第15話 『神成りの森』
旅は続いていた。
村を発って二週間余り、一行は深い森に差し掛かっていた。
その森は何処か異様だった。
木々は捻れ、枝は不自然な方向へ伸びている。
葉の色は、毒々しい紫がかった緑。
動物の死体も至る所に転がっている。
空気は淀み、肌に纏わりつくような不快な湿り気もあった。
昼間だというのに、森の中は薄暗い。
「サウル、ここは……」
ライラが眉をひそめながら尋ねる。
サウルは、既に警戒の色を強めており、その手は左腰の剣に添えられていた。
「ここは神成りの森だ」
サウルが答える。
「神成りの森……?」
「神骸の欠片を呑んだ者の成れの果て。それらが最後に、吸い寄せられるように辿り着く場所だ」
サウルは森の奥を見据えながら続ける。
「この世界には、かつて存在した九十九の神々の、天界から堕ちた屍があちこちに転がっている。それが知っての通り神骸の正体だ。その欠片を人間が呑むと神性に侵食され、そして少しずつ人ではなくなっていく」
「えぇ……」
「最初は烙印を持つ者のように、夜使徒に追われるだけだ。だが神成りが進行すると身体が異形に変わり、心も壊れていく」
サウルは森の奥の闇を見据えた。
「この森にはその神骸の本体、魔術神マギシアの屍が眠っている。近くの神成りはその屍に縋るように集まってくる。だからこの森は神成り達が彷徨っているんだ」
ライラは息を呑む。
神骸の欠片を呑んだ者、人ではなくなった者。
それがこの森にいる。
「ライラ、ニナ。俺の傍を離れるな」
サウルの声は鋭かった。
「はぐれたら死ぬぞ」
ライラはニナの手を強く握り、ニナは不安そうに姉へ寄り添う。
フォエは狼に似た姿になり、二人を守るように歩いた。
――――
森の奥へ進むにつれ、それは現れ始めた。
最初に見たのは、木々の間を這うように動く影だ。
それは人の形を辛うじて留めている。
しかしその身体は捻れ、膨らみ、所々から骨のような突起が突き出していた。
顔は半分が崩れ、もう半分に虚ろな目が一つだけ残っている。
「あれが、神成り……?」
ライラは震える声で呟く。
神成りの存在は知っていたが、実際に実物を見るのは初めてだった。
神成りは、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
その虚ろな目はライラ達を捉えた。
次の瞬間、神成りは四肢を不自然に動かしながら、こちらへ突進してきた。
「ア……。ァ、コ、ロ……。シテ……」
それは、もはや人の声ではなかった。
しかし、その掠れた声の中に、確かに人の言葉が混じっていた。
殺してくれ、と。
「あれは、まだ意識が残っている方だね」
フォエが狼の姿のまま低く言う。
「神成りの大半は完全に異形化して、人の意識を失っている、ただの怪物だ。けど中には、まだ人の意識が残っている者もいるんだ。自分が化物に堕ちていくのを自覚しながら、それでも止められない。そういう地獄を味わっている者がね」
自分もフォエがいなければ、もしかしたらそうなっていたのかも知れないと思うと、ライラは言葉を失った。
彼女が呆然としている一方、サウルは一歩前に出る。
神成りは彼に向かって手を伸ばすも、サウルの剣は一閃した。
そうすると神成りの身体は両断され、地に落ちる。
しかし、それは呆気ない最期ではなかった。
地に落ちた神成りの虚ろな目は、サウルを見上げていた。
その崩れかけた口は僅かに動く。
「あ、り、がと……」
それだけ言うと満足したかのように、神成りは動かなくなった。
虚ろな目から、涙のような液体が一筋、零れている。
ライラはその光景に立ち尽くした。
「……今、ありがとうって」
フォエは答える。
「あの者にとって、サウルの剣は救いだったのさ。ずっと終わらせて欲しかったんだろう。けど、自分では終われなかった。だから――」
フォエは一度言葉を切る。
「サウルが斬った時、あの者はようやく解放されたんだ」
ライラは自分の烙印に手を当てて思う。
自分も契約者、夜毎に夜使徒に追われる身。
今はフォエのお陰で、目の前の神成りのようにはならない。
けれど、もし神骸の欠片を呑めば、自分もああなるのだろうか。
人ではなくなり、異形に堕ち、それでも止められず、誰かに終わらせて欲しいと願うのだろうか。
その想像はライラを深く震わせ、恐怖を心の奥底に刻みつけた。
――――
森の奥では更に多くの神成りが現れる。
その大半は完全に異形化しており、もはや人の形すら留めていない。
肉の塊のような、触手の束のような、骨の檻のような。
様々な異形が森の中を蠢いている。
それらはライラ達を餌と見なし、襲いかかってきた。
しかしサウルは、その全てを斬り伏せた。
ライラとニナを背後に庇いながら、一体、また一体と。
彼の動きは余りにも洗練されており、無駄が無い。
時にはフォエも狼の姿で横から飛びかかり、神成りを引き裂き、ライラとニナを守ったりもした。
「こっちの連中はもう意識がない! 遠慮は要らないよ! サウル!」
「元よりそのつもりだ」
フォエは戦いながら叫び、サウルはそれに呼応する。
ライラはただ、ニナを抱きしめながらその戦いを見ていただけだ。
自分には何も出来ない。
ただ、守られているだけ。
その無力さが、ライラの胸を強く締め付けていく。
――――
どれだけ歩いただろうか。
森の出口が見えてきて、光が差し込んで来る。
淀んだ空気が薄れ、一行は神成りの森を抜けた。
森を出ると、ライラとニナは緊張の糸が解けたかのように、その場にペタリと座り込んだ。
全身が緊張で強張り、今も膝から下が震えている。
「大丈夫か」
サウルがライラとニナに声を掛けた。
「えぇ……」
「うん……」
ライラは返事をした後、サウルに質問をする。
「あの神成り達は、元は普通の人だったのよね」
「そうだ。全て人間だ」
「どうして、神骸の欠片なんて呑んだのかしら」
サウルはしばらく答えなかった。
それから剣を鞘に収めながら答える。
「神骸の欠片には、一時的に強い力や満腹感を与える効果がある。病を治したり、傷を癒したり、空腹を収めたり。だから藁にも縋る思いで呑む者がいるんだ」
「そんな事の為に……」
「お前の村は裕福では無かったが、かと言って食う物に困る事は無かった。だが、全ての村や人がそう云う状況にある訳では無い。お前にとってはそんな事でも、中にはそれしか選択肢が無い人間も居る」
ライラは俯いた。
食う物に困り、藁にも縋る思いで、神骸の欠片に手を伸ばす。
その気持ちが、ライラには分からないとは言えなかった。
自分もニナを守る為なら、何だってした。
現に、烙印という呪いを背負ってでも契約を選んだ。
もし自分が飢えた村に生まれて、目の前に神骸の欠片しかなかったら。
きっと、それを呑んでいた。
例え、人でなくなると分かっていても。
追い詰められた人間に、正しい選択肢など与えられない。
ただ、目の前の絶望を凌ぐ事しかできない。
ライラはそう思った。
サウルはそんなライラの様子をしばらく見て、それから言った。
「お前は、ああはならない」
「えっ?」
「俺がそうはさせない」
サウルの言葉は短かった。
しかしその響きには、確かな何かがあった。
ライラはサウルを見上げた。
彼の右目の赤と、左目の青が、ライラを見つめている。
ライラの胸の中で、何かがまた疼いた。
――――
神成りの森を抜けて、数日。
その夜も、一行は街道沿いで野営していた。
夜が深まりニナとライラが眠った頃。
フォエがふと身を起こして言った。
「来たよ」
その声に仮眠中だったサウルはすぐに反応し、慣れた手つきで剣を取って立ち上がる。
「分かっている」
サウルは、月に照らされて出来た巨木の大きな影を睨む。
すると、闇の中からそれは現れた。
顔のない頭部に、異常に長い手足。
聖歌の様な声で歌いながら、地を這うように近付いてくる、薄気味悪い怪物。
夜使徒。
夜使徒の襲撃は、毎晩のように続いていた。
ライラが契約者である以上、それは避けられない宿命だった。
烙印を持つ者がいる場所へ、夜使徒は夜ごと現れる。
しかしその襲撃も、もはやライラ達にとっては、日常の一部になりつつあった。
ライラは烙印の疼きを感じ不快そうに目を開く。
彼女の眼前に広がっていたのは、見慣れた光景だった。
具体的には、複数の夜使徒がサウルたった一人に蹂躙されている景色である。
サウルにとって夜使徒は相手にもならない。
彼の剣は闇の中で閃き、一体、また一体と夜使徒を斬り伏せていく。
十数秒後、夜使徒の群れは全て地に伏し、無惨な死体だけが残っていた。
夜使徒が一回の襲撃で何体来るのかは決まっていない。
多い時は数十体来る時もあれば、少ない時は数体しか来ない時もある。
それでも、毎日夜使徒は必ずやって来てライラを狙った。
何時になると訪れるかも分からない。
故にサウルとフォエは、襲撃が来るまで交代で仮眠を取って見張りをしている。
地に伏した夜使徒の死体を見てから、ライラはニナを抱きしめていた。
ニナはフォエのふわふわの身体を触りながら未だに夢の中だ。
これも、毎夜の事だった。
ライラはサウルに申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい」
「何がだ」
「私が契約者だから……。私のせいで、毎晩あなたを危険な目に合わせてるから。あんまり寝れてもいないでしょう?」
「気にするな」
サウルは短く答えた。
「夜使徒くらい何でもない。それに、もう慣れただろう」
「でも……」
「お前のせいじゃない」
サウルの言葉は淡々としていた。
しかしそれは、ライラの胸に抵抗無く深く染み込んでいく。
自分は狙われ続ける。
これからもずっと、何日も、何年も。
恐らく死ぬまで、毎晩続く。
しかし、サウルがいる限り、ライラはその恐怖に押し潰されずにいられた。
寧ろ、毎晩のように夜使徒を一蹴するサウルの姿は、ライラにとって頼もしくさえあった。
そして、その姿はとても懐かしく、しっくりと来ていた。




