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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

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第12話 『それでも進み続けた』

 ライラとニナは、両親の墓の前に立っていた。


 朝の光が二つの土の盛り土を照らし、風が灰を僅かに舞い上げる。


 そんな何処かさみしげな風景を見ながら、ライラは妹に呟く。


「ニナ。ここで少し、フォエと一緒に待ってて」


「え、うん。お姉ちゃんどこ行くの?」


 ニナがフォエを強く抱きしめながら聞いた。


「少し、()()()の所に行って来るね」


 ライラはそう言うと、ゆっくりとサウルの方へ歩み寄って行く。

 近づくと、サウルは別の村人の遺体の方を見て、何かを考えているようだった。


「サウルさん」


「ん……。あぁ、どうした」


「私も手伝います」


「……お前は休んでいろ。これは力仕事だ。十六の()()には厳しいだろう。それに、まだ怪我も治っていない」


 サウルの言うことは至極真っ当だった。

 怪我人に、しかも女性に力仕事をさせるのは、効率が悪いだけでなく危険性も高い。

 彼女が奴隷でもない限り、負傷した身体で死体を運ぶような無謀な作業を任せるはずがない。


「いいえ」


 しかし、ライラは首を横に振った。


「ここは私の村です。私の故郷の村です。大切な人も嫌いな人も、みんな、私の大事な思い出なんです」


 彼女は自分の意志を明確にサウルに伝える。

 サウルはしばらく、そんなライラの目を見つめていた。


 ライラの目には強い意志があった。

 昨日、化物に苛まれて気絶していた少女とは思えぬほどの、確かな強さが。


 サウルはそれを見て、溜息を付いてから頷いた。


「……分かった。だが、程々にしろ」


「ありがとうございます」


 そうして二人は村人の遺体に近付いて行く。


 ライラが最初に近づいた遺体は、井戸端でよく会っていた老婆だ。


 彼女の名はマーサ。

 ライラが幼い頃、彼女の頭をよく撫でてくれ、たまに甘いお菓子をくれた優しい人。


「マーサおばさん……」


 ライラは名残惜しそうにその名を呼ぶ。

 老婆の身体は、夜使徒に呑み込まれかけたのか、半分程が消えていた。


 しかし、顔は不思議と残っていた。


 そんな遺体はマーサだけではなく、少し周りを見渡せば山の様に転がっている。

 それを全て土に埋めるには、誰の目から見ても時間がかかる、途方もない作業だ。


 そんな時、サウルが口を開く。


「ライラ」


「はい」


「全員を埋葬するのは無理だ」


 ライラはサウルを見る。


「え、でも……」


「特に親しい者だけを埋葬しよう。残りは火葬にする方がいい」


「火葬……」


「ああ。村ごと燃やすしかない。広場に集めて火を放つんだ。このまま放っておいてもカラスに啄まれて骨になるか、病の元になるかだ。そんなのは、お前も望んでいないだろう」


 ライラはしばらく何も言えなかった。


 サウルが言う火葬とは、村ごと燃やすと云う事。

 自分が生まれ育った村を、自分の手で燃やす。

 つまり、真の意味で村にトドメを刺すと云う事に他ならない。


 けれどライラには、それしか道が無い事も分かっていた。


 全員を一人ずつ埋めるには、何日かかるか分からない。

 そして自分達はここに留まれない。


 夜使徒が再び来るかもしれないし、何より、ここで待っていても何も生まれない。


 だからライラは決意する。


「分かりました。親しい人達は埋葬します。残りは、火葬で」


「ああ。すまないな」


 サウルは一言謝り、頷いた。



 ――――



 その後、サウルはライラに協力し、彼女が特に親しかった人達を選んで埋葬し始めた。



 ある者はライラにとって印象深い、優しき老婆。

 ある者はニナにとっての良き友達。

 ある者はライラ達一家に良くしてくれた近所の青年。


 そうやって人を選び、サウルが掘った穴に彼が遺体を入れ、またサウルが土を被せ、ライラが祈る。

 ただひたすらにその繰り返し。


 始めは悲しそうな表情をするだけだったライラだったが、次第に堪えきれずに目から涙が零れる。


 しかし、決してサウルもライラも手は止めなかった。


 生き残った者が過去に囚われ、未来を諦めることは、死んでいった者達への冒涜だと知っているから。


 けれど、それでも。

 悲しいものは、悲しいのだ。


 重く暗い空気が場を支配する中、突然ニナとフォエが、何か持って走ってきた。


「お姉ちゃん! お花、摘んできたよ!」


 ニナの小さな手の中には、焼け残った野花が数本、握られている。


 黄色い小花と、紫の小花。

 炎を逃れ、かろうじて残った野の花。

 絶望の底で、それでも咲くものも確かにあった。 


「ニナ……」


 ライラはニナを抱きしめながら言う。


「ありがとう」


 ニナは姉にしばらく抱かれた後に解放されると、墓の前に野花をそっと置き呟く。


「マーサおばさん。トムとリリ。メービーお兄ちゃん。さよなら」


 ニナの小さな声は震えていた。

 しかし、彼女は泣かなかった。


 一方ライラはニナが祈っている間、神官団の天幕を向いていた。


 彼女の視線の先には、神官達の遺体が転がっている。

 その中には神官長のヨアシムもその中にいた。


「ヨアシム様……」


 ライラが低い声で、小さくその名を口にすると、彼の顔が思い出される。


 白い鳥の嘴を模した帽子の向こうには、虚無と厳格な眼差し。

 しかし、何処か優しさも含まれていた様な気もする。


「祈祷が使える程の神官様なら、自分達だけでも逃げれた筈なのに、どうして――」


 ニナを連れて行こうとした事は決して許していない。

 けれど、それは彼自身の意志ではなく、あくまでも職務の一貫である。

 その事をライラは分かっているからこそ、彼へ向ける感情は深く絡まっていく。


「ヨアシム様も神官団の人達も、後で必ず送りますから……」


 彼ら全員を埋葬する事は出来ない。

 だから、火葬の中で神官団も村人達と同じように弔う。


 それが、ライラに出来る精一杯の事だった。



 ――――



 昼を過ぎた頃、三人と一匹は休憩する事にした。


 焼け残った井戸の傍。

 サウルがどこからか水を汲んで来て、簡単な携帯食を皆に渡す。


 メニューとしてはいたってシンプル。

 パンと、干し肉。

 スプレッド類等は無く、本当にそれだけだ。


「ありがとうございます」


 ライラは礼を言って水を飲む。


 昨日の今日で未だ地獄の只中にいるからか、生き返るような感覚が喉を潤す。

 ニナも喉が渇いていたのか、一気に水を飲んでいる。

 フォエはニナの膝の上で()()()()、水を()()飲んでいた。


 顔の無い黒い毛玉だったり、狼だったり、目も口も鼻もある黒猫の姿だったりと、フォエの姿は安定していなかった。


「ねぇ、フォエ。あなたってどの姿が本当のあなたなの?」


「どれも本当の私だよ。姿なんて私にとっては対して重要な物じゃ無い。どんな形にもなれる。でも、場に適した姿を好んではいるかな。人間の世界で言うとドレスコードという概念が一番近いかな」


「そ、そうなんだ……」


 サラッと驚愕の事実をフォエが言ったことにより、ライラはしばらく黙ってしまう。

 それから数十秒後、ライラは再び口を開く。


「サウルさん、私……。あなたに話さなければいけない事があります」


「なんだ」


 ライラはそう言いながら、フォエの方をちらりと見る。

 フォエはライラの視線の意味をすぐに察した。


「ニナ」


 フォエがニナの腕の中で、彼女に声を掛けた。


「なあに、フォエ?」


「今からお姉ちゃん達は、難しい話をするんだ。退屈な話だから、君は私と遊ぼうか」


「えー、何して遊ぶの? ご飯中だよー?」


「ふふ、こうしてだよ」


 そう言うとフォエがニナの耳元に、ふわふわの自身の毛で頬をくすぐった。


「あははっ! くすぐったいよ、フォエ!」


 早速ふわふわの毛に夢中になったのか、ニナはもう周囲の話など聞いていなかった。


 ライラはフォエに心の中で感謝し、サウルの方へ向き直る。


「サウルさん、私は烙印と言う物を持っています。契りの仔、フォエと契約をしたその印です」


 ライラは服の襟元を少し下げて、烙印を見せた。

 彼女の身体には茨のような模様が、胸の上部に黒く刻まれていた。


「……」


 サウルはそれを見ると溜息を付き、悲しげな表情を一瞬だけ浮かべる。


「どんな願いも叶えて貰える。その代償として、夜毎に夜使徒に襲われる。だから夜使徒に狙われていました。村も私のせいで襲われたんです。全部、私が……」


「お前のせいでは無い」


「えっ?」


「昨夜の襲撃は契約のルールから外れていたのは明白だ。通常、夜使徒以外が襲いに来る事は無い。恐らくはあのデカブツが夜使徒を引き連れて指示していたのだろう。だから、お前の烙印が原因ではない」


「サウルさんはその、烙印の事を知っているんですか?」


「ああ」


「夜使徒の事も、契りの仔の事も?」


「知っている。お前より詳しい」


 ライラは息を呑んだ。


「どうして……」


「長く、この世界を歩いてきたからだ。お前の話したい事は既に全部知っている。フォエの存在も、契約の代償も、烙印の意味も。お前が何の為に契約をしたのかも」


 ライラはしばらく言葉が出なかった。


 自分がこれから話そうとした事を全て、目の前の男は既に知っていた。

 しかも、自分より詳しいと言うのだ。


 一体、彼は――


「サウルさん、あなたは何者なんですか?」


 ライラは尋ねる。


「……俺は、ただの流れ者だ。だが、長く戦ってきた。多くの事を知り、多くの物を失った。それでも進み続けている。それだけだ。それだけのつまらない話だ」


 ライラはサウルの答えに、納得できない部分を感じた。

 しかし、それ以上の追求は出来そうにない。

 聞いても答えてくれないのだろうと、何となく察したからだ。


 代わりに、別の事を訊いた。


「あの、サウルさん」


「なんだ」


「あなたは普段、何をしているんですか? 騎士……。に見えなくも無いですが」


 サウルは少し間を置き、それから答える。


「旅をしている」


「旅、ですか」


「ああ」


「どこへ向かって?」


「行く当ては無い。ただ、世界を回っている」


 サウルは井戸の縁に視線を落としていた。

 そんな彼にライラは、半ば確信を持って聞く。


「観光、ではないですよね」


「ああ。観光ではない」


「では、何のために」


 ライラの問いにしばらく、サウルは答えなかった。

 彼は水を一回飲むと続ける。


「俺は戦っている。使徒や、その配下と」


「使徒と、ですか? 昨日みたいな怪物達といつも?」


「ああ」


「何故ですか?」


 サウルはライラを見ると、彼の右目の赤と左目の青も、同じ様にライラを静かに見つめていた。


「……世界が歪んでいるからだ」


「歪んでいる? どういう事ですか」


「お前も分かっている筈だ。村が夜使徒に襲われ、神官団はお前の妹を連れ去ろうとし、烙印を持つ者は夜ごと狩られる。こんな事が、正しい世界の在り方であるものか」


「……」


「俺は、この歪みを正したい。だから戦っている」


 そう告げたサウルの言葉と瞳には、とても強い意志が宿っている様に感じられた。


 ライラはしばらく、何も言えなかった。

 サウルの言葉が、彼女の胸に深く響いたからだ。

 そして何よりそれはライラ自身が、村が襲われた時から漠然と感じていた事であった。


 何故こんな事が起こるのか。

 これが、世界の正しい姿なのかと。


 しかし、それを口にする事は出来なかった。

 神様への信仰を疑う事は、村の中どころか世界のどこででも許されない。


 けれど目の前の男は、それをはっきりと口にした。


 そんな時、フォエが不意に口を開く。


「ねえ、サウル」


 フォエはニナの腕の中で、サウルを見上げている。

 ニナはまだ、フォエの毛にくすぐられて笑っていた。


「君に聞きたい事があるのだけど」


 サウルはフォエの方を見た。


「……何だ」


「使徒と戦っている、と言ったね」


「ああ」


「具体的には、()()()()()使()()を相手にしているんだい?」


 フォエの声には純粋に深い興味があった。

 サウルはその問いに答えるか一瞬迷った後、ゆっくりと答える。


「全てだ。夜使徒や下位使徒。中級使徒も上位使徒も、最上位使徒とさえも。祈護兵(きごへい)とも戦った」


「上位や最上位の使徒まで……。君がそれを倒しているのかい?」


「ああ」


 フォエはしばらくサウルを見つめていた。

 その目には品定めするかの様な意図が感じられる。


「それは、にわかには信じ難い話だね。でも、昨夜の戦いを見れば納得もする」


 フォエは首を僅かに傾けて続ける。

「ねぇ、サウル。君の目的は何だい? 戦いの果てに君は何を求め、何を得るんだい?」


 サウルはしばらく沈黙する。

 それから、低い声で答えた。


「四大使徒を殺す」


 それを聞いてフォエの動きが、一瞬止まる。


「君……。今、何と言った?」


 フォエは自分の聞き間違いを考慮し、再度サウルに聞き返す。


「四大使徒を殺す」


 けれどサウルは同じ言葉を繰り返した。

 フォエの耳は正常で、何もおかしいことは無かったのだ。


「ミゼリア、マレディクス、オラティア、ヴォトゥス。四柱、全てを殺す」


 フォエはしばらく、何も言わなかった。

 目の前にいる男からは、四大使徒に対して凄まじい殺気と共に、激しい憎悪が滲み出ているからか、何も言えなかった。


「正気かい?」


 獣の声にはいつもの透き通った響きの中に、強い困惑が滲んでいる。


「君は、自分が言っている事の意味が分かっているのかい?」


「ああ」


「四大使徒は、かつて存在した九十九神に近い存在。かつての神々に近い力を持つ存在だ。一柱だけでも、世界の半分を変えられる程の力を持つんだよ」


「知っている」


「それを四柱、全て殺すと?」


「ああ」


 フォエはサウルの目を見つめる。


 サウルの目は嘘をついていなかった。

 冗談でも、誇張でもなかった。


 彼は本気で四大使徒を倒すと言っているのだ。


「私は千年以上前から生きているけど、四大使徒を殺すと本気で言った人間は、君が初めてだよ」


 サウルは何も言わなかった。

 ただ、フォエの視線を受け止めているだけだ。


 ライラはそんな二人のやり取りを聞いていた。


 四大使徒……。

 それが何を意味するのか、ライラには朧げにしか分からなかった。


 四つの領域を支配する、神様に近い存在。

 神官団も、人々も、彼らに頭を下げて生きている。

 それくらいしかライラは知らない。


 その四柱を目の前の男は殺すと言った。


 彼女の胸の中で何かが強く響く。

 目の前の男は、本気で世界を変えようとしているのだ。


 ライラが色々と考えを巡らせていると、フォエが再び口を開く。


「サウル、もう一つ聞いていいかい?」


「ああ」


「四大使徒を倒して、その後はどうするんだい?」


 フォエの問いは静かだった。

 しかし、その奥には大きな疑問があった。


 四大使徒を倒した後、世界はどうなるのか。

 統治者亡き後、世界はどう変わるのか。

 サウルは一体、何を目指しているのか。


「……」


 しばらくの沈黙の後、彼は答える。


「天界に上る」


「天界ですか? 天界ってあの、祈神様が居るって言われてる? おとぎ話の……」


「そうだ。そして天界は実在する」


「えーと、では……。天界に行って、あなたは一体何を?」


 サウルは一度、目を閉じた。

 それから目を開けて続ける。


()()()()()


 その瞬間、場の空気が凍りつく。


 ライラは何も言えなかった。

 フォエも何も言わなかった。

 ニナだけが、フォエの毛にくすぐられて、まだ笑っている。


 その笑い声だけが、止まった空気の中で響いていた。


 祈神――

 その名を軽々しく口にする事は、村では許されなかった。

 全ての人々が毎朝、祈りを捧げる絶対の存在。

 神様の中の神様。


 その存在を、目の前の男は殺すと言い切った。


 ライラの背筋に激しい寒気が走る。

 しかし、その寒気の中には別の何かが混じっていた。


 恐怖だけではない。

 何か深い、とても深い、共鳴のような感覚。


「サウルさん、それは、つまり……」


「そのままの意味だ。息の根を止め、存在をこの世界から消滅させて滅ぼす」


 目の前の男は本気だった。

 やはり冗談でも誇張でもなく、絶望からの妄言でもない。


 ただ淡々と本気でそれを目指していた。


 どれだけの時間が経っただろうか。

 長い沈黙の後、サウルが口を開いた。


「フォエ」


「なんだい」


「お前は俺を止めるか?」


 フォエは契りの仔であり、祈神側の存在だ。

 普通に考えれば、フォエはサウルを止める側の筈である。


 しかし――


「いや、止めはしないよ」


 ライラは僅かに目を見開く。


「確かに、私は祈神様に仕える存在だけど、何も、忠犬という訳では無いからね」


「……」


()()()、祈神様を守るのは私の役割では無い。私の役割は契約者の願いを叶える事。それだけだ。だから、止めはしないよ」


 フォエの声は、いつもの透き通った響きがあった。

 しかしその奥に何か、独立した意志のようなものが、滲んでいるのを感じた。


 サウルはフォエを見つめ、それから僅かに頷いて言う。


「そうか」


 フォエは軽く息を吐いて、笑うように言った。


「でも、君の計画は滅茶苦茶だね。四大使徒を倒して天界に上って、祈神様を殺す。そんな事をできる人間がいるとは思えないし、考える人間が居るとも思わなかった。君は本当に、何者なんだろうね」


 サウルは答えず、ただフォエの言葉を受け止めていた。


 ライラは二人のやり取りを聞き、胸の中で何かが大きく揺れるのを感じる。


 サウルの目的は自らの想像を遥かに超えていた。


 四大使徒を倒し、天界に上り、祈神を殺す。


 それは、神話の中の英雄でも不可能と思える事だ。

 そもそも、どうやって人間が、神が住まう国である天界に上るというのか。

 いくら強いと言ってもサウルは人間、超常の存在たる四大使徒はおろか、その更に上の存在である祈神に刃が届く筈がない。


 しかし、目の前の男はそれでも、本気でそれを目指していた。


 そして、契りの仔のフォエは、それを止めないと言った。


 ライラはこの場で今、何かが決定的に変わった事を感じていた。


 再度の沈黙の後、フォエがふと、何かを思い出したように口を開く。


「サウル」


「ああ」


「今更だけど、どうして私の姿が、君には見えているんだい?」


 言われてみれば当然の疑問だった。

 フォエは契約者からしか干渉できない存在である。


 契約者以外には、姿も見えないし声も聞こえない。


 しかし、サウルにはフォエが見えている。

 声も聞こえている。


 それは一体、何故なのか。


「契約したからだ」


 サウルの回答を聞き、フォエの動きが再び止まる。


「……契約? 君が、契りの仔と?」


「ああ」


「いつだい?」


「ずっと昔だ」


 フォエはしばらく、サウルを見つめていた。


 フォエの中には、サウルと契約した記憶は無かった。

 契りの仔は世界各地に存在する同一個体で、全ての個体の記憶を同時に共有している。

 故に千年以上の間、契約した相手は全て覚えていた。


 しかし、目の前の男と契約した記憶は、フォエの中にはどこにも無かった。


 けれどもサウルの目には、おかしな事に嘘の色は無い。

 それが尚更、フォエの興味を引き立てた。


「サウル、見せてくれないかい? 君の烙印を」


「……ああ」


 サウルは服の襟元を僅かにはだけた。


 そこには、確かに烙印と思われる跡があった。

 彼の胸の上部には、黒い模様が刻まれていたのだ。


 しかしそれは、フォエが知っている烙印とは微妙に違っていた。


 通常の烙印は茨のような模様である。


 けれどサウルの烙印は、茨の模様の中に別の何かが混じっていた。

 まるで、別の力で上書きされたかのように、元の模様の意味が変質しているかのように。


 フォエはしばらく、サウルの烙印を見つめ、それから言った。


「変だね」


 フォエは訝しみながら呟く。


「これは確かに私が刻んだ烙印の形をしている。けれど、何かが違う」


「……」


「サウル。君は、契りの仔と契約した。それは間違いない。けれどその後、何かが起きた。君の烙印は、別の何かに上書きされている」


 サウルは答えなかった。

 ただ、フォエの言葉を受け止めている。


「サウル、君は何と契約したんだい?」


 フォエは真っ直ぐサウルを見つめて続ける。


「契りの仔と契約したその後、君は何と契約した?」


 サウルは黙る。

 そして、しばらくしてから口を開く。


「話すつもりは無い」


 フォエはしばらくサウルを見つめた後、軽く息を吐いて言う。


「分かった、深くは聞かないよ」


 しかしフォエの目には、これまで以上に深い興味が宿っていた。


 目の前の男は確かに契りの仔と契約し、その後に()()()()と契約した。


 その『別の何か』が彼を、人間離れした強さにしている。

 その『別の何か』が彼に、四大使徒を倒す意志を与えている。


 そして、祈神を殺す意志を与えている。


 その『別の何か』とは何か。


 フォエにはそれは分からなかった。

 しかし、それが目の前の男の本質であるのは、揺るぎない事実であった。


 ライラもサウルを見る。

 彼女にはやはり、フォエの言っている事は半分も理解できなかった。


 しかしサウルが、何か深い秘密を抱えている事は伝わってきた。

 そして、その秘密は彼を強くしていると同時に、彼を蝕んでいる。


 それが彼の根源にある何かだった。


 知らぬ男。

 そう思っていた相手は、もう、ただの知らぬ男ではなくなっていた。

 けれど同時に、知れば知るほど、彼という存在は深い霧の奥へと遠ざかっていく。


 ライラには、まだ何も分からない。


 ただ一つ、確かな事があるとすれば。

 目の前の男から、もう、目を逸らせないという事だけだった。

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