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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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都大路⑧ 実るほど頭を垂れる稲穂かな

「稲穂ちゃんっていつも走ることばっかりだよねー」

 お手洗いから教室に戻ってきた私の耳に、そんな言葉が入ってきた。

「あーわかるわかる。駅伝が恋人って感じ?」

「遊びに誘っても断られちゃうし、やっぱり駅伝部って大変なのかな」

「新しく来た先生がすごい人だったらしいよ」

「そうなの? 勉強しながら朝も放課後も部活やるとか、ほんとに好きだよね」

「顧問の先生にやらされてなきゃいいけど」

「それねー、あ、次の先生来ちゃった」

 友達がそんなふうに話しているのを聞いて、私は心の中で否定した。

 違う。駅伝をやっているのは私の好きだ。

 岸部や暁月みたいな強豪校からの推薦もあった。でも私は中学生のころから、誰かに何かをやらされるのが苦手で、どちらかといえば好きに走りたかったから二ノ丸高校を選んだんだ。

 好きに走るって、自分の強い意志がないとレベルアップをするなんて不可能だ。強豪校の中でいつしか駅伝を嫌いになるのが怖かった。

 でも私はいつの間にか駅伝が嫌いになっていた。

 夏の合宿で決まった「都大路を目指す」ということ。それはとても、とても熱くなれる目標だった。それまでトラックに集中しようと思っていた私にとって走るチーム競技はとても心惹かれた。だから練習も一生懸命に頑張った。

 でも、もともと夏が苦手だった私だ。すぐにオーバーワークになって先生に走るなって言われてしまった。

 だけど不思議と、その時は心がほっとした。やっと休める。もう自分を追い込まなくていいんだって。燃え尽き症候群ってこういうことを言うんだと思う。

 走ることばかりに染まっていた私の生活からトレーニングを奪ってしまうと日常はとても空虚なものになるのだと分かった。最初の1,2日は家でのんびりしていたけどその後は本当にやることがなくなったことに気づいてしまった。

 どうせならと思って、家から自転車で数分の二ノ丸高校の図書館で夏休みの宿題を片付けることにした。練習もしないのに学校に行くのは少しもどかしく感じたけど、先生との約束ならしょうがない。走ってるのを見られたら、本当に怒られちゃいそうだし。

 炎天下の学校にはかなり人気がなかった。あったとしても、司書の先生とまばらな受験生だけ。私も2年後にはああいうふうになるのか、それとも京子先輩みたいになるのかなとも思ってしまった。

 学校に着くと、生徒会の副会長の先輩が学校の前の道路を走っていたことに気づいた。今思えば信乃先輩、ああやって地道に走っていたんだなと思う。でもその時の私はそんなこと気にも留めずに「ダイエットのためなのかな?」なんて思っていた。信乃先輩はスタイルいいのに、そう納得してしまったのはかなり不自然なことだろう。

 生徒玄関に入ろうとしたときに、職員玄関から一人の先生が出てきたことに気づいた。私の視線の先には――――栃岡先生がいた。私はそれを見るとなぜか下駄箱の陰に隠れてしまった。夏休み前最後の部活に先生に注意されちゃったから、会うのが少し気まずかったからだ。

 先生は玄関で軽くストレッチをしたあと、ニコニコしながら時計をいじる。

「今日は日差しが強しー、山中で1時間くらい走ってー、帰ってこよっかなー」

 栃岡先生はそんな独り言を言いながらうきうきと学校をスタートしていった。水も持たずに――――

 え? 山って言ってたけど、近くの山って走って30分くらいあるんだけど…… トータル2時間くらい走るってことかな。

 こんな暑い日にタフすぎる。自転車を漕ぐだけでも汗が止まらないというのに。

 あんなに走ることが好きだなんて。私は素直に驚いた。

 栃岡先生の姿を見て、私は自分の「走るのが好き」を反省した。私は何か誤解していたのかもしれない、走ることを。走ることで大きな大会に行けて、いい順位をもらえる、そういう自分が好きなだけだったのかもしれない。

 でも違う。栃岡先生を見て、そう思った。

 走るのが好きって、本当にその言葉の通りの意味なんだと思う。大会とか関係なく、ただ全身を使って走るという行為をするということ。それが走るのが好きってことなんじゃないかな。

 私にもその気持ちがあったはず。だけど最近、それを忘れちゃっていたのかな。

 ……走れるようになるまであと4日だし、もう少し、ちょっと考えてみよう。

 私は走るのが嫌いになったそのときに少し、そう思ったのだった。


 ――――――でも

 ――――でも

 走るのが嫌いになったという夏休みの数日の出来事が、多分今の私に巡りに巡って災いをもたらしたんだと思う。走りの神様は私のことを見ていて「そんなのけしからん」って言ったんだと思う。

 風邪はもう治って熱も完全に下がった。鼻水も出ないし、今でも走れそうなくらいだ。

 第2中継所でサクラの付き添いに来ていた私は走りたい気持ちを抑えきれずにいた。

 一緒にいたニチヤクの板倉さんはそれを感づいていたようだった。

「稲穂ちゃん、走りたいんでしょ?」

「え、なんで分かったんですか」

「顔に書いてある」

「恥ずかしいです……」

「いいんだよ。私だって走りたいんだもん」

 板倉さんのその言葉はすごく意外に感じられた。なんで日本代表ほどの人が、こんなこと言うんだろうと思った。

「私ね、スピードがないタイプなんだ。弱い高校だったから都大路は1区だったけど区間20位とかだったわよ。今の漣ちゃんの方が強い」

「板倉さんでもそうだったんですか」

 改めて姉貴はすごいんだと思った。

「今でも、今都大路を走ったら区間賞をとれるのかなって想像しちゃう。でも私スピードないからいつも負ける終わり方なんだよね」

「そんなことないですよ。板倉さんに勝てる高校生、1区にいませんでしたよ」

「ありがと。優しいんだね。私、自分のスピードに自信がなくってね。マラソンしか生きる道がなかったんだよ」

「そんな、5000mだって15分半じゃないですか」

「それなら駅伝では活躍できるかもしれないけど、世界には全く通用しないよ」

 板倉さんはマラソンで世界陸上に出た選手だ。ゆえに言葉の重さが違った。

「ううぅ、あの栃岡先生でも日本選手権にも出れないレベルっていうんですから、トップのレベルはすごいですよね」

「栃岡翔はすごいよ、それでも」

 それまでのトーンと打って変わって、板倉さんはハッキリと言った。

 170㎝ほどもある板倉さんのことを見上げて私はその話に耳を傾けていた。

「教員なんていうブラック労働をしながらあんなタイムを残せるなんてすごいことよ。私もあのレース見てたけど、もっと伸びるよ彼」

「もっとですか」

「そう。まぁ先月の残業時間が部活と家でやった仕事含めて100時間とか言ってたから体の方が心配だけどね」

 栃岡先生! 死なないで!

 駅伝部の仕事が確実の栃岡先生の命を削っている気がする。来月には都道府県対抗駅伝走るって言ってたけど大丈夫なのかな?

「いったいどこからあんな力が湧いてくるのか。あ、でも言ってたよ。『先生は長距離が大好きじゃないですか、だから走るのが怖いとか言わないでくださいって生徒に言われた。新潟ロングディスタンス、負けられなくなったんですよ』ってね」

 その言葉を聞いて思い出してしまった。それ言ったの私だ。

 新潟ロングディスタンスの前日、家まで先生に送ってもらったときに言った言葉だ。あんまりに先生が、昔のことがトラウマになってたみたいだから、怒り気味に言ったんだっけ。

 あんなこともあったな。懐かしい。

 ――――そういうこと覚えててくれたの、嬉しいな。

 本当は走って、私だって栃岡先生に感謝のきもちとか伝えたかったよ。みんなが本当にうらやましい。応援する気持ちもあるんだけど、一番先行してしまうのはその気持ちだ。

 とっても、悔しくて、悔しい。

 私だって走りたかったよ。

「稲穂ちゃん、泣いてるの?」

 急に板倉さんが取り乱していく。私の目から熱い何かがこぼれていくことに気づく。

 あ、私泣いてたんだ。

 抑えきらない気持ちが抑えきれなくなっていたと気付く。

「だ、大丈夫よ。今年はもう無理だけど、来年の都大路もあるいいし、その前のインターハイもあるし! まだ若いんだからチャンスなんていくらでもあるって!」

 板倉さんが必死になっているのが分かった。

 ダメだ、今は抑えないと。

「ごめんなさい。サクラにこんなところ見られたら笑われちゃいますね」

 サポートで来てるはずなのに、選手のこと不安にさせちゃいけない。

「笑わないよ。でも稲穂ちゃん、もうちょっと頑張ろ。サクラちゃんを無事にスタートさせることが私たちの役目なんだから」

 正直、今ここから逃げ出したら楽なのにと思った。ここから逃げて、鴨川のほとりで一人ぼっちで川を見てられたらどんなに楽なんだろう。

 でも逃げちゃダメ。板倉さんの言う通り、今は頑張って、笑顔を作らないと。

「そうですね。もうちょっと頑張ってみます」

 板倉さんは、えらいね、それでいいんだよ、と言ってくれた。

 栃岡先生、私も自分自身と、もう少しだけ戦ってみます。

 私は板倉さんに深くお辞儀をした。






 第4中継所にたどり着いた俺は真っ先に救護室に向かった。

 嫌な記憶が蘇る。県大会の時に1500mの予選を走った後、救護室で倒れていた京子のことを――――

 頼む、今日だけは無事でいてくれ。

 何かに頼みこむような気持を持ちながら、道路わき駐車場内にあるテントに俺は入った。

「すみません、二ノ丸高校の栃岡です。藩内京子は―――――」

 そう言うと、救護室の係員の人が指をさす。そこには椅子に腰かけて朝陽と一緒にいる京子の姿があった。

 今日はそこまで悪い状態ではなさそうだ。頬は赤くなっていて赤い血の色をしている。

 よかった。ひとまずの安堵感をもって、京子に駆け寄る。

「京子、大丈夫か?」

「栃岡先生―――」

 今日は俺のことを見るなり椅子を立ち上がる。

「すみません。もう大丈夫です」

「大丈夫ったって、そうは聞いてないけど」

 不安な気持ちを抑えきれなくなっていると、朝陽が説明に入ってくれる。

「10分前はすごかったのよ。ジョギングしてたと思ったら急にその場にうずくまって過呼吸になっちゃって。救護室に入ったすぐ落ち着いたけど」

「とりあえずは、無事だったんだな」

 少しだけ胸を撫でおろした気分になっていると、俺のところに医師が来てくれる。彼の顔には見おぼえがあった。前回の試走のときに京子が倒れた時に担当してくれた、50歳くらいの医師だ。

「今日はやめておきましょう。このままレースを走ったらどうなるか分かりません」

 医師として当然の助言だと思った。むしろこんな状況でも走れ、なんて言う医師がいたらそいつは医者失格だろう。

「そうですね。でも今は落ち着いているので、もう少しだけ考えさせてください」

「それでも私は棄権を勧めます。この心理状態では強いダメージが脳にもかかりかねません」

「いえ、でも今棄権したら二ノ丸高校の全部の記録が参考記録扱いになるんです。直前まで考えさせてください」

 俺は医師に礼を言うと、京子と朝陽を連れて救護室のテントを出た。

 テントを出ると、外はかなり気温が低いことが分かった。今の気温は3度、予報だと正午から雪だと聞いていた。今から雪が降ってもおかしくないくらいの空模様だ。

「先生、ごめんなさい」

 京子は申し訳なさそうに呟く。

「こっちこそすまない。こんなことなら、2区とか3区とか無難な位置に配置しておくんだった」

「もうしょうがないことです。今からメンバーなんて変えられませんし…… ところで今、二ノ丸高校は何位なんですか?」

「2区中間点で15位。涼風は前半抑えているからこんなものだろう」

「入賞、狙える位置ですね」

 毎年都大路では2区時点で15位以内なら入賞を狙えるくらいの位置にいると言える。あとにサクラ、信乃など安定感のある選手がいることを考えると二ノ丸高校の入賞は十分に可能性がある。

「そうだ。でも京子がこれで選手生命が終わるなんてことになったら、メンバーの誰も喜ばないけどな」

 その言葉の深い意味は言わないようにした。でも京子も分かっていただろう。

 父親の死というトラウマに、都大路のかなりのプレッシャー。そんな舞台で失敗をすれば、もう走ることすらできなくなってしまうほどの恐怖心を生みかねない。

 そんなことは嫌だ。京子はまだまだ上を目指せる選手だし、大学でも陸上をやりたいと言っていた。この子の未来を奪いかねない選択を、今俺がしようとしていることに気づく。

「でも私は諦めきれないんです。ここで走るのを止めたらこの先の人生、死んでも死にきれないほどの後悔を生むと思います」

 そんなこと俺だって同じだ。最後の全国高校駅伝になる京子と信乃には、これが最後のチャンスとなる。そんな機会をここで手放すことなんて簡単に選べるわけがない。

 ……でもこうしてあーだこーだ言っててもしょうがないな。

 今は京子の出走まであと30分以上もある。まずはウォーミングアップを続けさせてみて10分後、もう一度京子の様子を見て決めてもいいだろう。

 こんな大事な選択をすぐにする必要はない。まだ時間はある。まだ京子が走れるようになるまで、間に合うかもしれないんだ。

 ここは一度、落ち着こう。

「京子、今はとりあえず症状もない。だから出る前提でウォーミングアップを再開してくれ。10分後にもう一度様子を見る」

「ありがとうございます。あの、これから走るサクラさんや信乃さんには私のこの状況を言うんですか?」

「言うわけないだろ。絶好調って言っておくよ。まぁこれからここに来る、漣には事情を伝えるかもしれないけどな」

「それなら、助かります」

 京子は作り笑いながら初めて笑顔を作ってくれた。とりあえずそのくらいの精神的余裕は出てきた、みたいだな。

「じゃあ10分後。俺はここで待ってるから来てくれ」

「はい」

 京子はランウォッチをセットした。きっかり10分測るつもりだろう。

 彼女はさっきまでの様子と違い、非常に軽い走りをしてジョギングに行った。腰の位置が高いながら一歩一歩が力強く、ストライドが非常に大きい。力が上手く伝わる走りをしている。あんな京子は今まで、見たことない。

 その様子を見て思う。調子は悪くないんだ。多分走ったら下りの5kmを16分切り……いや15分40秒台で走ってしまうかもしれない。

 でも今は、走るかどうかというレベルの話だ。

 朝陽もそれは十分に理解しているようだった。

「翔、走らせるの?」

「分からない。そう簡単に決められるわけないだろ」

「そうよね。あのさ、翔、ちょっとコンビニ行ってきていい? 京子ちゃん用のコンビニで温かいものとマスク買ってくるわ」

「助かる」

「あと、よろしく」

 朝陽は早歩きで買い出しに行ってくれた。いつものんびりでしか歩かない彼女のその様子から見て、朝陽も焦っているんだと思った。

 さて、ここからどうしようか。俺はワンセグで現在の順位を見ようとスマホのロックを開場しようとした。

 その時だった。急に突風が目の前に吹き抜けてくる。俺も周りの人も、思わず目を覆う。

 一気に体温が奪われそうな風だった。耳たぶが一気に冷たくなると感じた。

「やぁ、急に寒い風が吹いてきた」

 下を向いていた俺の視界に入ってきた靴、それはウェスパーフリー1000%。もしやと思って視線を上げるとそこには赤いジャージが目に入る。さっきの謎のランナーだった。

「あなたは……」

 赤いジャージ、よく見ると白く「テクニ電工」の文字。昔新潟にあった、実業団チームの名前だ。

 靴はウェスパーフリー、ジャージは廃版のレア物。この人かなりの陸上ファンだな。おまけに速い。ますます疑問がわく。

「やぁ、また会ったね。栃岡翔くん」

 彼は俺の名前を呼んだ。

 でも俺はこの人と親しい仲ではない。どこかで見たことがある気がするけど、それでも全くこの人のことは思い出せない。

 知らない人だ。そう思った。

「ど、どうも」

「京子はだいぶ、苦しい様子だね」

 彼は呼び捨てで京子のことを呼んだ。

 いったいこの人は誰なんだろう。俺の心は、得体のしれない疑問でいっぱいになった。

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