夢から覚めれば寒暖差
「はぁ……仕事おわんねぇ……」
真夜中にオフィスは俺一人。直線30m近くある大きな仕事場もがらりとしている。夏だというのに虫の音も聞こえない大都会の会社。
栃岡翔25歳、独身。大学卒業後に就職した会社はブラックIT企業。その仕事に今日も終電まで……いや、翌朝まで追われていた。
「あんな無茶苦茶な開発計画だからバグばっかり起きるんだよ。そのしわ寄せが新人の俺って、典型的なダメ企業だ」
25歳で新人というのも少し遅い気がするが無理はない。だってみんな3年以内に辞めていったのだから。
今は絶賛サービス残業中なのに不思議と疲れはなかった。
いや、感じていないのだ。誰でも経験したことあるだろうが限界を越えた疲れはなにも感じなくなるものだ。今日は土曜日だし明日は唯一の休日!ちょうどいいね!
と自分に言い聞かせるがキツいものはキツい。はは、今日は帰り道にぶっ倒れないといいな。前はマジで線路に飛び降りそうだったもんな。
…………
なんか今日もう帰ったほうがいいかな。電車は途中までしかいかないけど家まで5kmなら歩くか走れば大丈夫だ。今は命が惜しい。仕事なら日曜日にちょっと来てやればいいや。
重すぎる腰を上げる。学生時代は駅伝をやっていたけれども最近は休日も寝るだけの生活。腰回りも、脚も絞まっていない。
しょうがないよ……3年したら転職しようと思ってたんだ。今年がその3年目。絶対に年度末までに仕事を見つけたい。
夏なのでジャケットも着ずにリュックを背負って会社を出た。
北武新宿線に揺られながら30分、急行の駅を降りた。もう家の最寄り駅までは電車がないから歩くのだ。
静かすぎる東京の夜に一人とぼとぼと歩く。
東京都いっても23区外のはずれでむしろ県境に近い場所だ。幹線道路を走る車もまばらだ。
歩いていると背中が汗ばむことが分かった。季節は8月のお盆前だ。当然のこと。
それがすごく鬱陶しく感じられた。湿気の多い東京の熱帯夜を、あと30分以上も歩くのだと思うととても面倒に感じられた。
……走って帰ろうかな。
どうせワイシャツは洗濯しなきゃだし、家からスーパーのコモシーも近いしな。家に走って帰ってシャワー浴びて、さっぱりしながら夕飯買いに行くか。仕事の憂さ晴らしもしたいし。
革靴も替えようと思っていた頃だ。ちょうどいい。
俺はゆっくりと走り出す。
流れていく景色は早く感じられた。心地いい。走りはじめはとても体が軽い。
しかし十数分後、一気にお腹が痛くなる。久しぶりすぎて胃が驚いてるのか? それとも仕事のストレスか?
お腹に引き続いて脚まで重くなる。走り慣れていないな、と直感的に分かった。頭はランナーでも、体はただのサラリーマンになっていた。
いつしか走るのを止めていた。ワイシャツについた汗がひんやりしている。
あぁ情けない。箱根駅伝を目指していた俺が、ここまで走れなくなるなんて。
もう大学のOB会にも行けないや。合わせる顔がない。あんな結果を出して、こんな惨めな姿の男なんて、仲間たちも見たくないだろう。
惨めな気持ちになった俺は歩くことすら止めて公園に来ていた。アパートから歩いて数分なのに帰宅する気にもなれなかった。公園の自販機で缶コーヒーを買うと近くのベンチに腰かける。
なにやってんだろ俺。
せっかく親から高い金出してもらって、明英に入って。でも駅伝は何一ついい結果出ないまま。就活も上手くいかずに今ではブラック企業の一員。
高校時代に結果が出すぎたのかもな。浮かれすぎて自分の力を過信して、やるべきことをやらなかった。当然の結果だ。
思いっきりため息をつく。深夜の公園はこうした辛い情景がよく似合ってしまう。
くそ、くそ、くそ。
なんかもう人生やり直したいな。
こんな人生なんて、もう嫌だーーーー
「なぁーにショボくれてるんですか、先輩?」
「おわ!?」
真夜中の公園で話しかけられる。とっさのことにバイハなんじゃなかと思いビビる。
なんだなんだ、いきなり話しかけてくるなんて酔っぱらいか?
「ちょ、誰だ!?」
「夏純ですよ~。もう忘れたんですか先輩?」
「ああ!」
思い出した。教育実習の時に担当したクラスの子で、陸上部長距離だった子だ。明英大学付属朝霞台高校の……あのときは確か高3だったけど
「もう高校卒業してない?」
「もちろん! 今は明英大で男子駅伝部のマネージャーやってるんです」
「あれ、選手じゃないのか?」
「私のタイムじゃ無理ありますし……それに、栃岡先輩が話す駅伝部の話聞いたら、自分もその舞台に関わりたいと思ったんです」
ちなみになぜ先生ではなく先輩なんて呼び方をしてるかと言えば、これは夏純の独断だ。教育実習の時はさんざん注意したけど直さず期間中ずっと先輩呼ばわりしていた。
「夏純らしい情熱的な志望だな」
「でも始めて半年なんですけど、まだ怒られてばっかりで……」
「いやいや! 監督の言い方がキツいだけだって。俺は選手だったからよく分かるけどマネージャーいてくれると本当に心強いよ。支えになる」
俺の必死の弁解が嬉しかったのだろうか。夏純は不安な顔をやめて、微笑んだ。
「でも先輩、こんな真夜中にどうしたんですか? 私は眠れなくてコンビニ行こうと思って出てきたんですけど」
「うちの近所に住んでたのか。……まぁ、色々とな。嫌になって走り出したよ」
自分より何個も下の大学生に、なに夢のないこと言ってるんだか。
「そうだったんですね。ていうか栃岡先輩、普通に会社員なんですよね? てっきりどこかの高校で教員やってるかと思いましたよ」
「教員採用試験受けたけど全落ちでな。今じゃしがないサラリーマンだよ」
「先輩の実習、マラソンとか駅伝の話すごくしてきたじゃないですか。クラスのみんなもてっきり、マラソン選手かコーチやってるんじゃないかと思ったんですよ」
そういえば教育実習に行ったのはまだ箱根目指してるときだっけか。まだまだ駅伝やる気あったんだな、あのときは。
「ははは、そんなの今じゃ夢の話だな。もう10分走っただけでバテるおっさんだよ」
自嘲気味に笑い、続ける
「早熟選手が箱根を目指して燃え尽きて、燃えカスとして生きてるだけだよ。働いたって楽しいことないしな」
「え……」
「自信過剰で箱根に出れず、努力不足で社会に見下される。どうしようもないクズだよ」
あーあ、こんな形で昔の知り合いを失望させるなんてな。教育実習生って生徒からすれば憧れかもしれないが今は地に堕ちてるよ。
夏純、ごめんな。
こんな形で夢をなくすようなこと言う反面教師ーーーーー
「あり得ないですよ」
「え?」
「あり得ないって言ってるんですよ! ふざけないでくださいよ!」
夏純は高い声をあげて怒る。
さっきまで落ち着いていた脈が早くなる。なんなんだ? どうして怒ってるんだ?
「栃岡先輩は環境を言い訳にして、努力するのもその喜びも忘れたんですか? 私は頑張る先輩に憧れて駅伝のマネージャー始めたんですよ!?」
「それは……」
「怪我しても走れなくなっても箱根を目指す。夢の舞台を目指して走ってた日々を忘れちゃダメですよ!」
真夜中の公園は暗かったが、夏純が涙ぐんでいたのはよく分かった。そういえば自己ベスト出せなくて目の前で泣いたことあったな。
さすがに今もそんな顔されちゃ謝るしかない。
「すまない……」
「謝らなくていいんですよ。それより環境がしょうがないなら、環境を変えるのもありだと思いますよ」
夏純は大量にプリントの入ったバッグから、俺に1枚のプリントを差し出す。
そこには「二ノ丸高校教員募集要項」と書いてあった。
「これ、栃岡先輩の出身校ですよね? 私、教員目指してるんで探してたらたまたま見つけたんですよ」
「大学3年生だから、そんな時期か……」
「しかもこれ、公民の教員募集です。しかも駅伝の指導できる人歓迎って書いてあります」
「そういえば公民の免許持ってたな。にしても、駅伝部か」
二ノ丸高校駅伝部。俺が巣立った場所だ。そういえば大森は退職済みと聞いたしその代役ということか。
教員って忙しいと聞くけど、今の会社よりましだろう。
「正直、栃岡先輩の職業はよく分からないので強制なんてできません。でも、私はやっぱり、駅伝が好きで情熱的に生きる先輩が似合ってます」
夏純は落ち着いた声で言った。
俺は、ごくりと唾を飲み込む。
「……俺も、そう思うわ」
「そう思うわ」
二ノ丸高校の職員室。居眠りから覚めた。自分が出した声で。
昼休みの職員室は黙々と昼食を食べる教員ばかりだが注目を集めてしまう。
「すみません、暖房で眠くて」
昼食を食べた後の暖房は殺人的に眠かったので寝てしまったのだ。授業の準備もしてないし。
教頭は俺を一瞥して見てみぬふりをしてくれた。あの日以来、教頭は俺の行動に難癖つけなくなっていた。ちょっと嬉しいな。
……いやいやダメだ。教員としてあるまじきサボりだぞ。さっさと授業準備しよっと。
よだれがついてないことを確認すると机に向かう。午後は現社が1コマか。あーあんまり準備してないや。
カタカタとゴーグル検索で知識を深めていく。教員の知識源は社会、つまりインターネットだ。こんな人間が教師でいいのかと思いつつも文明に感謝して検索を続ける。
ネット検索をしているとついついニュースが目に入る。
ふむふむ、日本海側は次の日曜日まで雪か。まぁ次の金曜の放課後から京都に試走に行くから大丈夫だろう。
えーっと、もう都大路の展望が出てるし! 岸部は3位以内予想とかすごいな。二ノ丸は……うわ名前すら出てない。
そして箱根の学連選抜メンバー決まったか! ペースメーカーで引っ張ってあげた高倉くんが選ばれてるし! 今年は明英も出れたし応援するチーム増えちゃうな!
…………
って仕事しないと仕事ぉ! このままだと授業中にフリーズするぞ!
気を取り直してカタカタとパソコンを打つ。今度は真面目に授業プリントを作成する。
そんななか、背後から話しかける人がいた。
「栃岡くん」
教頭だった。真面目に仕事し始めたのに、注意しに来たのかな?
「なんですか?」
「金曜日の夜から京都に行くのだったな。学校から補助を出すから、車なんかじゃなく新幹線で行きなさい」
教頭はそう言いながら、封筒を差し出す。
「あの、もう新幹線は手配してあるんですが……」
「なら宿泊費や食事代に使いなさい。出先はなにかとお金がかかる」
「宿泊費ならそんなに心配要らないですよ。実業団ニチヤクのクラブハウスに泊めてもらうので」
実は、ペースメーカーの件で俺を騙した大森と河田の誘いでニチヤクの選手・監督寮に泊まることになったのだ。まぁ大森は「ペースメーカーの賞金10万円」と言ったがさすがに貰えるわけないので寮の空き部屋を貸してくれるのだ。
「ニチヤクの寮には警備員も栄養士もいるから安心ですよ」
「なるほど……部活動には経費がかかるのがネック。しかしそういう人脈は大事だ。まぁとにかくこれは受け取っておきなさい」
教頭は俺の机にそれを渡すと、スタスタと自分の席に戻っていった。
でもこれは部活動の予算なのか、それとも別のところからお金が出ているのか。
教頭の良心に感謝しながら授業準備を完了させ、それから6限目の現社も終わらせた。終了後はすぐに職員室に直行すると防水ブレーカーに着替えて部活に向かう。
部活に向かうとは言っても今日は大雪。陸上競技場は数十センチの大雪だし、それに向かう道中も通行不能。仕方なく学校の玄関集合にする。
制服姿で集まった7人のメンバー。吉村も、生徒会の部活関係が片付いた様子で今日から合流だ。朝陽も今日は来れた。
こんな天気でどう練習するのか、と不安そうなみんな。でも大丈夫。
「体育館の外周コースを借りてある。1周100mだから距離は短いけど何もできないよりましだ」
体育館も他の部活動に頼んで借りてきた。2年生も加入して本格的に活動再開した二ノ丸高校の部活だけど、駅伝部はやはり全国出場ということで顧問の先生からは許可を得られた。これも感謝だ。
フリージョグの指示を出すと、俺はみんなの様子を見守ることにした。嘉川から言われた「駅伝部のモチベーション」については俺自身相当気にしている。なにか出来ることを考えなくてはという気持ちでいっぱいだ。
様子を見ると、みんな話ながらジョグしている。漣と涼風。稲穂とサクラ、信乃と吉む……いや千香だ。そういえば吉村、「私のことも下の名前で呼んでくださいよー」とか言われたんだったな。
みんな、京都のことについて話しているようだ。特にテンションが高いのは稲穂とサクラだ。
「イナホ! キョート、トテモ楽しみデス」
サクラは「今日は痛みがない」ということだったのでジョグくらいはさせることにしたのだ。
「うん! 私も都道府県対抗で付き添いは行ったことあるけど、走るとなると話は違うよね。夢の舞台!」
「イエス! キョートのマチを走れるナンテ、一生にイチドデス!」
「けっこうアップダウンがあるのに、前にハーフマラソンの日本記録が出そうだったんだよ。あんなにアップダウンがあるコースなのに、不思議な力があるらしいね」
「聞いたコトありマス! ソンナ場所で走れるナンテ、夢みたいデス!」
稲穂もサクラも初めての高校大舞台。夢の舞台に夢膨らむって感じか。
その前には常磐姉妹が走っている。
「おねーちゃんって京都修学旅行以来でしょ? だっせー!」
「あんたも同じでしょ! 家族旅行でも行ったことないじゃない」
「お父さん達、自然が好きすぎるんだよ! いっつもスキーに海水浴ばっかじゃん」
「それは全部涼風の希望でしょ……んまぁレースで行く京都も悪くないんじゃない?」
なんだかんだ仲良いな、二人。
信乃と千香も二人でジョグをしていた。信乃は不調ぎみ、千香は復帰早々なので様子見ペース。
「やっぱり二ノ丸高校にも修学旅行が必要ですよ! そのための都大路だと思ってますよ!」
「どういうことですか。それに京都はこの時期ではなく秋に行くものです」
「ふー! 信乃先輩は風情が分かってるー!」
……生徒会の話なのか?
なんだかんだ、みんなリラックス出来ているじゃないか。変に緊張感がなくて良かったよ。
まぁもう少し緊張感持ってもいいかと思うけど……
一通りみんなの考察をしたところで気付くことがあった。
京子がいない。さっきまでジョグしてたのに一番早く抜けてしまった。
まだ20分しか経ってないぞ? そんなに早く止めなきゃいけない理由があるのかな。
というか姿が見えないのはヤバイ。どっか行っちゃったのか?
信乃にジョグが終わったらすぐに体操して帰るように伝えると京子を探しに体育館を出た。
廊下は冷たかった。雪で湿度が高くなっているのと、気温が低いこと。その2つで結露していたのだ。
水飲み場にも京子はいないし……教室の方かな?
俺は体育館から離れ始める。
体育館を出るとすぐに、教室棟に向かう階段がある。そこに京子はいた。
彼女は一番下の段に、膝を抱えてしゃがんでいた。顔は体に抱え込んでいる。顔こそ見えないが、赤みがかった髪で京子ということはすぐ分かった。
「どうした、気分でも悪いのか?」
俺がそう尋ねると京子は顔をあげる。しかしその顔は青白くいかにも体調が悪そうだ。
「大丈夫か? 体育館に朝陽がいるから、一緒に行こう」
「大丈夫、です。ただ、ちょっと、体が急に、動かなくなっただけです」
「動かなくなったって、どうして。みんなと楽しく話してたじゃないか」
「理由は、言えません。ご迷惑は、かけられません、から」
京子はそう言うとふらふら立ち上がる。あまりの不調な様子にさすがに不安になる。
「寝不足か? それとも昼休み忙しくて昼飯が食えなかったのか?」
「そんなことじゃ、ないです。私の弱さが、原因、なんです」
弱さ……?
京子の口からそういう言葉は、確か北信越駅伝のときに聞いた。あの意味深長で、何か隠してる、触れちゃいけない感じ。
それが京子を支配して、あんなにさせてしまってるのか?
「ひょっとしてそれが県大会とか、いつもの緊張に関係があるのか?」
「言わせないでください。でも、もう、大丈夫です。ジョグに、戻ります」
京子は俺のことを一瞥もせずに体育館に向かう。
何も語らない背中だけしか見えなかった。背中には「二ノ丸高校」の文字だけ。
俺はその姿に何か感じずにはいられなかった。
「なんだ……何だっていうんだよ」
窓からは雪がしんしんと降り積もる様子が見えた。ライトに照らされた雪は青白く、不気味な心地がする。
京子が緊張で走れなくなる理由。それを知るのは間もなくのことだった。




