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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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東体大記録会④ フィニッシュラインのその先は

「漣ぃ!今日だけは許さん!」

 俺は目の前の美少女、常盤漣に向かって激怒する。

 彼女も彼女で腕組みをして徹底抗戦の様子だ。

「しょ、しょうがないでしょ! 周回を数えてる余裕なんてなかったんだから!」

「鐘鳴らされてからあと1周だけ走れば良いだけの話だろ!なんで2周いっちゃうんだよ……」

 俺はもう涙目だった。

 漣は垂水実業の織田、岸部の横越、明英大の入島を振り切ってゴールしたかに思えた。しかし彼女はフィニッシュをせずあろうことかもう1周余計に走ってしまったのだ。

 おかげでタイムは17分08秒と平凡なタイム、順位も後ろから3番目という結果に。

「あれがなければ、今季高校2年女子ランキングで3番だったんだぞ!あれがなければ」

「いいじゃん。5000mを15分49秒で走って、織田新子に勝ったのは事実だし」

「開き直るな! 記録残んなきゃ意味ねぇだろ!」

 漣は何一つ反省していない様子だ。ああもう、そういう態度されるとこっちもこっちで怒るのやめられないだろ。

 あまりの剣幕に怒りまくる俺だったが、見かねた木林が制裁に入る。

「栃岡、漣ちゃんだって頑張ったんだしーーーー」

「おっさん誰だよ!初対面なのにちゃん付けとか馴れ馴れしいのよ!」

「俺がおっさん!?」

 完全に凹む木林。膝からは力が抜け、おろおろとその場に倒れていく。

 慌てて近寄る夏純。跪く木林の肩にそっと手を乗せる。

「木林先輩! 安心してください、髭の濃さだけですよ!」

「夏純ちゃんやめて……もっと傷つく……」

 木林は跪くだけでなく地面に思いっきり倒れた。

 何やってんだあいつら。んまぁ放っておこう……

 俺は深ーいため息を1つつく。

「とは言え、漣がチームナンバーワンであることは十分分かった。織田も調整不足だっただろうが、横越にも勝ったんだ」

 そうなのだ。漣は垂水実業の織田、岸部の横越にも先着するほどの好タイム。漣の1つ前もニチヤクの板倉であった。

「そんなにすごいことなの?」

「そもそも高校女子で15分台を出せることが稀なんだ。1年に10人もいない」

「ひぇ、じゃあ私、今年の全国ランキング10番くらいってこと!?」

「ちゃんと走りきっていればな……」

 改めて思う。悔しい。本当に悔しい。

 これで本当に1周多く走らずにフィニッシュしてれば全国の大学からスカウト来るレベルだ。もちろんニチヤクの陸上部も誘うくらいだろう。

 とはいえ、結果は結果だ。タイムを残せなきゃしょうがない。スポーツの難しいところだな。

「さて、今日はさっさと帰るぞ。早くしないと家着くの日越えちゃうぞ」

 俺が駅伝部員に声をかけたのを見て、驚く夏純。

「え、先輩達、今日新潟に帰るんですか?」

「まぁな。もう1泊する余裕はないからな」

「そんなぁ、明日また会えると思ったんですが」

 夏純はこのあと続く男子5000mのタイムとりもやらなくちゃいけないんだとか。これでお別れになってしまう。

「箱根出場校のマネージャーは大忙しなんだな」

「それが華なんですかね。でも都大路、応援してます! 箱根が近いので観には行けませんが……」

「ありがとうな。きっと、いい結果出してくる。部員達(みんな)のためにも」

 寂しそうな表情を浮かべる夏純の頭をそっと撫でる。

 夏純は本当に健気な子だ。誰かのために尽くしたい気持ちがなければマネージャーなんて出来ない。夏純の表情を見てればよく分かる。

「センセー、まだ帰らないの?」

 なにやら不機嫌そうな表情の涼風。そんなに遅れるのが嫌だったか?

「悪い悪い。じゃあ夏純、じゃあな!」

「あ、いや、ちょっと待ってください!」

 夏純は急に俺のことを呼び止める。慌ててマネージャーバッグから何か取り出すと、俺の腕をぐいと掴む。

「これ、最後の1つです。部活辞めちゃった子がいて余ってたんです」

 俺の手に載せられたのはお守り。マネージャーお手製なのだろう、紫色の「M」マークがかわいらしく縫い付けてある。

「こんなの貰ったら監督に怒られちゃうよ」

「いいんですよ、黙っていれば」

 にぱっと笑顔を作る夏純。

「ありがとな。都大路、テレビで俺たちのこと探してくれよ」

 こんなの渡されたのいつぶりだっけな。それこそ明英大にいたぶりかもしんないや。

 俺と駅伝部一行は夏純やニチヤクメンバーに別れを告げて競技場を去っていく。

 まだトラックでは競技が行われていた。いよいよ14分台前半を狙う組になって俺も観たい気持ちが強かったが明日も学校だ。

 最近は教頭はじめ理解者が増えつつあるが、それに甘えてばかりもいられない。高校生は授業に出なきゃだめだし、教師は授業をしなきゃだめだ。

 東体大の陸上競技場を出ると、暗い道を通って原宿駅に向かう。右手にはサッカー場、左には東体大の巨大なキャンパス。

 一歩陸上競技場を出れば一気に閑散とした雰囲気になる。熱気溢れるトラックとは全く逆。東京の中心地にも関わらず静かなものだ。

 京子も気持ちは同じだったようだ。

「なんか、渋谷区とは思えないくらい静かですね」

「そうだな。隣が代々木公園だからかもな」

 レース後の興奮も冷め止み、疲労感のある様子の京子。

「京子はいい走りだったな」

 京子のタイムは16分13秒。県駅伝5区5kmでの16分38秒の区間賞タイムから更に上げてきた。

 ちなみに今日の二ノ丸高校のタイムは


 漣   15分49秒(17分08秒)

 京子  16分13秒

 涼風  16分21秒

 稲穂  16分36秒

 サクラ 16分41秒

 信乃  17分02秒

 千香  17分35秒


 なんかレベル感が急に上がってきた。漣というおっちょこちょいエースに加えて、それ以外の選手も5km平均16分中盤ほどのタイム。

 3000mのタイムじゃないので他校との比較は出来ないが、ここまで長い距離に適性のある学校もあまりないだろう。3000mベストが9分50秒の選手が普通はギリギリ16分台くらいなイメージ。だとするとみんな3000m9分半くらいの力があるってことだ。

 ナイスランをして褒められた京子は、恥ずかしさを押さえられない様子。紅潮して話す。

「いえ!追い込み切れなかったのでまだまだです。やっぱり強い選手のいる記録会は緊張しますね」

 京子は今朝白さんのトラウマを克服したとはいえ、やっぱり元から緊張するタイプだ。レース前なんてただでさえ小さい体がもっと小さく見えたもんだ。

「若いころはどんないいレースでも『まだ出しきれなかった』って思っちゃうものだよ。今回は直前に5000mが決まったから心の準備もあったしね」

「でも楽しかったレースでした! まるで夢を見てるみたいでーーーー」

 グゥーーーーー……

 突如、お腹の鳴る音が聞こえる。

「はっ! はわわ」

 京子は急に縮こまると顔をリンゴのように真っ赤にさせる。緊張がようやく解れたのだろう、お腹が減ったみたいだ。

「ん?誰か今お腹鳴った?」

 5mほど前を歩く漣が急に反応する。地獄耳ですか?

「わりわり、俺だよ。このあとご飯食べにいきたいなと思ってて」

「走ってないのに一番お腹減ってる!? んもぉー、どっか寄ったら帰り遅くなっちゃうじゃん」

「駅の近くにいい店があるんだよ。みんな疲れてるからちゃんとしたもの食べたほうがいい」

 んもぉー分かったよーと返事する漣。

 萎縮したままの京子はようやく口を開く。

「栃岡先生ありがとうございます…」

 今にも消えてなくなりたい、そんなこと言い出しそうなくらい真っ赤な京子。恥ずかしがり屋さんだ。

「いいんだ、俺も美味しいもの食べたかったからね」

「上手く利用されちゃいましたね」

「お互い様かな」

 夕飯を東京で食べて帰る方針に決定した二ノ丸高校駅伝部。俺たちは新幹線の時間を気にしながらも原宿駅に向かったのであった。

 原宿駅、といってもお目当てのお店は竹下通りのように賑やかな場所にはない。稲穂は「行きたかったのに~…」と終始残念そうだったがそこはごめんなさい。竹下通りを左に見ながら坂を上っていく。

 そして代々木の方に歩いて5分ほど、閑静な住宅街に差し掛かろうとしたときにその店はある。名前は「大都会厨房」、レトロな雰囲気がある洋食屋だ。

 店の外観を見た朝陽は、はっと何か思い出した様子。

「あ、ここ前に映画で見たことあるわ。『2月のチーター』で映ってた」

「よく知ってるな。そうそう、あんまり混んでないし、雰囲気いいから好きなんだよな」

 俺は得意な顔で店の暖簾をくぐる。

 いわゆるコック帽的なものを被ったマスターが俺達を出迎える。

「いらっしゃいませ、何名様でーーーあぁ!栃岡さん!」

「お久しぶりです。また、来ちゃいました」

「いやはや、お久しぶりですね!」

 この店は会社に勤めてたことによく来た店だ。マスターとはちょっとお話するくらいだが、キツいキツいサラリーマン時代を支えてくれていた。

「実は転職して、地元で教員になったんですよ。今日は教え子を連れて大会でした」

「なるほど、だから今日は部活の生徒さんが多いんですね」

「え、それじゃひょっとして」

 マスターの奥を見ると、そこには真っ赤のジャージ、全員男の子みたいなショートヘア……垂水実業のメンバーが勢揃いしていた。彼女たちもここでお食事中だったようである。

 もちろんそこには織田新子の姿もあった。彼女は幸せそうに、ニコニコしながらラーメンのスープを飲み干そうとしていた。俺達のことなんて全く気づいていないようだ。

「あぁー!織田新子がいる!」

 とっさに気づいた涼風に、織田新子も気づかないわけなかった。

「おぉ、お疲れ様やな。常盤涼風さん、結構ええタイムやったな」

「へ、何よ!高校生1位のタイムだったからって偉そうに!」

「なんや!別にバカになんてしとらんわ!」

 急に喧嘩が始まる涼風と織田新子。ちょ、ちょっと涼風さん?さすがにお食事中の人に向かって失礼じゃないですか?

 涼風は完全に調子に乗っていた。

「へーんだ!二ノ(わたしたち)のことバカにしてたのに、おねーちゃんにタイム負けてるじゃん!ざまぁないわね!」

 ずっと席に座っていた織田新子だったが、この言葉を聞いたときに様子が変わった。彼女は急に席を立ち、俺達のもとへと歩み寄る。

 明らかに強張った彼女の顔は、さっきまでの感じではない。

「あ、ごめ、言い過ぎちゃった!? ごめん!ごめんなさい!!」

 急に必死に謝り始めた涼風ーーーーを通りすぎた織田新子は、奥で呆れ顔で聞いてた漣に対峙する。

「な、なによ。近いんだけど」

「常盤漣」

 織田新子は、頭を深々と下げる。

「すまんかった。二ノ丸高校をバカにしたこと、漣のことをバカにしたこと」

「ちょ、どうしたの急に」

「今日はわての負けや。身体は動いてたのに、全力のスパートやったのに、最後で負けてもうた。これは完敗や」

「…………」

「本当は持ちタイムなんて関係なかったんや。それなのにわては……おごって、二ノ丸のことをバカにしてもうた。ほんま、悪いことした思ってる」

 織田新子は誠意を持って漣に謝る。謝罪の言葉を並べていく姿に呆然とする漣。

 俺も正直、こんな彼女の様子を見てビックリした。あんなに勝ち気で、プライドが高い織田新子がこんなことをするなんてーーー

 多分、自分の負けを認めたからこそ、こうやって過去の過ちを謝罪しているのだろう。スタートラインに立ったらみんな平等だし、ゴール後には勝敗がついている。彼女はそれをよく知っているのだ。

「わてはほんまに、申し訳ないと思ってるんや」

「で、なによ?」

「へ?」

「だから何って言ってんのよ」

 漣はそんな織田新子の話なんて全く耳に入っていない様子だった。

「確かに新子にバカにされたのはムカついたけど、でもレースは本当に楽しかったんだからね。今でも心臓がバクバクしてる」

「漣……」

「あんなに燃えたレース初めてだったの。私は感謝してるんだからね、まじで」

 漣の顔色には怒りなんてなかった。むしろなんていうか、すごく充実した表情だ。

 県駅伝のときに寺門と昔のトラウマをかけて戦っていた目とは違った。

 そして織田新子に手を差し出す。

「だからね、これからもよろしく、だよね。だから握手して」

「せやな、その通りやわ!」

 織田新子はガッチリ漣の手を掴む。

「んま、都大路は周回コースやないから、安心やな」

「ちょ、なによ!」

「せやかてコース間違えへんようにな!」

「きー!やっぱり織田新子嫌いだー!!」

 その日の夕方、原宿の外れにあるこの飲食店は、女子高生達の笑いに包まれたのであった。


「急げ、朝陽!」

 JR大宮駅。俺は一人遅れる朝陽の前を走りながら先導する。

 息も絶え絶えな朝陽は猛烈に顔色が悪くなっていく。

「ちょ、待ちなさいよ!陸上選手と同じだと思わないで!私はただの一般人よ」

「うるせー!誰だよ新幹線の指定席予約を1時間間違えたのは!」

「原宿でマスターと駄弁りまくってたのはどこの誰よ!もー!」

 上越新幹線へと接続する新幹線をダッシュで上る。幸いにも新幹線が到着しかけのとことだった。

「ふぅ……間に合った……」

 俺は徐々にその加速をやめて、脳内を安心モードへと切り替えていく。後ろの朝陽も徐々にスピードを落としながら追い付いていく。

「なんとか……間に合った……」

 あぁ良かった。この新幹線逃すと次は40分後だもんな。はぁ全員で無事に東京遠征終われて良かったーーーーー

 そう安堵しようとした瞬間だった。

 新幹線ホームで先に待っていた京子が、周りを見渡して異変に気づく。

「待ってください、信乃さんと稲穂さんが……いないみたいです」

「まじでっ!」

 遠征で迷子!?

 やばいやばい、新幹線もう来ちゃったし、ドア空いてるぞもう。

 続々と新幹線に乗り込んでいく二ノ丸高校駅伝部。新幹線のデッキに足をかけたサクラが、思い出したように話す。

「わーお、忘レテましタ。シナノと、イナホは、オ手アライに行ってマース」

 なんだと、大宮駅構内のトイレに行ったのか。

 トイレなら新幹線乗ってから行ってくれませんかね!新幹線のなかにもトイレはあるんだけど!

 やばいやばい、もう発車ベルが鳴っている。大宮駅の新幹線ホームから人がいなくなっていくのが分かる。日曜日を関東で過ごした人々の列が、続々と新幹線に吸い込まれていく。

 そのとき、新幹線ホームへのエスカレーターをドタドタ駆け上がる音が聞こえる。

「せ、先生!あとちょっとで追い付きまあああああす!!」

 エスカレーターを駆け上がっているはずなのによく響く稲穂の声。その声の近さから、ギリギリ間に合うかと思った。

 しかし、そのときだった。

「稲穂ちゃん! エスカレーターは走らない、両手でベルトを掴む乗り物です!」

 一緒にいた信乃が稲穂のことを注意する。

「ふぇ、ふええ!?」

 と思ったのが最後だった。車掌の「ドアが閉まります」との声が聞こえる。

 稲穂と信乃はまだエスカレーターの中間らへんだ。ああ、これはもう終わった。

「朝陽、みんなを頼む」

 俺はホームに立っていた朝陽を新幹線デッキに押し込む。

「な、翔! あなたどういうつもり!?」

「みんなを無事に在来線に乗せるんだ。頼んだ」

 プルルルルルル

 プシュー……

 目の前で閉まるドア。俺と朝陽の距離は変わらないが、分厚い1枚の鋼鉄の板が俺達の間にある。

 徐々に俺の視界から朝陽が消えていく。終わったーーーーー目の前から一瞬にしてスーパーエクスプレス、上越新幹線MAXときは姿を消したのだった。

 新幹線ホームにようやく姿を表した稲穂と信乃。稲穂は涙目だ。

「うえええええん! 家に帰れなくなっちゃいましたー!!」

「稲穂ちゃん、まだ終電じゃないですよ。次は20:34発です」

「新幹線ってそんなに間隔短いんですか!?」

「信越線と同じに考えないでください。東海道新幹線は、5分おきくらいに発車してます」

「ほぇえ信乃先輩物知りです……」

「ふふふ」

 稲穂に知識を褒められてご満悦な様子の信乃。そしてなにやら、思い付いたようだ。

「では時間潰しに、新幹線の停車駅名で山手線ゲームとしましょうか。では、大宮!」

 さっきまで絶望していた稲穂は、先輩からの雑な振りに対応する。

「ええ、え、長岡!次は栃岡先生です!」

 急に混ぜられた!山手線ゲームってこれ合コンのノリかよ!

 な、なにがあったっけ……あ、そうだそうだ!

「ほ、本庄早稲田!」

 ふー上越新幹線で乗りきったぜ。次は信乃か。

「高畠」

「「どこですかそれ!?」」

「山形新幹線ですよ。ワイナリーや農作物で有名な場所です。はい、稲穂さん」

「ええっと、ええっとーーーーうわあああああああ!!」

 ……俺と信乃と稲穂の山手線ゲームはヒートアップし、いつしか国内の駅名全部を対象とした壮大なゲームになっていた。

 そして、40分後。

 今度は2階建てのMAXじゃないときがやってきた。自由席だったが、なんとか3人席は確保できた。俺は一番窓側に、信乃、稲穂と続いて席につく。

 リュックサックなど大きな荷物を棚に入れたらば、ようやくゆっくりできたことに一息つくのであった。明日も学校で授業か……準備しないと……なんて思うと少し憂鬱な気分になるのであった。

 稲穂は席についた瞬間、落ちるように眠ってしまった。よっぽど疲れてたんだろう。よだれを一筋つけながら眠っている。

 信乃は信乃で勉強を始めていた。ポニーテールにまとめてあった髪は下ろしてあって、コンタクトを外してメガネをかけている。それがまた花柄のフレームでなんともおしゃれなのだ。

 見ると、大学入試の問題集を開いている。オメガベストの物理基礎問題集とか書いてあるな。

「信乃も基礎編の問題集をやったりするんだな」

「机に迎えない時間は基礎の総復習に当ててるんです。帝大の入試はハイレベルな問題ばかりですが基礎力は大事なので」

 やっぱり成績優秀者は違うな、受け答えがちゃんとしてる。ていうか信乃は物理選択か。教頭が確か物理専門の理科教員だから影響あるのかな。

「ていうか信乃は疲れてないの? 稲穂なんてぐっすりだけど」

「それなりに疲れましたよ。でも、今は……」

「ん?」

「今はーーー悔しさをぶつけたいんです」

 そう言った信乃は問題集をたたんだ。

「17分台のタイム自体は、しょうがないかなと思ってます。でも北信越メンバーを逃した涼風さんの伸びには歯が立たなかったと思うと、私も大したことなかったんだと思うんです」

「そんなことない。17分台っても16分台にいけそうなタイムだったんだぞ」

「それでも涼風さんや稲穂ちゃんには全く及びませんでした。私の努力不足です」

 努力不足……

 いや、そんなことない。信乃はめちゃくちゃ頑張った。

 そもそも17分一桁のタイムも高校生では県トップレベルだ。秋以降から部活を始めたにしては上出来すぎておつりが出るくらいだ。

 それに……勉強と駅伝、どっちも頑張り続けたのは他でもない信乃じゃないか。

「どんなに頑張っても調子が上がらないときもあるさ」

「ここにきて実力不足なのかもしれませんね」

「いや、実際ほんのちょっとの経験の差だと思う」

「私をフォローしようとしてるんですか?」

「昔から嘘は苦手なんだよ」

 そう言うと信乃は、ふっと笑った。こうも言いますかと言わんばかりに。

 彼女は耳にかかった髪をまくった。

「試合が終わったときに思ったんです。『もう終わった。私の駅伝はここまでだ』って」

 そんなことない、と言おうとした俺を遮って信乃は続ける。

「でも、県駅伝のときに栃岡先生言ってましたよね。『最後まで都大路を信じろ』って。あれ、思いだしたんです」

 県駅伝ーーー二ノ丸高校は、4区終了時点で絶望的な差をつけられていた。4区を走った信乃がレース中に転倒したことがブレーキになったのだ。

 信乃は責任のあまり涙ぐんでいたが、俺は彼女を慰めなかった。

 京子は言ってた。


「卒業後も『私はずっと都大路を目指してました』って胸張って言いたいんです。だからレース中に折れることなんて、できません」


 だからアンカー京子がゴールするまで、諦めちゃいけないと。

「だから私も、都大路に出るんだという気持ちは最後まで持ち続けます。勉強は勉強、駅伝は駅伝です。折り合いつけて、頑張り抜きたいんです」

「最後まで負けず嫌いだな」

「涙もそれまでお預けです」

 信乃は苦笑いした。そして再び参考書を開き、ペラリとページをめくる。

 次の停車駅は、まだ熊谷だった。

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