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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

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第8話 『虐殺の日』

「何の音?」


 不思議に思ったライラは振り返った。

 振り返った先には、遠くの空に赤い光が、薄く揺らいでいる。


 それは炎だった。


 村のどこかが燃えている、等と云う生易しい規模では無い。

 村の全域が激しい炎に包まれており、逃げ場など無い地獄と化しているのが、遠目でも分かる程であった。


 風は、その光と熱と火の粉と共に、別の音を運んで来る。


 悲鳴。

 女の悲鳴。

 子供の泣き声。

 そして、聖歌のような、人の声には似ても似つかぬ響き。


 ライラは一瞬で背筋が凍りついた。


「ねぇ、フォエ」


 彼女は低く、その名を呼んだ。


 すると、ライラの傍に黒い毛玉の獣が現れる。

 どこから来たのかは分からない。

 ただ、横を見るとフォエはそこに居たのだ。


 契りの仔、フォエ。

 目が無く、子犬ほどの大きさで、羊に似た形の獣。


 フォエはライラの足元に座って言った。


「なんだい……。とは、言うまい。君が何を聞きたいのか、私には分かるよ。まぁ、私も聞きたいくらいの事が起きている訳だけどね」


 フォエの声はいつもより、わずかに重かった。


「フォエ、あれは何。なんで、私は村を出たのに。どうして村が、炎が――」


 ライラの声は震えていた。

 彼女は言葉も思考も上手くまとまらず、過呼吸気味になり、前屈みになっている。


「あれは夜使徒だね。村は恐らく、奴らに火を着けられたんだろう。本当に姑息なゴミ虫だ。情けない」


 そのの声には僅かな侮蔑が含まれていた。

 フォエは炎に包まれる村をしばらく眺めた後、ライラの方を向く。


「でも、おかしい」


「おかしい?」


「うん。太陽は沈み切ったとは言え、まだ夕方だ。完全な夜じゃない。夜使徒は普通、完全な夜にしか出てこない。それに……」


 フォエは一旦そこで言葉を切り、続けた。


「それに、君はもう村を出ている。烙印を持つ君が村にいないなら、夜使徒が村を狙う意味が無い。なのに、なぜ……」


「フォエ。これは、何なの。何が起こってるの!」


「私にも分からない。こんな事は今までで一度も無かった。契約のルールに、こんな内容は含まれていない」


 それ以上はフォエも知らないとライラは早々に見切りをつける。

 それと同時に、彼女は西の道を逆方向に、村に向かって全力で走り出していた。


「待つんだ、ライラ!」


 フォエは、ライラの傍にぴたりとついて、共に駆けた。

 子犬ほどの身体が、ライラの足元を軽やかに駆けていく。


「戻るのは危険だ! 夜使徒は君を狙う! 君に戦う力は無いんだ! 行くだけ無駄なんだ! だから戻るんだ!!」


 しかし、ライラは止まらず叫ぶ。


「うるさい!! どうせあなたは何もしてくれないんだから黙ってて!!」


 村にはまだライラの家族が居る。

 父と母と妹が残っている。

 だからライラに、戻らない、という選択肢は初めから存在しなかった。



 ――――



 石組みの境界、村と街道との境目までライラは全速力で戻った。

 越える時、夜使徒の聖歌のような声が、すぐ近くで聞こえて来た。

 それでも彼女は構わず村の中に駆け込んだ。


 フォエはそんな彼女の傍を相変わらず駆けている。


「はぁはぁ――」


 息を切らしながらも足を止めず、ライラはひたすら走る。

 そうして村の中心部まで行くと、地獄がそこに広がっていたのだ。


 まず、村の中央広場が激しく燃えていた。

 神官団の天幕は火に包まれ、馬は首を切られて地面に転がっている。

 神官達も多くが遺体となり、その血と内臓を地面にばら撒きながら、無造作に散らばっていた。


 そして何よりライラの目を引いたもの。


「なに、アレ」


 広場の中央に化物が立っていたのだ。


 それは巨大だった。

 付近に居る夜使徒の十倍はあろうかという巨躯(きょく)

 だが、その形は定まっておらず、ぐにゃぐにゃと形が変わっている。


 時に蛇のように、時に(たこ)のように、時に人のように。


 顔は無数の口で覆われ、目もまた無数に散らばり、それぞれが別々の方向を見ている。

 そんな化物の身体からは、十数本の触手が伸びていた。

 触手の一本一本は生き物のように、自在に動いている。


 ライラは咄嗟に恐怖で近くの物陰に隠れた。

 そして、隣にいるフォエに尋ねる。


「ねえ、あんな化物も使徒なの!?」


「反応としては使徒に間違いない。下位の使徒、夜使徒より一つ上に階層に位置する存在だ。でも、あれはおかしいね。下位の使徒にしてはとんでもない魔力量だ。中位……。いや、上位使徒くらいの力がある」


「どうすれば良い? あいつの目を掻い潜って家まで行ける?」


「行ける。でも、その為には――」


 そこまで言うとフォエは黙り、身体を広場に居る巨大な使徒の方に向ける。

 ライラもそれにつられて広場を見た。


 そこではまだ、生き残った神官達と護衛の兵士達が巨大な使徒に立ち向かっていた。

 彼らの武器を握るては震えていたが、ソレを隠すように雄叫びを上げている。


「おおおおおお!!!」


 兵士の一人が全力で、巨大な化け物に向かって突進していく。

 彼は素人のライラが見てもかなりの実力者で、隅々まで無駄無く鍛え上げられているのが分かる程。


 相手が普通の人間だったならば、勝負は一瞬で付き、兵士の男が勝った事だろう。


 だが、相手は人間では無い。

 故に結果は残酷だった。


 巨大な使徒は触手の一本を高速で動かし、兵士の喉元に突き刺し、貫き、そして捻った。

 兵士は目を見開き血を吐きながら、手に持った槍を地面に落とす。

 そして、男の身体がいとも容易く宙に持ち上げられ、近くの建物に投げ捨てられた。


 その衝撃は凄まじく、男の身体は半分以上潰れ、建物と共に崩れて行く。


「う、あ、あ……。うわあああ――」


 遂に耐えかねた一人の神官が背を向け逃げ出そうとする。


 だが、巨大な使徒の触手の一つが、その神官の身体を横に払った。

 神官の身体は二つに千切れた、血が地面に広がっていく。


 一人、また一人と、そうやって兵士と神官は蹂躙された。


 巨大な化物の周りでは、夜使徒達が聖歌を歌っている。


 夜使徒の姿は形容し難いものだった。

 手足が異常に長く、肘から先、膝から先がそれぞれ人間の身長ほどもある。

 その異常な手足を、関節を無視した方向に曲げ、地を這うようにも、宙を漕ぐようにも、動かして移動していた。


 加えて、夜使徒達には顔が無かった。


 頭部の中央の口と思われる場所が大きく裂けており、口の中には無数の目が散らばっている。

 夜使徒達は、その大きな口で聖歌のような声を絞り出していた。

 低く、長く、人の声には似ても似つかぬ響きを轟かせながら。


 彼らはその悍ましい全てを用いて、生者も死者も、等しく貪っていた。


 井戸端で。

 あの皺だらけの手で、幼いライラの頭を愛おしそうに撫でた老婆は、夜使徒の長い手に絡め取られていた。

 彼女の細い身体は宙に持ち上げられ、夜使徒は大きな口を開いた。


 老婆は声を上げず、ただ目を閉じた。

 夜使徒は無抵抗な彼女をそのまま呑み込み、咀嚼した。

 それで、彼女の生は終わりだった。


 石組みの絵を描いていた、あの幼い子供達。

 地面に枝で絵を描きながら、得意げに胸を張った、あの子供達。

 彼らは家の戸の前で、寄り添うように倒れていた。

 夜使徒の一撃で二人とも、一度に屠られたのだろう。

 彼らの小さな手の中にはまだ、絵を描いていた枝が、握られていた。


 神官団に頭を下げていた村長。

 その村長は、広場の端で両膝をつき、両手を組んで祈っていた。


「お助けくださ――」


 村長の祈りが途中で途切れる。


 夜使徒の長い手の一撃が、彼の首を後ろから打ったのだ。


 村長の身体は地面に倒れ、彼の祈りは誰にも届かず掻き消えた。


 ライラはそれらを見ていた。

 余すことなく、全てを目に焼き付けてしまった。


 その現実は十六歳の成長途中の少女には過剰過ぎた。

 目に映るものを心が処理できていなかったのだ。


 どうすれば良いのか分からなくなってしまい、半ば放心状態となったライラ。

 そんな彼女に向かってフォエが叫んだ。


「今だよ、ライラ! 走るんだ!」


「!?」


 突然の大声で命令をされた彼女は、自分の意志と無関係に走った。

 走ってしまった。

 大切な仲間、家族でもある村人達を見捨て、自分だけ生き残る為に囮にして逃げたのだ。


 しかし、しばらく走ったところで足が(もつ)れた。


 地面には村人の遺体が転がっている。

 顔は知っているが、しかし名前は思い出せない、村の男だった。


 彼の腹は開かれており、内臓が地面へ散らばっている。


 ライラの胃の中身が激しく上がってくるのを感じ、口を押さえ、その場でしゃがみ込みそうになる。


「うっ……」


 しかしライラは(こら)えて走り続ける。

 胃の中のものを吐き出さない様に、喉の奥に押し戻しながら。


「ライラ、息を吐いて! 吸っちゃ駄目だよ!」


 フォエの声が傍で響く。

 ライラは頷きながら、黒い獣の言う通りに息を吐いた。


 吸うのではなく、ただ、吐く。

 そうやって、辛うじて吐き気を抑えたライラに、どっと今までの疲労が押し寄せて来た。

 彼女の足は次第に速度を落とし、遂には、止まらぬまでも歩きへと変わって行く。


 それでも、決して彼女は歩みを止めなかった。

 ここで止めてしまえば、もう二度と自分は動き出す事が出来ないと、心の何処かで分かっていたからだ。


 そうしてしばらく、呼吸を整えながら歩いていると、突然足元に何かが転がって来る。


「これは……」


 それは神官達の帽子、白い鳥の嘴を模した物であった。


「一体どこから――」


 ライラがその帽子を手に取ろうとした、その時。

 彼女の背後で、低い声が聞こえた。


 彼女が振り返るとそこでは、燃え盛る広場の中心で、ヨアシムが先の巨大な使徒と対峙していた。


 ヨアシムは頭を狙われた様で、白い鳥の帽子があった所は、少し皮膚が切れて出血していた。


 遠くにいるライラには、彼が正確には何を言っているのかは分からない。

 けれど、胸の前で両手を組み、唇を動かし何かの詠唱をしているのは分かった。


 それは、古い神官団の祈祷(きとう)だ。

 神成りや人間に仇なす存在を退ける為、神官達が用いる、魔術とは違った門外不出の秘術。


 ヨアシムはそれを以てして、この地に蔓延る不浄の者達を焼き尽くさんとする。


 しかし、それは巨大な使徒からすれば、余りにも遅すぎた。


 巨大な使徒の触手のようなものは、ヨアシムの詠唱が終わるよりも遥かに早く、彼の胸を貫いたのだ。


 心臓を貫ぬかれ、捩じ切られた彼。

 ヨアシムは一言も発せぬまま即座に絶命し、詠唱もまた途切れる。

 彼の瞳から光が消えると共に、触手は彼を地面に投げ捨てた。


 かくして、規則に従って生きてきた男は、規則の外の力で呆気なく死んだ。


 ライラはその光景を見ていた。


 祈祷とは、神官達の中でも高位の者にしか使えぬ、高等な技術。

 それを扱えるヨアシムという男は、間違いなく、この村に居る()()()()()()()()筈だ。

 そんな彼が、路上にいる虫を踏み潰すかの様に、無慈悲に殺された。


 それが意味する事は実に簡単なことである。


「気付かれたよ! ライラ、走るんだ!」


 フォエが叫ぶと同時に、夜使徒の一体がライラの方を向いた。

 顔のない頭部の中央で、無数の目がライラの烙印に気付いたかのように揺れる。


 夜使徒は聖歌を歌いながらライラに向かって、その異常な長さの手足を活かし、地を這うように動かして高速で駆けてきた。


 ライラは恐怖の中、駆けた。

 地獄の中、振り返らずに家へ向かって。


 フォエはその途中、ライラの足元から彼女の肩へと跳び乗る。

 子犬ほどの黒い毛玉がライラの肩の上で、姿勢を低くして、見張るように後方を見て指示を始めた。


「大丈夫! 私の言う通り動けば最悪、君だけは何とかなる思うから!」


「ふざけないで! 私はこんな事の為にあなたと契約したんじゃない! 私の家族も全員助けなさい!」


「君は本当に強欲で強引だね。だからこそ……。いや。もう、そうはならないか」


「ブツブツ一人で言ってないでどうすればいいか教えなさい、フォエ!」


「はいはい。じゃあ、次の家を通り過ぎたら、すぐに左に曲がるんだ。その後、家の壁の少し高い所に斧が深く刺さってる。そしたらそれに懸垂するみたいに飛んで掴まって」


 フォエの声が肩の上から響く。


「分かったわ!」


 ライラは獣の言う事を信じ、家を通り過ぎたら即座に左に曲がる。

 するとそこには本当に、壁の少し高い所に斧が突き刺さっていた。


 大人の男が、何かを斬ろうとして振り下ろしたのだろう。

 斧の柄が、壁から斜めに突き出している。


 ライラは助走をつけて、斧の柄に向かって飛んだ。

 両手で斧の柄を掴み、足を壁に押し付けて、辛うじてぶら下がる。


 彼女は既に息が上がっていた。

 肩の筋肉も悲鳴を上げており、もう、限界だった。


 しかし、それでも彼女は耐えた。


「フォエ、これからどうするの!」


 ライラは肩の上のフォエに、囁くように訊いた。


「五秒、待って」


 フォエの声は至って冷静だった。


「五秒……?」


「いいから」


 ライラは息を殺し、それ以上は何を言わずに頷いた。

 今はもう、フォエを信じるしか、戦えない自分には助かる道はないのだから。


 一秒。

 肩の筋肉が震える。


 二秒。

 手のひらが、斧の柄の上で滑り始める。


 三秒。

 夜使徒の聖歌のような声が近づいてきた。


 四秒。

 角の向こうから、長い異常な手足が見えた。


 そして五秒。


「今だ、ライラ!」


 フォエは叫んだ。


「両足で全体重を下に!」


 ライラは勢い余って、斧を壁から引き抜くと共に、両足を壁から離して一気に下へ落ちる。


 その真下に、ちょうど夜使徒が駆け込んできていた。


 顔のない頭部の中央に、大きな口。

 無数の目。

 異常な長さの手足を、地を這うように動かして。


「わあああああ!!」


 ヤケクソ気味に叫びながら落下するライラ。

 彼女の靴の踵は、夜使徒の頭の中央に叩き込まれる。


 そして余り気持ち良いとは思えない音が響く。


 それと共に夜使徒の頭は潰れ、動かなくなった。

 無数の目は、潰れた口の中で散らばり、本当に薄気味悪い光景が出来上がる。


 ライラは脱力し、斧を握ったまま血の海の中で座って震えていた。


 自分が、何かを殺した。

 いや、夜使徒は、最初から人ではない。

 しかし、それでも。

 自分の足が何かを、潰したのだ。


「ライラ、行くよ。次が来る前に」


 凄まじく早く鼓動を刻む心臓を宥める様に、フォエの声が肩の上で響いた。


「他の夜使徒は気付いていない、今のうちだよ」


「……うん。そ、そうね」


 ライラは斧を握り直し立ち上がった。


 そして、夜使徒の崩れ落ちた身体を跨ぎ、彼女は再び駆け始めた。



 ――――



 夜使徒を撃退して走り続けたライラ。

 彼女は走り続け、ようやく家族が待つであろう家まで戻ってきた。


 けれど、そこにあった光景は、ライラが想像し得る限り最悪の結末であった。


 ライラの瞳に映ったもの。

 それは、燃え盛る愛しの我が家だった。


 屋根は燃え、壁は崩れ落ち、彼女が十六年、暮らしてきた家は瓦礫の山と化していた。


「お父さん! お母さん!」


 ライラは叫んだ。

 しかし、返事は無い。


 彼女は斧を一層強く握りしめ、燃える瓦礫に駆け寄り打ち付けた。

 炎と、降り掛かる火の粉がライラの手を焼き、耐え難い痛みがライラを襲う。

 けれども、ライラは構わなかった。


 そんな折、瓦礫の隙間から何かが見えた。


「嘘……。そんな」


 それは父の手だった。


 その手は薪割りの斧をまだ握っており、斧は焦げた夜使徒の様な何かに突き刺さっている。

 傍には、母の指輪も転がっていた。


 その指輪は血で汚れ、炎の光を反射し煌めいている。


「いやあぁぁ!!」


 ライラは絶叫し、涙を流しながら瓦礫を引き剥がそうとした。

 しかし、瓦礫は少女の身には重すぎた。

 何をどうしようとも動かない。


 手は焼け、火は髪を焦がし、次第にライラを蝕んでいく。


「お父さん! お母さん!」


 ライラはもう一度、叫んだ。

 だが、やはり答えはない。


「ライラ」


 フォエの声が肩の上から重く、低く響く。


「ご両親は、もう……」


「うるさい! 黙れ!!」


 ライラの声には初めて、彼女自身が驚くほどの激しさがあった。


 それからどれだけの時間、瓦礫を撤去しようとしただろうか。


 何かを悟ったライラは膝をついていた。

 彼女の手は赤く腫れ上がり、血が出て、至る所に焦げ跡が付いている。


 ライラは瓦礫の前で、額を土に押し付けた。


 すると、自然に涙が零れ落ちる。


 しかし、嗚咽(おえつ)は出なかった。

 ただ、震えるだけだった。


「私が、もっと早く来ていれば……」


「君が早く来ていても、結果は同じだったよ」


 フォエの声は静かだった。

 静かなまま、残酷な事実を突きつけてくる。


「君は烙印を持っている。夜使徒は、君を優先的に狙う。君がここにいたら、君も死んでいた」


「だったら、私が死ねば良かった……」


「ライラ……」


 ライラの拳が土を叩く。


「私が、村を出なければ……。こんなことには……!」


「それも違うと思う」


 フォエの声が僅かに揺らぐ。


「この状況は契約のルールから外れている。君のせいじゃない。何か、別の力が働いていると考えるべきだろうね」


「別の力……?」


「うん。そう考えるのが妥当だ。これは普通じゃない。異常な事態だ。今すぐ逃げた方が良い」


 その時。

 フォエがライラに逃走を提案したその時、近くの小さな倉庫の方から、声が聞こえた。


「お姉ちゃん……?」


 それは、小さく震える声だった。


 ライラは顔を上げ立ち上がると、地面に置いた斧を握り直し、倉庫の戸を開ける。


 その中にはニナが居た。

 彼女は倉庫の奥で、毛布に包まれ震えていた。

 三つ編みには、白い花がまだ差し込まれている。


 しかし、その顔は青ざめ、涙で濡れていた。


「ニナ」


 ライラは斧を傍に置き、膝をついてニナを抱きしめる。


「お姉ちゃん」


 ニナの声は小さく、掠れていた。

 彼女はライラの腕の中で震え続けている。


「見たの。倉庫の隙間から、見ていたの。怖くて、声を出せなかったの」


 ニナは、ライラの胸に顔を埋めて泣いた。


「お父さんが斧で、化物を切ってた。でも、たくさん来て、お父さんは……」


 ライラは何も言えなかった。

 だから、ただニナを強く抱きしめた。


「お母さんが、私の名前を呼んでた。でも、私。お母さんの言う通り隠れてた。出て行きたかった。でも、出て行けなかった。怖かったの」


 ニナはライラの胸元を強く引っ張りながら、絞り出すようなか細い声で言う。


「私のせい。私が、隠れてたから……」


「違うわ、ニナ。違う。貴方のせいじゃ無い」


 ライラははっきりとそう告げた。


「あなたは、お父さんとお母さんの言いつけを守ったの。それが、二人の最後の願いだったのよ」


 ライラの目から涙が零れ落ちる。

 しかし、彼女はその涙を止めた。


 今は泣いている時ではない。

 夜使徒も巨大な使徒もまだ村にいる。

 ニナを連れて、一刻も早くここを離れなければならない。


「ニナ。立てる?」


「……うん」


「逃げよう。一緒に」


「お父さんとお母さんは……」


 ライラは、しばらく答えなかった。

 答えられなかった。


「……後で来よう。それで、ちゃんとお墓を立てよう。皆の分も」


 彼女は嘘をついていた。

 ニナを救う為の、最後の優しい嘘を。


 ニナも何かを察したように、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、ライラの手を握り返すだけである。


 ライラは、斧の柄を腰の帯に挟んで、両手を空けた。

 そしてニナを抱き上げる。


 妹の細い身体は軽かった。

 あまりにも儚く、軽かった。


 ライラはそうして倉庫を出る。

 するとフォエが、ライラの肩からまた足元に降りた。


 子犬ほどの黒い毛玉はライラの前を駆けていく。


「こっちだよ、ライラ。北の道」


 フォエの声が足元から響いた。


「夜使徒達はまだ南の広場の方にいる。北の道なら抜けられる筈だ」


 ライラは頷くと、ニナを抱えてフォエの後を走り始めた。


 燃える村の中を、彼女達は駆けていく。

 ライラの背後からは夜使徒の聖歌が、依然として響いていた。


 腰の帯に挟まれた斧の柄は、ライラの太腿に重く触れている。

 その重みはライラに『生きろ』と、そして『ニナを助けろ』と告げているようだった。

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