都大路⑪ 京子の大路
京子という名前はお父さんが付けてくれたと聞いている。
京という言葉は、京の都のように、たくさんの人から愛されること。子という言葉には、初めから終わりまで、という意味があるそうだ。
ただ本当のところ、お父さんは京都が好きだったこと、都大路が好きだったことから私の名前を付けるきっかけにしたんだという。そのことを知ったとき、やっぱりお父さんだなと思ってしまった。どれだけ駅伝が好きなんだろ。
お父さんが亡くなってからは、私の毎日が変わっていくように思えた。
今朝白京子から、藩内京子という名前になったこと。友達が親の話題を出さなかったり、気を遣ってくれたこと。でもどれも私にとってはそれほど大きな問題じゃなく、何かが変わることで傷つくことの方が少なかった。
でも、変わっていけなかったことの方が苦しかった。忘れられないことが苦しかった。
お父さんが私が見ている目の前で亡くなった。それまで猛烈なペースで走っていた脚は止まり、苦しそうに悶えながらその場にしゃがもうとしたところで転倒。それからの光景は―――――思い出したくもない。
病院で最後に触ったお父さんの手の温度は今でも忘れない。冬の寒い日に友達と雪に触っても、あんなに冷たくなることはなかった。そのときお父さんは本当にどこかに行ってしまったんだと思った。
それから無我夢中で陸上をした。ちょうどそのとき中学校の陸上部に入ったのをいいことに。タイムが伸びていくのが楽しくて、上位の大会に行けることが誇らしくて。
でも満たされない気持ちがあった。駅伝を組んでも、私頼みのチーム。入賞したら喜ぶのに散々な結果でも「しょうがない」の雰囲気。何か足りない気がして、そのたびに無我夢中で走ってきた。
でも大事な舞台では胸が苦しくなってあまりいい結果を残せなかった。原因なんて分かっていた。死に物狂いで走って、本当に亡くなってしまったお父さんを思い出すから本気で走るのを体が拒否していたんだ。京都には何度も行って治療しようとしたけどダメで、結局強豪校への進学は諦めて、二ノ丸高校に進学した。
もうこんな舞台に挑戦する機会はないと思っていたのに。最後にトラックでいい結果を残して、終わりにしようと思ったのに。
そんな私を諦めさせなかったのは、栃岡先生が来てからでした。
24時間365日走ることを考えているんじゃないかっていうくらい、走ることが好き。そして「一緒に走ろう」と誘ってくれる。練習のタイムが悪かった時も冷静に分析してアドバイスをくれる。
今までそうやって応援してくれた人、いなかったんです。確かに私の周りは本当にいい人ばかりで練習をしてるとすごく褒めてくれます。だけど栃岡先生、あなたほど力をもらった人、いなかったんですよ。
私はついにボアコートを脱いで中継地点に向かう。
一度後ろを振り返って、栃岡先生のことを見る。
先生は不安そうに順位を確認するべく、ワンセグを見たりメモをとっている。
その姿にちょっと寂しくなる。お願いします、今ここで、私を見て下さい。私だけを見てと心でそっと思う。
でもこんな気持ちはいけないですよね。シンデレラは王子様に振り向いてもらうために努力したんでしたっけ。だったらこれから走って振り向かせないとですね。
『52番、準備』
次々と聞こえるスタンバイの合図のなかに二ノ丸高校の名前が聞こえてきた。コースを見ると、4人ほど連続して走ってくるランナーの50mほど後ろに信乃さんが見える。かなりいいタイムだったみたい。さっきの中継所では30秒以上も差があったのに。
信乃さん、すごいな。私も負けていられない。
信乃さんの前のランナーが中継を終えると私は中継ラインに立つ。そして肩を回しながら、信乃さんに声を送る。
「信乃さんラスト! 襷、襷!」
信乃さんは肩から襷を外して片手に掴む。いよいよ中継だ。
その時沿道から栃岡先生の声が聞こえる。
「京子、今13位だ。あと5人抜けば入賞だぞ!」
あと5人――――。
前に行ったランナーが4人だったので、その先まで抜いていかないとってことですね。
厳しい戦いです。
信乃さんが最後の力を振り絞って中継所に駆け込んでくる。私よりもずっと背が高い信乃さんが、襷を私に取りやすいように前に突き出してくれる。
「京子さん、お願いします!」
私は信乃さんから襷を受け取ると、ありがとう、と一言添えて中継所を走り出していった。
すぐに前を見る。最初のランナーは……60m差かな。2kmに行く前には追い付かないと。
そう決めると急いで襷を締める。これももう慣れたものだ。この2か月で、もう3回目の駅伝だもんね。
粉雪が舞う西大路通はとても寒かった。しかも風は向かい風。ユニフォームの下に長袖を着ておいて良かった。前の選手、ランパンランシャツだけどかなり寒そうに見える。
折からの粉雪もなかなか止まない。この調子だと午後からある男子のレース大丈夫なのかな。
一瞬、路面に目線を移す。粉雪とはいえ振り続けると道路の表面にうっすらと膜を作る。雪道は今年結構走っていたからバランス感覚は分かる。気を付けないと。
沿道にはたくさんの人が旗を振っている。紙の音と一緒にたくさんの声援が聞こえてくる。
本当に知らない人ばっかりだ。でもみんな、ファイト、二ノ丸頑張れ、と何度も言ってくれている。
栃岡先生も、沿道の人が声援を送ってくれると言ってたけど本当だった。やっぱり先生のこと本当に信じていいんですね。
そう思っているとかなり自分が走っていたことに気づく。前のランナーとの差は10mちょっとになっている。
そろそろ1kmポイントだ。前の選手がそこまで飛ばしていないみたいだから差が縮まったはず。下りでタイムも出やすいからとりあえず抑えて3分15秒くらい、寒いから3分20秒でもしょうがないって話だった。体感的にもそれくらいかな。
私は1km地点の印を通過したのを確認して時計を押す。
そして顔を下げて最初の1kmラップを確認した。
3分02秒
え!! 自己ベストとあまり変わらないくらいなんだけど!?
うわああああぁぁやっちゃった。やってしまった。
最初の1kmは抑えて入ってそこから上げるって話だったのに! いくら下ってるとはいえ若干だし……
でも、こういう入り方をしたんなら仕方ないよね。もう後には引けないからこのままいっちゃうしかない。
だけどこのままじゃ西京極陸上競技場まで行けない。力尽きちゃう。と、とりあえず3分10秒までは戻そう。
意識的にペースを少し落としていく。それでも前のランナーとの差は縮まっていき、その後すぐに、抜いた。彼女は青と白のユニフォーム、朱雀学院の選手。かなりペースが落ちているみたい。
こういうときはなりふり構わず抜く。入賞に絡むためにはここで無駄な力は使いたくない。
次のランナーは……黄色のユニフォームの星城の子、確か北信越駅伝でもアンカーだった子だ。
標準を定めて、しかしペースを上げ過ぎずに西大路通を下っていく。こうしたコンディションでは体調がいつもよりも鈍感だ。注意していかないと。
そう考えながら走っていくと、急に私のそばにバイクが走ってくるのが分かった。
なんのバイクだろう、と思って右に視線だけ移す。大きなカメラにリポーターのアナウンサー。どうやらテレビ放送のための中継車のようだ。
もしやと思って遠くを見ると―――――私の目に見えたのは路面電車のレールがある交差点。そう、あれは、
「西大路三条―――――」
お父さんが亡くなった西大路三条の交差点だ。
なるほど。だからテレビ局の人たちも取材してるってことか。江戸川さんって記者さんの力なのかな。父親が亡くなった場所を娘が走る、なんともドラマチックなことだとは思うけど少し緊張する。
でもテレビ局が私を撮ってるってことは、駅伝部のみんなが今の順位を分かるってことにつながる。こういう形でみんなに順位を知らせることができるなんて。
私は少し苦笑いをしながら、西大路三条の交差点へ向かっていった。
俺は朝陽、信乃、合流した漣と一緒に西京極陸上競技場へタクシーを走らせていた。でもどこも裏道は混雑、なんとかフィニッシュに間に合うか間に合わないか微妙なところだ。
レースの様子が気になってしょうがなかったので、俺たちはタクシーのカーナビをテレビに切り替えてもらってレースの様子を確認していた。
先頭は横浜会鳳がぶっちぎりでトップ。大会記録は難しくなったが、もうすぐ西京極陸上競技場というところまできている。後続とは、たった20kmちょっとの駅伝なのに1分近くの大差がついている。
あの垂水実業は古賀知と2位争いをしている。優勝が目標と織田は話していたが、それでも2位争いをここまでするのはすごいことだ。今頃織田は、そわそわしながらテレビを見ているんだろうな。
……で、問題の入賞ラインだけど、4区終了時点で8位がなんと新潟の岸部高校で次期エース藤沢。2区終了時点で3位だったのが九十九里姉妹のブレーキでここまで落ちてしまった。9位が佐賀第一、10位が与野坂本、11位が星城、12位が朱雀学院、13位が二ノ丸。
ここからなんとか藤沢に追いつきたいんだけど、ここからじゃ難しいか。
8位の岸部、藤沢に追いつくには40秒以上もの差を返さないといけない。藤沢は意外と5kmが苦手というのがデータで明らかになったけど、それでも京子が追いつくのはかなり厳しい。
くそ……せっかくここまで来たのに。何か形になるものを残せるかもしれないと思ったのに。
俺の中に諦めるムードが現れ始めていた、その時だった。
テレビ画面の様子が急に変わる。
『バイクリポートに変わります。松本さん、どうぞ』
先頭集団を映していた画面が急に変わった。
揺れるバイクリポート画面に映っていたのはエメラルドグリーンのランシャツの内側に長袖を着て、黒いランニングパンツを履いて走っているランナーが映った。そう、京子だ。
「え!? 京子先輩!?」
後部座席に座り、さっきまでスマホで順位を調べていた漣が食い入るようにしてテレビ画面を見る。
急にテレビに映った京子に驚き、俺もその画面にくぎ付けになる。
『現在5区を12位で走っている二ノ丸高校、藩内京子選手です。先ほど朱雀学院をかわして12位まで上がってきました。入りの1kmは3分02秒。区間賞を狙うペースです』
3分02秒!? いくらなんでも突っ込みすぎだろ!
立ち上がりは落ち着いていることが多い京子だと思って安心していたらこんな展開になるなんて…… 京子、かなり調子がいいのかな? 俺や京子自身が想像している以上に遥かに調子がいいとみた。
バイクレポーターのアナウンサーは続ける。
『藩内選手はかの有名な今朝白選手の娘さんであります。数年前にこの西大路三条の交差点で亡くなった意思を継ぎ、今こうして今朝白選手が走れなかった道を駆け抜けています』
バイクレポーターのカメラに映る京子は表情1つ変えずに走る。多分、このレポートの声は聞こえていないんだろう。
彼女は必死に、顔を真っ赤にしながら大きな走りを続ける。
京子のこんなにいい走りを見たのは初めてだ。
『春には駅伝チームを組めずに一時は部活がなくなる危機になったそうです。しかし藩内選手は部長として、そしてエースとして、駅伝部を引っ張ってきました』
カメラは京子の前へと移動して、京子のランニングフォーム全体を映す。
『県大会では都大路を決められず、北信越駅伝で数秒差で掴んだ都大路。彼女が見据える入賞ラインの8位岸部高校は同じ新潟県の学校です。果たしてフィニッシュラインまでに追いつくことが出来るんでしょうか、注目です!』
そのとき、テレビ画面が明るくなった。曇りがかった空から一瞬、一筋の光が降り注ぐ。
さっきから降りしきっていた粉雪にその光が乱反射して、とても白く、輝いて見える。
まるで桜吹雪のようだった。カメラに映る京子は一瞬、赤みがかったその髪を分けて、空を見る。真っ白に光り輝く空を見上げた。
京子はその刹那、一瞬だけ人差し指を右眼に当てる。まるで何かを拭うかのように。
でも彼女は首を横に振る。何かを否定するかのように。
そして京子は再び前を向いて走り始めた。さっきよりも強い眼差しで。さっきよりも、ペースが上がっているかのように。
俺はその様子を言葉にもできず見ていた。その時だった。漣と一緒に後部座席に座っていた信乃が、何かを思い出したかのように呟く。
「いつぞやの 思ひつもるは 冬ごもり 桜まひちる 都大路」
その和歌は聞いたことがあった。北信越駅伝後に、弥彦神社にお詣りに行ったときにおみくじに書いてあった和歌だ。
「信乃、その和歌――――」
「読み人知らずの歌です。詠んだ人も、詠まれた時代も分からない。でも西大路三条で、亡き人を想って歌った歌だそうです」
「西大路三条で、か」
「いつの日かの思いが募っていく冬真っ最中。ですが、京都の大通には桜が咲いていますよ、というのが意味です」
それを聞いた漣は、疑問を感じたようだ。
「でも桜って冬に咲かないですよね?」
「そうです。この桜って、気温が低い冬の京都で見られる粉雪を見て、詠まれたみたいです」
まさに今の情景だ。
京子は、いつの日かに亡くなった人を想う。それは父である今朝白さんのこと。そしていつの日から想っている仲間、俺や駅伝部のみんなを想いながら、冬の京都を走っている。
そして彼女が走る通りには、見事なまでに桜―――――――いや、粉雪が舞い散っている。そんな彼女が走っているのは都大路ではなく「都大路」ということか。
「京子……先輩……」
漣はその意味を知って、涙をこらえきれなくなったようだ。そばに座っていた信乃に体を寄せる。
京子が背負ってきたものが分かった。京子が今どんな気持ちで走っていて、そしてなぜ右眼を拭ったのか、分かったのだろう。
それが痛いくらい分かった。俺にも。
タクシーはなんとか1位の選手がゴールする前に西京極陸上競技場にたどり着いた。俺たちは急いでフィニッシュのミックスゾーンに向かう。
もうみんな集まっていた。第3中継所のサクラ、朱、河田も間に合ったみたいだ。
「なんとかみんな集合だな」
俺は全員で京子のゴールを迎えられることを安心しつつも、レースの様子をテレビで見た。
千香は不安そうながらレースの状況をまとめてくれる。沿道にいる二ノ丸高校生から情報を収集したのだという。さすが生徒会長だ。
「5区中間点で星城をかわして11位に浮上したみたいです。五条通に入ったところで10位の与野坂本とも3秒差、ひょっとしたら、間に合うかもしれません」
「もしかしたら…… 本当に入賞できるのかもな」
抑えきれなくなりそうな気持をぐっとこらえながらゲートを見ているとひと際歓声が大きくなった。先頭の横浜会鳳高校が入ったきたのだった。
それに伴って大きくなる応援の声。吹奏楽の応援も聞こえる。こんなに寒い日だというのに、チアリーディングの姿も見える。
次々に選手は入った来た。横浜会鳳の次は1分空いていたが赤いユニフォームの垂水実業、それから古賀知、それから…… 2位以下は意外と混戦だった。最後のトラック1周を回った選手たちは、次々に倒れ込むようにしてフィニッシュラインに入っていく。
ついに7チームが競技場に入ってきた。次が8チーム目、入賞ラインの高校だ。
駅伝部のみんなも俺も、一言も話さずに西京極陸上競技場のマラソンゲートを見つめる。
7チーム目入った来てから、20秒ほど経った、その時だった。
3チームが一気に競技場に入ってきた。黒色のユニフォームは岸部の藤沢、黄色のユニフォームは佐賀第一、あと1チームは…… 青色のユニフォームの与野坂本だ。
京子が、来ない。
「京子先輩……」
稲穂がポツリと呟いた。
み、京子……
不安に思った数秒後だった。
エメラルドグリーンのユニフォームが、マラソンゲートから入ってきた。
「来たぞ! 京子!」
彼女は猛烈にペースを上げて前の3チームを猛追する。
駅伝部のみんなはそれを確認すると一気に笑顔になった。まだいける、まだ間に合う。数秒差で前をいく3人を抜けば、8位に上がることが出来る!
「京子せんぱあああああいいいい!!!!」
稲穂のひと際大きな声が、西京極陸上競技場を貫く。
それに呼応するかのように、俺たちは全力で声を出す。
「最後出し切って! まだ動きますよ!」
「お願い前の3人一気に抜いて! 京子先輩!」
「絶対追いつけますよ! 京子さん」
「ミヤコ! ラストスパート! 最後デス!」
「京子先輩最後! まだ入賞行けます!」
気付けば朱や寺門、ニチヤクの3人まで必死に応援していた。
「京子先輩ラスト! お願い! お願い!」
「3人に勝って京子さん!」
「京子ちゃん! 一気に仕掛けよう!」
「出し惜しんじゃもったいないよ! 京子ちゃん!」
「藩内京子! あなたの力を出し切って!」
気付けば俺も、喉が潰れそうなくらいに声を出していた。
「京子! まだだ! まだ間に合う!」
俺はずっと叫び続けていた。
気付けば俺の目からは、涙がこぼれ落ちていた。




