第2話 『議場へ』
天界の参道は、白く透き通る石で出来ている。
石の名は知らない。地上のどの石とも違う、光そのものを練り固めたような、半ば物質ではない素材だ。
神々の足はその上を音もなく歩く。
私の足も、同じく音を立てない。
久しぶりの感触だった。
私は普段、天界に居ることの方が稀だ。
地上を歩き、誰にも祈らずに死ぬ者達の傍らに膝をつく。
それが私の日々である。
同胞達からすれば、私は「死体を巡って歩いている超変わり者」という認識らしい。
実際、その通りなのだから否定はしない。
ただし、私は彼らから疎まれてはいない。
誘われれば宴の席にも顔を出すし、祭儀の見物にも付き合う。
神殿は持たぬが、同胞達の神殿に客として招かれることだってある。
私は私の流儀で生きているだけで、彼らを拒んではいない。彼らもそれを知っている。
「骸お兄様!」
色々と考えていると馴染みのある高い声が後ろから飛んできた。
振り返ると、白い参道の上を小さな影が駆けてくる。
背丈は私の腰ほど。
亜麻色の髪が背中で揺れ、薄緑の衣の裾が風を孕んで膨らんでいる幼き者。
それは成長を司る神『長成神』ゲルミだった。
彼女は自らが司る概念ゆえに、見た目が幼女の姿に固定されている。
神格として「長じて成る」ことを司るが為に、自分自身は決して長じないのだ。
永遠に成長の途上にある者として、永遠に幼い。
逆説のようだが、概念神格とは大抵そうしたものだった。
駆け寄って来たゲルミは私の前で立ち止まり、見上げて言った。
「骸お兄様、また背が伸びましたか?」
それは彼女のお決まりの冗談だった。
神は不変であり、私の背は神話の始まりからこの瞬間まで、一寸たりとも伸びていない。
それを承知の上で、彼女は会う度にこの問いを投げてくる。
「伸びていない」
私は静かに答えた。
「えー、絶対伸びてますよ。前にお会いしたのは三十年前ですし、その間にきっと一寸くらいは。お兄様、ちょっと屈んでください」
「私は神だ。伸びないし屈まない」
「ケチ! 伸びますよ、神だって少しずつ。だって私、長成神ですよ? 成長を司る神が言うんですから、間違いないです」
彼女は幼い顔で堂々と詭弁を弄する。
私は歩きながら薄く目を細めゲルミを見る。
長成神が成長を断言するのなら、それは概念上の真理として通ってしまうのではないか――
などと、私は決して言わない。
乗ってやれば際限がない。
「ゲルミ。私は伸びない」
「むぅ」
ゲルミは頬を膨らませた。
それと同時に参道の脇から、もう一つの影が現れる。
長身、黒髪、戯れるような笑みを口元に浮かべた青年の神。
藍色の衣を緩く纏い、片手には骰子を一つ転がしている。
「よう、骸の兄貴」
遊戯神ルドウスだった。
「相変わらず一人で歩いてやがる。ぼっちか? なあ骸の兄貴、ぼっちか? ぼっちなんだろ?」
「ぼっちです、お兄様は」
「だろうな。知ってたぜゲルミ」
ゲルミがすかさず合いの手を入れた。
そして私は嘆息して言う。
「お前達は揃うと面倒だな」
「おっ? 言うねえ。俺達こそ面倒な兄貴を持つと、弟妹は心配で心配で仕方ねえんだよ」
ルドウスが骰子を指先で弾き、空中で一回転させて受け取る。
「議定の触れが回ってきた時、俺はまず思ったね。骸の兄貴、また地上に居るんじゃねえか、間に合うのか、ってよ。心配して迎えに来たら、もう天界に居やがる。何だ、つまらねえ」
「お前は私が遅刻することを期待していたのか」
「期待じゃねえ。賭けだ。ゲルミと賭けてた」
ゲルミがくすりと笑った。
「私は骸お兄様が間に合うほうに賭けてました。だから勝ちです、ルドウスお兄様」
「くそ、ゲルミは外れねえな。成長を司る奴は時間に強え。だって毎秒強くなってるみたいなもんだしな」
「当然です」
二柱は声を合わせて笑う。
私は、彼らの戯れを黙って聞いていた。
神話の時代の同胞達は、こうしたものだった。
誰もが何かを司り、その概念に縛られながら、しかし概念の外の部分で軽やかに笑い、戯れていた。
彼らは愚かで、軽薄な者もいた。
だが、だからこそ。
重さを知っているからこそ、重さを解す術を持っていた。
私は、そんな彼らを愛していた。
「で、兄貴。今回の議題、何だと思う?」
ふと、ルドウスが声の調子を変えた。
骰子を握り込んで、参道の先。議場の方角を眺めながら言う。
「俺の感じ、ちょっと変なんだよな。プリムスのジジイの触れの色が濃すぎる。前の議定の比じゃねえ。何が始まるんだ?」
それは戯れる時のルドウスではなかった。
遊戯を司る神は、戯れるべき瞬間と、戯れてはならぬ瞬間を最も鋭く弁える。
彼が今、戯れを止めたということは、彼の神格そのものが警戒を発しているということ。
博打も含めた遊びの頂点である彼が、最大級の警戒をしているのだ。
ゲルミも、私の腰のあたりで衣の裾を握り、上目遣いに私を見ていた。
「私もちょっと、嫌な感じがします。お兄様、何か知ってますか?」
「私も知らない」
私は正直に答えた。
「だが、私も同じ予兆を感じている。プリムスがこれだけ強く触れを出したのは、過去にほとんど例がない」
二柱が、揃って黙った。
白い参道の上に沈黙が落ちていく。
遠くからも他の同胞達の気配が次々と昇ってくるのを感じる。
豊穣神、戦神、知識神、慈悲神、技芸神。
それぞれの方角から、それぞれの神格が議場を目指して集まりつつある。
「兄貴」
ルドウスが低い声で言う。
「兄貴の見立てを教えてくれ。今日、何が起きる」
私は答えに迷った。
予兆としては何かを感じていた。
だが、まだ論理として組み上がっていない。
神格の予感は、論証の代わりにはならない。
確かなことを言えぬ段階で、同胞を不安にさせるのは私の流儀ではなかった。
「分からん」
私は告げた。
「だが、何かが、世界の形を変えようとしている。それだけは感じる」
「世界の形を、変える」
ルドウスが復唱した。
対してゲルミは私の衣の裾をきゅっと握る。
とても小さな指の力だった。
「お兄様、もし変なことが議題になったら、お兄様は反対しますか?」
幼い問いだった。
しかし、その問いの底には、長成神の本能的な察知があった。
彼女は司る概念ゆえに、世界の流れの「育ち方」を感じ取れる。
彼女が今、不安そうに私を見上げているということは、世界の流れが既に異常な兆しを見せているということだった。
「反対する」
私は、簡潔に答えた。
「世界の形を歪めるものなら、私は反対する。感情では無く論証を以て反対する」
「お兄様の論証なら、誰も勝てません」
ゲルミが、ぱっと顔を明るくして続ける。
「だってお兄様、知識神より賢いって、知識神様自身が言ってましたもん。お兄様が論証で立てば、議は通りません。絶対です」
「それは買いかぶりだ」
「買いかぶりじゃありません。本当のことです」
「兄貴は謙遜が過ぎる」
ルドウスも頷いた。
「俺達、知識神の前で何度も話したことあるぜ。あの口の堅い学者神が、骸の兄貴のことだけは『あれは別格だ』って言ってたんだ。賢者の中の賢者、論証の極みだってよ。だから今日も、兄貴が立てば、世界は守られる」
私は、二柱を見た。
ゲルミは小さな手で私の衣を握り、ルドウスは骰子を握って参道の先を眺めている。
二柱とも、私を信じていた。
賢さ故ではなく、私が彼らの兄であること故に信じていた。
胸の奥に、温かさと、同時に重さが落ちた。
彼らの信頼に応えなければならない。
それは責務というより、愛の自然な帰結だった。
「行こう」
私は告げた。
「議場が私達を待っている」
三柱で、参道を歩く速度を上げた。
ゲルミは私の左手の側を、衣の裾を握ったまま小走りについてくる。
ルドウスは私の右手の側を、骰子を弄びながら歩く。
私はその間を、いつもの歩幅で歩いた。
神話の時代において、私は独神と呼ばれていた。
誰の祈りも欲さず、誰にも祈らぬ神。
神殿を持たず、信徒を持たぬ神。
だが、こうして同胞と並んで歩くこの瞬間、私は独りではなかった。
私の両側には、私を兄と慕う二柱が居る。
私の背後には、参道を昇ってくる九十数柱の気配が在る。
彼らは私の家族だった。
私は祈りで彼らと結ばれてはいない。
だが、愛で結ばれていた。
神格の構造の外側にある、もっと素朴で、もっと深いもので。
参道の先に議場が見えてきた。
円形の大広間。
白い柱が屋根を支え、中央には九十九の座が円環状に配されている。
座の一つひとつが薄い金色に輝き、それぞれの神格を待っている。
私は、自分の座を見た。
他の九十八の座と並んで輝いていた。
ゲルミが私の衣の裾を放し、彼女は彼女の座へ向かう。
ルドウスも骰子を懐に納め、彼の座へ向かう。
二柱は別れ際に、それぞれ私を振り返った。
「お兄様、何かあったら頑張ってくださいね」
「兄貴、頼んだぞ。何かあれば頼むぞ」
二つの声が参道に短く響き、私は頷いた。
言葉は返さなかった。
返す必要のない場面だからだ。
二柱がそれぞれの座に向かう背中を、私は少しの間、見送った。
ゲルミの小さな背中、ルドウスの長い背中。
どちらも、これからの議で私が守らねばならぬ存在だった。
彼らがここに在ることが、神話の時代の正しさそのものだった。
胸の奥の影がもう一段、深くなった。
悪い予兆は強くなる一方である。
私は、自分の座へ向けて歩き出した。
九十九の座のうち、九十柱の気配は既に揃いつつある。
残りの数柱も、参道のあちこちから昇ってきているのが分かる。
やがてプリムスが議場の中央に立ち、議定が始まるだろう。
私も座についた。
冷たい金色の光が、私の身体を受け止めた。
議場の天空に、薄い金色の糸が無数に走り、九十九の座を結んで行き、議定の場が整って行く。
私は、目を閉じた。
今日、何が議題に上がるのか。
私は、まだ知らない。
だが、もし――
もし、世界の形を歪めるものが議題に上がるのなら――
私は、論証で立つ。
それが、私の責務だった。




