都大路⑤ 変わっていない先輩だから
4年前の箱根駅伝予選会、結果発表を聞いた瞬間に明英大学には絶望の空気が流れた。
「くそ!くそおお……」
そばにいた栃岡先輩はその場に跪く。言葉にできない言葉を口にしたまま。そのまま顔を伏せてしまった。
「栃岡先輩、泣かないでくださいって」
3年生の俺は先輩を慰めようと声をかける。
「……ごめん……でも」
先輩は何も言えない様子だった。
無理もないだろう。俺はこの1年が終わっただけのこと。だけど先輩は大学4年間、一度も箱根駅伝を走ることなく終わってしまった。
「俺がもう少し速くゴールしてれば良かったんです。先輩は病み上がりなのに大健闘ですよ」
俺のタイムは59分34秒。ユニバーシアード代表のくせにこんなタイムしか出せない。情けなくてしょうがなかった。
「河田……ごめん……」
先輩のそんな声を聞くのが苦しくて仕方なかった。
俺はそんな先輩の背中に、覆い被さるようにして泣いた。
それから全員で泣いた。大学生にもなって、こんなに泣くのかっていうくらいに。1つ上の先輩たちは今年一度も大学駅伝に出れてなかったから連れていきたかったのにそれすら叶わなかった。
箱根の山は遠くて険しすぎた。俺たちには叶わなかったんだ。
俺がもう少し早く走れてれば……なんて言葉を何度も口にしていたレース後。取材を受けたり、OBへの報告会なんてやってると、気付けば立川をあとにしたのは夕方になっていた。
俺は栃岡先輩と二人で帰ることにした。みんな燃え尽きた様子で飲みに行ってたみたいだけど俺はそんな気分じゃなかった。栃岡先輩は飲み会苦手だし。
立川の駅付近のラーメン屋で俺と先輩は夕食をとった。どうせ寮に戻っても、杜の都に出る女子チームからの視線がキツいだけだし。
先輩は疲労感を顔に滲ませながら、でもどこか諦めがついたような表情だ。
「これで俺の陸上も終わりか」
栃岡先輩は独り言なのか、話すかけているのか分からない口調で話す。
「先輩なら実業団いけたんじゃないですか?」
「冗談いうなよ。今シーズンベスト5000m14分17秒の俺が実業団に入っても活躍は出来ないさ」
「そうですか……」
栃岡先輩は高校時代に都大路1区日本人1位だった人だ。それ以外にもクロカンで全国入賞とか、当時は世代トップクラスに名前を挙げられる人だった。
でも大学時代は故障に不慮の事故でケガ。そして持病で何日も大学すら行けないこともあった。
そういう経緯を知ってたから俺は何も言い返せない。
「そういえば教員にはならないんですか?採用試験受けてたじゃないですか」
「あー落ちちゃったんだよね。俺、向いていないみたいだな」
先輩はアハハと笑う。まるでそんなこと知らないと言わんばかり。
「でも教育実習楽しそうだったじゃないですか。毎日毎日LIMEで近況報告してました」
「そういえばそうだったな」
「部活でもあんなに後輩思いの先輩じゃないですか。絶対、子供たち幸せにできますよ」
気付けば栃岡先輩のことを褒めちぎっていた。
先輩もさすがに折れたのか、照れ隠しに笑う。
「そう言われちゃうと揺らぐな。でも実際すげー楽しかったよ。俺って何も出来ないけど、それでも何か出来る仕事が先生だって思えた。だから教員採用試験も受けた」
「だったらーーーーーー」
「でも俺やっぱり普通に働いてみたいんだよね。やっとの思いで内定した会社がさ、明るく楽しくアットホームな雰囲気でさ!急成長中の会社なんだよ!思いやりのあって、個性が輝ける場所で、技術を身に付けられてすごいんだよ! 自分のやりたいことを叶えられる職場で! それから―――――」
先輩それって世に言う黒い会社じゃないですか?ブラックなんちゃらってやつ。
そういえば就活全然上手くいかなかったらしいけどその会社だけはスムーズに選考が進んだって言ってたな。
怪しい。そして大丈夫かこの先輩……
まぁ実家が旅館って言ってたからそっちを継げばいいのかな……
俺はそんな先輩に呆れながらも、一方で頑張ってほしいと思った。故障してもケガしても練習は毎日やってたし、自分が走れなくても大会の応援に行くのは楽しそうに見えた。
いつかきっと自分もその舞台に立つという強い意思を持ちながらも卑屈にならない。むしろ憧れている。その姿は考えさせられるところがあった。
だから先輩が駅伝部の顧問になっていると知ったとき、そして新潟県ロングディスタンスで自己ベストを大幅に更新できたと知ったときは嬉しかった。やっと報われたんですね。そういう気持ちでいっぱいだった。
そして今日はついに都大路の舞台。女子としては初出場のチームなのに都大路に出るってだけですごいのに、あのメンバーの伸び方ははっきり言ってすごい。異常だ。あり得ない。
もしかしたら本当に入賞をしてしまうんじゃないかと思っている。今年の都大路は垂水実業や横浜会鳳などの名門をはじめ、大阪東陽、名古屋の尾張南高校、福岡の古賀地高校、鹿児島の要高校、山梨の朱雀学院、そして新潟の岸部などが上位に来ると予想されている。
正直ここの8校は崩れないと思うけど、その次あたりに二ノ丸高校は来てもおかしくないくらいの安定感だ。
栃岡先輩、期待してます。そして全力でサポートしますよ。
北大路通りを通るバスを乗りながらそんなことを考えていた。
そして船岡山公園付近の中継所付近にバスが来たことを確認する。よし、ここで降りて信乃ちゃんを待つことにしようか。
隣に座ってた朱ちゃんの肩をたたく。彼女は一生懸命に写真を撮ったり、返信をしていたようだ。
「そろそろ降りるよ。準備して」
「は、はい!」
俺という慣れない大人に緊張している彼女と共に俺たちはバスを降りた。
西京極陸上競技場で各中継所に向かう選手を見送るために待機中の俺に未だに緊張する声が聞こえた。
教頭の声だ。
「栃岡君」
「は、はぁい!」
振り返ると教頭は奥さんと二人で来ていた。奥さんはさすがに十二単ではなく普通の服装。教頭も今日はオフショットな感じな服装だ。それにしても高そうな服だ。うらやましい。
「二ノ丸高校の応援団も来ているのだよ。当日の区間変更も考慮して、引率の中井くんに連絡を務めてもらった。学校行事ではないけどみんな頑張って動いてくれて感謝してるよ」
「僕も感謝してます。半年前じゃ考えられなかったことですよ」
「お互いにだな。そして信乃が走れることになったそうじゃないか」
「ええ。直前で風邪患者が出てしまったこともあっての起用でしたが、調子良さそうなので僕もうれしく思います」
「そうだな。今日は西大路通で応援するから、何かあったら教えておくれよ」
「分かりました。お気をつけて」
教頭は気前よく手を振ってその場を後にしてくれた。
だいぶ雰囲気変わったよな、あの人も。最初完全に悪いキャラだったのに。
今では完全にお世話になってるなぁ。遠征って色々管理職の許可とか必要だったりするし根回しができていると結構ありがたい。
信乃も信乃で最近は心を開いてくれている。駅伝部に来たときは義務感とか、責任感とかで走っていたように感じる。それが県大会での転倒につながったとまでは言わないけど。
信乃はかなり走りやすい区間に配置した。4区は全体的に下りのコースで、3kmの自己ベストを更新してしまうほどのいいコースだ。
彼女なら難しく考えずに会心のレースをしてくれると、信じている。
気が付けばその4区の選手がぞろぞろやってきた。第3中継所行きのバスに乗るためってことだな。
信乃はその中でもかなり早い段階でやってきた。まだ全体の3分の1も集まっていないのに。
信乃の今日の服装は二ノ丸高校のウィンドブレーカーにニット帽。いつもしているポニーテールがそこから顔を覗かせている。今日は雪予報も出ているくらいに寒いからそれ用なんだろう。
「信乃、さっき教頭先生来てたぞ」
「そうだったのですか」
「会いたかったか?」
「……ゴール後のほうがいいです」
はは、年ごろの女の子は難しいな。とはいえ教頭もその辺は空気読んで早めに移動してくれたのかな。
「信乃、服装はどうするんだ? 昼になるにつれて雪っぽい」
「アームウォーマーと手袋、ネックウォーマーに脚のサポーターのフル装備です」
「もう一枚着た方がいいくらいだな」
「そうなんでしょうか。どうしましょう」
「うーん好みといえば好みだけど。厚着じゃなくてアイテムを装着することは外せるのがメリットだな」
「それって、レース中に装備を外して沿道に投げることができるってことですか?」
「そうだ。沿道には二ノ丸高校の生徒もいっぱいいるから拾ってもらえるだろう」
「なら……そうしましょうかね」
信乃は今日初めての笑顔を見せてくれた。
彼女は朝から緊張しっぱなしだった。朝食を選ぶにも一々迷っていたようだし、どうも落ち着きがなかった。
でも今の彼女は少し様子が変わった。ニット帽から覗かせる柔らかそうな皮膚がほんのり紅潮している。血色がいい。
最近調子がいい信乃だ。少しの緊張で走りを潰れてしまってはあまりにもったいない。
「栃岡先生、」
花畑のような甘い匂いがした。洗剤だろうか、居心地の良い、吸い込まれるような香りだ。
「お願いがあるんです」
「どうした? 預け物か」
「いいえ。その……変な走りしても笑わないでください。あり得ない舞台で、どうしていいか分かんない気持ちでいっぱいなんです」
信乃は怖がってるんだと思った。経験したことのない大舞台。走ったことのない全国駅伝。
一緒に都大路の動画を見たときは、いつも騒がしいくせに、縮こまったいたのを覚えている。
そんな「初めての感覚」。誰もが通るその感情を、笑うわけないだろ。
「笑うもんかよ」
「本当にですか?」
「もちろん」
「本当の本当にですか?」
「もちろんだ」
「本当の本当の本当にですか?」
「も・ち・ろ・ん・だ! しつけえええ!!!」
「うふふ、ありがとうございます」
俺の必死の肯定に信乃は笑顔になってくれた。
まったくこの場にきてお遊びか。結構信乃もSだな……と思ったその時、彼女の瞳の色が変わっているような気がした。
ハッキリわかった。笑いながらにもその眼には涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます。こんなに必死に、肯定してくれた人、今までいなかったので」
信乃は模範的生徒だ。勉強でも、今こうしてスポーツでも。家庭的なこともあるのだろう、「ちゃんとしなきゃ」「しっかりしなきゃ」。そういった責任感に一人で捕らわれている。
でも彼女が欲しかったのは立場でも権威でもない。本当に欲しかったのは、ひょっとしたらこんな言葉だったのかもしれない。
「泣くの早いって。涼風じゃないんだから」
「それ言ったら確実に怒られますよ。でも涼風ちゃんなら笑って許してくれそうですが」
「笑いながら殴られそうだな」
「あり得えます」
「っていうか!中継所行きバスがそろそろ出るんじゃ」
「はっ」
視線の先には今にも出発しそうに暖機運転をしているバスが2台。
急に信乃の顔が青ざめた。
「やばいやばいやばい、栃岡先生、それでは!」
「おう! 第4中継所で待ってるぞ!」
信乃は吸い込まれるように中継所行きのバスに乗り込んでいった。
意外と抜けてるところあるんだよなぁ……って、たまたまか。
なんとか間に合った様子の信乃を見て安心する。
よっし、じゃあそろそろ第4中継所に移動するか。
都大路は全長10kmほどの往復コースにて行われる。ゆえに各中継所は京都市内に点在している。
通常チームの監督は西京極陸上競技場にいるのが普通。
でも俺はそういうの苦手だ。できるだけ選手と連絡を取りながら、選手のサポートをしていきたい。
ということで今回は第1中継所で涼風の見送りをしたのちに1㎞移動して第4中継所で京子のサポートをするつもりだ。また北信越駅伝みたいに全区間を走りながら移動して応援した気持ちもあったけど……さすがに諦めた。
都大路はとんでもない人数の人がおり、その中をキロ3分ほどのスピードで行くのはあまりに危険だ。こんな場所で無駄なトラブルは起こしたくないしね。
そろそろスタート1時間前ということもあり俺も移動することにした。早めに動いておいて損はないだろう。第1中継所までは軽く走って30分弱、道の混雑状況も考えれば早めに移動しておいて損はない。
俺はウインドブレーカーの音をシャカシャカ立てながら、五条通を走り始めた。
走り始めて競技場の石畳に入ったときにすぐ気付いた。今日はかなり空気が冷たい。まるで冷却された水を一気に飲み干すような感覚だ。
空も曇りがかって晴れ間が見えない。最高気温が3度とか言ってたけど、体感的にはそれ以上だ。氷点下まで行ってるような感覚。
走って身体温めないとだな……と思って意識的にペースを上げた、その瞬間だった。
抜かれた。
後ろからくるランナーに抜かれた。
一瞬で。一瞬で抜かれてしまった。
俺もキロ4分は切っていたはずなのに。
「誰だ!?」
見ると10メートルほど先に1人の選手がいた。真っ赤なウインドブレーカーに、足元は……イフシンのウェスパーフリー1000%!? あれほどのシューズを履いた選手がなぜ、こんな場所で走っているんだ!?
くそ、なんか抜かれたのは悔しいな。高校男子の選手でもなさそうな実業団選手に見えるけど負けるのは悔しい。
よし、と一声言うと俺は意識的にペースを上げた。1キロあたり3分ペース、これなら普通の選手なら間違いなく追いつける。
頬をかする冷たい風がいっそう冷たくなる。足裏から受け止めるダメージが一層強くなり、大腰筋にまでその反動が伝わるのを感じる。
よしこれであの選手との距離も縮んで―――――いない!?
見るとさっきよりも差が広がっていた。それはもう100mほどの差になっている。
手元のウォッチを確認すると確かにキロ3分ペース。これはトップランナーの域なのに、前の選手はそれよりも速いペースで俺を突き放す。
ということは2分50秒くらいのペースってことか? あり得ない。あんなペースでもう2kmくらいは走っている。間違いなく、かなりのレベルの選手だ。
でもいったい誰だ? あれほどのスピードで軽々走る選手なんて実業団でもトップレベルのはずだ。
スカウトに来た人なのだろうか。それか趣味で観戦に来た選手かな?
あれこれ思索を巡らせていると西大路三条の交差点までやってきた。路面電車も走る風情あるこの場所は前回の試走で京子が立ち止まってしまったところだ。そう、つまり今朝白さんの最後の場所。
その場所に来た時に気づいた。さっきまでのランナーがいなくなっていた。
急にどこかに曲がったのかな? やはり近所でのランナーだったのかな。
しかしさっきの選手気になるな…… あとで調べてみようかな。
都大路のスタートまで40分前。
俺は自分が不思議な出会いをしていたのだと、あとで気づくことになった。




