第1話 『最後の朝』
神紀4998年の春、私は山ひとつ越えた先の小村で、一人の老婆の息を看取っていた。
それは夜明け前のことだった。
寝台の脇に膝をつき、骨ばった老婆の手の甲に私の手を重ねる。老婆の瞼はもう開かない。呼吸は浅く、間遠く、波が引いていくように静かに細っていく。
彼女の部屋には誰もいなかった。
家族はいない。
隣人もいない。
蝋燭の一本も灯っていない。
窓の隙間から差す明け方の薄明かりだけが、土間と寝台の輪郭をうっすらと描いているばかり。
老婆は若い頃、夫を一人見送り、息子を二人見送った。
最後に残っていた孫娘も、五年前に流行り病で先に逝った。
それからこの5年、彼女はただ一人で、土と火を相手に暮らしてきた。
畑を耕し、湯を沸かし、夜になれば寝た。
誰にも祈らず、誰の祈りも受けず、ただ自分の生を自分で持っていた。
神々への祈りも、彼女は捧げなかった。
それが、私が彼女の元へ来た理由だった。
「――よく、生きたな」
私は静かに告げた。
彼女には聞こえない。
だが、それで構わなかった。
輝ける神々の時代において、私は神々の中で唯一、誰の祈りも欲さぬ神だった。
誰もが祈りを糧として存在を維持していたあの時代に、私だけは祈りを必要としなかった。
代わりに私は、誰にも祈らずに死んで逝く者達の元へ赴いた。
同胞達が目を向けない領域――
終わりの領域こそを私が一人で見守っていた。
「はぁ――」
老婆の呼吸が止まった。
胸の上下が、ふつ、と途切れる。
それだけのことだった。
部屋の空気が、ほんの僅かに軽くなる。
私は瞼を伏せ、しばらくそのまま動かなかった。
彼女の魂はもう肉体の内にはなかった。
寝台の上、天井の少し下のあたりに、薄い銀の光のような輪郭で、ゆっくりと宙を漂っている。
生者にはコレは見えない。
神々の多くには見えない。
しかし、私には見える。
死を司るとはそういうことだった。
私は懐から六枚の銅貨を取り出す。
それは古い銅貨であり、私の名と紋様が刻まれている代物だ。
といっても、この紋様を知る者は世にほとんどいない。
私の信徒はほぼ存在しないのだから当然だ。
これらの銅貨は、私自身が世界の片隅で鋳させ、私自身が儀礼のために蓄えてきたものだった。
手のひらの上で銅貨が冷たく沈んでいる。
私はそれを、老婆の骨ばった手に握らせた。
儀礼に使う銅貨は六枚。
それ以上でも、それ以下でも無い。
きっかり六枚だ。
自然への手向けとして一枚。
生命への手向けとして一枚。
社会への手向けとして一枚。
感情への手向けとして一枚。
抽象への手向けとして一枚。
そして、境界への手向けとして一枚。
世界は六つの領域から成っている。
死者の魂は、そのすべてを通過してから静かなる地へ向かう。
私が六枚を手向けるのは、その六領域への渡し賃だった。
同胞達はこれを行わなかった。
豊穣神は豊穣しか見ず、戦神は戦しか見ず、誰も世界の流れの全体を見ようとはしなかった。
死は彼らの管轄ではなかった。
私の管轄である。
だから、当然と言えば当然の事だ。
けれど、生ある者として人生を終えた魂に、誰か一人くらいは労いの意味を与えても悪くは無いだろう。
だから私は一人で渡し賃を置いていた。
寝台の上の魂がふと揺らぐ。
六つの方角から、薄い銀の流れが寄ってくるように、彼女の魂が解けはじめた。
それは涙のような速さで、しかし涙よりも遥かに静かに、彼女自身が彼女自身を手放していく光景だった。
『幽谷の大河』の水が、私の足元に流れ込んでくるのを感じた。
大河は、生者の世界と重なるようにして流れている。
だが、誰もそれを見ない。
生者には見えない。
神々の多くは興味すら持たない。
私だけが、それが今、この部屋の床下を流れているのを感じていた。
流れは静かで、薄青い銀色をしていた。
波音は立たない。
死は、本来そういうものだった。
老婆の魂が大河の流れに乗る。
私は最後に、彼女の額に右の指先で触れて言う。
「人間の同胞達の元へ向かえ。お前は、よく生きた。よく死んだ。お前の生は、お前自身のものだった」
声に出して告げた。
誰にも聞こえぬ告辞だったがそれで構わなかった。
私の言葉は、私自身の責務のために発される。
聴衆を必要としない。
魂が流れに乗って下流へ運ばれていく。
そして、最後には消えた。
部屋には、銅貨を六枚置かれた老婆の亡骸と、私だけが残った。
窓の外で、最初の鳥が鳴いた。
私は立ち上がり土間に下りた。
戸を開けると、東の山の稜線が薄紅に染まりはじめている。
世界は息づいていた。
風が吹き、葉が鳴り、遠くで犬が一度だけ吠えた。
畑の畝には朝露が降り、土の匂いが立っていた。
神話の時代の朝は、いつもこうして始まる。
私はしばらく、その朝の中に立っていた。
神は祈りを糧に存在する。
だから神は人間の生に依存している。
私はその構造から外れた一柱だった。
誰の祈りも欲さず、誰にも祈らない。
故に私は、世界の誰にも借りを作らない。
借りを作らぬ者だけが、誰の死をも公平に看取れる。
――それが、私の死神たる所以だった。
同胞達は、私を奇異の目で見ていた。
誰にも祈らせず、神殿も持たず、祭儀にも加わらない。
彼らからすれば、私は『神』の体裁を成していない神だった。
そのせいか『独神』等と言われていたりもした。
それでも誰一人として、私を排除はしなかった。
彼らは愚かだったが、気の良い者達だった。
賢い者は臆病で、無能な者は優しく、誰もが何かしら欠けていながら、何かしら愛されるべき性質を備えていた。
私は、彼らを愛していた。
愚かさを愚かさのまま愛し、臆病を臆病のまま愛し、優しさを優しさのまま愛していた。
完全な理解の上に、完全な愛がある。
それが私の考えだった。彼らへの距離は軽蔑の為ではなかった。愛しすぎぬ為の節度だ。
戸口から外へ出ると空気が変わる。
肌に別の気配が触れた。
私は顔を上げた空を見上げる。
空のずっと高いところ、雲よりも遥か上、人の目には決して見えず至れぬその領域に、薄い金色の光が一筋、走っていた。
地上から天界へ向けて引かれた糸のような光だった。
それは議定の触れだった。
九十九柱の神が議場に招集されている。
神話の時代において、議定はそう頻繁に開かれるものではなかった。
世界の構造に関わる重大な議題が生じた時、初まりにして最古の神、議長神プリムスの名において、九十九柱が天界の議場に集められる。
だから前回の議定は、もう二百年以上も昔のことだった。
私は、薄く目を細めた。
今回の議題が、何か。
それを私はまだ知らされていない。
だが、空気の重さである程度は察しはついた。
糸の色がいつになく濃い。
プリムスがこれだけ強く触れを出したことは、過去にほとんど例がない。
胸の奥に、薄い影が生まれ落ちる。
神格として、私は予感というか予兆というか予言というか、そのようなものを持つ。
論理的にそれを説明することは出来ない。
だが、ともかく、私はそれを感じることが出来た。
今、その予兆が告げていた。
――何か、よくないことが議題に上がる。
私は息を一つ吐いた。
戸口を振り返った。
寝台の上の老婆の亡骸が、薄い朝の光に浸されている。
穏やかな顔をしていた。
瞼の上に置いた銅貨が、最初の陽射しを受けて、ほんの僅かに光った。
彼女のような死を、私は何百、何千と看取ってきた。
誰にも祈らずに生き、誰にも祈らずに死ぬ者達。
同胞達は彼らに関心を持たない。
神殿に来ない者は、神々にとって目を掛ける存在足り得ない。
だが私は、そうした者達こそを最も尊んでいた。
彼らは自分の生を自分で持ち、自分の死を自分で閉じる。
それは、神々の神格にも等しい完成の形だった。
私が司る概念は正にそれだった。
単独であることの、完成形としての死。
終焉ではない。
誰かに殺されることでもない。
自分の生を、自分の手で閉じる権利。
それが世界に保たれている限り、世界は健やかだった。
神々が祈りに溺れず、人々が神に縋りすぎず、それぞれが自分の輪郭を保って生き、保ったまま死ぬ。
そうした世界の姿を、私は、私達は守っていた。
空の糸の光が、もう一段強くなる。
――時間がない。
私は最後にもう一度、老婆の方を見た。
彼女の魂はもう流れの先にある。
亡骸はやがて村人が見つけ、土に還してくれるだろう。
それで十分だった。
私の役目は終わっていた。
「――よい朝だった」
私は、誰にともなく告げ、地を蹴った。
肉体を持たぬ私の本体が、朝の光の中をまっすぐに上昇していく。
村が小さくなり、山が小さくなり、雲が下になり、世界が一枚の絵のように足元に広がっていく。
私はその上を糸の光に沿って昇って行った。
天界の議場が見えてくる。
円形の大広間、九十九の座。
その一つにこれから私は座る。
昇りながら、私は一つだけ、考えていた。
神話の時代は長い。
世界は穏やかだった。
生は生として営まれ、死は死として閉じられた。
祈りは祈りであり、呪いは呪いであった。
両者の境は曖昧であったが、それを混ぜようとする者はいなかった。
もし、今日の議題が、その境を混ぜるものであったなら――
私は、反対しなければならない。
胸の奥の影が、もう一段深くなった。
議場が目前に迫ると、九十八の同胞達の気配を私は感じた。




