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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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都大路⑩ 信じることの力

 人生とは本当に不思議なものですね。

 第3中継所で襷を待ってウォーミングアップをするとき、私はそう思った。

 クラスメートはみんな受験勉強中。それが進学校の高校3年生としては普通の光景です。息抜きにお正月の箱根駅伝を見たりする程度。

 でもそれが、私がテレビに映る側になるなんて。

 半年前じゃ考えられなかったことですね。

 私は自分の歩んできたこの1年間は本当に不思議なものだったと思いながら、ランニングシューズの紐を微調整する。

 そんな私に、サポート役の朱ちゃんが明るく話しかけてくれる。

「信乃さん、顔が固いよ? リラックスリラックス!」

 彼女はそう言いながら、私の頬に手を当てる。

 年下の子は嫌いじゃないです。私は試合前になると無口になる癖があるので、こうやって話しかけてくれるのはむしろありがたいくらいです。

「ありがとうございます。レースの様子はどうですか?」

「2区から3区に渡るところは14位だったけど、今は少し変わってるみたいなんです。でもテレビは先頭しか映してくれなくって!」

「そういうものですよ。中継所に来れば、嫌でも順位は分かるものです」

 私は朱ちゃんの頭にそっと手を置く。そわそわしたって、しょうがないですよ。

 ……とはいえ、順位は気になるものですね。

「河田さんも分かりませんか?」

 一緒にサポート役で来てくださっていた、元婚約者だった河田さんにレースの様子を聞いた。

「ごめんね、SNSとか速報サイトで見てるんだけど、なかなか情報が入ってこなくて。もうすぐ3区の中間点の様子くらいは入ってくると思うけど」

「それでは、しょうがないですね」

 直前の順位はサクラさんが来てからのお楽しみですか。

 私は深くため息をつく。県駅伝のときも感じていましたが、高校駅伝がこれほどまでにブラックボックス化されている闘いだとは思いもしませんでした。

 もっとよく、サクラさんの様子が分かったらいいのに――――

 そう気になっていてもしょうがないです。今はウォーミングアップに集中しないといけません。

 私はストレッチマットを取り出して、両脚を開いて開脚をする。体が硬い私にとってこれは好きなストレッチです。

 つま先を上に向けて、骨盤を前傾気味にしつつ、ギューッと肩甲骨が伸びてくるのを感じる。

 うーん、前からやってるけどあまり硬さが変わらない……

 栃岡先生は、「前より伸びていなくてもやるだけで意味があるから大丈夫」とは言っていた。でも気になるものは気になります。そういう性格なので。

 もう一度、ギューッと前に伸ばしてみる。やはり変わりませんね。

 涼風さんみたいに体柔らかかったらいいのに。そう思ってしまいました。隣の芝は青く見えます。

 っと、気づけばそろそろ3区の選手がやってきそうな時刻になっていました。私も準備しなければ。

 ウィンドブレーカーの下を脱ぎ、そしてユニフォーム姿になったあとに、またボアコートを着る。こうすることですぐに中継所に行ける準備ができます。

 私が準備をしていると中継所にはトップの選手がやってきました。横浜会鳳高校の選手です。緑に黄色のユニフォームがさっそうと襷渡しをしていきます。

 あそこの学校はケニア人留学生もいると聞いています。でも強さの秘密はそれだけではないはずです。留学生の力を存分に生かせる走りを全員が出来る。そうでなければ、1区から一度もトップを譲らないことなんでできませんから。

 そして次々と中継所にはランナーがやってきます。優勝候補の垂水実業はトップと40秒差の2位で襷渡しをしていました。それ以外にも尾張南、古賀知、要、大阪東陽、早稲田国際、明英大朝霞、そして新潟の岸部高校が先を行く。どれも名門校ですね。

 そして山梨の朱雀学院が中継をしたとき、ようやく私の待っていたアナウンスが聞こえる。

『52番、準備』

 ついに呼ばれました。北信越代表、二ノ丸高校。既に10チームが襷渡しを行っています。察するに15位以内では襷を繋げそうですが……

 入賞に向けては、少し厳しい展開ですね。

 少し唇を噛む。思った以上に、サクラさんより速い選手が3区にいたようです。全国の舞台はそう簡単にいきませんね。ランナーが去っていった中継所にスタンバイしながら、そう思いました。

 でも私の区間で、なんとか入賞が見える位置までもっていきたいものです。

 私は中継所に駆け込んでくるサクラさんに向かって声援を送る。

「サクラさん! 最後、出し切ってください!」

 サクラさんは頬を真っ赤に染めながら、そのダイナミックなフォームで中継所に走ってきています。

 もうサクラさんの前にランナーはいません。30秒ほども空いてしまいました。

 ――――単独走は決定ですか。

 私の都大路にはふさわしいのかもしれませんね。

 一人で走ることは、それだけ自分の力を推し量ることができます。最後の舞台には、ふさわしいですね。

「シナノおおおお!」

 サクラさんは両手を突き出すようにして、私にタスキを渡す。

「いってきます!」

 私はそう言い残して、中継所を出発しました。

 走り始めると、体が思っていた以上に冷たくなっていたことに気づきます。今日の気温は3℃ですが……空からは粉雪が降っているようです。さっきから額が濡れていると感じます。

 襷をぎゅっときつく締めて、その先っぽをランパンの中に入れる。そろろ前を追いかけていく――――――と思って前を見ますが、前は米粒ほどの大きさのランナーしか見えません。

 後続の選手もかなり後ろだったはずです。この区間は本当にひとりぼっちで走ることになりそうですね。

 一人ぼっちの走り。私にピッタリなのかもしれませんね。

 思えば、私が駅伝部に来る前から走っていた時も一人でした。河田さんが実業団のランナーということは存じていたので、それに目線を合わせるためです。でもそれは、ただ走っているだけの日々。

 そして県駅伝も、北信越駅伝も一人でした。毎回私が走るのは田んぼの道のりばかりで少し気持ちが乗らなかったですね。その分、自分の走りに集中できたのは確かですが。

 県駅伝で一人で転んで、なんとか中継所に襷を繋いだ時。これが私の人生そのものだったんだという気持ちでした。

 生徒会副会長という、一歩引かれる存在。少し成績がよくてスポーツが出来るだけなのに、畏敬の念に似た感情を抱かれること。中学校、いえ小学校の時から私を取り巻いていたのはそんな感情でした。でも部活もやってなかったんですから学校の授業に集中できるのは当然のことだと思います。

 そして都大路まで来ても私は一人ぼっちのランニングですか。でもこれもこれで悪くないでしょう。私、歌和村信乃という人間はそういう感情でしか生きられないのですから……

 北大路通りから西大路通へと差し掛かる際に、急な左カーブが出てきました。

 ここまでの1kmのペースは3分17秒ほど。でもまだ、まだ上げられます。ここから一気にペースを上げていかないと。

 そう思った矢先のことでした。

「信乃さーん! 頑張って!」

「前と差が縮まってますよ!」

「副会長! 頑張って!」

 高校生と思しき若い子の声が聞こえてきました。

 これって――――お父様が話していた、二ノ丸高校の応援チームでしょうか。

 振り返って確認したかったのですが時間がもったいないです。今は1秒でも速く、襷を繋がないといけません。

 そう思っていましたが、かなりこの声聞こえてきますね。というか、絶対に二ノ丸高校の生徒じゃないお年寄りの声が聞こえてくるのですが……

 都大路って本当にお祭りみたいなんですね。たくさんの知らない人が、会ったこともない人を、精いっぱい応援している。なんとも不思議な光景です。

 サクラさんも言ってました。日本人は駅伝が好きだ、と。全くその通りです。

「信乃! 頑張れ!」

「信乃―っ! 頑張りなさい!」

 あ―――――お父様、お母様。

 今、確かに分かった。お父様とお母様がさっきの電柱の前で応援していた。その瞬間だけ、スローモーションのように、そしてズームされて切り取られて見える。

 遠くからでも分かるんですね。

 そう思うと笑顔になってきました。一時はあんなに嫌いだったのに。話したくも、顔を見たくもないくらいだったのに。

 こうやって声を聞くだけで、レース後に会いたくなりますよ。

 本当に不思議なものですね。駅伝って。都大路って。

 栃岡先生はとっても不思議な場所に連れてきてくれました。そんなあなたのためにも、恥ずかしい走りはできません。

 走るの笑わないって言ってくれましたけど、走って笑顔にさせるのが私の今の役目ですね。

 ――――っ。

 雪がまた目に入ってしまいました。

 新潟のドカ雪とは違う。この粉雪は、気温が低い証拠ですね。

 アームウォーマーも、手袋も、レッグウォーマーも付けてきて正解でした。

 って、先生に伝えたいですね。早く、速く。

 私は北大路通りを大きく左に舵をとり、西大路通に入っていきます。

 駅伝って不思議なものですね、栃岡先生。声援を聞いたら私はこんなにもペースを上げることが、出来るんです。







「翔! サクラちゃんは14位で襷リレーだって」

 謎のランナーが立ち去ったのちに立ちすくんでいた俺のもとに、朝陽が駆けてきてくれた。

「そうか……」

「どうしたの? さっきから、誰かと話してたの?」

「いや、なんでもない。それより京子は――――」

「約束の30分前になったときも様子は大丈夫そうだったから、ウォーミングアップを再開させた。翔ったら、急にどこか行っちゃうんだもん」

「ああ、ごめん」

 今朝白さん……いや、謎のランナーとの話に夢中になっていた俺は、約束の時間が過ぎていたことを忘れていた。でも調子が良さそうなら何よりだ。

「朝陽、京子はいつ戻ってくる?」

「もうじき。ほらそこ、お手洗いから帰ってきたみたいよ」

 朝陽が指さすその先には、ランシャツの中に黒の長袖を着た京子がいた。防寒対策ということか。5区の5kmは他の区間よりも、長丁場だしな。

 京子の姿はやはり先ほどと同様に、どこか小さく、どこか怯えているように感じた。

 やはりさっきから劇的な変化はないということか。

「京子、ちょっといいか」

 俺は京子を呼び出した。

「はい」

「走れそうか? 5区」

 時間がなかった。単刀直入に話をして、悪いことはないだろう。

「分かりません。もしかしたら、中継地点に立った瞬間に、倒れこんじゃうかもしれません」

 やはり不安なんだな。京子。

 でもその不安も、今はパワーに変えてほしいんだ。

 俺は京子の目線に合わせるように膝を曲げる。小学生のような身長の京子に合わせるには、立ち膝になるくらいに目線を低くする。

「どうしたんですか?」

「これから俺の話を聞いてくれ。聞いたうえで、都大路に出るかどうか決めてくれ」

「分かりました」

 京子は、あなたのことを信じますと言わんばかりの表情をして俺を見る。

 その視線に俺も思わずたじろぐ。高校生はもう立派な大人だ。その大人の真っすぐな眼差しは、さっきの謎のランナーに重なるものがある。

「京子、自信を持ってくれ。今までのランナー生活の全てを果たす機会なんだ」

 俺は京子に目線を合わせたまま、彼女の肩に手を置く。

「お父さんと走ってきた時間、一人で走ってきた時間、駅伝部のみんなと走ったきた時間、そして俺と走ってきた時間のすべて。それをいかんなく発揮する機会なんだ。その全てを尽くして頑張ってきた京子が5区を走れないわけない」

「そんな……私が走ってきた時間なんて大したことないんです。ただの趣味で走ってきただけなんですから」

「そんなことを言うな。俺は京子の頑張りに励まされてここまでこれた。新潟ロングディスタンスも走れた。県総体でぼろ負けしたときなんて顧問やめようと思ったけど、それも続けてこれた。クビになりそうなときも、それも乗り越えてこれた」

 俺の言葉を聞いた京子は俺から視線をずらす。

 顔を少し赤くして、斜め下を向いてしまう。

「それは私のおかげじゃなくて、駅伝部みんなのおかげです」

「そうでもある。でもそれだけじゃない。駅伝部の部長である京子が、一人で走り続けてきたから、駅伝に出れなくても駅伝部は続いてきた。京子のおかげだよ」

 京子は斜め下を向いたまま、答えてくれない。ただ俺の言葉を黙って聞いていたようだ。

「それは素直に受け入れなくてもいい。でも一つ分かってほしいのは、この都大路のチャレンジはみんなのものだと思うってことだ」

「それ……そうですね。駅伝部みんなのチャレンジだって思います」

「そうだ。もちろん駅伝部員だけじゃなく、俺や朝陽、寺門だってそう。この二ノ丸高校駅伝部に関わった人たちの舞台なんだ」

「本当に二ノ丸高校駅伝部って色んな人が関わってますね。学校の応援団もいるし、緊張しますよ」

「悪い悪い。でもそれをプレッシャーに感じないで欲しい。襷を受け取ったら、自分の気持ちで京子の走りを表現してほしい」

「自分の気持ち、ですか。そんなたいそうなものは私にはないです」

「そんなことない。京子は駅伝をしたくて、走ることで何か達成したくて、都大路で入賞を目指すことまでしてきたんだろう。それが京子の気持ちだよ」

「そんなことでいいんですか。私はただ、無我夢中で走っていただけです」

「いいんだよ、それで」

 俺はさっきよりも力を入れて、もう1度京子の肩を掴む。

「京子がこれから走るのはただの西大路通りじゃない。『京子(みやこ)大路(おおじ)』なんだ。自分の気持ちを余すことなくぶつけてくれ。そうすれば絶対に、絶対に、この道を走り抜けることが出来る」

「京子の大路…… 都大路(みやこおおじ)ではなく」

「そうだ。京子はこれから一人で、信乃から襷をもらう。でも心配するな。今まで俺と京子は一緒に走ってきたじゃないか。西大路三条だって、気持ちは一緒にある。だから安心して駆け抜けてほしい」

「気持ちは一緒ですか。でも走るときは一人ですよ。そうなると私、どうしていいのか分からないです」

「心配するな。俺も、朝陽も、漣も、涼風も、千香も、サクラも、稲穂も。みんな京子のことを見ている。本当だ。沿道にいなくても、テレビ画面を見たり、速報サイト見ながら、京子のことを必死に見ている。想っている」

「本当ですか?」

「もちろんだ。それでも満足できないなら――――沿道の応援団がいる。ここは都大路であって、京子の大路だ。どこの誰かもわからない人まで大歓声をくれる」

「西京極のフィニッシュラインを駆け抜けるまで、私は一人にならないんですね」

「そうだ。ブーイングする奴なんていたら、俺がぶっ飛ばしに行く!」

 俺はそう言いながら自分の顔を指差す。そして、どや顔をする。

「先生なら本当にやりかねないです。でもそう仰るなら、見ていてください。想っててください。私のことを」

「当然だ。今までもずっと一緒だったんだ。俺は高校教師だ。京子のことを、想っている」

「ありがとうございます。その言葉で私は、この大路を走ることが出来ます。私は一番最初にせんせ――――――いえ、あなたのことを想って、走ります」

 京子はそう言って、ウィンドブレーカーを脱ぎ始める。そろそろ先頭のランナーを来る雰囲気に、中継所の雰囲気がなっていく。

 京子の雰囲気がさっきと明らかに違った。いつも優しい目つきは少し鋭く、おかっぱ頭は分け目がシャープになる。

 頬は赤く紅潮している。片足を上げても全くバランスを崩すことなくユニフォーム姿になっていく。

「先生、入賞、まだ間に合いますよね?」

「いけるさ。まだ間に合う」

 中継所に最初のランナーが飛び込んできた。横浜会鳳高校の選手が襷渡しをする。

 都大路の大きな歓声が俺たちを包んでいた。

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