都大路② 朝を呼ぶ陽気な君
「二度と電話してくんなこの中二野郎!!」
私、吉川朝陽はガチャリと電話を切って、彼に別れを告げた。
……はずだった。
新年度の二ノ丸高校の校務分掌の名簿を見て、忘れようとしていた記憶がよみがえった。
「新入りの教諭、『栃岡翔』って。同姓同名じゃないわよね?」
まさかと思っていたら、そのまさかだった。
私が振った翔は、ビクビクオドオドしながら二ノ丸高校に赴任してきた。
私は正直戸惑っていた。
あんな振り方をしておきながら、彼になんと顔を合わせたらいいのだろうかと思い続けていた。
正直、翔のことが嫌いなわけじゃない。むしろ嫌いになりたくないから別れたのだった。
翔は陸上の強豪・明英大学に進学して陸上漬けの生活を送る。女遊びなんて無縁なストイックな生活を送らないといけない、というのは彼の口からよく聞いていた。
だから、私のことを嫌いになる前に振ってしまった。
大学での翔の活躍はずっと見ていた。活躍なんて言えるものじゃないことも知っていた。翔が記録会で17分もかかったときは本当に自分の選択を後悔した。もしも私があのとき振っていなければ。いつまでも彼のことを一番近い存在で応援できていれば。
なんでぐずぐずした思いをずっと続けていた。最後の箱根駅伝の予選会で悪くないタイムを出して引退することを知ったとき、正直安心した。これで翔も私も楽になれるんだって。
そう思っていたのに……なんであなたは私の前に現れるの。そしてまだ走り続けていたの―――――――
「おい、朝陽、帰るぞ」
アディノの京都店で買い物を済ませた駅伝部一行。私はその終わりを待っているうちにウトウトしてしまっていたのだった。
「ごめん。何かいいのあった?」
「おう! このモデルチェンジした『ゼロディノ』を手に入れちゃったんだよ。いやすごいよな。EVAをさらに改良したEVA-Φをアウトソールに採用。クッション性はそのままに重量を10%削減し、反発性を5%向上。さらにシューレースにも改良を加えて――――」
「細かいっての! 要するに、いいもの買えたんだね」
「そそ。みんなも、楽しかったみたいだぞ」
見ると、駅伝部の子たちも何か買っているみたいだった。都大路なだけあって全体的に割引されているのだという。
陸上やってないからよくわからないけど、こういうのって見るとハマっちゃうのかな。
アディノの店を出た後、寺町通を河原町の方へ歩いてく私たち。今日は午前中に試走をしていたので午後は京都探索なんだと。大会までも引き込まってるのも体に悪いっていう、翔なりの判断だ。
私としてもこういう心配りは嬉しい。大学の卒業旅行は韓国だったし、学生時代は国内旅行も結構行った。でも京都ってなかなか行かなかったのよね。
京都は観光名所しか行かなかったけどこういう街並みもいい。いわゆる観光地ではないけど、道行く人はみんなきれいな京都弁で、京都っぽさを感じられる。
……本当は、翔と二人で歩いて、色んなもの指さして感想を言い合いたいんだけどなぁ。
見慣れない景色に駅伝部の子たちもうれしそうだ。
「あー見て見て! このドレスすごーい!」
四条通のある店を指差して涼風ちゃんが声をあげる。
「ウェディング……ドレス?」
そこには真っ白なウェディングドレス。絹を使っているかのように見えるその生地は美しい。まさに花嫁の純白のイメージを表している。
駅伝部の子達はそれを見てただただすごいと言っている。最近の子にしては珍しくカメラ撮影もしない。
そう言う私もそのドレスは美しいと思った。でも心を奪われるというほどのものではない。前に読んだ恋愛小説で「結婚式に憧れではなく焦りを感じたら、女の子は卒業だわ」なんて言ってたっけ。私もおばさんになったのね。
みんな若いなーなんて老婆心を抱いていると、千香ちゃんがニコニコしながら話す。
「吉川先生って、ウェディングドレスを着る予定あるんですか?」
急にどうしたの? ……まぁ年頃の女の子なら興味抱いちゃうのかな。
「今のところはないかなー。みんなに先越されちゃうかもね」
予定がないだけなんだからね。や、やろうと思えば相手に求めるハードル下げていくらでも出来るわよ。
「吉川先生結婚早そうなのに! じゃあ好きな人いるんですか?」
「え、えぇ!?」
さっきまで翔のこと考えてたから急に困っちゃうじゃん!
え、えと、どう乗りきればいいの?上手い返しが思い付かない!
「い、いないことはなくなくないよ!」
「どっちですか!?」
うわぁ私バカ!混乱してるのバレバレじゃん!
「ふ、ふふーん。どっちだろうね~」
「先生ずるい!そうやってまたごまかす」
なんとかごまかせたみたいね。危ない危ない。
とはいえ、こういう返しも考えておかないとなのね。高校教師って大変……
本当のことなんて言えるわけないじゃん。みんなの前を歩く、顧問の先生のこと。今でも忘れられないくらい好きなんだってこと。
いつかは決めないと思ってる。でもまだ私にその勇気が出てこない。今は都大路に集中しなきゃダメ。
だからもう少しだけ応援させて。
同僚ってことでいいから。そうすれば何も気にすることなくあなたのそばにいられるーーーーー
なんか視線を感じるな?
俺はくるっと後ろを振り返る。
そこには俺のことを凝視する朝陽がいた。
「俺のこと見つめてどうしたの?」
「ひゃ、ふ」
朝陽は急に慌てたような素振りを見せている。
彼女はあたふたしつつも、美しく伸びたロングの毛先をいじりながら話す。
「向こうに気になってるお店があったの」
居心地悪そうに忙しく毛先をいじる朝陽。これ以上の詮索は止めた方がいいのかな。
なんか最近、ふと朝陽の様子がおかしくなるときがある。視線を感じるかと思えば「考え事していた」とか「遠くを見ていた」なんて言う。俺の考えすぎかもしれないけど。
さっき千香と朝陽が話してるのを聞く限りは彼女も彼氏くらいいるんだろう。まったく誤魔化すのが上手いやつめ。俺のことなんて全然興味ないとか思ってるんだろうな。
「さて電車乗って帰るぞ」
長居しすぎるのもあれだろうと3時を回ったそのときに帰ろうとした。まだ早いけど日が沈めばすぐ寒くなっちゃうからな。
俺が地下鉄の階段を下ろうとしたそのときだった。涼風が俺を呼び止める。
「センセー、先輩たちと稲穂に何かお土産でも買っていかない?」
そういえば、京子と信乃と稲穂はニチヤクで留守番すると言っていたな。なんでも課題が終わらないとか言ってた。まったく、京都まで来てお勉強とは熱心なものだ。
「そうするか。3年生は受験もあるからしょうがないけど、稲穂も勉強熱心だな」
一応誘ったんだけど、稲穂はかたくなに外に出たくないと言っていた。
そばにいたサクラに、勉強なら家で一緒にやればいいのにな、と笑いかける。
俺としては軽い気持ちで言ったはずだった。でもサクラは、急に表情を固くしてしまう。
強い拒絶感を感じた。いつも明るくフレンドリーなはずのサクラ。でもその時は、その話題に関する嫌悪すらも感じた。
なんでだ? 稲穂とサクラは喧嘩したのか?
疑問に思っていると俺の携帯電話が急にけたたましく鳴る。発信元は「河田」の文字。午後練習をトレーニングルームで行うと言った彼には、駅伝部居残り組3人を任せてある。といっても、何かあったら連絡するように言っただけだが。
でも電話してきたということは、もしかして……
俺は恐る恐る電話を通話モードにする。
「も、もしもし」
「先輩? 今いいですか」
「うん。どした?」
「稲穂ちゃんがすごく体調悪いみたいなんですよ。かなり高い熱みたいで、ベッドからも出れないみたいです」
「それって、風邪ってことか?」
「だといいんですが、時期が時期なんで最悪インフルエンザかもしれないです」
インフルエンザ。
嫌な予感がした。ていうかこのパターン、どこかであったような。
俺がそう思ったのを感じ取ったわけではないだろうが、そばにいた寺門が何か感じ取る。
「栃岡先生、どうされたんですか?」
彼女、昨日まで学校があったので今日の試走から合流していた。
「稲穂が高熱を出したそうだ」
「稲穂ちゃんが?」
その瞬間、俺たちの空気が一気に固まったのが分かった。
とりあえず1回電話を切ろう。
「河田、俺これから帰るから、それから病院に行く」
「いいですよ。僕連れていきます」
「そんな、河田に感染したらどうするんだよ」
「そんなことよりも早く連れていくことでしょ。病院閉まっちゃいますよ」
「……すまない」
「いいんです。いったんニチヤク着いたら、連絡ください」
「いや俺は直接病院に行くよ」
「了解です。ではそれで」
俺は携帯電話を切る。
「朝陽!」
「は、はい!」
朝陽は珍しく慌てた様子で返事をする。
「みんなをニチヤクに連れて行ってくれ。俺は河田と稲穂の行く病院に行く」
「別行動ってことね。分かった。気を付けてね」
「ありがと」
俺は駅に向かっていたところの踵を返し、靴の紐を締める。
京都の町なら大体頭に地図が入ってる。それによればーーーー
電車よりも走った方が早い!
俺は京都駅の方に走り出した。
走り出すと景色は早く過ぎていく。ほんの20分くらいだろうか。厚着なのに、じんわり体が暖かくなるくらいに病院についた。
河田が言ってたいい内科の病院がここにあるんだとか。京都駅の北口方面。ニチヤク御用達なんだとか。
最近のクリニックな感じのきれいな待ち合い室を通りすぎる。看護師さんに高校の教員であることを伝えると、奥で点滴を受けている稲穂のもとに連れていかれた。
ベッドには稲穂。顔を真っ赤にしながらすやすや寝ている。そばには河田が、小説を読みながら待っていた。
「お疲れ様です。早かったですね」
「一番早い交通手段使ったからな。で、稲穂だ」
「ただの風邪ですって。インフルエンザ検査は陰性。諸症状からいってもその可能性は低いそうです」
「よかった」
河田の横の椅子に座り、ほっと一息をつく。
これでインフルエンザとか言ったらやばかった。駅伝部のみんながいつでも感染する恐れがあるばかりじゃなく出場すら危ぶまれる。
「河田もありがとな。稲穂を連れてきてくれて」
「ちょうどメニュー終わったところなのでいいんですよ」
俺たちが談笑していると稲穂が目を覚ましたようだ。
「先生?」
まだ点滴が腕に痛々しく刺さっている。
「稲穂」
俺は彼女の肩を力強く掴む。
「ど、どうしたんですか」
「なんで黙っていた」
「黙ってたってーーー」
「なんで熱が出たことを黙ってたんだよ!こんな大事な時期に!」
はっきり言って俺は冷静じゃないんだろう、この状況。俺は稲穂の肩をガッチリ掴み彼女の顔を見つめる。
「は、走りたかったからです。昔から憧れていた都大路を走りたかったから」
「チームを危険にさらしていたんだぞ!一人走れないならまだしもチームが全滅したらどうするつもりだったんだ!」
気付けば俺は稲穂を叱っていた。
稲穂はただうつむいたまま、俺の話をサンドバックのように受けていれていた。
河田はただ黙ってそれを聞いていた。肯定することも、否定することもせず。
俺は一通り怒り疲れたところで再び席に座り、疲労感を覚えつつも席につく。
「都大路には出せない。症状が治ったとしても、メンバーとして起用するのはリスクが高すぎる」
「はい……先生、ごめんなさい」
「いいんだ。俺も少し感情的になってしまった」
「みんなにごめんないと言いたいです」
「言わなくても気持ちは伝わってるだろう。まぁサクラは怒ってたみたいだけど」
「ケンカしたんですよ。『素直に言えばいいのに』って言われて、そんなことないって言ってたんですけど、本当にその通りになっちゃいました」
そんなことだろうと思った。そういえば夏にも、こんなことがあったんだっけ。
「仲直りはしたのか?」
マスクをつけたまま苦笑いする稲穂。答えはNOだったようだ。
やれやれ。くっついたり離れたり。忙しいな。
「本番までには仲直りしておくんだぞ」
「はい」
稲穂はニチヤク寮にて隔離されて都大路までは過ごすこととなった。安静にしてれば都大路本番には外に出れるらしい。普通の風邪でよかった。都大路は一緒に戦える。
帰りは河田と別れて稲穂と二人でタクシーで帰った。
マスクにニット帽、パーカーの上にウインドブレーカーという超厚着。新潟駅で会ったときにもこの格好だったのは、そういうことだったんだな。
「龍丸散も飲んだのに治らないんですよ。どうなっちゃったんでしょう私の体……」
行きかう車のライトや街灯が絶えず稲穂の顔を照らす。
「コーラは飲んだ?」
「え?」
「風邪ひいたときにはコーラが効くんだぜ。高校のときに大森監督が言ってた。俺、高校の時からよく飲んでるけど全然風邪ひいたことなかったわ!」
「なんですかそれ!?」
「コーラの炭酸に殺菌作用があって、適度な糖分で栄養補給もできる。カフェインは風邪薬にも使われてるんだって」
「いやいや無理あり過ぎじゃないですか!?」
「本当本当!騙されたと思って飲んでみろって!」
俺はニチヤクの近くまで来るとタクシーにおろしてもらい、コンビニのセブントゥエルブでコーラを1本買う。
ぐるっとキャップをひねるとそれの稲穂の前に突き出す。
「ほらほら飲めって」
「は、はい」
半ば信じられない様子の稲穂。俺はほらほらとせかして稲穂にそれを飲ませる。
稲穂ののどから美味しそうにゴクリゴクリと飲む音が聞こえる。
100mlほど飲んだところで稲穂はコーラを口元から離す。
そして、一言。
「美味しいです」
「だろ、あはははは!」
戸惑っていた様子の稲穂だったが俺のそんな様子を見て笑顔になってくれた。
「そうですね、あは、はははは!」
やっと少しは気持ち的に元気になってくれたようだ。
そのままコーラを一口、また一口と稲穂に飲ませながらニチヤクの寮まで歩いていく。いくら体調が悪いとはいえ体力があるだけあって動けるようだ。
そしてニチヤクの寮までもう少しというところまできた。しかし急に稲穂の足取りは重くなってしまう。
「どうした?」
稲穂はうつむきながら呟く。
「みんなに会うのが怖いです」
だろうなぁと思った。急病になったことはみんな知っていることだ。どんな視線が来るのは大体予想がついているのだろう。
俺は稲穂の方をそっと押した。
「素直に謝ればいいんだよ。ごめんなさいって言えばいい」
「それが難しいんですよ」
「分かってるから言ってるんだよ」
ふぅ、と稲穂は何か覚悟を固めたようだった。
「行かないとですね。行ってきます」
ニチヤク寮の裏口ドアに稲穂が手をかけたその瞬間だった。
「イナホオオオオォォォ!!!」
玄関ドアを内側から突き破ってくるようにしてサクラの声が聞こえた。
「ええぇ!?」
稲穂はそれに身構える暇もなく玄関ドアが激突する。分厚いドアに吹っ飛ばされる稲穂。
確実に1.5mは浮いた。稲穂は俺に抱きかかえられると、ぐるぐると目を回している。
「大丈夫か!?」
と俺が言ったのもつかの間。サクラが俺に抱きかかえられている稲穂に自らハグをしに行く。
「イナホぉ! ブジ、だったノデスね!」
半ば涙目のサクラ。それを聞いて涙目になっている稲穂。
「サクラ、ごめん。ごめんね」
「オーライ。ワタシこそ、イナホのコト嫌いにナってシマイマシタ。ソーリー」
「いいの。私もごめん。ごめん」
俺の目下の悩みの一つはなくなった。仲直りを心配する以前に、仲は直っていたんだな。
やれやれいつもこんな感じじゃないか。というかサクラ、知ってたならもっと早くいってくれよ……
そして俺はもう一つの目下の悩みについて考え始めていた。
――――――――メンバーを入れ替えないといけないな。
1区漣、5区京子は固定だろう。しかし2区の稲穂を欠くとなると、2~4区で涼風・サクラともう一人配置しないといけない。
千香はまだまだ実戦レベルじゃないし……
一番タイムがいいのは寺門?いやそもそも高校違ったわ。
あ、朱も使えるじゃん! って、まだ中学生じゃないか。
板倉と占部!も実業団か。
朝陽は……いや陸上やってないしそもそも先生じゃん。ううぅうん。
いやちょっと待て。重要なメンバーを忘れていたじゃないか。
駅伝部のメンバーが騒ぎに反応して何か何かと降りてくる。
その中に見つけた。彼女を!
「信乃、出番だ!」
俺は目の合った彼女に手を指しだす。
「わ、私……?」
黒髪ロングの髪が京の冬風に揺れた。
都大路まであと3日。俺は大きな決断をする。




