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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

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第9話 『虐殺の日 その2』

 ライラはニナを抱え、フォエの先導で北の道を駆けていた。


  燃える村の中は煙が視界を遮り、火の粉が髪に降りかかる。

 のどかで綺麗な故郷の村はもう、どこにも無い。

 あるのはただの地獄だ。


 ライラの腰の帯には、夜使徒を撃退した時の斧が挟まれていた。

 その柄は走る度、彼女の太腿に重く触れ、守るべきものの大きさを痛感させる。


 そしてニナは、ライラの背中に手を回してしがみつき震えていた。

 彼女は、叫び声などは出さなかった。


 ただ、姉の胸に顔を埋め、恐怖で震えていた。


「こっちだよ、ライラ」


 血と炎と煙に包まれる夜の道の中で、フォエの声が足元から響く。

 子犬ほどの黒い毛玉は、ライラの前を軽やかに駆けている。

 四方八方から立ち上る炎と煙で視界は最悪だと云うのに、フォエは燃える家々の間を的確に縫っていく。


「次の家の角を、右に曲がって」


「分かった」


 ライラはフォエの指示通りに走った。

 その道々で彼女は、村人達の遺体を目にする。


 顔見知りの男。

 顔見知りの女。

 子供の小さな手。

 まだ温かそうな血溜まり。


 ライラはその光景を見ないようにした。

 しかし、目に入ってしまうものは入ってしまう。


 だからせめて、幼い妹にはこの凄惨な光景を見せまいと、ニナの後頭部をライラの外套で覆って隠した。

 これ以上辛い思いをするのは、自分だけでいい、そう思ったからだ。


「お姉ちゃん」


 少しばかり思案に耽っていると、ニナの声がライラの胸の中で、小さく響いた。


「どうしたの、ニナ? 苦しい? ごめんね、もう少し待ってね」


「ううん。違う。お姉ちゃん、走らないで」


「えっ?」


「お姉ちゃん、ずっと走ってる。息が苦しそうだよ」


 ニナは姉の心拍と息遣いを心配していた。

 姉の心臓が限界近くまで鼓動しているのを感じ、このまま過労で壊れてしまうのでは無いかと、彼女は思ったのだ。


「大丈夫」


 ライラはそんな妹を安心させるように、優しく語り掛ける。


「村から出たら走らないから。そしたらゆっくり出来るから。ね?」


「うん、わかった」


 ニナはそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、姉の胸にもっと深く顔を埋め、ライラを抱く腕の力を強くする。


 直後、夜使徒の聖歌がどこからともなく、けれど近くに聞こえてくる。


「十五歩目を左に曲がって、家の窓の前で三秒待機。そしたらまた北に走って!」


 フォエはライラへ、不気味な程に的確な指示を飛ばす。

 ライラは獣の指示通り動いたが、流石に、世界の地図が頭に入っている、と云う説明だけでは納得出来ない精度や安全性の案内に、不信感を抱いて質問をした。


「ねえ、フォエ」


「なんだい?」


「あなた、どうしてそんなに、的確に夜使徒の動きが分かるの?」


 フォエは少しだけ後を振り返りながら答える。


「私には、少し先の未来が見えるんだ」


「未来?」


「うん。数秒先、長くて数分先。それくらいなら、私には見えるんだよ」


 ライラは走りながら息を呑む。


「そんなことが出来るの?」


「世間では悪魔だのなんだのって言われてるんだから、これくらいは出来て当然だよ。それに、契約者の願いの実現の為に、全力で動くのが私の役割の一つだからね」


 そう言ったフォエの声は、いつもの透き通った響きに一瞬だが戻っていた。


「私の指示通りに動けば、君は生き延びる確率がぐっと上がる。だから、考えるより先に私の言葉に従って欲しい。ただ、一つだけ懸念点がある。今回のこの襲撃の未来を、私は見る事が出来なかった。だから、絶対的に安全とも言い切れないんだ。それでも、君が単独で動くよりはずっとマシだよ」


「……分かった」


 ライラは頷いた。

 フォエの言っている事は紛れもない事実だったからだ。


 けれど同時に、心のどこかで彼女は思った。


 契りの仔は、この獣は、自分が思っているよりもずっと、強大で大きな概念的な存在なのかも知れないと。

 自分はひょっとして、とんでもないモノと契約を交わしてしまったのでは無いかと。


 そう思ったが、ライラは口には出さなかった。

 今は何よりも生き延びる事が優先だから。


「次! その家の角を右に曲がって!」


「分かった!」


 等と話しながらフォエの指示通りに動いていると、道の先に夜使徒の影が見えた。

 二体の夜使徒はこちらに気付かずに、別の方向を向いている。


「待って、ライラ!」


 フォエが低く囁く。


「あの先を抜ければ北の道に出る。そうすればもう、事実上は村の外だ。夜使徒が向こうを向いている間に、通り抜けよう」


 ライラはその言葉に頷き、息を殺し抜き足差しで歩き始める。


「ねえ、お姉ちゃん」


 そんな時。

 不意にニナが口を開いてライラの名を呼んだ。


「ごめんね、ニナ。今は静かにしててね」


 ライラは今、かつて無い程に集中力を要しているので、最愛の妹と言えども、構ってやることは出来ない。

 けれど――


「さっきからお姉ちゃんが話してるその黒いの、なに?」


 ライラはその一言を聞き、思わず体勢を崩して足元に転がる枝を踏み折ってしまった。

 乾いた音が周囲に大きく響き、夜使徒はその音のした方向を振り返る。


 ライラは凍り付いた。

 ニナを抱える腕に、無意識に力が籠もる。

 ニナも、姉の身体の緊張を察してか、息を殺した。


 夜使徒の顔のない頭部が、こちらを向いていた。

 無数の目が、口の中からライラ達のいる方向を探っている。


「動かないで、ライラ」


 フォエの声が足元から、囁くように響いた。


「物陰に居る限り、夜使徒は私達の姿を捉えられない。アイツラは夜に生きるくせに、肝心な目が退化してる能無しだから、音しか聞こえない。じっとしていれば見過ごすだろう」


 ライラは頷くことすら出来なかった。

 ただ、息を止めた。


 ニナも姉の腕の中で震えながら、目を閉じた。


 数秒の沈黙。


 夜使徒はしばらくこちらを向いていた。

 しかし、聖歌のような声を低く漏らすと、また別の方向を向く。


「……行こう。今のうちだ」


 フォエの囁きに、ライラは安堵の息を漏らした。


 彼女は今度こそ足音を立てないように、夜使徒の背後を抜けて行く。


 それからしばらく歩いた後、ライラ達は再度走り始める。

 フォエは走りながら、低く呟いた。


「それにしても驚いたよ。視線を感じてはいたけど、君には私が見えているんだね、ニナ」


 その声はライラに向けたものではなく、ニナに向けたものだった。

 ニナはライラの胸の中で、フォエを見つめながら頷いた。


「うん。黒くて丸い毛玉がずっと見えてたよ。ふわふわしてて可愛いね」


「ふふ、可愛いか。ありがとう。初めて言われたよ」


 フォエの声には、微かな笑いの気配があった。


「君は面白い子だね、ニナ。普通の人間に私の姿は見えない。声も聞こえない。なのに君は両方とも認識できる」


 ニナは首を傾げる。


「変なの? みんな見えるんじゃないの? だってお姉ちゃんも見えてよ?」


「いいや、君だけだよ。ライラは君とは違う理由で私の事が見えているんだ」


 フォエはそれ以上、説明しなかった。

 しかし、その声には何か、深い興味のような響きがあった。


 ライラは二人のやり取りを聞きながら走っていた。


 しかし、考える余裕は、もう、なかった。


 路地を抜けた先に、村の北の道が見えたからだ。

 その先には村の出口の石組みが、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。

 そこを抜ければこの地獄から生きたまま出られるのだから。


「あと少しだよ、ライラ!」


 フォエの声が励ますように響いた。


「あと、少し……」


 ライラは最後の力を振り絞って足を前に出す。


 肩の筋肉が悲鳴を上げる。

 足は巨岩でも引き摺っているのか、という程に重い。

 肺は燃えるように熱い。


 しかし、彼女は走った。

 ニナを抱えたまま、北の石組みを超える為に。


 これで、やっと――


 そう、ライラが安堵して気を緩めた時。

 突然、背後から巨大な気配が迫ってきた。


「ん――?」


 ライラは走りながら振り返る。

 するとそこには、広場で見た巨大な使徒が、複数の夜使徒を従えて、一直線にこちらに迫って来ていた。


 ぐにゃぐにゃと形が変わる巨躯(きょく)から、十数本の触手が地を這うように伸びていく。

 その触手は全て、ライラに向かって信じられない速度で伸びていた。


「フォエ!」


 ライラは叫んだ。


「走れ、ライラ! あと、少しだ!」


 フォエの声も切迫していた。


 ライラは石組みに向かって、最後の力で駆ける。


 石組みまで、あと十歩。

 あと八歩。

 あと五歩。


 もう少し。


 けれど、不幸な事に、巨大な使徒の触手は更に速かった。


 触手の一本はライラの足元に伸び、彼女の足首に触手が絡みつく。

 ライラは為すすべも無く転倒した。


「ニナ!」


 それに伴いライラの腕から、ニナも地面に転がり落ちる。


「お姉ちゃん!」


 ニナは痛みに耐えながら、泥まみれで叫んだ。


「離して……!!」


 ライラは地面に倒れたままもがく。


 しかし、足に絡みつく触手は彼女を放さない。

 その上、別の触手がまでもがライラの胴に絡みついて来る。


 ライラの身体は、広場で兵士が殺害された時と同じ様に、宙へと持ち上げられた。


 使徒はそのまま彼女を固定し、巨躯を動かしながらライラの目の前に迫る。


 使徒とライラの距離が数メートルまで迫った所で、無数の目が見開かれライラを見た。

 同時に、無数の口も彼女に向かって開かれる。


「この……!! 離せって!」


 ライラは腰の斧を必死に抜き、触手の一本に斧を振り下ろす。

 彼女の振った斧の刃は見事、触手に食い込んで行く。


 しかし、触手は斧の刃の形に沈んだだけで、傷一つ付いていない。


 逆に、斧が触手に絡め取られてライラの手から奪われてしまった。


 ライラは武器を失い、抵抗する術を完全に無くす。

 巨大な使徒は好機と言わんばかりに触手を用い、ライラの身体を締め上げる。


 彼女の肋骨は音を立てて軋み、稀に骨が砕ける音が響いた。


「うっ……。あっ……」


 彼女は息ができなかった。


 対して巨大な使徒は、ライラを拷問し始めた。


 使徒の別の触手の一本が、その先端をぐにゃりと変形させ、先端が螺旋状に捻れていく。

 やがてそれは、まるで錐のような、ドリルのような形へと変わって行った。


 その触手はライラの右肩に向かって射出される。


「あっ……。あぁぁっ!」


 ライラの右肩に、ドリル状の触手の先端が突き刺さった。

 変形した触手は肉を抉り、骨を削り、螺旋の動きでライラの肩の内部を掻き回した。


 血がライラの肩から勢いよく噴き出し、使徒の肉体へと掛かる。


 巨大な使徒はそれを見るや否や引き抜き、また別の場所に突き刺した。

 次に狙われたのは、健康的な左の太腿だ。


「いっ……!? あ、あぁぁっ!」


 ライラの足からまたもや血が噴き出る。


 使徒はそれを見て笑っていた。

 表情は分からないが、そう見えた。


 巨大な使徒は、ライラの肉体を苛んで楽しんでいるのだ。

 無数の目がライラの苦痛を観察し、何を刺激すれば、どういう反応が返ってくるのか。

 それをただ、使徒は楽しんでいた。


 痛みと出血に耐えられず、次第にライラの意識は薄れ始める。


「お姉ちゃん!」


 ニナは地面で叫んでいる。

 彼女は立ち上がろうとしていた。


 しかし、足が震えて立てていない。


 彼女は地面に座り込んだまま、姉の方を見つめて泣いていた。


 ライラは化物の触手に拘束されたまま、ニナの方を見る。

 既に半分ほど、彼女の視界は霞んでいた。


「ニナ……」


 ライラの声は掠れていた。


「来ないで……」


「お姉ちゃん!」


「走って……。石組みの、向こうへ……! 村の外へ!」


「やだ!」


 ニナは涙を流し、顔が皺くちゃになっている。


「やだ、お姉ちゃんも、一緒に……!」


「いいから、走って!」


 ライラは化物に締め上げられたまま、最後の力で叫ぶ。


「ニナ! 行って! お姉ちゃんもすぐに行くから!」


 それは、明らかに、嘘だった。

 自分はもう助からない、助かりっこない。

 しかし、それでも、ライラはそう叫んだ。

 大切な妹を、守る為に。


「フォエ! ニナを連れて行って! どこでもいい! 遠くに!」


 フォエはしばらく答えなかった。


 黒い毛玉の獣は、ライラとニナの間で立ち尽くしていた。


 それから、彼は意を決した様に応えた。


「……それが、君の願いなら」


 フォエの声は、いつもの透き通った響きに、わずかな重さを含んでいた。


「さようなら、ライラ。短い間だったけど、楽しかったよ」


 フォエはニナの方へ駆け寄って言う。


「ニナ、行くよ」


「やだ! お姉ちゃんが!」


 けれど、ニナは地面に座り込んだまま首を振った。


「お姉ちゃんと一緒じゃないと、行かない!」


「ニナ」


 フォエの声は低く、しかし強かった。


「君の姉さんは、君に生きていて欲しいんだ。だから、行こう」


「やだ!」


 ニナはそれでも尚、動かなかった。


 その時。

 フォエの黒い毛玉の身体が僅かに震える。


 子犬ほどの大きさだったその身体が急に伸びたのだ。

 フォエの輪郭が引き伸ばされ、四肢はしなやかな獣の形に変わっていく。

 顔があるのか無いのか分からなかった顔には、目鼻口がくっきりと形成された。


 そして、羊に似た形の黒い獣は、狼に似た形の何かに変わった。


 ライラほどの大きさはないが、ニナを背に乗せる事の出来る大型犬ほどの体躯。

 フォエはその身体でニナの服の襟元を咥え、村の外へ走り出した。


「やだ! 離して!」


 ニナは激しく暴れる。


 けれど、フォエは決して彼女を放さなかった。


「お姉ちゃん! お姉ちゃーん!!」


 ニナの叫び声が、フォエに引き摺られながら響き続ける。


 ライラは使徒の触手に拘束されたまま、その光景をただ見ていた。

 そして最後に、涙が零れ落ちる。


「ありがとう、フォエ……」


 彼女は感謝の言葉を低く呟いた。


 しかし、その直後。


 巨大な使徒の周りに居た夜使徒の一体が、ニナとフォエの方を向く。

 顔のない頭部の中央が開き、口の中の無数の目はニナを捉える。


 夜使徒は聖歌を歌いながら、ニナに向かって、その異常な長さの手足を地を這うように動かし、駆け始めた。


「やめて!」


 ライラは絶叫する。


「ニナは触れないで!」


 しかし、夜使徒は止まらない。


 フォエは後方を気にしながら走る。

 ニナを咥えたまま最大の速度で、石組みに向かって駆ける。


 しかし、夜使徒はもっと速かった。


 ニナを口に咥えているフォエは、本来の機動力を発揮できなかったのだ。

 黒い獣一頭なら、容易く逃げ切れただろう。


 しかし、ニナという重みを抱えたまま、夜使徒の追跡を振り切る事は不可能だった。


 十秒もしない内に夜使徒の長い手が、フォエの背中に迫り、遂に、夜使徒の長い手がフォエとニナの方へ振り下ろされる。


 その一撃はフォエの背中と、ニナの細い身体を、一度に引き裂こうとしていた。

 ライラの目線からは既に、夜使徒の手とニナとフォエの背中は重なっている。


「ニナ!!」


 ライラは巨大な使徒の触手に拘束されたまま絶叫した。


 大切な妹の死はもう裂けられない。

 こんな結末を迎える為に、自分は契約をしたのでは無い。

 こんな事の為に、村の人達や両親は、惨殺された筈が無い。


 そう、心の中でライラが、この世の全てを呪いかけたその時。


 それは余りにも突然の事だった。

 突拍子がなさ過ぎて、死の間際に自分の脳が作り出した幻覚でも見ているのかと、そう思うほどの事が起こる。


 夜使徒の身体が突如として真後ろに、巨大な使徒の方へと、大砲の如く吹き飛んだのだ。


 何が起きたのか、ライラには分からなかった。

 ニナにもフォエにも、使徒達でさえ理解が追いつかず、思考に空白が生まれる。


「ギェ――?」


 信じられない速度で吹き飛んだ夜使徒は、その勢いのままに巨大な使徒の巨躯に激突する。

 夜使徒は衝突した瞬間、肉と骨が砕け散る音を立てて、文字通り粉々になった。


 しかし、それで終わりではなかった。


 夜使徒が砕け散った衝撃で、化物の巨躯もまた、後方へ吹き飛んだ。

 それはまるで、指向性を持った爆弾の様に機能していた。


 巨大な使徒は、十数本の触手をばたつかせ、村の家々を薙ぎ倒しながら宙を飛んでいく。


 建物が崩れ、屋根が落ち、その直線上に居た数多の夜使徒が巨体に潰され、使徒達の混乱した叫び声が連鎖的に響いた。


「!?」


 ライラを拘束していた触手も、化物が吹き飛んだ衝撃でライラを離す。


 彼女の身体が地面に落ち、ライラは痛みに咳き込みながらも上半身を起こそうとする。


「何、が……」


 痛みは彼女を現実に引き戻すも、その視界は霞んだまま。

 肩と太腿から流れる血は、依然として身体から滴っていた。


「血、止めないと……」


 止血をしなければいけないが、出血と痛みが酷くて思考が纏まらない。

 幸か不幸か、助かったか否かは既に分からない。

 身体も上手く動かせず、再びライラは倒れ、意識を失った。



 ――――



 どれだけの時間が経ったのだろうか。

 数日にも感じるし、数秒にも満たない僅かな時間にも感じた。


「ちゃ……。お姉ちゃん――!」


 小鳥の様に高く美しく、綺麗に響く声につられて、ライラは重い瞼を開ける。

 するとそこには、逃げおおせた筈のフォエとニナがいた。


「良かった……! お姉ちゃん生きてた……!」


「どう、して――」


 ライラが手を伸ばしてニナを撫でようとした時、彼女は違和感に気付く。


「包帯と、薬草……? この香り、もしかしてアイデルシアの葉――」


 巨大な使徒に蹂躙され、傷付き、汚れた自身の身体が、薬師のライラから見ても完璧と思える程な処置を施されていたのだ。


「誰が……」


 ニナはまだ、包帯を巻く事はともかく、傷口の状態に応じた最適な薬草を選ぶ事など、到底出来る筈が無い。

 その証拠にニナは未だに泣きじゃくっているからだ。


 ならばと思い、ライラはフォエを見る。


 フォエはいつもの黒い毛玉状態では無く、黒い狼の様な見た目をしているが、依然として獣である。

 知識があろうとも、獣の手先では繊細さを要求される。

 怪我人の処置など出来る訳が無いだろう。


 フォエはそんなライラの内心を悟ったかの様に、ライラに言った。


「勿論、君の治療をしたのは私では無いよ。したくても私には出来ない。契約云々を抜きにしても、単純に不器用だからね」


「じゃあ、誰が……?」


「彼さ」


「彼?」


 ライラはフォエが向いている方向を見る。

 そこには、使徒達とライラ達の間に、取り分け使徒達に立ちはだかる様に、一人の男が立っていた。


 彼は黒い外套の中に、申し訳程度だが金属製の鎧を着用している。

 左の腰には両手剣、正確にはロングソードを下げていた。


 月の光の中、男の輪郭が浮かび上がる。


 髪は、金髪と白髪が、縞模様のように混在している。

 とても凛々しく男らしい顔立ちをしているが、どこか優しさを感じさせる顔立ち。

 歳は三十後半から四十始めの間に見えた。


 何よりも特徴的なのはその瞳である。


 左右で瞳の色が違うのだ。

 左目は青く一般的な色なのに対し、右目は宝石の様に深く輝く綺麗な赤色をしていた。


 男は、ライラ達に背を向けて立っている。


 彼の視線の先には、広場の方から新たな夜使徒達が、聖歌を歌いながらこちらに向かって駆けてくる姿があった。


 十数体、あるいは数十体。


 その先からは先程、吹き飛んで行った巨大な使徒も近づいて来ている。


 男はその光景を静かに見据えていた。

 手にはまだ、ライラの治療に使ったのであろう、薬草の汁で薄く緑に染まった布が握られていた。


 彼はその布を、何の躊躇いもなく地面に捨てる。


 そして左の腰の剣に、ゆっくりと手をかけた。


 月光の下、剣が鞘から引き抜かれた刃は、月の光を反射する。


 男は後を少しだけ振り返ると、ようやく口を開いた。


「すぐに戻る。待っててくれ」


 その声は初めて聞くが、何故か、妙にライラを安心させる不思議な声だった。

 自分の父と同じく、どこか不器用さを感じさせるからだろうか。


 男は一歩、前に進み出る。

 そしてそのまま、迫り来る夜使徒の群れに向かって歩いて行った。

 

 自分が望む結末の為に。

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