第10話 『流れ者』
ライラの霞む視界の中、男は夜使徒に向かって歩く。
黒い外套の裾が夜風に翻り、月の光が男の輪郭を薄く浮かび上がらせた。
左の腰の剣は鞘から抜かれたまま、男の右手に握られ、剣先は地面の方を向いている。
彼はそのまま、ゆっくりと敵に向かって歩いて行く。
その歩みに急ぐ様子は無い。
男の向かう先には数十体の夜使徒がいた。
顔のない頭部の中央が開き、無数の口は低く長く、聖歌のような声を絞り出す。
使徒達は異常な長さの手足を、関節を無視した方向に曲げ、地を這うように動かしながら、男に向かって駆けてくる。
彼らに躊躇は無かった。
彼らは、いつだって屠る側の存在だったからだ。
千年の間、夜使徒達は、烙印を持つ者を狩り続けてきた。
神官団の祈祷を、戦士の断末魔を、魔術師の命乞いを、村人達の悲鳴を、契約者の絶望を、数えきれぬほどに聞いてきた。
しかし、目の前のこの男は、夜使徒達の経験してきたどの人間とも違う。
それを彼らは今宵、その身を持って知る事となる。
夜使徒の最初の一体が男に到達する。
夜使徒は、その異常な長さの手を男の頭部に向かって振り下ろした。
男はそれを躱さなかった。
ただ、男の右手の剣が、横一文字に動いただけだ。
月の光を反射する剣身から風を切る音が聞こえる。
同時に、夜使徒の長い手が肘から先で、地面に落ちた。
夜使徒は声を上げる暇もなかった。
次の瞬間には男の剣が、夜使徒の胴を縦に両断していたからだ。
夜使徒の身体は左半身と右半身に分かれ、ばらばらに地に落ちる。
無数の目は潰れた口の中で男を捉えるも、その光はすぐに消え失せた。
二体目は男の左から襲いかかった。
男は剣を振らず、代わりに左の拳を握り、夜使徒の頭部に叩き込んだ。
「グ、ェ――」
彼の拳は夜使徒の頭部を潰し、そのまま空中で使徒の頭を粉砕した。
無数の目が脳漿と共に周囲に散らばり、夜使徒の身体は糸が切れたように崩れ落ちる。
三体目は男の背後から迫った。
男はそれを振り返らず、ただ右足を後ろに蹴り出した。
蹴りは夜使徒の胴に命中し、夜使徒の身体は遥か後方の家屋に吹き飛び、激突した。
壁は割れ、夜使徒の身体は壁の中にめり込んだまま動かなくなった。
一瞬で三体の使徒が屠られ、夜使徒達は一瞬だが言葉を失ってしまう。
男はその一瞬の動揺を見逃さなかった。
彼は夜使徒の群れの中に一際力強く踏み込んで行く。
そこからはもう滅茶苦茶だった。
到底、戦いと言える代物では無くなっていたからだ。
男は斬り、殴り砕き、蹴り飛ばす、三つの動作だけが繰り返され、一方的に夜使徒達が蹂躙されていく。
男は、夜使徒一体ずつに対して、最も合理的な手段を瞬時に選択していた。
長い手を伸ばしてくる者は剣で薙ぐ。
頭部から飛びかかる者は拳で潰す。
背後から迫る者は、振り返らずに蹴ったり、拳を伸ばしたり。
全ての動作に無駄が無かった。
全ての動作に躊躇が無かった。
全ての動作に感情が無かった。
ライラは霞む視界の中で、その光景を見て低く呟いた。
「これが、人間……?」
その言葉に答える者はいなかった。
夜使徒達は異常なペースで数を減らしていく。
最初は数十体居たものが、十秒後には半分に、二十秒後には三分の一に減っていた。
そして、何かが夜使徒達の中で変わった。
彼らは最初、聖歌を歌いながら楽しそうに男に向かって駆けていた。
しかし今、彼らの聖歌は止まっている。
代わりに彼らは、低く呻いていた。
顔のない頭部の中央では、無数の目が揺れている。
その揺れには、これまでとは違う、別の感情があった。
そして、一体の夜使徒が男に背を向けて走り出した。
その使徒は逃げたのだ。
夜使徒が逃げる――
千年の間、夜使徒は烙印を持つ者を狩ってきた。
逃げるのはいつだって人間の方だった。
けれど今、その役割が逆転していた。
「ギ、ギャオオオオオ!!」
しかし、男はその逃走を許さない。
彼が地を軽く蹴った次の瞬間、男は逃げる夜使徒の真横を並走していた。
「ギ――!?」
夜使徒が驚きの声を上げると同時に、男は、夜使徒の頭を掴んで地面に叩きつける。
その衝撃は凄まじく、地面に叩きつけられた夜使徒の頭は潰れ、その受け皿となった地面も隕石が衝突したかの様に爆ぜた。
「彼は一体、何者なんだろうね」
ライラの傍でフォエが呟く。
黒い狼に似た獣は、戦場を見つめていた。
その目には、いつもの透き通った響きとは違う、深い困惑があった。
「私は千年以上、生きているけど、少なくとも、夜使徒共があそこまで恐怖したのは見たことがない」
フォエの言葉が自然とライラの耳に染み込んでいく。
千年以上、生きているフォエ。
その千年の間、見たことのない事が今、目の前で起きている。
ライラにはその意味が半分しか理解できなかった。
しかし、フォエの困惑の重さは伝わってきていた。
そうして少しの間だけだが、二人が目を離していると、残った夜使徒は既に数体まで減っていた。
彼らはもう、聖歌を歌わなかった。
彼らはもう、男に向かって駆けなかった。
彼らはただ、後ずさっていた。
千年来の狩人達が初めて、獲物となる恐怖に震えていた。
しかし、男には容赦が無かった。
彼は、夜使徒達に向かってゆっくりと歩み寄っていく。
その歩みには、急ぎも緩みも無かった。
ただ『殺す』と云う明確な殺意だけがそこにはあったのだ。
夜使徒達は男が醸し出す圧倒的な死の気配に耐え切れず、遂には、ばらばらに散って逃げた。
しかし、男はその全てを追った。
一体、また一体と夜使徒達は、男の手の中で屠られていく。
斬られ、殴り砕かれ、蹴り飛ばされた。
夜使徒達は千年の間、誰にも見せたことのない悲鳴を最後の瞬間に上げていた。
顔のない頭部の中央の口から、人の声に似た絶叫がただ、漏れていた。
それは彼らが『恐怖』を覚えた事の、最初で最後の証であった。
数十秒の後。
夜使徒の群れは、北の道を起点とし、点々と屍を残して絶えた。
男は剣を下げ、一度、深く呼吸をする。
彼の身体には傷一つ無かった。
あると言っても、外套に返り血が僅かに付いている程度だ。
「後はアレか」
男が誰にともなくそう告げると、南の方角から地響きが聞こえて来る。
ライラも男が見る視線の先を見た。
「あ、あ――」
南の方角から、吹き飛ばされた巨大な使徒が遂に戻って来た。
その巨躯は先ほどよりも凶暴な形に変わっていた。
ぐにゃぐにゃと形が変わる身体が、怒りで歪んでいるからだ。
十数本の触手はばたつき、地面を叩き、空気を裂きながら、男を狙いすましている。
男は巨大な使徒の方を向き、
「上位の使徒……。いや、違うか。突然変異の下位個体だろ、お前。随分と強いな」
と言い放ちながら剣を両手で握り直し、そして構えた。
両者は互いに向かい合う。
数秒後、先手を取ったのは使徒だった。
巨大な使徒の触手が十数本同時に、狙撃銃の弾丸の様に鋭く、男に向かって伸ばされる。
男はそれに対して地を蹴って反応した。
彼の身体が宙を舞い、迫り来る触手の猛攻を全て避ける。
月の光の中で、男は剣を使徒の攻撃の合間を縫って剣を振った。
たかが一閃。
されど、その一閃に依り十数本の触手は全て、根元から両断される。
切断された触手は地面にばらばらと落ち、使徒の巨躯から破滅的な叫び声が上がった。
しかし、男と相対する使徒もまた、ただ蹂躙されるだけの存在ではなかった。
使徒が巨躯を震わせた次の瞬間、使徒の身体の全ての表面から、無数の触手が噴き出したのだ。
それはまるでヤマアラシのようで、巨大な使徒の全身が棘の塊と化す。
数百本の触手は身体の周囲に放射状に伸び、その一本一本が剣の刃のように鋭く、そして硬質化していた。
巨大な使徒は、攻防一体の戦闘形態へと姿を変えたのだ。
しかし、男はそれを見ても尚、止まらない。
「確かにその形なら硬くて切れそうも無いな」
彼は、使徒に向かってゆっくりと歩み寄る。
使徒はそれを見て再度震え、触手を男に向かって振り下ろす。
今度の触手は先ほどまでと違い、ただの蛇のような動きではない。
それは剣戟だった。
硬化した触手は剣のように鋭く、剣のように重く、剣のように振るわれていた。
数十、数百の触手が同時に、剣の様に。
だが、男はそれを剣で受けた。
その全てを剣で凌いでいた。
金属音にも似た硬質な音が響き、使徒の触手と男の剣が火花を散らし合う。
使徒が別の触手を男の側面から振れば、男はそれを剣で受け流した。
振れば流され、突けば躱され、叩けば弾かれる。
男はそうやって触手の剣戟の全てを受け流していた。
しかし、男もただ受け流しているのでは無かった。
彼は受け流しながら、少しずつ化物の方へと歩み寄っていた。
数百本の触手を攻略しながら一歩。
また一歩と。
次第に使徒の触手の動きが、僅かに乱れ始める。
男の歩みが、使徒の核心に近づきすぎていたからだ。
そうして遂に男は、使徒の巨躯の目の前に立っていた。
巨大な使徒の中央。
無数の口と目が、ぐにゃぐにゃと蠢くその中心。
硬化していない、柔らかな、核の前。
男は剣を両手で握り直し、逆手に持つ。
「けれど、それを維持する核は柔らかいのだろ?」
そして突いた。
男の剣が化物の中心部の、柔らかな核を貫いた。
「――!!!」
化物は再度、破滅的な叫び声を上げる。
その叫びは村の遠くまで、村中を巡るように響き渡った。
核を貫かれた使徒の巨躯から、痙攣のような震えが全身に向かって走る。
そして使徒の硬化した触手が、ばらばらと地面に落ち、化物の身体はその場で崩れ落ちた。
しかし、それで、終わりではなかった。
使徒の巨躯が薄く、煙を立て始めたのだ。
炎に晒されている訳でも無いのに、肉が蒸発していた。
ぐにゃぐにゃと形が変わっていた身体が、ゆっくりと輪郭を失っていく。
無数の目がぼやけ、無数の口が消えていく。
数秒の後、巨大な使徒の肉体は、完全に蒸発して消えた。
地面には僅かな黒い染みだけが残っていた。
この使徒はそういう体質の使徒だった。
肉体を地に残さず、死ねば世界に還る。
しかしそれは、この使徒に限った事だった。
普通の使徒の死体は、ちゃんと地に残り、その爪痕を世界は忘れない。
さて、村に残った夜使徒は数体だけになった。
彼らは化物の死を見て、完全に戦意を失い、ばらばらに逃げ始めていた。
しかし、男はその全てを追った。
一体、また一体と。
最後の一体が、男の剣の下に、崩れ落ちるまで。
そうして村には、ようやく静寂が訪れた。
燃える家々の音と、夜風だけが残った。
夜使徒の聖歌は、もう、聞こえなかった。
化物の叫び声も、もう、聞こえなかった。
人々の営みも、もう、そこには無かった。
男は剣に付いた血を振って払い、左の腰の鞘に収める。
そして振り返り、ライラの方を見た。
月の光の中、男の輪郭が浮かび上がる。
縞模様の金髪と白髪。
右目の赤と、左目の青。
彼はゆっくりとライラの方へ歩み始める。
ライラの視界の中でも、男が近づいてきていた。
もう、危険は去った。
戦闘は終わった。
妹も、自分も生きている。
その安堵がライラの全身を一気に襲った。
今まで張り詰めていた緊張が、ふっと、解けていく。
肩と太腿の傷は、男の手当により、既に血が止まっている。
しかし、それまでの極限の緊張、極限の恐怖、極限の悲しみ、それらが全て彼女の中に堆積していた。
両親の死。
村人達の死。
使徒からの拷問。
ニナを守ろうとした絶望。
その全てが、緊張が解けた瞬間、ライラの意識を限界に追い込んだ。
ライラの視界は急に暗くなる。
「お姉ちゃん!」
ニナの声が遠くで聞こえた。
しかし、それも霞んでいく。
「フォエ……」
ライラは低く呟いた。
答えはあったのか、なかったのか。
彼女にはもう、分からなかった。
最後に、ライラの霞む視界に映ったのは、月の光の中、ゆっくりと歩いてくる男の姿だった。
その姿でさえ、暗闇に呑まれていく。
ライラの意識は、そこで途切れた。




