都大路試走 ②西大路三条のトラウマ
「マジでビビった……」
京都市内の病院の廊下で肩を撫で下ろした。
今は11時。京子が運び込まれてから30分後のことだった。
西大路三条で京子は倒れた。予兆はあったとはいえ突然のことで俺もみんなも大パニック。
すぐに救急車を呼ぶと病院に直行、人工蘇生などの措置を受けることとなったが……
「原因はストレスと過労って、なんだか拍子抜けたよ……」
医師からの診断結果は、重病でもなんでもなかったようだ。
説明によれば、独特の緊張症と受験のストレスが重なったんじゃないですかーとのこと。実際、倒れたときは意識を失って脈も乱れていたが今は正常だ。というか寝てるに近い。
病室を出た俺と、合流した駅伝部のみんなホッとした面持ちでいた。
「京子が倒れたとき、本当にビックリしたよ」
「あたしも、本当に心臓飛び出るかと思った」
駅伝部のなかで一番慌てていたのは漣だった。京子が倒れるなり、頬を叩いたり身体を揺すったり。半泣きになりながら必死だった。
「でもとりあえずひと安心だ。京子は今日しっかり休んで、明日は走れるといいな!」
「うん……そうだね」
俺はほっとした気持ちになった。
しかし稲穂は、まだ腑に落ちていないようだった。
「でも、ちょっと引っ掛かるんです」
「どうしたんだよ急に」
「おかしいじゃないですか。私が西大路三条の交差点を通りすぎたときに話したら京子先輩はあんなに怒って……本当に怖かったです」
確かに。
あんな京子は見たことがない。いつも後輩思いで、優しくて、決して怒らない気の強さを持った京子じゃなかった。
「それは京子先輩に、聞かなきゃいけないと思います」
「そうだな。まぁ、起きたら聞いてみるか」
俺には若干、心の余裕があった。医者が言っていたようにストレスと過労が原因なんだと。稲穂には想像つかないだろうが受験のストレスって半端じゃないからな。
きっと、そうだと思っていた。
「あ、いた、こっち!」
閑静な病院の廊下に響くランシューの音。
「栃岡先輩! 京子ちゃんは!?」
河田だった。練習後に来たのだろうか、ジャージ姿にランシューというアスリートな格好だった。
「無事だよ、慌てさせてごめんな」
「なんだ……先輩から倒れたって知らせを受けて慌てて来ちゃいましたよ」
見ると、河田だけじゃなく選手の板倉も一緒だった。どうやら一緒に練習していたのだろうか。
「医者が言うには、ストレスと過労だってさ。受験で疲れすぎたんだろう」
やれやれ、という顔をする。メニューを出してるのは俺だけど自己管理までは責任持てない。
ランナーなら、それくらいは自分でこなさなくちゃな。
しかし、俺の言葉を聞いた板倉は急に頭を抱える。
「はぁ……」
「な、どうしたんですか」
「なんでこんな馬鹿が教師と顧問やってんだか……」
板倉は明らかに怒っていた。
え? 俺なにか変なことした?
「板倉さん、どうしたんですか」
「明らかに急激に体調が変化した京子ちゃんを見て『ストレスと過労』? そりゃないわ」
腹が立った。見下したような物言いに、思わずカチンとくる。
「医師からもそう説明があったんですよ?」
「どんな専門家でも、その日初めて会った人の全てを見通すなんて不可能なのよ。適当なこと言ってんじゃないわよ」
「適当なんかじゃないですよ! だいたい、京子の何かを知ってるみたいな言い方、やめてくださいよ!」
「そう……」
板倉は急に穏やかな話し方をする。
「あなた、まだ知らないのね。京子ちゃんの秘密を」
「と、トラウマ?」
「5年前のことよ」
板倉は廊下のベンチに腰を掛けた。
「今朝白健児という選手を知ってるわよね?」
今朝白健児。
10000m、ハーフマラソン、フルマラソンの日本記録保持者だ。
高校時代より日本長距離界を席巻。その類い稀な細い体と美しいフォームで、数々の記録を打ち立ててきた。箱根駅伝では4年連続区間新、世界クロカンでは日本人として異例のメダル獲得も果たした。
社会人になってからもその勢いは止まらなかった。距離を伸ばしてマラソンにも適応した彼は、2時間4分台のアジア記録まで打ち立てた。
まさに日本長距離界の秘宝だった。
「その今朝白さんの最期、知ってるわね」
「えっと、確か……」
今朝白選手はほんの数年前、亡くなったのだった。
それは確か……京都ハーフマラソンだったか?
都大路の女子コースと同じコースで行われる京都ハーフマラソン。
今朝白選手は最初の5kmを13分台で入り猛進、自己ベストである日本記録を更新しようとするペースで走っていた。
京都のコースは日本記録どころか、ほとんどの選手が自己ベストすら更新できないほどの難コースだ。そんなの関係なしに突き進む今朝白選手は、テレビ中継を沸かせた。
でも今朝白選手ってそこから……
「確か最後の5kmくらいのところで……持病だった心臓発作で転倒、頭部を強打してそのまま帰らぬ人になったんでしたよね」
あれはマラソン中継史上に残る大事件だった。俺も明英大の寮のテレビで見ていたが、レース中にいきなり胸を抱えて転倒したかと思うとそれから画面が切り替わった。
映してはいけないものを映したとすぐに分かった。翌日の新聞の一面記事はほとんど今朝白選手の訃報でいっぱいになった。個人的に好きな選手だったから、たしか結構凹んだっけな。
「その今朝白選手の、何が関係あるんですか」
「まだ分からないの? 京子ちゃんの苗字は藩内だけど、それは母方の苗字。父方の苗字があったのよ」
「それってーーー」
「今朝白京子。それが数年前までの、藩内京子の名前」
板倉は説明を始める。
「私はニチヤクに来る前に別の実業団にいたのよ。新潟の、テク二電工でね」
「それって、数年前になくなった実業団チームじゃないですか。今朝白選手がいた会社……」
今朝白選手をレース中に死なせてしまったテクニ電工は当時、監督責任を追求された。陸上界隈では今朝白選手の自己責任とみる見方がほとんどだったがマスコミはそれを許さなかった。責任をとる形でテクニ電工の陸上部は解散、選手は各地に散らばった。
「板倉さんはテクニ電工にいたじゃないですか。高校の頃に何度か記録会で見てますよ」
「そう。私と今朝白さんは同じチームのチームメイトだった。もう昔の話だけどね」
「だから京子のことも知ってたんですか」
やっと話が繋がったぞ。どうりで、自己紹介のときに京子のことを知ってるふうなことを言うと思ったらそういうことか。
「ええ。京子ちゃんは丁度、西大路三条の交差点で今朝白選手の最期を見ていたの。そりゃ父親の最期の場所を通れば平常心ではいれないわよね」
板倉は他人事のように、しかし確かな悲しさを含めて話す。
俺はただそれを聞くしかなかった。顧問のくせに、京子のことをよく知っていると思ってたのに。俺はまだ全然知れてなかったじゃないか。
くそ、何やってんだよ俺は。
「とにかく京子ちゃんが回復したら一度話してみることね。私は治療があるから、それじゃあ」
板倉はそうアドバイスすると、河田を連れて病院を後にするのだった。
カツカツカツ……と響く靴の音。それは俺たちに現実を告げるような冷たさがあった。
残された俺と駅伝部。朝陽が口を開く。
「精神的な病気ね……」
「病気……?」
「お父さんが目の前で呼吸を乱して倒れ込み、血を流した姿が鮮明に残っているのよ。京子ちゃんの頭からはそれが抜けない」
「でも、父親が倒れたことと、京子が走れないこと。そんなに関係あるのかよ」
「恐らく、お父さんの走る姿と、自分の走る姿。この2つが京子ちゃんの中でいつも強く結びつけられているの。だから走るときとか、西大路三条を通るときには様子がおかしくなるの。呼吸も乱れていたでしょう?」
「確かに……緊張症のときもだけど、最近は特にひどいな」
「野球選手とかゴルフ選手は一度のミスプレーが頭から離れずにスランプに陥るけど、それに近いわ。京子ちゃんの脳内に強烈に印象付けられた父親の死。今もお父さんの死を克服できずにいるってことね」
朝陽は養護教諭だ。医学に関する知識は、この中じゃ郡を抜いている。完璧な説明で今までの全てが繋がった。
「センセー、京子先輩は治るの?」
漣が朝陽に不安そうに尋ねる。
「わからないわ。恐らく、ここまで深刻だと昔から治療を受けていると思うから相当長引いてるわ……」
「そんな」
漣はショックを受けた顔をしている。今まで一緒に練習してきて、そんなこと微塵も感じなかったからこそ、衝撃が大きいのだろう。
「正直なところ、都大路を走るどころか、京都に来るのも大変だと思うわ。もし都大路のレース中に今日みたいな発作が起きればそれこそお父さんみたいなことに……」
考えたくもなかったが、朝陽は言ってくれた。
全くもってその通りだ。これ以上、あんな発作を起こさせてまで京子を走らせたくはない。ましてや、今朝白選手と同じような怪我をさせるなんてそれこそ顧問失格だ。
「京子は都大路の出走メンバーから外そう。残念だが、それが京子のためだ」
一同全員、黙って下を向く。
もうこれしかないのだ。京子は都大路を走ることは出来ない。出来たとしても、それが二ノ丸高校の目標達成にどこまで貢献できるか分からない。
最後まで勝負にはこだわりたい。京子がトラウマを克服するのも大事だが、それ以上にせっかくの都大路を大事に走りたい。
これでいいんだ。
ーーーーそのまま時は過ぎて正午になった。そろそろお腹が空き始める時間だが丁度よく京子も目を覚ました。
病室に入る俺たち。京子のベッドを取り囲むように立つ。
病院で着させられた服に身を包んだ京子は朝よりも血色が良くなっていた。少し元気になりながら、しかし申し訳なさいっぱいの顔で俯く。
「京子、落ち着いて良かったよ。そしてごめんな。京子のトラウマに気付けなくて」
俺もみんなも同じ気持ちだった。トラウマのことを言うべきか迷ったがこの期に及んで遠慮は禁物だ。言うことはちゃんと言った方がいい。
「いいえ、私こそ、稲穂さんや皆さんに乱暴に接してしまって申し訳ないです。都大路が終わってから話そうと思っていましたが無理でした」
誰の目も見ずに京子は淡々と話す。
「春の県大会でも同じようなことになりましたよね、先生」
ベッドに横たわる京子と、それを見守る駅伝部員。この構図は何も思い出さない訳はなかった。
「あの時も父のことを思い出してしまったんです。ビッグスワンで走る父の姿を思い出してしまって、それで、もうぐちゃぐちゃになったんです」
今朝白選手は新潟の実業団だったもんな。ビッグスワンで走るその姿を京子が見てないはずないもんな。
「それ以外はずっと地元のレースだったので思い出しませんでした。でも京都に来るとダメですね。毎年治療の一環で都大路を走っているんですが、いつも今日みたいになっちゃうんです」
折れそうな京子の声と、エアコンの音だけが聞こえる病室。誰もその沈黙を破れない。
「いつもいつも、走ろうとするときに父のことを思い出してしまって、その度に、思い出すんです。目の前で苦しそうに吐血しながら、それでも走ろうとする父を。思い出す度に呼吸が苦しくなって……」
朝陽の言ったことは当たっていた。父親と自分の走る姿がリンクしていて、それで苦しくなる。京子は今まさにそれに苦しんでいるのだ。
「もう私どうすればいいか分からないんです…… もう5年ですよ、父が亡くなってから。なのに私は何も成長できてなくて、みんなに迷惑かけて、やっと掴んだ都大路を走ることも出来なくて……」
京子の声が涙ぐんでいたのが分かった。
自分のトラウマを克服できず、稲穂や他のメンバーにキツい言い方をしてしまって。でも都大路を走ることが出来なくて。無念で無念でしょうがないその気持ち。
朝陽は黙っていられなくなったのか京子を受け入れる。
「大丈夫。京子ちゃんは頑張ったのよ。確かに言い方がキツかったかもしれないけどね、みんな気にしてないから。大丈夫、大丈夫よ」
そう言いながら京子を抱きかかえる朝陽。まるで母親のように教師の役目を果たしていた。
京子の目から涙がこぼれ落ちた。
「先生…… 先生……」
見ると、他の駅伝部員もつられて泣いているようだった。
無理もないだろう。今まで駅伝部を実力と心で引っ張り続けた京子が初めて見せた弱みだ。
京子がいなければここまでたどり着けなかった。だからこそみんな感謝しているし、京子の無念さはよく分かっている。同情じゃない感謝の気持ちでみんな、いっぱいだったのだ。
「都大路、私は裏方に回ります。漣さん中心のチームで、入賞、してきてくださいね」
「京子先輩、分かった。もう頑張らなくていいんですよ。あとは私たちに任せてください」
「うん……」
漣は京子の手をとる。そして誓った。
「ありがとうございました。京子先輩」




