第6話 『奇跡と覚悟』
ライラとニナは、しばらくの間お互いを抱きしめていた。
だが、やがて、ニナがライラの腕の中で身じろぎする。
「お姉ちゃん。私、お腹空いちゃった」
その一言はあまりにも普通で、あまりにも以前のニナそのもので、ライラはまた目頭が熱くなった。
「うん。下に行こう。お母さんももう起きてると思うから」
そう言うとライラはニナの手を引いて寝室を出た。
二人は階段を、仲良く手を繋いで降りていく。
ニナはライラの手を握りながら、自分の足で一段ずつ、足裏の感覚を確かめながら。
ライラの胸の中で、妹のその姿を見ているだけで、何度も泣きそうになった。
二人が一階に降りきった時、既に台所では母が、竈の前に立っていた調理をしていた。
いつもの朝のように、火を起こし、鍋を火にかけ、パンを切っている。
けれど、その後姿にはどこか悲壮感があった。
「あら、起きたのねライラ――」
母は背後で響いた階段の音に振り返る。
そして、固まった。
彼女の瞳が映したもの。
それは、本来ここに居る筈の無いニナの姿だった。
昨日まで自力で寝台から起き上がることすら難しかった少女が、自分の足で、姉に手を引かれながら、階段を降りてきている。
愛する娘の頬には、薄い赤みも戻っている。
「ニナ……」
ライラ達の母の声は震えていた。
同じ様にニナも、ライラの手を離して母の方へ駆け寄る。
駆け寄ったのだ。
歩くことなんて到底不可能だったニナが、駆けたのだ。
「お母さん!」
ニナは母の胸に飛び込んだ。
母は、娘のその細い身体を両腕で受け止めた。
受け止めて、強く抱きしめた。
母の頬を、涙がただただ流れ落ちていく。
「ニナ……。ニナ……」
母は娘の名を呼んだ。
他に言うべき言葉が見つからなかったからだ。
そんな折、戸が開き、父が土間に入ってきた。
彼は井戸端から戻ってきたところだった様で、手には桶を持っている。
ライラ達の父は、台所で母とニナが抱き合っている光景を見て、ぴたりと立ち止まった。
それはまるで、時間が止まっているかの様であった。
「……お父さん」
ニナは母の腕の中から父を呼んだ。
彼女の父はしばらく動けなかった。
彼の目は、ニナの姿を何度も確かめるように見ている。
「ニ、ニナ――」
そして、ゆっくりとニナの方へ歩み寄った。
父の震える手は、ニナの肩をそっと掴み、次に頬を撫でた。
娘の頬はもう冷たく無かった。
その逆で温かかったのだ。
昨日まで青ざめていた頬に、薄い赤みが確かに戻っている。
「治った、のか」
父の声は低く、おまけに震えていた。
「分かんない」
ニナは首を傾げて答える。
「分かんないけど、お父さん。私、軽いの。すごく、軽いんだよ」
その言葉を聞いた父の目から、涙が零れ落ちた。
ライラがこれまで、一度も見たことのなかった父の涙だった。
――
一家はその後、全員揃って朝食を囲んだ。
パン、肉と野菜の煮込み、薬草の茶。
いつもの食事だった。
いつもと同じ、何の変哲もなく、面白みの無いただの日常だ。
しかし、昨日の夜と違って誰もが、かつて無い程の馳走を食べたかの如く、幸せそうに食べていた。
一家の中でもニナは特によく食べた。
「もっと食べる?」
「うん! おかわり!」
「はいはい。いっぱいあるから、好きなだけ食べてね」
母は、ニナの椀に煮込みを足し、彼女に手渡した。
ニナはそれを一気に食べ、途中で噎せる。
ライラはその光景をぼんやりと眺めていた。
ニナが食べている――
元気に食べている――
妹は生きている――
心の中でライラは契りの仔に感謝する。
しかし、その感謝の隣には別の感情も座っていた。
半日。
あと、たったの半日。
ライラは好物である筈の、母のお手製パンを口に運ぶ。
けれど、味はしなかった。
「神様が、奇跡を起こしてくださったのね」
母がそう呟いていた。
「神様が、ニナを助けてくださったのよ。毎日の祈神様への祈りが通じたのだわ」
ライラはそれについて何も言わなかった。
言えなかった。
言う気も起きなかった。
「そうだね」
ただ、短く肯定の言葉を送り返すだけだった。
そんな時だ。
外で、馬の蹄の音が響いて来た。
その音を聞き家族の動きが止まる。
馬の蹄の音は複数。
それから足音も。
終いには、神官団の鐘の音が家の戸のすぐ前で、低く鳴っていた。
父は椀を置き、ゆっくりと立ち上がって戸を開けた。
そこには忘れもしない、ヨアシムが戸口の前に立っていた。
彼は白い鳥の頭を、父の方へ僅かに傾かせて言う。
「約束の朝だ。御息女の準備は整われたか」
ヨアシムの声は変わらず低く、平らで無機質だった。
父は彼に頭を下げながら言う。
「ヨアシム様。その、ニナが……」
「何か」
「ニナが、回復しているのです」
ヨアシムはその言葉を聞き、しばらく無言だった。
数秒後、白い鳥の被り物をヨアシムは外す。
そして灰色の目でライラ達の父の顔を見つめて言った。
「虚言であるなら、罰の対象になります。妄言であるのなら、連行の対象になります」
ヨアシムの声には、わずかに呆れたような響きがあった。
けれど父は引き下がらなかった。
彼は頭を下げたまま、震える声で力強く告げた。
「決して虚言や妄言の類ではありません。どうか、ご自身の目でご確認ください」
ヨアシムは再び無言になる。
その後、彼は一度だけ、チラリと食卓に座るニナを見て、それから低く息を吐いて言った。
「では、拝見しよう」
彼はそれだけ言うと部下と共に家の中に入ってきた。
ヨアシムと、神官二名と、護衛の騎兵が一名。
昨日と全く同じ構成だった。
しかし、今日の神官二名は、革袋を二つずつ肩にかけていた。
昨日よりも、多くの器具を持ってきている様だ。
「ライラ」
「えぇ」
ライラは母に促されて、ニナを食卓の椅子から台所の椅子に座らせた。
どうやら神官団は二階の寝室ではなく、この場でニナを診るつもりらしい。
ヨアシムは台所の真ん中に立ち、神官二名にニナを取り囲ませる。
ニナは椅子に座って、ただ神官達を見上げた。
彼女の青みがかった瞳には、何の動揺も映していない。
「では、始めます」
神官の一人が革袋から、金属の棒を取り出した。
それは昨日と同じ器具だった。
もう一人は円形の鏡を取り出した。
これも、昨日と同じだった。
神官達はまず、昨日と同じ手順でニナを診察した。
「脈は平常です」
「呼吸も平常だ」
「瞳も平常です」
神官達の声は淡々としている。
しかし、彼ら二名の動きには、わずかな動揺が見え始めていた。
「……」
ヨアシムが無言で、神官達に目で何かを指示した。
それを受け、神官の一人が別の革袋を開き、中から銀の鈴を取り出した。
手のひらに収まるほどの小さな鈴。
神官の一人はその鈴を、ニナの首筋の近くでゆっくりと振った。
「馬鹿な……」
鈴は鳴らなかった。
神官は結果が信じられず、もう一度鈴を振った。
だが、鈴は依然として鳴らない。
神官二名は目を見合わせた。
お互いの顔には冷や汗が浮かんでいる。
「もう一度」
ヨアシムは部下達に低く命じた。
神官達はそれを受け、銀の鈴をもう一度振った。
今度はニナの胸の前でゆっくりと。
だが、それでも鈴は鳴らなかった。
続いて神官は別の器具を取り出した。
今度は水晶の盃のような形をしたものだ。
その中には、薄い赤い液体が満たされている。
片方の神官が、その盃をニナの目の前に翳した。
すると液体の色が、わずかに揺らいだ。
神官はしばらくその液体を見ていた。
それから、ヨアシムの方を向いて言う。
「異常は、ありません」
神官の声にはもう、隠せない動揺が滲んでいる。
「神性の残留は、検出されません」
ヨアシムはまた無言になった。
彼は無言のままニナの方へ向いた。
ヨアシムの灰色の目が、ニナの顔を見つめる。
ニナもニナで、ヨアシムの目を見返した。
彼女の青みがかった瞳には、何の動揺もなかった。
ただの、十歳の少女の目があるだけだった。
「もう一度、最初から」
ヨアシムが再度、低く命じる。
神官達はまた頷いた。
そして、革袋から最初の器具をもう一度取り出し、検査が繰り返された。
金属の棒で脈を測る。
円形の鏡で瞳を見る。
銀の鈴を振る。
水晶の盃を翳す。
そのどれもが、同じ『異常無し』という結果を出した。
それから神官達は、また別の器具を取り出した。
細い銀の針。
黒い羽根のようなもの。
白い石を組み合わせた、小さな天秤のような器具。
ライラには、それらの器具が何をするものか、分からなかった。
しかし神官達は、それぞれの器具でニナの身体の、様々な箇所を何度も何度も測った。
そうして半時ほどが過ぎただろうか。
神官達は、ヨアシムの方を向いて告げる。
「ヨアシム様」
「異常は、どこにもありません」
「症状の痕跡が完全に消えております」
「神性の残留も検出されません」
「これは……。その、何と申し上げますか」
神官の一人はその先を続けなかった。
言葉が見つからなかったのだ。
ヨアシムは家族の全員を一周見渡し、じっくりと観察した。
それから息を軽く吐くと、彼はライラ達の父母の方を向いて告げる。
「申し上げる」
彼の声は、変わらず低く、淡々としていた。
「御息女の症状は、完全に消えております」
ライラの母が息を呑んだ。
「神成りに似た症状の痕跡も、神性の残留も検出されませんでした。これは、規則上すぐに連行するべき症状の保有者ではなくなった、ということを意味します」
父はその言葉に頭を下げた。
「ありがとうございます、ヨアシム様!」
「礼を言われる筋合いはない」
ヨアシムの声は変わら無い。
まるで感情が籠もっていないかの様だった。
「これは、規則の問題である。私が個人の判断で、連行を保留しているわけではない」
父は頭を下げたまま何も言わなかった。
「しかし」
ヨアシムは続けた。
「これは異例である。神成りに似た症状が、一夜にして消えた例は、私が知る限り存在しない。恐らくこれが初だろう」
父母の顔がわずかに緊張する。
「経過観察のため、我々はこの村に滞在する」
「滞在……」
母が繰り返した。
「然り。数日、御息女の様子を見させて頂く必要がある。症状が再発しないとも限らない。再発した場合に、即座に対応を可能にする為」
「……はい」
「我々は中央広場の野営地に留まる。御家族は、これまで通り過ごされて構わない。御息女は、家から出ても良い。ただし、村の外には出ないように」
父母は頷いた。
ライラはそれを、台所の隅で聞いていた。
神官団が村に滞在する数日間。
その「数日」の中で、夜が来る。
今夜が、来る。
ライラは自分の背筋が薄く冷えたのを感じた。
一方ヨアシムは、白い鳥の帽子を被り直して告げる。
「では、失礼する」
彼は神官二名と護衛を伴って家を後にする。
そうして戸が閉まり、馬の蹄の音は家から離れていく。
家には、ライラ達一家が残された。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
それからしばらくして、母が、ふっと、息を吐いた。
「……良かった」
母の声には安堵があった。
「ニナ。連れて行かれなくて、良かったわね」
ニナは母の腕に、自分の手を絡めて頷いた。
「うん。ドキドキした」
父もようやく肩の力を抜いた。
「神様のおかげだ」
父は呟いた。
「神様が、ニナを助けてくださったんだ」
母と父は、安堵と祈神への感謝に包まれ、ニナと共に笑っていた。
けれど、ライラだけはその中で笑えなかった。
傍から見ても少し落ち込んでいる様に見えるライラ。
そんな姉を不思議に思ったのか、気にかけたのか。
「お姉ちゃん」
ニナはライラの方を向いて言った。
「私、外に出てみたい。薬草園を見に行きたい」
ライラは頷いた。
「あ、うん。そうね。分かった。行きましょう」
「私も行きましょう」
と、母が言った。
「ああ、皆で行こう」
と、父も言った。
結局、家族全員で薬草園に散歩をしに向かうことになった。
残された時間は余り無い。
ライラには無駄にする時間など残っていない。
しかし、ライラが本当に欲しかったのは、時間を無駄に出来るほど元気な、ニナとの時間だった。
――
薬草園は、ニナにとって何ヶ月かぶりの外の景色だった。
彼女はハナクサの葉に、自分の手を伸ばす。
「お姉ちゃん。これ、お姉ちゃんが毎日摘んでた葉っぱだよね」
「うん」
「綺麗だね」
ニナの声は、子供の声だった。
病に侵される前の、ニナの声だった。
彼女は薬草園の畝の間を、ゆっくりと歩いた。
歩いて、走っていた。
正確には、走った、というほどではない。
ただの軽いステップである。
しかし、それはニナが『走れる』ということの証明に他ならない。
「お姉ちゃん、見て! 私、走れるよ!」
ニナは振り返って、ライラに笑いかける。
母は薬草園の入口に立って、その光景をただ涙を流しながら見ていた。
父もその隣で、無言でニナを見ている。
彼の目にも僅かながら涙が滲んでいた。
そしてライラは、少し離れた場所で家族の姿を見ていた。
春の陽射しが、薬草園に薄く落ちている。
風がハナクサの葉を撫で、ニナの銀色の髪もまた揺れる。
母と父はそんなニナの方へ、ゆっくりと歩み寄っていく。
ライラはその光景を目に焼き付けた。
これが、恐らく家族全員が元気で笑う最後の景色だ。
ニナの元気な姿。
父と母の笑顔。
薬草園の春の光。
全部、覚えていく。
決して忘れない。
そんな決意を固めると、午前の時間は過ぎていった。
昼が近づく頃、家族は家に戻った。
ニナは薬草園で走り回ったせいか、少し疲れた様子だった。
しかし、それは衰弱から来る疲れではない。
子供がはしゃぎ疲れた時の、健全な疲れだ。
ライラの母は昼食の準備を始めた。
ニナは、寝台で少し休む、と言って寝室に上がって行った。
父は家の修繕道具を出して、戸の建付けを直し始めた。
特にやることも用事も無かったライラは、母に声をかける。
「お母さん。私、薬草の整理をしてくる」
「ええ。お願いね。ふふ、ニナが少し荒らしちゃったから手直しもお願いね」
母は振り返らずに答えた。
「分かった」
ライラは籠を持って家を出た。
薬草園に向かう道、誰も彼女の後をつけては来なかった。
薬草園に着くとライラは、籠を地面に置いた。
そしてハナクサの畝の前にしゃがんだ。
けれど、葉を摘もうとはしなかった。
ただ、しゃがんだまま葉の先の露を見ているだけだ。
彼女は胸の烙印に手を当て、
「……契りの仔」
と、低く呼びかけた。
「……あれ?」
しばらくの間、何も起きなかった。
ハナクサの葉がただ、風に揺れているくらいしか、特に周りで起こっている事は無い。
しかし、ふとライラの傍に、何かの気配が現れた。
彼女は恐る恐る隣を見る。
すると、いつの間にか黒い毛玉の獣が、薬草園の畝の脇に座っていた。
どこから現れたのか、ライラには分からなかった。
ただ、何かを感じて横を見たらそこに居たのだ。
「やあライラ。最後の時間を楽しんでいるようだね」
契りの仔は、変わらず透き通った声で話しかけた。
「うん」
ライラはしゃがんだまま、契りの仔と向かい合う。
「ねえ。あなたに、名前を付けたいの」
「私に名前を? 随分と急だね。名前なんて別に必要ないのだけど」
「ううん。これからずっと私が死ぬまで一緒なら、名前があった方が呼び易いわ。毎回『契りの仔』って言うの堅苦しくて嫌だもの」
契りの仔はしばらく答えなかった。
考えているような、名前を受け取って良いか確かめているような、そんな間だった。
「時には名前がある、と云うのも良いかもね」
彼または彼女はようやく答えた。
「確かに私には名前は無い。別段、不便さを感じた事は無いが、君が付けてくれるのなら、有り難く使わせてもらうよ。それで、君は私を何と呼ぶの?」
「フォエ」
ライラは食い気味に即答する。
「フォエ……?」
「そう。なんとなく、そう呼びたくなったの。だってあなた、どこかぽけーっとしているし、少しドジっぽいもの」
契りの仔――
フォエは、ライラのその言葉に対して、微かに笑うような気配で応えた。
「随分な言い草だけど、いいよ。ライラ。これから私の事はフォエ、と呼んでくれ」
「うん」
「ねえ、フォエ」
「なんだい?」
「もう一つ、お願いがあるの」
「……君は欲張りだね」
フォエの声には、僅かだが呆れるような気配があった。
「みんなに『私の事を忘れて欲しい』という願いは、叶えて貰えたりする?」
フォエはしばらく答えなかった。
十数秒間、ハナクサの葉が二人の間で低く揺れる。
それから、フォエは答えた。
「それは不可能だよ」
その声は変わらない筈なのに、僅かに重かった。
「契約はね、生涯で一人につき一回までと決まっているんだ」
「一回だけ?」
「そう。一回の契約の時点で、君の因果は既に捻れているんだよ。それを、もう一層複雑にしようなんて、即座に存在が消えても、文句は言えない領域だよ」
「因果が、捻れている……?」
「うん。普通の人間はね、自分の声を上げて生まれ、自分の人生を生き、自分の家族と死んでいく。それが、世界の普通の流れなんだ。でも君は違う。君は契約をして、神骸の欠片を埋め込まれた。烙印を刻まれたんだ。これは、世界の普通の流れから外れた事象なんだ。世界は君の事をもう、普通の人間としては扱わない、扱えないんだ」
「……」
「それでも、もし君が二回目の契約をして、家族の記憶から自分を消そうとしよう。その場合、世界は君の存在を二重に拒絶することになる。その時、君はただ消える。何の足跡も残さずに、元から居なかった様に修正されて」
その言葉を聞き、ライラはしゃがんだまま、しばらく何も言わなかった。
「そう、なんだ」
彼女は低く呟いた。
「だから私は、皆の記憶に残り続けるしか無いんだね……」
「そうさ。君のお父さんとお母さんは、生涯、君を探し続けるだろう。ニナは君の事を忘れないだろう。村人達も君の事を語り継いで、他の町や村に探しに行くかも知れない。でも、君は見つからない。見つかってはいけない。もしも見つかったら、君は夜まで彼らと居てしまうから」
「……」
「それが、君の選んだ道のもう一つの代償だ」
春の風がどこか虚しげに、薬草園を吹き抜けて行くのを感じる。
ライラはしゃがんだまま、しばらくその風に頬を撫でられていた。
やがて、彼女は低く頷いて言う。
「分かった。フォエ、ありがとう」
「気にしなくて良いよ」
「うん、ありがとう。それともう一つだけ。あなたは男なの? それとも女?」
「私はどちらでもあるけど、どちらでもない。かと言って両性具が付いている訳でも無い。でも、強いて言うなら女性寄りではあるかな」
楽しそうにフォエがそう答えると、獣の身体がゆっくりと薄れていく。
黒い毛玉の輪郭は、朝の春の陽射しの中で、露が乾いていくように空気に溶けていった。
「また夜にでも会おう、ライラ」
その言葉を最後に、フォエの姿は消えた。
薬草園にはライラが一人、しゃがんだまま残される。
日差しは真上から彼女を照らし、その熱は昼の訪れを告げていた。
昼の後には午後が、その後には夕方が来る。
ライラはゆっくりと立ち上がり、籠を抱えた。
最後の昼食を、家族で食べる。
最後の午後を、家族と過ごす。
そして、夕方が来たら――
ライラは家への道を歩き始めた。
春の風は彼女の背中を無理矢理に押していた。




