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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
プロローグ

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第4話 『原初の祭壇』

「議は成った。これより儀式の場、()()()()()へ向かう」


 プリムスの宣言が議場に響く。

 それを聞いた九十六柱の神々がゆっくりと座から立ち上がった。

 彼らの表情には、新たな同胞を迎える期待と、わずかな緊張が混じっている。


 誰もが祈神の誕生に立ち会う。

 それは神話の時代の中でも稀有な、神格創造の儀式だった。


 私は、座についたまま動かなかった。

 動けなかった。


 どちらに投票したかの有無に関わらず、議の決定に従う義務があるが、儀式に参加する義務はない。

 私は新たな同胞を生む側に立たない。

 それは私の流儀に反する選択だからだ。


 九十六柱が議場の外へ向かって動き始めた。


 彼らの足音は、相変わらずあまり音を立てない。

 だが、空気の流れだけは確かに動いていた。


 私はゲルミの座を見た。


 彼女は立ち上がっていなかった。

 彼女は私を見て、不安そうな顔をしながら、小さな手を膝の上で握りしめていた。


 ルドウスも同じだった。

 骰子を握り込んだまま、私を見ていた。


 私はようやく立ち上がり、二柱の座へ歩いた。

 九十六柱の神々の流れから外れて、円環の二点に残された二柱の元へ。


「お兄様」


 ゲルミが最初に口を開いた。


「私達はどうすれば良いのでしょう」


 幼い問いだった。

 彼女の問いの底には、二つの感情が混じっていた。

 骸と共に儀式から離脱したいという気持ちと、しかし議の決定に従わねばならぬという神格としての義務感。


 彼女は、私に判断を委ねていた。


 ルドウスが低い声で続けた。


「兄貴、俺は残るぜ。反対した三柱が揃って、儀式に背を向ける。それでいいよな?」


 彼の口調は軽かったが目は真剣だった。


 ルドウスもまた、私に判断を委ねているようだった。


 私は二柱を見てしばらく沈黙する。

 そして、私は首を横に振って言った。


「お前達は行ったほうが良いだろう」


 二柱が僅かに目を見開いた。


「私と違って、わざわざ敬遠されるような行動を取る必要は無い」


 私は静かに告げた。


「私は死神だ。死は元より孤独であるが故、儀式の輪から外れることが、私の在り方そのものとして許される。だが、お前達は違う。同胞達と共に在ることが、お前達の神格にとって自然な姿だ。今ここで儀式に背を向ければ、お前達は今後、同胞達との関係に無用な亀裂を抱える。それは、お前達の本来の在り方を損なうことだ」


「でも、お兄様──」


「行け、ゲルミ」


 私は彼女の名を呼んだ。


「儀式に立ち会え。新たな同胞をお前の眼で見届けろ。お前が反対したのは、私を信じたからだ。それで充分だ。儀式まで拒む必要は無い」


 ゲルミは、唇を噛んだ。


「兄貴」


 ルドウスが、骰子を弄ぶ手を止めた。


「兄貴の判断は、いつも筋が通ってる。けどな──」


 彼はそこまで言って言葉を切った。

 何かを言いかけて、しかしそれを呑み込んだ。


 代わりに、彼は短く言った。


「分かった。行くよ儀式に。けどな兄貴、儀式の後にまた会おうぜ。普通にさ。骰子でも投げて、馬鹿話して」


「ああ」


 私は頷いた。


「また会おう。地上を見下ろせるいつもの場所で待っている」


 ゲルミはまだ唇を噛んでいた。

 けれど、やがて彼女は両手で衣の裾を握り、小さく頷いた。


「お兄様。私、行きます。でも──」


 彼女は私を見上げた。


「でも、お兄様も、無理しないでくださいね。一人で何もかも背負わなくて、いいんですよ」


 幼い顔で、彼女は大人びたことを言った。


 私はほんの僅かに目を細めた。

 それは私が彼女に向けて見せる、最も柔らかい表情だった。


「ああ。気を付ける」


 二柱は座から立ち上がり歩き出す。

 ゲルミは私を一度振り返り、ルドウスは骰子を片手に軽く肩をすくめて見せた。

 それから二柱は、九十六柱の流れの末尾に加わって、議場の外へ向かった。


 ゲルミの小さな背中、ルドウスの長い背中。

 二柱が議場の出口へ消えるまで、私はその背中を見ていた。


 九十八柱が議場から去り、議場には私だけが残った。

 円環の九十九の座のうち、九十八が空席となり、私の座だけが薄い金色に光っていた。


 私はゆっくりと立ち上がった。


 議場の天空に走る金色の糸が徐々に薄れていく。

 議定の場は閉じられつつあった。


 私は議場を後にして外に出る。


 白い参道はもう静まり返っていた。


 私は一度だけ振り返った。

 九十八柱が祭壇へ向かう別の道を歩いていくのが見える。


 そして議場の天空。

 神々の残滓を色濃く受けた金の糸が、屋根の上で薄く風に棚引くさまは、どこか儚く切ないものだった。


 もう、ここに九十九柱が揃うことは無いのかもしれない。


 予兆としてではなく、ただ静かな実感として、私はそう思った。



 ――――



 原初の祭壇は、神話の時代よりもさらに古い場所にあった。


 天界の最奥、雲の更に上にあるが星々には届かない場所。

 神々が初めて神格として目覚めた場所であり、すべての神格の原点である祭壇。


 その祭壇は漆黒の石で出来ていた。

 地上のどの石よりも重く、地上のどの石にも類似しない、神々ですら未だ完全に解明出来ていない物質で作られた円形の祭壇。


 その周囲を、九十八柱の神々が取り囲んでいた。


 円環の構造で神々が並ぶのは議場と同じ形だった。

 ただし中央には議長神プリムスではなく、漆黒の祭壇そのものが鎮座していた。


 プリムスは円環の縁に立ち、古い杖を両手で握っている。

 神々は、それぞれの神格の権能を一部、周囲に発露させながら祭壇を見つめていた。


 豊穣神フルクトゥスの周囲には芳醇な麦の香りが漂っている。

 戦神ベルムの周囲には鋼の冷たさとぶつかり合う鉄の火花が立っている。

 慈悲神ミゼリコルディアの周囲には柔らかな光が満ちている。

 技芸神アルスの指先には金色の紋様が走っている。

 知識神サピエンティアの周囲には古い書物が舞っている。


 そして長成神ゲルミは、背が小さいので神々の円環の中心寄りにただ立っていた。

 彼女は亜麻色の髪を伏せ、小さな両手を胸の前で握りしめて不安を隠さない。


 そんな彼女の隣に居るのは遊戯神ルドウスだ。

 彼は骰子を片手に握り込み、黒髪の下から祭壇を見据えていた。

 二柱の表情は、他の高揚している神々と違い、懸念そのものだった。


 神々の興奮が頂点に達しようとしている時、プリムスが杖を持ち上げ言う。


「同胞達よ。我らは今、新たな神を生む。百柱目の神。祈りを司る神。その名も祈神プレイ。世界に新たな循環を(もたら)す存在を、ここに迎える」


 彼の声は、原初の祭壇の漆黒の石を淡く輝かせ、空間そのものを震わせた。


「各々の権能を、祈神に込めよ。豊穣を、戦を、慈悲を、技芸を、知識を、時間を、記憶を、生を、火を、水を、成長を、遊戯。そしてその他の全ての同胞の力を。全ての権能の一片を、新たな同胞へと贈ろうぞ」


 神々は頷くと共に、自らの権能の一部を解放する。


 最初に動いたのはフルクトゥスだった。

 彼女は両手を祭壇に向けて掲げ、豊穣の気配を一筋、祭壇へ送った。

 気配は金色の光となり、祭壇の中央へ吸い込まれていった。


 今度はそれにベルムが続いた。

 鋼の冷たさが灰銀の光となって祭壇に注がれ、次にミゼリコルディアの柔らかな光が、その次にアルスの金色の紋様が、そしてサピエンティアの書物の気配が、と、次々に祭壇へ流れ込んだ。


 そうして神々の権能が祭壇に集まっていく。


 ゲルミとルドウスも最後にそれに加わった。

 ゲルミは小さな手から薄緑の光を一筋、ルドウスは骰子から青い光を一筋、それぞれ祭壇に送った。

 彼らは議に反対した者だったが、儀式の輪の一部としては従順だった。


 それから程なくして九十八柱の権能の光が、漆黒の祭壇の上に集積し、巨大な光球となった。

 プリムスは両手で杖を高く掲げて告げる。


「これらの権能を、ここに束ねる」


 九十八柱から贈られた光が、プリムスの杖へと吸い寄せられていった。

 光球は崩れ、線状の光となって杖の先端へ集まっていく。

 やがて杖は、九十八柱すべての権能を束ねた、黄金の輝きそのものとなった。


 プリムスは輝く杖をかざしながら呟く。


「世界に、新たな同胞を迎える」


 彼の杖が振り下ろされた。

 黄金の輝きを伴う杖が漆黒の祭壇の中央に叩きつけられる。


 同時に乾いた音が、しかし神格そのものを揺るがす音が、原初の場所に響き、祭壇が震えた。


 最初は微かな振動だった。

 けれど、やがて振動は強さを増し、漆黒の石の表面に細かな亀裂が走り、その亀裂から金色の光が漏れ出した。

 光は徐々に強くなり、祭壇全体が脈打つように胎動を始める。


 九十八柱の神々が祭壇を見つめていた。


 胎動は数十回続いた。

 そして胎動が収まると、やがて祭壇の中央が割れ、内側からゆっくりと何かが立ち上がった。


 最初に見えたのは長い黒髪だった。

 その次に、白い肩が見えた。

 そしてしばらくすると、全貌を顕にした女性が、漆黒の祭壇の上に立ち上がった。


 彼女は、息を呑むほど美しかった。

 長い黒髪、透き通るような白い肌、緋色の唇。


 豊穣神とは違う、より精緻で、より神秘的で、より魅惑的な美しさ。

 彼女が立ち上がっただけで、原初の場所の空気が変質した。

 彼女の周囲には、これまでのどの神格にもなかった、甘い、しかし冷たい、奇妙な気配が漂っていた。


 神々は息を呑んだ。


「おぉ――」


 フルクトゥスが口元に手を当て、思わず呟く。


「まぁ……。なんという、美しき同胞でしょう」


 戦神ベルムも、技芸神アルスも、慈悲神ミゼリコルディアも、それぞれの言葉で彼女を讃えた。

 彼女の美しさは、見る者の理性を一瞬奪う種類のものだった。


 それは『魅惑』や『魅了』という言葉が最も相応しいものだった。


 しかしその中でただ、ゲルミだけがわずかに後退りする。


「や、やだ……」


 恐怖に飲まれそうになったゲルミは、ただ短く呟き、なんとか平常心を保とうとする。


 ルドウスも骰子を握る手を強くした。


 二柱には、彼女の美しさの背後にある何かが本能的に伝わっていた。

 だがそれを周囲に理解させる術を、彼らは持たなかった。


 そして祭壇の上の彼女が、祈神プレイが目を開けた。

 彼女の漆黒の瞳が九十八柱を見渡す。


 彼女は微笑みながら言った。


「皆さま」


 その声は鈴のように透き通っていた。


「私を生んでくださって、ありがとう」


 神々はそれを聞いて満足げに頷いていた。

 フルクトゥスは涙ぐんでいた。

 プリムスは深く息を吐いた。


 儀式は成功し、新たな同胞が世界に生まれた。

 神話の時代の終わりに百柱目の神格が加わったのだ。


 プレイは漆黒の祭壇の上から、ゆっくりと降りた。

 そして神々の輪の隙間を抜けて、原初の場所の出口へ向かって歩き始める。


 神々は、彼女の足取りを微笑んで見送っていた。

 誰もが、彼女がこれから世界を巡って祈りを集めるのだと、漠然と思っていた。


 彼女が()()()()()()()など、考えもしなかった。


 プレイは出口の手前で一度だけ振り返る。


 その時の彼女の微笑みをゲルミは見た。


 それは、神々を讃える祝福の微笑みではなかった。

 遠い場所に居る、ある一柱の神格に向けられた、別種の微笑みだった。


 ゲルミは息を呑む。だが、それが何を意味するか、彼女にはまだ分からなかった。


 彼女は、祈神プレイはそうして原初の場所を出ていった。

 一目散に、ある一点を目指して。



 ――――



 私は天界の縁に立っていた。


 議場のある場所からは離れ、天界のどこにも属さない、ただの果ての場所。

 九十九柱のいずれの神殿にも近くない、神々が普段は訪れない一角。

 雲よりさらに上の、ほとんど世界の境界に近い高度。


 私は、そこに一人で立っていた。


 足元には薄い雲の層が広がっていた。

 雲の隙間から時々、遥か下の地上の風景が見えた。


 山、森、川、海。

 神話の時代の世界が、夕暮れの色に染まっていた。


「もう夕暮れか」


 私は議場を出てからずっと、この場所に居た。


 本当はすぐに地上へ降りるつもりだった。

 降りて誰かの死を看取りに行くつもりだった。

 ゲルミとルドウスを待つ予定だったが、彼らならば、私が地上に降りてもすぐさま追いついてくるから、私は行く予定だった。


 だが、足を動かすことができなかった。

 胸の奥の影が、もう一段、もう二段と深くなっていくのだ。

 神格としての予兆が、私を引き留めていた。


 地上へ降りるべきではない――

 今、降りれば、地上の人々を巻き込むことになる――


 その予感が私の足を止めていた。

 だから私は天界の縁に立ち、地上を見下ろし、ただ待っていた。


 その時だった。

 遠くで強い気配が生まれた。


 原初の祭壇から新たな神格が誕生した気配。

 神格の感覚としてそれが確かに伝わってくる。


 儀式は成功したのだろう。

 九十六柱の願い通りに祈神が誕生した。


 私は、僅かに目を細めた。

 胸の奥の影が更にもう一段、深くなった。


 しかし、それと共に一つの気配が動いていた。


 ()()()()()()が、原初の場所からまっすぐに、ある一点を目指して移動している。


 私は、その進路を神格の感覚で追った。


 けれど追うまでもなかった。

 ()()の進路は私だった。


 私は目を閉じ、そうか、と思った。


 彼女は恐らく議場を見ていたのだ。

 生まれる前から、フルクトゥスが彼女の存在を提案した瞬間から、彼女は概念として既に在った。

 身体も力もないために行動はできなかったが、見ることはできたし、聞くこともできたし、考えることもできた。


 彼女は、私が議場で彼女の本質を見抜いた唯一の神であることを、知っていた。


 だから生まれた瞬間、彼女は私を最初に屠ることに決めたのだろう。


 本能的にも、構造的にも、それが自然な選択だった。

 私は、彼女の祈りの集約システムに組み込まれない異物であり、同時に彼女の本質を論証出来得る唯一の脅威だった。


 だから、彼女が私を生かしておく理由は一つもない。


 私が目を開けると、風が強くなっていた。


 彼女の気配がもう近かった。


 原初の祭壇のある天界の最奥から、私の立つ天界の縁まで、彼女は一直線に飛んできていたのだ。

 彼女は速かった。

 神格として、彼女は既に九十八柱の総和を超える力を持っていた。


 それが生まれて間もない祈神の力だった。

 祈りを集めてすらいないのに、最早一人で全ての神を超えていたのだ。


「はぁ」


 溜息を吐くと共にそれは訪れた。

 長い黒髪を風になびかせ、白い手を前に伸ばし、漆黒の瞳に冷たい光を宿した祈神プレイが、私の前に降り立った。


 彼女は私まであと数歩という所まで近づくと止まる。


 彼女は微笑んでいた。


 その微笑みは、議場で見たフルクトゥスの善意とも、ゲルミの愛とも、ルドウスの戯れとも、まったく異質のものだった。

 それは美しく魅惑的で、しかし芯のところで完全に冷たい、呪いそのものの微笑みだった。


「貴方ね」


 プレイは囁いた。


「私の本質を、一人だけ見抜いた者は」


 彼女の漆黒の瞳が私を見ていた。

 否、呪っていた。

 美しく、冷たく、深い瞳が。


「お前は、呪いそのものだ」


 私は、静かに告げた。


「議場で告げた通りだ。お前という存在が世界に在る限り、神々と人々は、いずれ祈りの牢獄へ堕ちる」


 彼女は、微笑んだ。


「ええ、その通り」


 彼女は否定しなかった。


「貴方だけが私を見抜いた。だから貴方を最初にいただくの。私の本質を知る者は、私の世界には要らないから」


「分かっていた」


 私は頷いた。


「お前が来ることを、私は知っていた」


「では、なぜ逃げないの?」


 彼女の声には、純粋な好奇心があった。


「なぜ抵抗しないのかしら、骸様は」


 私は、答えなかった。

 答える代わりに、私は右手を僅かに動かした。

 すると空気が、震えた。


 震えは私の右手の中に、一振りの剣が形を成し始める。

 それは物質の剣ではない。

 私の権能そのものを刃の形に凝縮した、概念の剣だった。


 私は死を司る。

 だから権能を凝縮して作った剣の刃には、死の概念そのものが付与されていた。


 触れたものを概念的に終わらせる剣。

 あらゆる存在に通じるが故、神々ですら私の義務の不履行を咎めず自由にさせる理由。

 私が死神たる所以と、その最後の権能の発露。


 全力だった。


 けれど、彼女はそれを見て笑みを深めた。

 愉しげな、しかし(あざけ)りの混じった笑み。


「あら」


 彼女は、囁いた。


「抵抗する気があったのね」


 私は剣を握った。

 そして目の前の存在を穿とうとする。


 しかし、握り終える前に彼女の右腕が動いた。


 白くしなやかな腕。

 誕生したばかりの、神格として完成された腕。


 その腕が私の認識の速度を、遥かに超えてまっすぐに伸びた。


 気が付いた時には、祈神の指先が私の胸に突き刺さっていた。


「──ぐっ」


 声が漏れる。

 私の意志に反して、喉から呻きが零れた。

 それは死神たる私の最後の在り方を、僅かに損なう声だった。


 だが、止められなかった。

 心臓を貫かれるという感覚は、神にすらそれなりの衝撃をもたらすものだった。


「まぁ怖い。でも、遅いわ。とってもとっても遅いわ」


 祈神はそう言うと共に私の心臓を、神格を握りつぶした。


 心臓貫き、そして潰された私の手から剣が滑り落ちる。


 概念の剣は私の権能の凝縮だった。

 権能の中心が砕かれた瞬間、剣は形を保てなかった。

 剣は空中で霧散し、付与されていた死の概念ごと、世界から消えた。


 私の権能は今、破壊された。


 権能を破壊された今、私は少しばかり身体が頑丈で死について詳しいだけの、ただの人間に過ぎなかった。


 彼女の指先が、私の心臓があった場所でゆっくりと開いた。

 冷たさが、私の存在の核へ滲み込んでいった。


「無駄なこと」


 彼女は言った。


「貴方の権能では私には届かない。私は祈りそのものを司るの。死を司る貴方は、祈りの構造の前では、たかが応用の一つ。それは貴方が、誰よりも分かっていたはずでしょう?」


 それから顔を近づけてきて、彼女は私の耳元で囁く。


「でも、嬉しいわ。貴方が、最後まで、貴方らしく在ろうとしたこと」


 私は答えなかった。

 もう答える力もなかった。


 最後にいくつかのことが、私の中を流れていった。


 掠れる視界にゲルミの小さな身体が映る。

 彼女はもうじき屠られるだろう。

 私の二柱目の犠牲、あるいは三柱目になるかもしれない。


 私はそれを止めることができない。


 ルドウスの焦る顔も見えた。

 彼も同じだ。

 私が守ることは出来ない。


 九十六柱の同胞達。

 豊穣神フルクトゥス、戦神ベルム、知識神サピエンティア。


 彼らもまた彼女に、祈神プレイに屠られるだろう。

 彼らは私を慕っていた者ばかりではなかったが、私が愛していた者達ではあった。


 愛した。

 私は、彼らを愛していた。

 愚かさを愚かさのまま、軽薄を軽薄のまま、賢明を賢明のまま、私は彼らを愛していた。

 完全な理解の上の完全な愛。


 それが私のやり方だった。

 彼らは私の家族だった。


 その家族がこれから屠られていく。


 私の論証は不完全だった。


 なぜ完成させられなかったのか。

 時間が足りなかったのか。

 私の知性が不足していたのか。


 あるいは、議場という場所そのものが、論証を完成させるには不適切だったのか。


 今となってはもう分からない。

 分からないまま、私は屠られる。


 それでも、と、私は思った。

 それでも論証の核心は、私の中に残っている。

 最後に告げた一文、九十八柱の誰一人として理解できなかった一文。


 それは私の中に、私の魂の中に確かに存在している。


「さようなら、死神骸様」


 祈神はそう言うと共に、私の胸の中に差し込んだ腕を抜いた。

 支えを失った私の身体は為すすべも無く、天の縁から地上に向かって落下して行く。


 地上のどこかへこれから私は堕ちる。

 堕ちて、肉体は砕け、神格は静まるだろう。


 だが、論証は消えない。


 いつか。

 いつか誰かが、私の元へ来るかもしれない。

 私の論証を共に完成させる者が。


 それは、神かもしれない。

 あるいは人間かもしれない。

 あるいはまったく予想もつかない、新しい何かかもしれない。


 その者が来るまで、私は待とう――


 肉体を失い、力を失い、ただの概念だけになっても私は待とう。


 いつか、来るかもしれない誰かを。


 私はもう抵抗しなかった。

 最後まで、彼女に何も差し出さなかった。

 祈りも、嘆きも、恐れも、何一つ。


 私の死は、私自身のものとして閉じられた。


 死は怖くない。

 だが、意識が薄れていくのは、どこか寂しかった。


 神としての知覚が徐々に閉じていく中で、私は最後に世界を見た。

 遥か遠く、雲の上に浮かぶ天界を。

 そこにいる愛しい二柱を。


 泣き叫びながら、天の縁から私を見つめるゲルミ。

 怒り狂いながら、祈神プレイに立ち向かっていくルドウス。


 二柱は間に合わなかった。

 間に合うはずもなかった。

 ゲルミは天の縁にしがみつくようにして身を乗り出し、亜麻色の髪を風に乱しながら、両手を私に向けて伸ばしていた。


 小さな手だった。

 その手は私には届かない。

 永遠に届かない距離だった。


 彼女の口は何度も私の名を呼んでいた。

 声は風に流されて聞こえなかったが、唇の動きで分かった。


「骸お兄様」


 彼女はそう呼んでいた。

 いつもの呼び方で、いつもの声で、しかし今までで最も悲痛な響きで。


 ルドウスはもう骰子を握っていなかった。

 彼の片手には、いつ生み出したのか、青い光を纏う剣が握られていた。

 遊戯神の権能を凝縮した、彼にとっての最後の武器。


 彼はそれを片手に、祈神プレイに向かって走っていた。


 無謀だった。


 誕生したばかりの祈神は既に九十八柱の総和を超える力を持つ。

 ルドウスが立ち向かったところで、結果は私と同じだ。


 それでも、彼は走っていた。


 兄を屠った相手に、弟として、立ち向かわずにはいられなかったのだろう。


「やめろ、ルドウス」


 私は心の中で告げた。

 もう声は出なかった。

 唇すら動かなかった。


 それでも、私は告げた。


「逃げろ」


 けれど届かなかった。

 彼には届かなかったのだ。


 遠ざかる視界の中で、ルドウスの剣がプレイに振り下ろされる瞬間が見えた。

 プレイは振り向きもしなかった。

 彼女はただ、左手を背後に伸ばし、ルドウスの剣を素手で受け止めた。


 青い光が、彼女の白い手の中で、霧のように散った。

 ルドウスの剣は、私の剣と同じ運命を辿ったのだ。


 私は目を閉じようとした。

 もう見ていられなかった。

 だが、目蓋を下ろす力すら、私には残っていなかった。


 神格を破壊され、肉体すら維持できぬ状態の私には、視界を閉じる選択肢すら無かった。

 私は、見続けるしかなかった。


 ルドウスがプレイに屠られる瞬間を。

 ゲルミが天の縁から悲痛に叫ぶ姿と、その背後に近づく祈神の姿を。


 神話の時代が、ここから本当に終わっていく光景を。

 雲の層が、視界を覆い始めた。

 二柱の姿が、白い雲の向こうに、徐々に小さくなっていく。


 最後に見えたのは、夕暮れの空に浮かぶ天界の縁の輪郭だったが、それもやがて消えた。

 私は雲の層の中を、ゆっくりと墜ちていった。


 風が私の身体を北へ、北の更に北へと流していく。

 意識が、徐々に閉じていき、神格として持っていた認識のすべてが、薄い霧のように散り始める。


 残るのは概念だけ。

 論証の核心を抱えた、私という概念だけ。

 その時まで、もう少しだ。


 雲の層を抜け、夕暮れの空が視界に広がった。


 灰色の山。

 深い森。

 遠い海。


 北の辺境の人気の少ない土地が、足元に見えた。


 それは、まだ正しい世界だった。

 九十八柱が屠られる前の、最後の正しい世界の景色だった。


 私は、それを目に焼き付けた。

 ゲルミの泣き顔も、ルドウスの怒りの形相も、プレイの冷たい微笑みも、すべて目に焼き付けた。


 愛した者達も、愛されなかった敵も全て。


 私はそれを抱えたまま、墜ちていく。


 北の辺境の岩肌が近づいてくる。

 灰色の岩、その隙間に黒く口を開けた洞窟が一つ。

 私の身体は風に流されて、その洞窟の入り口の岩肌へ、まっすぐに引き寄せられていった。


 意識が最後の閃きを見せ、そうか、と私は思った。


 私が墜ちる先は、ここか。

 誰の地図にも載らぬ、辺境の洞窟。

 ここで、私は待つのだろう。

 来るかもしれない誰かを。


 いつか、いつか、来るかもしれない誰か――


 岩肌が、目の前に迫り、遂には激突する。


 しかし衝撃は感じなかった。

 私の意識はその瞬間より少し早く閉じたからだ。


 これが神話の時代の終わりだった。

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