第5話 『神話の時代の終わり』
死神骸は雲の遥か下に消えた。
天の縁から地上へ向かって、彼の身体は風に流されていった。
彼は最後まで何も差し出さなかった。
祈りも、嘆きも、恐れも、何一つ。
その姿をゲルミは、天の縁にしがみついて見ていた。
亜麻色の髪は風に乱れ、小さな両手は虚空を掴むように伸ばしていた。
けれどその手は決して届かない。
「骸お兄様! 駄目! 骸お兄様!! やだ!!」
ゲルミの喉からは骸を呼ぶ声が、薄緑の瞳からは涙が、何度も何度も零れ落ちていた。
ゲルミが地上を見ている背後で、祈神プレイはゲルミから視線を外し振り返る。
プレイの漆黒の瞳の先には、ルドウスがいた。
骰子を捨て、青い光を纏う剣を握って、プレイへ向かって走ってきた青年神。
彼の剣は既にプレイの白い手の中で霧散していた。
彼女の手のひらに残っているのは、霧散した青い光の残滓だけ。
それでも、ルドウスは止まらなかった。
武器を失った右手を握り拳に変え、彼はプレイに向かって走り続けた。
兄を屠った相手に、弟として、立ち向かわずにはいられなかった。
それを見てプレイは微笑み、左手で口元を覆いながら言う。
「あら、可愛らしい」
彼女は実に楽しそうに、空いている右手の人差し指を持ち上げた。
そして、ルドウスの正面の宙に、十字を描いた。
縦に一線。
横に一線。
たったそれだけの動きだった。
だが、プレイの指先が描いた軌跡には、見えぬ『切断』と云う概念が固定されていた。
空間そのものは無傷のまま、けれど、その軌跡に触れる者を切り裂くという現象だけが、宙に置かれていた。
「――!」
ルドウスは止まれなかった。
駆けてくる勢いのまま彼の身体は、宙に固定された十字の切断面へ、まっすぐに突っ込んでしまったのだ。
何が起こったのか。
それは実に単純な事、けれど悲劇的な結果だった。
ルドウスの身体が四つに裂けたのだ。
左顔面と左肩を含む左上の四分の一が宙へ跳ね上がった。
右顔面と右肩を含む右上の四分の一が別方向へ飛んだ。
腰から下の左半分と右半分も、それぞれ違う方向へと落ちた。
ルドウスの黒い瞳は、最後まで何も言わなかった。
否、言う暇などなかった。
十字の切断面に飛び込んでから、彼の身体が四つに分かれるまでの一瞬は、声を出すには短すぎたからだ。
大量の血が四つの破片から噴き出し、宙を舞った。
その血はプレイの白い衣の裾を、彼女自身の足元を、足元の天の縁の岩を、全てを朱に染めていった。
兄の名を呼ぶことも、ゲルミに別れを告げることも、プレイに一矢報いる事も出来ずに彼は死んだ。
唯一出来たことは彼女を呪うことだけだった。
プレイはルドウスの破片を見下ろしてしばらく思案する。
そして彼女は片足で最も大きな破片、頭部と左肩を含む部分を地上に向かって蹴った。
「邪魔ね」
彼女は続けて他の破片もつま先で、次々と天の縁から地上へと蹴り出していく。
そうしてルドウスの四つの破片は、ルドウスだった物は、全て天界の縁を越え地上へ落下していった。新鮮な血をまだ流したままの彼の身体が、ばらばらの形で夕暮れの雲の層へと、ゆっくりと吸い込まれていく。
それを見たゲルミが悲鳴を上げた。
「い、いや!! ルドウスお兄様!」
彼女は天界の縁にしがみついていた手を離し、ルドウスが落ちていった方角を見ようとした。
だが、その動きは数歩で止まった。
いつの間にか目の前に居たプレイの白い手が、彼女の前髪に触れていたからだ。
「あ、あ……」
余りの恐怖にゲルミは固まり言葉を失う。
目の前にある漆黒の瞳が笑っていた。
それはとても優しい笑みだった。
母親が幼子に微笑むような、慈愛に満ちた、優しい笑みだった。
「ばいばい、ゲルミちゃん」
プレイは優しい声で言った。
次の瞬間、彼女の手が滑るように動き、白い指先がゲルミの細い首筋を、紙を切るように撫でていた。
亜麻色の髪が宙を舞い、ゲルミの首が胴体から離れた。
切断面から血が噴き上がる。
小さな身体に流れていた血のすべてが、一瞬で空に向かって噴出し、足元の石の上に降り注いだ。
亜麻色の髪を血で染めながら、彼女の首は宙に浮き、それから石の上に、ことりと転がった。
頭部だけになったゲルミはまだ意識があった。
澄んだ薄緑の瞳がゆっくりと動く。
彼女の視線は自分自身の胴体を捉えた。
胸の前で握られたままの小さな両手。
膝を曲げて崩れ落ちた小さな身体。
それは、もう自分のものではなかった。
最後の瞬間に彼女は何を思ったのだろうか。
きっとそれは兄達の姿だった事だろう。
嫌そうにしながらも決して邪険にはせず、全部を聞いてくれて真摯に接してくれる骸。
良い事も悪い事も全部「必要な事だ」と言って聞いても無いのに教えて来たルドウス。
それら全てが彼女自身の記憶として、最後に流れていった。
そして最後に、彼女は祈ってしまった。
「お、お兄様、たすけ、て――」
切断された喉から、声にならない祈りが漏れた。
それは誰に向けたものでもなかった。
兄の事を呼んだが、決して骸やルドウスに向けて呼びかけたつもりではなかった。
だが、彼女の祈りは兄達には届かなかった。
骸もルドウスも既に死んでいたからだ。
ならば代わりに、その祈りはどこへ向かうのか。
以前ならばその祈りはどこへも向かうことは無い。
ただの願いで終わっていた。
しかし今は違う。
今は全ての祈りが一つの存在へと向かう。
あらゆる祈りは目の前の祈神プレイへと、無意識の内に吸い寄せられていった。
プレイは微笑みながら地面に転がる首に言う。
「ありがとう、ゲルミちゃん」
そして彼女は屈み込み、ゲルミの首を片手で掴んだ。
亜麻色の髪が、血まみれの白い手から垂れ下がる。
彼女はついでと言わんばかりに、片足でゲルミの胴体を蹴りながら、天の縁へと運んだ。
「あなたも、お兄様の所へ行きたいわよね」
彼女は優しく言った。
そして首を掴む手を離した。
続いて胴体を蹴り飛ばした。
ゲルミの首と胴体はばらばらに、夕暮れの空へと放り投げられた。
亜麻色の髪が風に乱れ、小さな身体が回転しながら、雲の下へと落ちていった。
こうして長成神ゲルミは、神話の時代から消えた。
プレイは高揚しながらしばらく、天の縁に立って地上を見つめていた。
二柱の身体が地上へ向かって落ちていく光景を、彼女は楽しそうに眺めていたのだ。
漆黒の瞳の中には、純粋な歓喜があった。
屠ることそのものを愛でる、根源的な悦びが。
「さて」
彼女は振り返った。
白い衣の裾が、骸とルドウスとゲルミの血で、半ばまで朱に染まっていた。
彼女はそれを気に留める様子もなく、微笑みを浮かべていた。
「次は、皆さまね」
白い裾を翻して、プレイは原初の祭壇の方角へ飛び立った。
――――
原初の祭壇では、九十六柱の神々がまだ、プレイの帰りを微笑んで待っていた。
彼らはまだ知らなかったのだ。
骸が屠られたことを。
ルドウスとゲルミが屠られたことを。
そして、これから自分達も屠られることを。
彼らは何一つ知らなかった。
プレイの本性を見抜けなかった彼らは、彼女が「祈りを集めに行った」と思っていたのだから。
それから間もなくプレイが帰ってきた。
扉から室内に入る姿は、まるで空から舞い降りる『美』の権化であるかの如くだった。
彼女の姿にその神々は手を差し伸べようとした。
しかし、その手が突如として止まった。
彼女の白い衣が、肘から下まで朱に染まっている事に気が付いたからだ。
プレイはただ微笑んでいた。
「皆さま、ただいま」
彼女の声は相変わらず鈴のように透き通っていた。
だが、その声を聞いた瞬間、神々は何かが決定的に間違っていることをようやく悟った。
「貴様、何をしてきた! なぜ同胞の血が……! 骸とゲルミ、ルドウスの血が貴様の身体に付いている!!」
最初に動いたのは戦神ベルムだった。
戦の気配を最も鋭く嗅ぎ取る神格として、彼はプレイの周囲に漂う死の気配を、本能的に察知していたのだ。
彼は背負っていた鋼の大剣を引き抜き、燻る火の粉を剣身に纏わせて、プレイへ向かって突進した。
それは戦神の権能の最大出力だった。
曰く、一振りで戦神は数万の邪悪を滅ぼした。
曰く、一振りで戦神は山を砕いて海を割った。
曰く、戦神の一振りは決して止められる事は無かった。
輝ける神々の時代の中で、純粋な戦闘で彼を超える者は居なかったとされる。
だが――
「あら、流石は戦神様」
プレイは笑っていた。
怯えることもせず、ただ笑っていた。
ベルムの剣がプレイの胴体を断ち切るより早く、彼女の右手が、ベルムの剣を持つ右腕を軽く掴んだ。
すると、ぱきり、と骨の砕ける音がした。
ベルムの右腕が肘から先で潰れたのだ。
鋼鉄の鎧の下で骨が粉となり、肉が裂け、血が鎧の隙間から噴き出した。
そうして彼の口から、初めて呻き声が漏れた。
「ぐああっ!!」
プレイは彼の腕を掴んだまま、まるでヌンチャクの様に縦横無尽にベルムを振り回した。
神話の時代において最強と謳われた戦神が、誕生したばかりの祈神に、玩具のように振り回されているのだ。
「あははははは!! 楽しいわね!!」
プレイはベルムの身体を祭壇の床に叩きつけた。
石が砕け、ベルムの背骨も同じ様に砕ける。
鎧は裂け、内臓が露出し、彼の口から血の塊が噴き出した。
それでも、ベルムはまだ生きていた。
彼は神話の時代の戦神として、神格として最も頑強な肉体を誇っていた。
背骨を砕かれても、まだ意識があったのだ。
プレイは微笑んで言った。
「あら、まだ生きてるの? さすが戦神様だわ」
彼女は地面に転がっている鋼の大剣を拾う。
そうしてベルムの武器を、ベルム自身に向けて掲げた。
彼女はそれを彼の身体に振り下ろした。
何度も、何度も、何度も。
彼女はその剣をベルムに向かって、執拗に猛烈に鈍器の如く叩きつけ続けた。
灰銀の刃はベルムの胸を貫き、鎧と肉と肋骨と心臓を潰し、彼は内臓を周囲に撒き散らした。
それでも、戦神は死ななかった。
だからプレイは剣を叩きつけ続けた。
彼が死ぬまで、戦神が祭壇の床の上で潰れて肉になるまで。
何度も、何度も、何度、何度でも。
そんな狂気の渦の中でもプレイは終始微笑んでいた。
気分よく歌いながら剣を振るい続けた。
そして数十回目の打撃の後、ベルムはようやく動かなくなった。
戦神の死体はもはや原型を留めてはいなかった。
彼は、鎧と肉と骨と血の混合物に変わっていたのだ。
プレイは剣を放り捨てる。
投げられた灰銀の刃は、ベルムの死体の脇に音を立てて落ちた。
神々が、ようやく状況を理解し始め、絶望と恐怖が原初の場所を覆った。
逃げる神、戦う神、跪いて許しを請う神。
それぞれの神格が、それぞれのやり方で生き延びようとした。
だが、誰も生き延びられなかった。
武神アルマが、円環の中央に進み出た。
鍛え抜かれた壮年男性の姿。
短く刈り上げた茶髪、鋭い眼光、武具を一切纏わぬ素肌の上半身。
神々の中で、ただ一柱、武器も鎧も持たぬ神格。
彼は格闘の頂点に位置する神格として、その身一つを最大の武器としていた。
「祈神プレイよ」
彼の声は低く、静かだったが、その内には怒りが込められていた。
「武を以て、汝を滅する」
プレイは振り返って彼を見ると嬉しそうに目を細めた。
「あら、楽しそう」
彼女は片手を持ち上げて構えを取り、武神と向かい合う。
武神は低く構えた。
両足を肩幅に開き、両手を緩く前に出す。
神話の時代の格闘の極致が、その構えに凝縮されていた。
彼の身体からは圧倒的なまでの闘気が、空間を歪める程に立ち上っている。
武神アルマが地を蹴り、そして消えた。
神速の踏み込みから繰り出される、空気を裂く打撃。
武神の右拳が、プレイの顔面に向けて伸びた。
神話の時代の格闘の頂点として、彼の一撃もまた山を砕き海を割る威力を持っていた。
対して、プレイの白い手が軽く動いた。
武神の拳を、彼女は手のひらで受け流したのだ。
次の瞬間、武神の左の蹴りが横から飛んできた。
プレイは身を捻ってそれを避けた。
続く右の肘打ち、左の手刀、関節を取りに来る組み技、投げに繋ぐ崩し。
武神は、己が持てる格闘の技の全てを連続で繰り出した。
しかし、プレイはその全てを最小の動きで処理していた。
受け流し、いなし、避け、僅かに身を傾けて躱す。
彼女の動きには余裕があった。
微笑みを絶やさず、まるで子供と戯れるように、彼女は武神の連続攻撃を受け流し続けていたのだ。
数十秒の攻防が続き、武神の額に汗が滲んだ。
彼は神話の時代の格闘の頂点として、自分の技がすべて受け流されている事実を、信じられぬ思いで受け止めていた。
彼の技を、誰かが完全に処理することは、あってはならぬはずだった。
だが現実として目の前の祈神は、彼の全力をまるで予測していたかのように躱し続けていた。
「素敵ね、武神様」
プレイは微笑んだ。
「貴方は本当に、武の頂点なのね」
次の瞬間、彼女の白い手が動いた。
彼女の指先が、武神の喉に触れた。
武神はそれを避けようとしたが、避けられなかった。
彼の目は、彼自身の技をすべて見切っているプレイの武を、もう見切れなかった。
プレイの手が武神の喉笛を握った。
彼女は微笑みながら握る力を強めた。
同時に骨の砕ける音と、肉の千切れる音がした。
武神の頸椎が砕ける。
続いて喉仏が、気管が、頸動脈が、彼女の指の間で次々と潰れていく。
そして遂には武神の口から血の塊が噴き出した。
彼はもう、声すら上げられなかった。
プレイが武神の喉から手を引き抜くと、武神の身体は糸が切れたようにその場で崩れ落ちた。
神話の時代の格闘の頂点が、誕生したばかりの祈神に、素手の格闘戦であっけなく屠られた瞬間だった。
「武の頂点でも、私には届かないのね。残念」
プレイは武神の死体を見下ろして、優しく囁いた。
彼女の白い手は武神の血で僅かに汚れていた。
彼女はそれを舐めるように指先で拭い、それからまた微笑んだ。
「ならば、これは如何か」
「あら」
直後、時神クロノスが服の内ポケットから取り出した砂時計を反転させ、時を止める。
原初の祭壇の空気が凍りつく。
神々の動きが止まり、舞い散る血の飛沫が空中で固まり、光すらも停止した。
時を司る神、時神クロノスの権能の発露だった。
彼は時間そのものを司る神格として、世界の時の流れを完全に支配する力を持っていたのだ。
止まった時間の中で動けるのは、時間を司るクロノスだけ。
その他には何人も干渉する事は出来ない神聖なる領域。
その、筈だった。
止まった時間の中で、しかしプレイは動いていたのだ。
彼女は楽しそうに歩きながらクロノスに近づいていた。
「あら、時を止められるの。素敵ね」
止まった神々の間を縫い、まるで散歩でもするかのように、ゆっくりと歩いていた。
クロノスの時間停止は、彼女にはまったく作用していなかった。
「馬鹿な……」
彼女は、クロノスの前で立ち止まって言った。
「でも、私には効かないわ。だって私は祈りそのものだもの。祈りに時間は無いの。どんな時だって必要な時に、必要な場所に祈りは届くのだから」
プレイは微笑みながら、白い指先をクロノスの額に触れて囁く。
「ねえ、貴方の時間も止めてみましょうか」
そう告げた後、クロノスの動きが止まった。
時を止めた神格が、自身の時間を止められてしまったのだ。
彼の身体は、彼自身の権能の中に閉じ込められ、永遠に動かなくなった。
プレイは止まったクロノスの腹に、白い手を差し込んだ。
時間が止まっているクロノスは、悲鳴も上げられなかった。
プレイは彼の腹から内臓を掴み出し、ゆっくりと引き出していく。
プレイは彼自身の手を上から握って動かし、腸を、肝臓を、胃を、黒石の上に並べられていった。
クロノスは自分で自分を解体するという行為と光景を、止まった瞳で見続けるしかなかった。
「これで完成。とっても綺麗ね」
最後に、プレイはクロノスが持っていた砂時計を握り潰し、止まっていた世界の時間を動かし始める。
その瞬間、クロノスの時間も動き出す。
彼は流れ出た自分の内臓と血の海の上に、ゆっくりと崩れ落ちた。
死は、彼が時間を止める前にとっくに訪れていたのだ。
いきなり神の一柱がバラバラになるその光景を見ていた、豊穣神フルクトゥスはその場に膝をついた。
彼女の麦の穂の冠が頭から落ちる。
冠は祭壇の床の上で転がり、麦の穂が一本、二本と、ぱらぱらと散った。
彼女はそれを見ながら、震える両手で顔を覆った。
「私が、私が……」
彼女は呟いた。
「私が、提案したから……」
涙が、指の隙間から溢れた。
フルクトゥスは、自分が世界を壊したことをようやく理解した。
彼女の善意が九十九柱の同胞を、神話の時代そのものを滅ぼしつつあることを。
骸が議場で告げた論証のすべてが、今、彼女の眼の前で証明されていることを。
彼女は泣き叫んだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が、私のせいで!」
声は原初の祭壇の空間中に響き渡った。
他の神々もそれを聞いていた。
けれど誰も彼女を責めなかった。
責める余裕すら誰にもなかった。
彼ら自身も、皆、フルクトゥスの提案に賛成したのだ。
彼女一柱の罪ではなかった。九十六柱全員の罪だった。
そんな折、プレイがフルクトゥスの前に立った。
膝をついて泣き叫ぶ豊穣神を、彼女は微笑みながら見下ろした。
そして屈み込んで、彼女を優しく抱きしめて言った。
「フルクトゥス様」
プレイは母親が娘をあやすように、優しく囁く。
「貴方が私を生んでくださったの。だから、貴方には、特別に感謝しているの」
「あ、あ──」
フルクトゥスは抱きしめられたまま、震える手をプレイの背に回そうとした。
許しを請う最後の縋りつきだった。
だが、その手が回りきる前に、プレイは抱きしめる腕に力を込めた。
全力で彼女は豊穣神を抱きしめた。
めきり、と、骨の軋む音が鳴る。
フルクトゥスの背骨が、肋骨が、彼女自身の身体の中で砕けていった。
ぱきり、ぱきり、と、骨折の音が連続して鳴っていく。
「あ、ぐ──!?」
フルクトゥスの口から噴水のように血が噴き出した。
深い赤がプレイの白い肩越しに、祭壇の床に降り注いだ。
豊穣神の体内のすべての臓器が、抱擁の力に押し潰されていた。
彼女の身体は、もう人の形を保っていなかった。
「ありがとう、お母様。大好きよ」
プレイは優しく囁いた。
彼女が腕を解くと、フルクトゥスの身体は、瓶の様にくびれ、麦の穂の冠だけが彼女の死体の脇で、無傷のまま転がっていた。
それを見て慈悲神ミゼリコルディアは、跪いて両手を組んだ。
「お慈悲を」
彼女は震える声で告げた。
「お慈悲を、祈神プレイ様。私は慈悲を司る神。あなたも、私の同胞のはず。同胞ならば、お慈悲を……」
プレイは、微笑んだ。
「同胞? あら、私は同胞なんていないわ。私は祈神。すべての神格の上に立つ存在よ」
プレイは跪いた慈悲神の前に屈み込み、彼女を抱きしめた。
ミゼリコルディアの身体に、フルクトゥスと同じ力が加えられ、同じ様に骨が砕けていった。
慈悲神の口から絶叫が漏れる。
だがその絶叫も、肺が潰れた瞬間に血の塊と共に途切れた。
柔らかな光が、彼女の身体から最後の息と一緒に漏れ出し、石の上に消えていったのだ。
かくして、慈悲を司る神は慈悲なく殺された。
そうして祭壇に残った神は知識神サピエンティアだけだった。
彼は戦わなかった。逃げなかった。許しも請わなかった。
彼は、ただ目を閉じていた。
彼は自分の最期を静かに受け入れようとしていた。
プレイが彼の前に立った。
「サピエンティア様。貴方が一番、私のことを分かっていなかったわね。可哀想。知識神のなんて言われていたのに、何も正解していなかったなんて」
彼女はまた優しく微笑んだ。
「だから特別に、痛みを差し上げましょう」
彼女が左手で指を鳴らした。
すると白い指先から、見えない何かが解き放たれた。
次の瞬間、サピエンティアの全身が赤黒い業火に包まれる。
知識神は目を見開いた。
炎は肉を焼いた。
皮を焼いた。
骨を焼いた。
体中の穴という穴から炎が吹き出していた。
そうして彼の口からようやく悲鳴が漏れた。
神々の中で最も思慮深いと評された老神が、愚か者と見下され、原初の場所に響き渡る絶叫を上げていた。
「ああああああっ――!!」
彼は生きたまま焼かれた。
残酷な事に神格としての耐性が彼を即死させなかった。
彼は炎の中で、自分の身体が黒く焦げていく感覚を、最後まで意識として味わった。
彼の知性は、自分自身の死の過程をつぶさに観察し続けたのだ。
数十秒後、サピエンティアはようやく息絶えた。
炭となった彼の身体が、石の上にゆっくりと崩れた。




