第5話 『紅い印』
契りの仔が、寝台の方へゆっくりと歩み寄ってくる。
黒い毛玉の獣は、月の光と暗がりの境を、音もなく渡っていく。
「ねえ、契約ってどうすればいい?」
ライラは寝台の縁に座ったまま、契りの仔に訊いた。
「胸に手を当てて、目を閉じて。あとは私がやるよ」
契りの仔の声は変わらず透き通っている。
ライラはその指示に従った。
彼女は寝間着の襟を少し緩めて、両手を胸の前で組み、目を閉じた。
寝室がいつもより静かなのも相まって、心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響くのを感じる。
自分の呼吸の音と鼓動。
それだけがこの場にはあった。
「では」
契りの仔が最後にそう告げた、その瞬間。
契りの仔の、目のない顔の中央が、突如として裂けた。
黒い毛が左右に押し開かれ、顔の真ん中に、深い穴のような口が現れる。
その口は、子犬ほどの獣の身体に対して、不釣り合いに大きかった。
毛玉の半分を占めるほどの大きさで、ぱっくりと開かれた口は底が見えない。
奥は黒く、ただ黒い。
光すら吸い込むほどに黒い。
目のない顔に、ただ口だけが巨大に開いている不気味な姿。
獣はその姿のまま、低く身を屈める。
子犬ほどの小さな身体が、後ろ脚に力を込めて、地に張り付くように沈み込む。
そして、突如として跳んだ。
契りの仔はライラに向かって、跳び上がったのだ。
寝台の縁に座った目を閉じたままのライラに向かって、暗がりから真っ直ぐに獣は跳び上がった。
黒い毛玉の獣が月の光を切って、ライラの胸へと迫る。
ライラには何も見えていない。
目を閉じていたからだ。
ただ、空気が自分に向かって押し寄せてくるのだけは、彼女はしっかりと感じていた。
何か暗いもの。
何か得体の知れないもの。
それが近づいてくる事。
胸に当てた両手の下で、自分の心臓がまた、強く跳ね返ったのを感じる。
直後、契りの仔がライラの胸に接触した。
黒い毛玉の獣の、ぱっくりと開いた口が、ライラの胸に触れた。
正確には、触れた、というよりも押し当てられた。
そして契りの仔の身体は、ライラの胸の中へ吸い込まれるように消えて行った。
毛が皮膚に吸い込まれ、骨に吸い込まれ、心臓へと飲み込まれていく。
その間、音は無かった。
血も流れなかった。
ただ、契りの仔がライラの身体の中に、入り込んで行っただけだった。
「ふ、あ――」
ライラの身体が後ろに倒れ、寝台の上で仰向けに横たわる。
彼女は意識を失ってしまった。
寝室にはもう、契りの仔の姿はなかった。
ただ寝台に横たわる一人の女の姿があるだけだ。
月の光は、寝台の上のライラの寝間着を、薄く照らしている。
外の風はその光を届けて疲れてしまったのか、やけに冷たそうに吹いていた。
――
ライラは深い闇の中に居た。
彼女は自分が何処にいるのか分からなかった。
立っているのか、倒れているのかも、それすらも分からなかった。
ただ、暗い。
ただ、静か。
しかし、完全な無ではなかった。
自分の心臓が、燃えるように熱いことだけは、はっきりと感じられた。
その熱は自分の心臓そのものではない、別の何かの熱だった。
別の何かが、自分の心臓の場所を占めようとしている。
自分の心臓が押し退けられ、別の何かがその場所に収まっていく。
奇妙な感覚だった。
その間、ライラの脳裏にはいくつもの光景が流れていった。
ニナの顔。
寝台の上で、銀色の髪を肩に流して笑っている顔。
父の顔。
桶を持って、井戸端で振り返る寡黙な顔。
母の顔。
褒めながら薬草の見分け方を教えてくれる、温かい顔。
村の老婆の顔。
転んでしまった幼い自分を慰める為、貴重な砂糖菓子をくれた、あの優しい顔。
石組みの絵を描いていた子供達の顔。
生まれた時から自分を無条件に慕ってくれる、幼い顔。
神官団に頭を下げていた村長の顔。
ヨアシムの灰色の目。
朝の薬草園のハナクサの葉。
そして、露が葉の先で球になって光っていた、あの朝。
それらが走馬灯の様にライラの中を流れていく。
彼女はその全てを見ていた。
自分が今までに見てきた全ての景色。
今までに愛してきた、全ての人々。
貴方の人生は、もう、貴方だけのものではない――
貴方の為に、貴方の人生があるのでない――
どこからともなく、その言葉が暗闇の中で静かに響いた。
誰にも聞かれない、しかし、確かに発された言葉。
ライラはその言葉をあるがままに受け入れた。
抵抗もせず、嘆きもせず、ただ、受け入れた。
自分が決めた事の為、自分が命を捧げると決めた相手の為に。
決意に呼応するかの如く、心臓の場所を占めた別の何かが、ゆっくりと彼女の中で落ち着いていく。
同時に、暗闇が薄れていく。
――
目を開けると既に朝だった。
ライラは寝台の上に、仰向けに横たわっていた。
窓からは薄い夜明けの光が射し込んでくる。
まだ完全な朝ではない、薄明かりの時間。
空は、青と黒の間の不思議な色をしている。
ライラはゆっくりと身体を起こし胸に手を当てると、胸は微かに熱を帯びていた。
彼女は寝間着の襟を広げ、自分の胸元を見る。
「これが……」
ライラが見た自身の胸の中央に、黒い印が刻まれていた。
それは茨のような形だった。
細い線が絡み合い、捩れ合い、円を描き、また伸びて、別の線と絡み合う。
全体の形は何かを抱え込むような、鎖にも似ており、棘にも似た、有機的な紋様。
黒いが、しかし、ただの黒ではない。
よく見ると深い臙脂色が、黒の中に滲んでいる。
血の色のような、夜明け前の空のような、紅い印。
ライラはそれを見ていた。
しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、自分の胸に刻まれた印を見ていた。
痛みは無い。
ただ、熱だけがあった。
心臓の鼓動もいつもと違う。
もっと深くで、もっと冷たく、もっと確実に、脈打っている。
まるで自分の心臓ではなく、別の何かが、自分の中で脈打っているような感覚。
しかし、それは嫌な感覚ではなかった。
ただ、いつもと違うというだけの事だ。
次にライラは自分の指先を見た。
昨夜、床を引っ掻いて血を出した指先。
爪が割れて、血が滲んでいたあの指先。
「嘘でしょ」
爪はまだ割れていた。
しかし、皮膚の傷は跡形もなく消えていた。
まるで、何日も経った後のように。
ライラは自分の指を、何度か握った。
痛みも違和感もない。
彼女は、自分の身体がとうに、今までの自分の物ではない事を悟った。
「目が覚めたんだね」
突然、声が寝室の隅から聞こえた。
ライラが顔を上げ寝室の隅を見ると、朝の薄明かりの中に契りの仔は座っていた。
また同じ場所に、同じ姿で座っていた。
目のない黒い毛玉の獣、子犬ほどの大きさ、羊に似た形の存在が。
「うん」
ライラが短く頷くと、契りの仔は続けた。
「ニナはね、もう元気になっているよ。隣の寝室でまだ眠っているけれど、目を覚ましたらきっと彼女は驚くだろうね」
「……ありがとう」
ライラの声は自分でも驚くほど静かだった。
しばらくの間、ライラは何も言わなかった。
ただ、自分の胸の烙印をもう一度見て、それから契りの仔を見た。
訊くべきことが、いくつかあったのを思い出したからだ。
「ねえ、契りの仔」
「なんだい」
「私が眠っている間に、夜使徒は来なかったの?」
ライラはまずそれを訊いた。
もし夜使徒が来ていたなら、自分が眠っている間に家族が殺されていた可能性がある。
そう思うと、訊かずにはいられなかった。
「安心してくれて構わない。来なかったよ」
契りの仔はすぐに答えた。
「だから君の家族は皆、無事だよ。階下でまだ眠っている。勿論、村の人達もね」
ライラは、ふっと、肩の力が抜けていくのを感じる。
「良かった……。あれ、でも契約者の所に夜毎に襲いに来るんでしょ? どうして昨日は来なかったの?」
ライラの声には、わずかな緊張があった。
契約は成立し、ニナは確かに救われた。
ならば次は、自分が祈神の所有物になり、夜使徒に追われる身となる。
そう云う契約の筈だ。
それなのに今しがた契りの仔は「来なかった」と言った。
これでは矛盾が生じてしまう。
ならば一体、夜使徒はいつから来るのだろうか。
そんなライラの疑問を悟ったかの様に契りの仔は、首を振るような仕草をして言った。
「契約した日は、特別なんだ」
「特別?」
「うん。契約した日……。昨夜は、契約者が家族や知人に別れを告げる為の時間。だから、契約した当日の夜だけは、夜使徒は来ない。これは祈神様が決めたルールだよ」
契りの仔の声には、わずかな優しさが滲んでいた。
「祈神様のルール……?」
「そう。理由はいくつかあるんだ。でも、一番大きいのは『契約者を絶望させすぎない為』かな」
「絶望させすぎない為?」
いまいち契りの仔が何を言っているのか要領を得ない。
ライラは首を傾げたが、契りの仔は構わず続ける。
「そう。例えば契約者が、契約してすぐに夜使徒に襲われて、家族の前で死んだり、家族を巻き込んで死んだりするとしよう。その時、君達は今際の際に祈るだろう? その祈りは、祈神様の好みじゃないんだ。だからだよ」
ライラはまた、契りの仔の言葉の中に何かが伏せられているのを感じた。
しかし同時に、契りの仔は嘘をついていないようにも感じられた。
「君は昨夜、契約した。だから昨夜は夜使徒が来なかった。でも、もう今は朝だ。今日の夜には夜使徒が君を襲いに来る」
「今日の、夜……」
「うん。だから、君に残されたのは今日の夕方まで。それまでには村を出なきゃいけない」
「半日……」
ライラは低く呟く。
「たったの半日だけ」
「うん。半日。それが君に与えられた、最後の家族との時間だよ。君の好きな様に使うと良い」
ライラは唇を軽く噛んだ。
たったの半日。
それしか彼女には残されていなかったのだ。
朝、昼、そして夕方まで。
父と母の顔が見られる、最後の時間。
元気になったニナの姿を、初めて見られる、最後の時間。
その全てが、たった半日に押し込められていた。
「分かったわ」
ライラは低く、しかしはっきりとそう告げた。
契りの仔はそれを受け、驚くような声で言う。
「君は強いね」
「……」
「多くの契約者はね、ここで泣くんだよ。半日しかないのか、とか。家族にはどう接すればいいのか、とか。『話が違う』って恨み辛みを言いながら、私の事を貶してくるんだ。おかしな話だよね。私は事前に説明しているんだけれどね。でも、君は違う。もう、覚悟ができているんだね」
ライラはそれについては答えなかった。
代わりに、自分の胸の烙印をもう一度見た。
「ねえ、契りの仔」
「うん」
「あなたは、私の味方なの?」
ライラはまっすぐに、契りの仔に問うた。
「これから長いこと、あなたと一緒にいるかもしれないんだから。そこは、はっきりさせておきたい」
契りの仔はしばらく答えなかった。
考えているような、何かを選ぶような、そんな間を作っていた。
そして、しばらくしてから契りの仔は答えた。
「私はね、ライラ。契約者の味方ではないよ」
ライラの背筋がわずかに緊張した。
「でも、敵でもない」
「……なら、一体」
「私は、契約者の『願い』の側に立つ存在なんだ。君の願いはニナを救うこと。だから、私はその願いの履行を全うする。それが、君の側に立つ、ということだよ」
「……」
「でも、君個人の味方ではない。君が、君自身の願いに反する選択をするなら、私はそれを止める。君が契約を裏切るなら、私は君から離れ、君は死ぬ」
ライラはその答えを、自分の中で吟味する。
そして頷いた。
「分かったわ」
「君の願いと君の選択がずれない限りは、私は、君の味方と言えなくも無いけどね」
契りの仔はどこか嬉しそうだった。
「君が、君の願いを最後まで貫くのなら。私は最後まで君と共にある」
契りの仔の言葉を聞き、ライラはもう一度だけ頷いた。
その答えに納得ができたからだ。
契約者と、契約された者。
その関係性が今、明確になった。
「ねえ、契りの仔」
「うん」
「あなたは、これからどうするの?」
漠然とした問いに契りの仔は答える。
「私は君と共にあるよ。君の心臓の中に。声をかけてくれれば、いつでも応えるよ」
「ずっと一緒ってこと?」
「うん、ずっと一緒だよ」
「じゃあ、私が声をかけなければ?」
「その場合、私からは特に話しかけないかな。君の生活の邪魔をしないように、静かにしている。でも、必要な時には、私が声をかけることもある。ただ注意して欲しいのが、私の姿は烙印を持つ者にしか見えない事。だから、傍から見れば今の君は、空に向かって話しかけている狂人だよ」
「……分かった」
その答えを聞くと、契りの仔の身体がゆっくりと薄れていった。
黒い毛玉の輪郭が霞のように、空気に溶けていく。
「では、またね」
契りの仔は最後に告げた。
「今日の夕方までは家族と過ごすといい。それから村を出るんだ。それが君の望みなんだろう?」
「うん」
そして、契りの仔の姿が消えた。
寝室にはライラ一人が、寝台の上に座っているだけ。
窓からは、薄い夜明けの光が、もう少し強くなって射し込んでいた。
「……よし」
ライラは寝間着の襟を整え、胸の烙印を隠して立ち上がる。
身体は軽かった。
昨夜の絶望と疲労はもう、彼女の中に残っていなかったからだ。
代わりに、ある種の覚悟が彼女の中で、静かに座していた。
ライラはそうして寝室を出た。
階下からはまだ、何の音もしなかった。
父も母もまだ眠っているのだろう。
彼女は廊下を、足音を立てずに歩き、ニナの寝室の前まで行くと立ち止まった。
それから戸を薄く開け中を覗いた。
「――」
ニナは、寝台の上でいつもの様に眠っていた。
銀色の髪は枕に流れ、流れ星の様に輝いている。
しかし、その顔の色は、昨日とは違っていた。
頬に薄い赤みが戻っていたのだ。
「あ……」
ライラは目の前に、確かにある奇跡に息を呑んだ。
そんな姉の息遣いが聞こえたのか、ニナは目を覚ます。
彼女は寝起きのぼんやりとした目で、ライラの方を見る。
そして、ニナは笑った。
その笑いは、子供のものだった。
病に侵される前の、元気だった頃のニナの笑顔だった。
「お姉ちゃん」
ニナの声にはもう、衰弱の影は無かった。
「おはよう」
ライラは気が付くと妹の部屋に入っていた。
そして、寝台の脇に膝をつき、ニナの手を両手で握った。
ニナの手はもう冷たくなかった。
寧ろその逆で温かかった。
昨日までの青ざめた冷たさは、嘘の様に消えていた。
「ニナ……。身体は、どう?」
ライラの声は震えていた。
ニナは首を傾げながら答える。
「分かんない。なんか、ふしぎ。すごく、軽いんだ」
ニナは自分の手を、目の前にかざした。
「お姉ちゃん、見て。指、動くよ。ちゃんと動くよ」
彼女は五本の指を一本ずつ、ゆっくりと動かしてみせた。
昨日まで、寝台から起き上がることも、何かを掴む事も難しかったあの指が、ニナ自身の意志で、軽やかに動いていた。
「お姉ちゃん、私、起きてみていい?」
「うん」
そう言うとニナは、寝台の上でゆっくりと身を起こした。
布団を払って、両足を寝台から下ろす。
そして、立ち上がった。
自分の力だけで立ち上がった。
以前までは誰かに支えられないと、座ることすらできなかった少女が、自分の足で立っていた。
「立てる……。お姉ちゃん。私、立てるよ……」
ニナの声には、驚きと、喜びと、戸惑いが複雑に混ざり合っていた。
彼女は寝台から降り、寝室の中をゆっくりと数歩、歩く。
歩けた。
ニナはふらつきもせず、歩くことが出来た。
そして振り返って、ライラを見た。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「お姉ちゃん。私、治ったの? 神官様達に、連れて行かれないで、いいの?」
ライラは答えなかった。
答える代わりに、彼女は立ち上がった。
そして、ニナに歩み寄り、両腕で彼女を強く抱きしめる。
ライラはニナの細い身体を自分の胸に、しっかりと押し付けた。
もう冷たくない、温かい身体を。
元気な妹の身体を。
「お姉ちゃん……?」
ライラは答えなかった。
答えられなかった。
だから、そんな彼女の代わりに涙が、彼女の頬を流れ落ちた。
ライラは声を殺して泣いた。
ニナを抱きしめたまま、彼女は泣き続けた。
嬉しさで。
寂しさで。
悲しさで。
その全てが同時に、彼女の胸の中で渦巻いていた。
ニナは、ライラの腕の中でしばらくじっとしていた。
それから自分の小さな両手を、ライラの背中に回し、姉を抱きしめ返した。
「お姉ちゃん。大好きだよ」
ライラは何も言わなかった。
ただ、もっと強くニナを抱きしめた。
夜明けの光は、ニナの寝室の窓から射し込み、姉妹を照らしている。
外では村が、ゆっくりと目覚め始めていた。




