第3話 『百柱目の神』
議場の九十九の座が、すべて埋まった。
最後の一柱──
戦神の到着を待って、座の輪が完成した瞬間、議場の天空に走る金色の糸が一斉に強さを増した。
糸は九十九の座を結び、九十九柱の神格を一つの議論の場として束ねる。
これが議定の場の完成だった。
私は自分の座に腰を下ろしながら、目を細めて議場を眺めていた。
円環の中央には、議長神プリムスが立っている。
最古の神、プリムス。
神話の始まりから世界を見続けてきた一柱。
白く長い髭、白い衣、手に握る古い杖。
彼の存在そのものが、議定の権威を保証していた。
プリムスがゆっくりと杖を石床に打ち付けた。
乾いた音が議場に響き、九十九柱の意識が一点に集まる。
「よくぞ集まった同胞達よ。皆がこうして一堂に会するのは、実に数百年ぶりであるか。皆、変わらぬ様で何より。では、早速だが議定を始める」
プリムスの声は低く、静かで優しかった。
だが最後の一言で議場の空気が変わる。
「本日の議題は、世界の構造に関わる重大なものである。提案者は豊穣神フルクトゥス。彼女の発議により、本日の議定が招集された」
私は、対面の座を見た。
円環の反対側、私から見て真正面の座に、豊穣神フルクトゥスが座している。
豊穣を司る彼女の姿はいつも変わらない。
豊満な体躯、金色の髪、麦の穂を編んだ冠に緑の衣。
彼女の周囲には常にうっすらと豊穣の気配が漂っている。
彼女は悪い神ではない。
誰よりも多くの祈りを受け取り、誰よりも多くの恵みを地上に返してきた、間違いなく誠実な神格だった。
ただし、彼女には一つだけ難点があったのだ。
司る権能の重さに比して、判断が浅い。
豊穣を司る故に、彼女は世界の流れを『増えること』と『実ること』の二つの側面からしか見ない。
減ること、終わること、欠けることの意味を、彼女の神格はあまり理解しない。
二元論的な見方しか出来ないのだ。
それは欠点というより、彼女の神格そのものの構造的な性質だった。
彼女が立ち上がって口を開く。
「皆さま、お忙しい中お集まり頂き、感謝します」
フルクトゥスの声は明るく温かかった。
彼女の声を聞くだけで、議場の空気は幾分か和らぐ。
「私の提案はこうです。新たな神を、一柱。創ろうではありませんか」
議場が、僅かにざわめいた。
「百柱目の神を、です」
彼女は微笑みながら続けた。
「神は祈りを糧として存在します。それが私達の根本的な在り方です。そして私達は、人々の祈りを受け、人々に恵みを返す。この相互の循環が、世界を健やかに保ってきました。ですが近年、私はこう思うようになりました。──祈りそのものを司る神が、居ても良いのではないか、と」
フルクトゥスの発言を聞き議場のざわめきが一層強くなる。
彼女はそれを気にせず微笑んで言った。
「今、人々は私達それぞれに祈ります。豊穣の神に豊穣を、戦の神に勝利を、慈悲の神に救いを。それは美しいことです。けれど、祈りそのものを司る神格が居れば、人々の祈りはより深く、より純粋になるのではないでしょうか。祈神……。祈りを司る神。私は彼を、あるいは彼女を、創ることを提案します」
フルクトゥスは満面の笑みでそう告げた。
彼女の言葉に悪意はなかった。
それどころか深い善意があった。
彼女は本気で人々の祈りが、神々の享受する恩恵がより豊かになることを願っていた。
彼女自身が祈りで満たされて喜びを感じる神だからこそ、その喜びを増幅させる構造を世界に与えたいと願ったのだ。
議場の各所から、賛同の声が上がった。
「ほう、素晴らしい提案だ」
戦神ベルムが頷いた。
「祈りは我らの糧。それを司る神が居れば、我らの存在はより安定するのは間違いないだろう」
「えぇ、私も賛成です」
慈悲神ミゼリコルディアが穏やかに頷いた。
「人々の祈りが純化されれば、私達の恵みもより的確に届く。世界はより慈悲深くなるでしょう」
「あぁ、技芸の発展にも資するだろう」
技芸神アルスが頷いた。
「祈りの構造が整えば、それに応えるべく我らの権能も研ぎ澄まされるのは必然」
一柱、二柱と、次々と賛同が重なっていく。
私は、座から動かずにそれを聞いていた。
議論の流れは速かった。
神々はそれぞれの権能の立場から、フルクトゥスの提案を歓迎した。
誰一人として、悪意を持って賛成しているのではなかった。
誰もが世界の善を願い、自分の理解の範囲で「より良い世界」を望んでいた。
それが、最も恐ろしいことだった。
そんな折、ふと、議場の一角から慎重な声が上がる。
「お待ちを」
声を上げたのは知識神サピエンティアだった。
学者然とした白髪の老神。
神々の中で最も思慮深いと評される一柱。
彼の発言には、いつも重みがあった。
「この提案、メリットとデメリットを精査しなければなりません」
神々が黙って彼を見る。
サピエンティアは目を閉じ、しばらく考えてから言った。
「メリットは明らかです。祈りの構造が整い、神々の存在は安定し、人々の祈りはより深まる。デメリットとして考え得るのは、新たな神格が世界の均衡をどう変えるか、です。しかし百柱目の神が祈りを司るに留まる限り、既存の九十九柱の権能と衝突する余地は少ない。むしろ各神格の祈りを補完し、底上げするはずです」
彼は目を開けた。
「私の判断としては──この提案は、良いものです。万が一、祈りの権能が我らと衝突し相容れない場合でも、我らには言葉も、力も、そして長年の絆がある。千年前に起きた海神殿と大地神の間に起きた争いすら乗り越えてきた我々ならば、此度も問題は無いでしょう」
議場の空気が一段、明るくなった。
知識神の支持が得られたことで、提案はほぼ確定したものとして受け取られた。
私は目を閉じた。
サピエンティアの判断は、彼の知性の限りを尽くしたものだった。
彼は嘘をついていない。
彼の論理計算は正確だ。メリットとデメリットを比較し、デメリットが許容範囲だと判断した。
だが、彼の論理計算には、一つだけ盲点があった。
彼は「祈り」を計算可能な変数として扱っていたのだ。
祈りが増える、祈りが純化される、祈りが補完される。
それぞれの変化が世界に与える影響を彼は計算したのだろう。
しない筈が無い。
しかし――
彼は『祈り』と『呪い』が同じ構造を持つことを、本質的には同じ概念である事を計算に入れていなかった。
神に過剰な何か、この場合なら『祈り』を与えれば、それは恵みとなり力と幸福の源となる。
だが、祈神という存在は違う。
神々から人々へ降りる方向ではなく、人々から神々へ昇る方向の構造を持つ。
それは恵みではない。
要求だ、要求の集約装置だ。
祈神は祈りを集める。集めた祈りは、神々を縛る。
神々が縛られれば、人々もまた縛られる。
祈りという循環が、いつしか祈りという呪いの牢獄に変わる。
私はそんな未来は御免だった。
だからこそ、それを私が論証で示すべきことだった。
「他に意見がある者はいるか」
プリムスの声が議場に響く。
私は目を開けた。
そしてゲルミの座を見た。
彼女は私を見ていた。不安そうな顔で、しかし、私が動くのを待っていた。
それからルドウスの座を見た。
彼も私を見ていた。骰子は手の中に握り込まれ、微笑は消えていた。
私は立ち上がり言った。
「異議を申し立てる」
九十八柱の視線が、一斉に私に集まる。
「ほう、骸殿か。」
プリムスが、僅かに目を細めた。
「では死神よ、お前の異議を聞こう」
私は、議場の中央へ視線を向けた。
円環の中心に立つプリムス。
対面の豊穣神フルクトゥス。隣接する戦神、技芸神、慈悲神。
そして対角に位置する知識神。
彼ら全員が私の言葉を待っていた。
私は深く息を吸い吐く。
論理を組み上げる時間は、議場の中だけである。
地上で老婆を看取った時から、私はこの議題を予感していた。
だが予感は論証ではない。
今この瞬間に、私は論証を完成させなければならなかった。
私は目を開けて始めた。
「まず前提として、豊穣神の提案は、善意である」
私は、まず認めた。
「彼女の提案に悪意はない。彼女は世界の善を願っている。それは私も認める。世界はより良くあるべきだ」
フルクトゥスが、僅かに頷いた。
「知識神の判断も、正確である。彼の論理計算は精緻であり、メリットとデメリットは正しく比較された。私はそれも認める」
サピエンティアが、目を細めた。
「だが」
私は、声の調子を一段下げた。
「祈りの本質について、ここに居る誰もが、決定的な誤解をしている」
議場が一瞬、静まり返った。
「祈りとは、神に向けられた要求である。同時に、神が祈りに応えることで、神は人に縛られる。逆もまた然り。祈りは双方向の鎖だ。創世の瞬間から今の神話の時代において、その鎖は緩やかである。なぜなら、祈りを集約する装置が無かったからだ。九十九柱はそれぞれ独立しており、人々の祈りは九十九柱に分散して向けられた。鎖は分散され、世界は健やかに保たれていた。しかし、祈神を創るということは、その分散構造を一点に集約することを意味する」
神々が、静かに耳を傾けていた。
「祈神は、すべての祈りを集める。集めた祈りは、神格として最大の力となる。そしてその力は、九十九柱を含む世界全体に対して、構造的な優位を持つ。なぜなら、祈神は祈りそのものを司るからだ。九十九柱が司るのは、祈りの応用先──豊穣、戦、慈悲、技芸であって、祈りそのものではない。」
私は同胞達の目を見ながら続きを述べる。
「祈りそのものを握る神格が現れれば、九十九柱は祈神の下位構造に組み込まれる。これは、九十九柱の権能の劣化を意味する。仮に祈神が我々に牙を向けば、我らは何も出来ずにただ蹂躙される。そしてそれは同時に、人々が祈神への一極集中の祈りに縛られることを意味する。世界は、緩やかな鎖から、強固な鎖の構造へと変質する」
フルクトゥスが眉を寄せて言う。
「骸様。しかし、それは仮説に過ぎないのでは──」
「仮説ではない」
私は、彼女を遮って弁論を述べた。
「論証として証明可能だ。順を追って示そう。第一に、祈りは神格に依存する。神格無き祈りは、ただの願望であり、世界に作用しない。第二に、神格は祈りを糧に存在する。祈り無き神格は、存在を維持できない。第三に、ここに新たな神格、祈神が加わるならば、その神格もまた祈りを糧に存在する。ここまでは、皆も同意するであろう」
九十数柱の頷きが、議場に広がった。
「では問おう。祈神が祈りを糧に存在するならば、その祈りはどこから来るのか」
議場が静まった。
「決まっている。人々の祈りからだ。だが、人々の祈りの総量は有限である。九十九柱が分け合って受け取っていたものが、今後は百柱で分け合うことになる。たった一柱増えただけでは誤差と思うだろう。だが、この分配は決して平等にはならない。」
「祈神は祈りそのものを司る。全ての祈りは、まず祈神を経由する。経由地点は、自然に集約点となる。集約点は、流通量を支配する。結果として、祈神は最も多くの祈りを受け取り、九十九柱は祈神に依存する立場へと変質する。これが第一の帰結である」
神々がざわめき始めるも私は構わず続けた。
「第二に、人々の祈りもまた変質する。祈神が祈りを司る以上、人々は『祈神に祈ることが正しい祈り』という構造的な誘導を受ける。この誘導は強制ではないが、構造的なものである故に、回避不能だ。結果として、人々の祈りは祈神への一極集中に向かう。九十九柱への祈りは形骸化し、世界の祈りの多様性は失われる。これが第二の帰結である」
ベルムがそこまで聞いて低い声で唸った。
「むぅ、骸殿、それは──」
「待て、まだ終わっていない」
私は続けた。
「第三に、祈神が一極集中の祈りを得ることは、祈神の神格としての権能を、九十九柱の総和に近づける。いや、超える可能性の方が遥かに高いだろう。なぜなら、祈神が握るのは『祈りそのもの』であり、九十九柱が握るのは『祈りの応用先』だからだ。源泉を握る者は、応用を握る者に対して、構造的な優位を持つ」
サピエンティアが目を見開いた。
彼の論理計算には欠けていた視点を、彼は今、把握した。
「骸殿、それは──」
「最後まで聞け、サピエンティア」
私は、彼を見た。
「第四に、祈神が九十九柱を超える権能を持つ時、世界の意思決定構造は崩壊する。議定はもはや機能しない。九十九柱の合議ではなく、祈神の一存が世界を支配する。神々が祈神に縛られ、人々もまた祈神に縛られる。世界は、祈りという鎖によって、一つの極へと収束する。これが、祈神創造の構造的帰結である」
議場に長い沈黙が落ちた。
だが、私はまだ立っていた。
論証は、まだ終わっていなかった。
最後の一文を、私は告げなければならなかった。
論証の核心。
私の予感が、神格としての本能が、世界の流れの偏りが、私に告げていた一文。
言わなければならない。
九十八柱が私を見ていた。
理解している者と、理解していない者と、理解しかけている者が混在していた。
ゲルミは、私の論証の半分も理解できていない顔をしていた。
ルドウスも同じだった。
だが二柱は、私を信じる顔をしていた。
私は、最後の一文を告げた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
議場の天空に走る金色の糸が、一瞬、揺らいだ。
しかし――
九十八柱の中で、私の最後の一文を真に理解した者は、誰一人として居なかった。
ゲルミとルドウスですら、最後の一文の意味の、ほんの一端しか掴めなかった。
私は、静かに腰を下ろした。
「異議は、以上である」
議場に再び沈黙が落ちる。
長い沈黙だった。
神々はそれぞれ、私の論証を反芻していた。
理解できた部分と、理解できなかった部分とを、彼らなりに咀嚼していた。
やがて、フルクトゥスが、ゆっくりと立ち上がった。
「骸様、貴方の論証は確かに深い」
彼女は誠実に言った。
「貴方の知性に、私は敬意を表します。けれど、貴方の論証は未来の予測です。確定した事実ではありません。祈神が貴方の言うような構造を生むかは、創ってみなければ分からない。そして、貴方の懸念が現実になったとしても、その時に対処することは可能でしょう。九十九柱には、それだけの権能と知恵があります」
「彼女の言う通りだ」
ベルムが頷いた。
「我らは九十九柱の合議で世界を治めてきた。新たな神格が加わったとて、合議の枠組みは保たれよう」
「私もそう思います」
ミゼリコルディアが穏やかに言った。
「祈神もまた、私達の同胞となるはずです。同胞ならば、合議に従います」
知識神サピエンティアは、しばらく目を閉じていた。
彼は、私の論証の重みを、おそらく九十九柱の中で最も深く理解していた。
だが、彼の論理計算は、最終的に「対処可能」という結論を導いた。
導いてしまったのだ。
「骸殿の懸念は、実に理に適っている。恐らく幾分かは問題にもなるだろう。それは間違いない」
彼は、ゆっくりと言った。
「だが、フルクトゥスの言う通り、未来の予測である。我らは予防的に否決するか、創造して対処するか、選択しなければならない。私の判断としては、創造後の対処が可能である。骸殿の論証は、警告として記憶神の本に残す価値はあるし、有事の際の手助けにもなるだろう。しかし、提案を否決するほどの確定性は無い」
サピエンティアの声を聞き神々が頷く。
私は座ったまま目を閉じた。
論証は、不完全だった。
最後の一文の意味を、誰も完全には理解できなかった。
理解できなければ、論証は説得力を失う。
論証の核心が伝わらない以上、神々はそれを「未来の予測」「警告」としてしか扱えない。
私の予感は正確だった。
だが、論証として組み上げるには、時間が足りなかった。
プリムスが、杖を石床に打ち付けた。
「議決を行う」
乾いた音が議場に響き渡る。
「祈神創造に賛成の者──」
九十六柱が応じ挙手をした。
「祈神創造に反対の者──」
三柱が反対に挙手をした。
私、死神骸。
長成神ゲルミ。
遊戯神ルドウス。
三つの座から、静かな反対の意思が立ち上がった。
ゲルミは、小さな手を真っ直ぐに掲げていた。
彼女は私の論証の半分も理解できていなかった。
だが、それでも私を信じて反対した。
ルドウスは骰子を握り込んだまま低く告げた。
「俺も反対だ、兄貴」
私は二柱を見て何も言わなかった。
言葉は要らなかった。
プリムスが、長く息を吐いた。
「賛成九十六、反対三。議決により、祈神創造を可決する」
杖が、再び石床に打ち付けられ、乾いた音が議場に響く。
その音と共に何かが、世界の根底で静かに、決定的にズレた。
私は目を閉じた。
論証は不完全だった。私の責務は果たされなかった。
神話の時代の終わりが、今、始まった。




