埼玉合宿① 新たな1歩
「あぁやばい 時間ないったら 時間ない なぜこの時期に 合宿をしたのか」
栃岡翔、心の叫び。
我ながらいい歌だ。6畳一間の少し狭い旅館の1室は元物置。そのわびしさにふさわしい冷たい空気が淀んでいた。
まったく、暖かいところを選んだというのに夜は冷えるものだな。関東平野のど真ん中は、3月下旬はまだまだ冬の雰囲気が残っている。
卒業式の1週間後から駅伝部は関東の高校と強化合宿ということで、ここはるばる埼玉県熊谷市まで来ていた。新潟はいまだに微妙に雪が残っていたり、ていうかそもそも雪予報が続いていたりするので、合宿でも行くか!となって埼玉県まで来てしまった。
3ヶ月前……都大路で女子初出場ながら11位の大躍進を成し遂げた我々二ノ丸高校駅伝部。その大躍進は全国的にちょっとしたニュースとなり、しばしば全国の強豪高校や大学、実業団に声をかけられることとなった。
今回埼玉県熊谷市に来ているのも、埼玉の駅伝の名門・与野坂本高校、そして熊谷学院高校から声をかけられていたためだ。与野坂本は前回の都大路に出場し10位、熊谷学院は都大路こそ出られなかったが埼玉県予選で与野坂本に10秒まで迫る力走を見せた。埼玉県はこの与野坂本と熊谷学院、あとは明英大朝霞台が強いという状況。そのうち2校と一緒に練習できるなんて幸せだな。
そんなレベルの高い合宿に二ノ丸高校が呼ばれた。と言っても、うちは女子大生デビューを成し遂げた京子と、私大トップの早大を蹴って浪人しちゃった信乃という選手が卒業しただから人不足なのだ。来年度入学の栃岡朱とかいう、誰かさんの従妹が加わったくらい。
全国に出たとはいえ、相変わらずうちの高校は厳しかった。
頭を抱えていると、旅館の浴衣を着た美女が部屋に入ってきた。
「おつかれー。お風呂あがったよー」
吉川朝陽。二ノ丸高校の養護教諭であり、駅伝部副顧問であり、俺の高校時代の元カノである人物。
宿舎の部屋数の都合で、費用を安く抑えるために彼女と同じ部屋になってしまった。といっても、「ここここんな高スペック女子といいいいい一緒に寝るるるだなんてててて」と言われてしまったので、寝るときは俺が玄関に布団を敷いて寝ることとなった。相変わらず俺の境遇はひどい。
風呂上がりの朝陽は肌がつややかで、やはりいくら高校時代からの友達とはいえ、20代も後半になるとどうしてもその……大人の女っぽさを感じてしまう。
「ちょっと、翔ったらまだ仕事してたの?」
「く、クラスの仕事が終わんなくってさ」
「やっぱり担任やるって大変なのね」
朝陽が言った通り、今年からは俺はクラス担任をやることになった。
去年は駅伝部の顧問専任という具合で学校運営の仕事なんて一切しなかったが、都大路が終わってから教頭が俺をめちゃくちゃ信頼してくれるらしく「来年からでいいと思ってたけど、今年からもう担任やっちゃおう」と言ってくれた。
その言葉自体は嬉しかったし、ついに俺も担任か!教師っぽい!と思ってたけど、担任というのは意外とやることが多くてびっくりしている。事務的なものは全て学校の事務員がやってくれてはいるが、進路希望だったり保健関係だったり、生徒の面倒を見ることが色々ある。今だって、エクセルをカチカチやりながら座席表を作っていたのだ。
「そういえば、翔のクラスにはどんな子がいるの? 駅伝の子は?」
「そうだな、今年駅伝部目的で入ってきた選手は1人も預かってないな」
「そうなの? せっかく担任としても面倒見れそうなのに」
「担任も顧問も同じ教師だと、人間関係が固定しちゃうからさ。まだ1年生だし、色んな先生から教わった方がいいさ」
「うわ、なんか教師っぽいこと言ってる……」
「うるさいな! 俺だって教師だし!」
なめるなよ吉川朝陽… 俺だって都大路に出場したチームの監督なんだぞ。
今年は駅伝部も全国入賞を目指している。去年よりももっと活躍しなきゃいけないんだ。
「まぁそうは言うけども」
朝陽は少し言いたそうな表情をしたが、一瞬こらえた様子だった。
「あんまりガツガツしてるとみんなの気持ち離れちゃうよ。意外と都大路でうまくいったからプレッシャーあるみたいだし」
化粧水を顔に付けながら、朝陽はそう言った。
俺はその言葉を聞いて、本当にそうかなと思った。あいつら、いつも何も考えてなさそうに見えるし……
―――――翌朝、7時。
食事会場には二ノ丸高校駅伝部の一同が集まっていた。与野坂本高校と熊谷学院は学校の施設を使って合宿しているので、朝はうちしかいない。
ブュッフェ方式で取り分けた美味しそうな料理を目の前に、駅伝部の6人はまっていた。
漣、涼風、千香、稲穂、サクラ、そして朱。
俺と朝陽が来た時には、また漣と涼風がまた朝からくだらない会話をしていた。
「ねーねー、姉貴~。チョココロネはどっちから食べる派?」
「涼風…… ほんとに朝からしょうもない話するよね」
「だからどっち?」
「尖がった方かな。ほら、最後にチョコが余ってると、なんかうれしいじゃん」
「――――ザコが」
「なにその反応!? じゃああんたどうやって食べるのよ」
「私は尖った方のパン部分を最初にちぎるんだ。そして、チョコのほうからそのパンにチョコをつけながら食べる! 」
「なにそれ……! 涼風、あんた天才? そうすればいつでも同じ量のチョコが味わえる!」
「そうそう! これぞスズカゼ・コロネ理論というのです!」
「さすが私の妹ね! 天才!」
……うわぁ。朝から何言ってるんだこの人たち。
ちなみにチョココロネは、尖がっている方をちぎってから、反対側のチョコが入ってる穴にそのちぎったやつを入れるのが最も正しい(適切な?)食べ方らしい。スズカゼ・コロネ理論よりもちょっと食べやすいかな。
「チョココロネの話はその辺にして、朝食にしよう」
彼女たちは元気よく、いただきまーすと言って目の前の料理を食べ始めた。ほのぼのした雰囲気ながら、食べる栄養はしっかり摂っておく。理想的な合宿の雰囲気だ。
しかしその朝食のなかで浮かない顔をしていたのが1人、いた。
吉村千香。
昨年の秋から駅伝部に加入した現役生徒会長。漣と共に全中駅伝に出たことがあり、既に3000m9分台の力は持っている選手。
しかし、彼女は昨年末から足の調子が良くない。いわゆる「足底筋膜炎」という類のものだ。足のアーチの乱れや疲労などにより、足裏に痛みが走る。最初は気にならないほどだが徐々に激痛となり、ランナーを長期間にわたって悩ませる困った障害だ。
都大路に向けての練習が彼女にとっては負荷が高かったというのも理由だが、治っては走り、また怪我をして……というのを繰り返していた。俺も自分が悩んだことがない怪我でもあり、なかなかいい方向にもっていけなかった。
なかなか選手のある選手、最後のシーズンを目前にしているだけあって、そのプレッシャーが大きいようだ。
体重を気にしているのもあって、彼女はまったく食べるのが進んでいなかった。
「千香、どうした? あんまり食が進んでいないみたいだけど」
「いやー、最近あんま走れていないですし、あんまり食べると太っちゃうので」
「食べないと、怪我用メニューの筋トレやっても筋力つかないぞ」
「そうですけど… うううぅ…………」
やっぱり浮かない表情の千香。めったに弱みなんて見せないのに、今日は朝から珍しい。
さすがにそんな千香を見てか、サクラが心配そうになっている。
「チカ、やっぱり、タベるときは食べナイト、ストレッサーになりマス」
「そうだけどー… そうだけどー!」
「ナットーなら、アンマリ太らナイと思うのデスが」
「ちょ、無理! 納豆は本当に苦手なの!」
意外だな。千香にも苦手なものがあるなんて。
「リアリー!? チカは、ホントウニ、日本人デスか!?」
「そうだけども! 納豆はあのどろっとした感じが無理なの! もう豆じゃないじゃん!」
「納豆ニハ、豊富なタンパク質、テツブン、ビタミン…… エイヨウ豊富で、カゼ予防にもナル! 最強デス! ホラ、ホラ!」
サクラはそう言いながら千香の口に納豆を近づける。
「ぎゃあああああ、無理! マジで! 日本人辞めるわまじで!」
「ソレはNGデス! ホラ、トロロもかけて……」
「ぎゃああああ食べれないものNO.2まで出てきた! 無理!無理!無理!」
千香とサクラ、朝から納豆をめぐって死闘を繰り広げたのであった。
あーばからしい。こういうところがまだまだ子供だと思う。
千香も千香で食べちゃえばいいのに、サクラもサクラでそこまで強制させなくっても……
朝から涙ぐみながら抵抗する千香を見ていると、さっきまで落ち込んでいたのが嘘にも思えてきたのは、事実なんだけど。
必死の死闘を繰り広げているサクラと千香を横目にしながら、やれやれと言わんばかりの俺たちだった。特に、稲穂と朱なんて全く別次元の話をしていた。
「ねーねー、稲穂先輩? 昨日さ、競技場でクネクネ歩いてた人たちは、いったい何を目指してたの?」
「朱ちゃんそれは失礼すぎるよ。あれは競歩だよ」
「競歩?」
「競うに歩くって書いて競歩。中学生まではない種目だけど、高校からはインターハイ種目の1つになるんだ」
「あ、聞いたことあるかもしんない。たしか、残り3mで失格になることもあるんでしょ?」
「そうそう。私もよくルールわかんないんだけどね、とっても難しくて筋肉使うんだって」
たしかに昨日、熊谷の陸上競技場で競歩の練習してた子がいたなぁ。そこまでハイレベルな選手でもなさそうだったけど、たしか与野坂本高校の先生が競歩の選手だったんだっけ。
競歩かー。最近、世界陸上で日本人が金メダル取った種目というくらいにしか思っていなかったな。このまえ深夜番組見た時に、2人が並んで競ってる動画を見てどっちがルール違反か!?ってクイズあったけどさっぱりわからなかったし、なじみのない種目だ。
そのなじみのない種目に、朱は興味津々だった。
「すごーい! みんな高校生から競歩を始めてるんだね!」
「そうらしいよね。でも意外なのが、20km競歩のオリンピック選手がテレビで『故障して仕方なく競歩に出たら、インターハイに出れた』って言ってたことかな。コツをつかめば、上手い人だとできるみたい」
「なるほど。朱もやってみようかな~」
え、競歩ってそういうもんなのか。なんか意外だな。
……ちょっと待てよ。
俺は未だに死闘を繰り広げている千香の方を見て言った。
「あのさ千香、今日競歩の練習やってみない?」
「すみません、今日はお世話になります!」
30歳前後だと思われるその若い先生は、羽村先生という。与野坂本高校の先生で、現役時代は競歩で全日本インカレに出場したことがあるという。
今日の練習会場である熊谷スポーツ文化公園陸上競技場の競技場脇の集合場所で、俺は千香を羽村先生に紹介した。
羽村先生はいかにも若いコーチという感じで、フレンドリーに快諾してくれた。
「ええ、初めて競歩をやる選手はたくさんうちに来てるので。こちらこそうちの選手の面倒を見てもらっているので、お互い様です」
「ありがとうございます。足底筋膜炎ですが、練習できなさそうなら本人には無理しないように言ってあります。どうぞ、厳しくしてやってください」
「いやいや、お手柔らかに」
千香は居心地悪そうにしていたが、羽村先生のキャラクターには好感をもった様子だった。千香のことは合宿の残り2日間、羽村先生に面倒を見てもらうことになった。
とりあえず歩くことはできるというので競歩に混ざってもらった。元々、新しいもの好きなタイプだから、動けることに喜びをもってトレーニングをしてくれるだろう。
――――さて、俺は本業のトラックの練習をみるとするか。
俺は首から下げたストップウォッチを手に持って、タータン張りのサブグラウンドに向かった。




