじゃないんだ。あの神官団の長の人、ヨアシムが言っている事は正しいよ。君の妹の症状は神成りに似ているけれど、別のものだ」


「じゃあ、何なのよ」


「神様が降りる為の身体。()()という物だ」


 ライラは自分の意志とは無関係に息が一瞬止まった。


「依代……?」


「そうだよ。この世界には稀に、神様の魂が宿るに足る、器としての資質を持つ人間が生まれてくるんだ。君の妹はその器としての資質を持っていた。だから日に日に身体が変わって行ったんだよ。入る神様の形に合わせてね」


 ライラが信じられなそうな顔をする。

 しかし、そんな彼女にはお構いなしに、契りの仔は続けた。


「このままだと君の妹は、ニナは怨使様の領域の施設に連れて行かれるだろうね。神様の奇跡に縋る聖職者達にとって、ニナは正しく最高の被検体だ。その身体の一欠片まで観察されて、研究されて、最終的に神様が降りてくる。そうしたらニナはもう、ニナじゃなくなってしまうんだ」


 ライラは両手の指を、床の上で強く握りしめる。

 血の滲んだ指先が、また少し痛んだ。


「でも、私と契約すれば、その進行を完全に止められる。神様は降りてこないし、ニナは元の元気な状態に戻る。走れるし、笑えるし、食べられる様になる。簡単な話だろう?」


「本当なの……?」


「私は嘘をつかない。私の契約は、必ず履行されるよ」


 ライラはしばらくの間、契りの仔を見ていた。

 簡単に信じてはいけない、と、頭の片隅で自分に言い聞かせた。


 願いが、こんなに簡単に叶う筈がない――

 きっと代償があるはずだ――

 何か、とても大きな代償が――


「代償は何。こんな奇跡が、なんの見返りも無しに起こる訳が無いわ」


 ライラはまっすぐに、契りの仔に問うた。

 契りの仔は少しの間、答えなかったが、しばらくしてゆっくりと答えた。


「君は賢いね。その通りだ。あらゆる事には代償が付き物だ。奇跡の裏には悲劇が。神秘の裏には災いが。そして救済の裏には、必ず『誰かの未来』が支払われる」


 契りの仔は、黒い毛玉のまま微動だにしない。

 だがその声だけは、まるで耳の奥に直接触れるように澄んでいた。


「奇跡はね、ライラ。()()()()()さえ支払われれば、いくらでも起こせるんだよ」


 ライラの喉が、かすかに鳴った。

 恐怖ではない。

 理解してしまった者だけが抱く、冷たい予感だった。


「君が支払うべき代償。それは、君の心臓に『神骸の欠片』を埋め込むという事だ」


 ライラの背筋が極限まで凍りついた。


「神骸の、欠片……」


 薬師の見習いとして、彼女は知っていた。

 神骸の欠片を呑んだ者の末路を。


 ハナクサもシロヨモギも、神骸の欠片を呑んだ者には効かない。

 欠片は身体の中で神に変わり、本来の自分の神としての姿に戻ろうとする。

 そして人を、人ではないものに変えていく。


 欠片を心臓に埋め込まれた人間は即死するか、もしくは数日のうちに神成りの末期に至り、死ぬ。

 それが神骸の欠片を飲み込んだ者の末路だ。


「それは……。普通の人間ならすぐに死ぬ。私の命と引換えに、ニナを助けてくれるって事?」


 ライラが尋ねると、契りの仔は黒い毛玉を左右に振って答えた。


「そうだね。だから私が介入するんだ。私が君の心臓を支え、神骸の欠片の力を私が抑える。だから君は、神成りにはならない」


「あなたはいつまで、私の心臓を支えてくれるの?」


「契約が続く限りだよ。君が、私を裏切らない限り」


「裏切る、というのはどういうこと?」


「契約を、自分から破棄するということ。それ以外なら、私はずっと君と共にある」


 ライラは頷いた。

 その答えに納得できたからだ。


 契約には、契約者を縛る義務がある。

 それは、薬師の組合の取り決めでも同じだった。

 契約とはその大小に関係なく、等しく守らなければならない掟であるのだろう。


 一度、深呼吸を挟んでからライラは続けて質問する。


「他には何を……。あなたは何を代償として求めるの」


「君に烙印(らくいん)を刻む事だ」


「烙印……?」


「そう。君の身体のどこかに印を刻む。そうすれば契約は成立し、君は祈神様の所有物になる」


 ライラは息を呑んだ。


 彼女は祈神について深く知らない。

 四大使徒よりも偉く、すごい神様程度の認識でしかない。


 すごく偉大で、世界の中央に居る神様――

 毎朝、教会の鐘が鳴ると村人達が祈りを捧げる、その相手――


 ライラも毎朝、家族と一緒に祈っていた。

 その祈神の所有物になるとはどういう事なのかと、彼女は理解し切れずにいた。


「私が祈神様の所有物……」


「物として扱うわけじゃないよ。ただ、君が祈神様の管理下に入る、という意味さ。君の生活は何も変わらない。ただ、夜使徒(やしと)が来る。それだけだよ」


「夜使徒って、何?」


 知らない単語にライラは首を傾げる。

 契りの仔は変わらず答えた。


「夜にしか出現しない、人ではない者だよ。手足が異常に長くて、顔がなくて、口だけが大きくて、目が無数にある。聖歌のような声で、泣きながら襲ってくる哀れな存在だよ」


 ライラはぞっとした。

 契りの仔は、続けた。


「あれはね、君の血肉を糧にして、さらに上位の存在になる為に襲いに来るんだ」


「上位の……? あの、四大使徒様と何か関係があるの?」


「それについては私の関知する所じゃないから何とも。夜使徒は、使徒の中で一番下の階層さ。だから、上に行きたい。烙印を持つ人間を喰らえば、上の階層に進める。上の階層に進めばまともな身体が手に入る。だから襲いに来る。とても合理的な動機だよ」


「私を、殺しに……」


「そう。でも、夜使徒は弱い。一体ずつなら、剣を振れる人なら倒せるよ。問題は数だね」


「そんなに多いの?」


「多いよ。まるでコバエみたいに群がってくる。君の村に夜使徒が押し寄せたら、村人達も巻き込まれて死ぬだろうね」


 ライラは呼吸を忘れた。


 村人達。

 井戸端の老婆。

 石組みの絵を描いていた子供達。

 神官団に頭を下げていた村長。


 皆が、彼らが夜使徒に襲われる。

 自分の烙印のせいで。


「……それは、駄目」


 ライラは低い声で呟いた。


「絶対に駄目」


「だろうね」


 契りの仔の声には、僅かな優しさが滲んでいた。


「そう。だから、契約したら君は、村を出るしかない。君が村にいる限り、夜使徒は村に来る。村人達は殺される」


「……」


「両親も妹も君が村を出れば、夜使徒には襲われない。烙印を持つ君が村にいなければ、夜使徒は村を狙わないからね」


 ライラはしばらく何も言わなかった。


 契約をすれば、ニナは救われる。


 しかし、自分は村を出る。


 両親とニナと、もう一緒には暮らせない。

 夜使徒に追われながら、どこか遠くで、生きていくことになる。


 それは、自分の人生を全て、ニナの為に差し出すということである。


「両親は」


 ライラは声を絞り出して言う。


「両親は、私がどこへ行ったか、知らないままになる」


「そうだね。君の両親は生涯、君の事を探し続けるだろうね」


「……」


「君は両親に説明するのかい?」


 ライラはしばらく考えた。


 両親に説明したら、自分の父と母は恐らく止めるだろう。

 父は「お前を犠牲にすることはできない」と言うだろう。

 母は泣いて「行かないで」と言うだろう。


 そして、止められたらニナは明日、連れて行かれる。


 ニナは人間としての尊厳を犯し尽くされ、最終的には人間ですらなくなる。

 ニナが、ニナでなくなる。


 それだけは何としても許容し難かった。


「両親には何も言わない」


 ライラは低く、しかし、はっきりとそう告げた。


「言ったら止められる。止められたらニナは助けられない」


「君はそれでいいんだね」


「うん」


 ライラの声にはもう、震えは無かった。

 契りの仔もしばらくは無言のままだった。


 それからしばらく経ち、ライラが再度訊いた。


「もう一つ、聞いていいかな」


「なんだい?」


「ニナは、誰の依代になるの? どの神様が降りるの? 神様ってずっと前に死んじゃったんでしょ?」


 契りの仔は少しの間、考えるような間を設ける。

 そして答えた。


「大きな神様だよ。大きくて、優しくて、悲しい神様だね」


「優しくて、悲しい……?」


「うん。とても優しくて、とても悲しい。君がニナを助けたい気持ちと、その神様がニナを使いたい気持ちは、どちらも優しさから来ているんだ。ただ、向かう方向が違うだけ」


 ライラはその答えの中に、何かが伏せられているのを感じた。

 しかし、契りの仔が嘘をついていないようにも感じた。


「神様の名前は何?」


「名前を呼ぶと聞こえてしまう神様もいるんだよ。だから、名前は言えないんだ」


 ライラは頷いた。

 それ以上は訊かなかった。

 聞いても教えてくれそうに無かったから。


「じゃあ最後。祈神様ってどんな神様なの」


 ライラは最後に訊く。

 契りの仔はそれに答えた。


「世界の中央にいる神様だよ。皆が毎朝、祈りを捧げる神様。君も毎朝祈っているでしょ?」


「うん。教会の鐘が鳴ったら家族みんなで」


「君が毎朝祈っている、その相手。それが祈神様さ」


「……それは、知ってる。そういう事じゃなくて」


「祈神様は祈りを司る神様だよ。全ての祈りを束ね、全ての祈りの恩恵を人々に帰す。それが祈神様の全てだよ」


 ライラはその答えの中に、また何かが伏せられているのを感じた。


 しかし同時に、契りの仔の言葉は嘘ではなかった。


 事実として、契りの仔が行ったことはどこの教会でも教わる、祈神プレイの神としての在り方そのものだったからだ。


「そう……。分かったわよ」


 ライラは立ち上がろうとして、寝台の縁に手をついた。


 血の滲んだ指は寝台の木に、薄く赤い跡を残していく。


 ライラは寝台に座り直し、両手を膝の上で組んで、そして考えた。


 ニナのこと。

 両親のこと。

 自分のこと。


 妹は十歳。

 まだ十歳。

 あの子はまだ、生きていなければならない。


 走って、笑って、食べて、夢を見て、大人になって、誰かと出会って、誰かを愛して、そうして生きていかなければならない。


 その時間を私が与えたい。

 私の人生を、ニナに捧げたい。


 両親には、申し訳ないと心の底から思った。


 お父さんとお母さんは、明日の夜、私が居ないことに気付くだろう。

 書き置きを残すかどうかも、まだ決めていない。

 でも、もし残しても二人は、私を理解しないかも知れない。


 それでも、いい。

 私の人生は私のもの。

 私が自分で決める。


 ライラは顔を上げる。

 契りの仔はまだ、同じ場所に座っていた。


 その毛玉はライラを見ていた。

 目はない。

 しかし、確実に見ていた。


「契約する」


 ライラははっきりとそう告げた。


 契りの仔もまた、彼女に答えた。


「ありがとう」


 その声には何か重みがあった。


「後悔はしないでね。これは、君が選んだ事なんだ。誰に強制された訳でも無いのだから」


「しないわよ」


 ライラにはもう迷いがなかった。


 契りの仔はゆっくりと立ち上がる。


「じゃあ、始めようか」


 そして目のない黒い毛玉の獣が、寝台の方へゆっくりと歩み寄って行った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ