北信越駅伝 ②開戦直前
朝の広間に元気よく……いや、けたたましく声が響いた。
「おはようございます!!!!」
越平稲穂。この前誕生日を迎えて16歳になった高校一年生。愛嬌たっぷりに、耳がはち切れそうなボリュームで挨拶をする。これも慣れたものだ。
「おはよう稲穂。今日は調子いいみたいだな」
「はい、おかげさまで。そ、そういえば栃岡先生」
「どうした?」
「昨日、男子浴場に痴漢ならぬ痴女が現れたそうなんですが……」
「ああああ!!」
噂になってるし、寺門さん!
昨日は説教した後、早々に風呂から追い出して徹底的に口封じをした。まぁ寺門も「監督にだけは言わないでぇ!二度とフライが食べられなくなる!」と言っていたけど……でもどこからそんな情報が漏れたんだ?
「稲穂、誰から聞いたんだ?」
「あ、朱ちゃんが言ってましたよ。なんでも、男湯から逃げてくる女子生徒がいたって……」
壁に耳あり障子に目ありだな栃岡湯は。各学校の生徒&うちの家族&従業員までいたら逃げ場がないか。
「どうしたんですか栃岡先生?」
「い、いや、なんでもない。ささ、もう食べようか」
稲穂の追撃を無理やり阻止して朝食を食べ始める。
まだ眠い朝6時、当然体も起ききっていない。食べ過ぎたり、あるいは残したりしていないか、俺は彼女たちの様子を観察しながら食べる。
朝食には焼き鮭がついていた。大学の寮を出てから滅多に食べなくなったな。ブラック企業にいたころは食事を作る気力もなかったし、教員になってからも忙しくて魚なんて焼いてない。
実家に帰省したときではなく、こうした客として泊まりに来たときしか焼き鮭を食べれないなんてなぁと考えるとちょっと切なくなった。本当は実家に住みながら二ノ丸高校で働くべきなんだけど通勤時間から言ってそれは難しい。新潟県は広すぎる。
「はぁ、久々に家族の作った朝食で目を覚ましたいなぁ……」
その言葉に、目の前に座っていた京子がピクリと反応した。
「え、いや、国立内野大学に通ってアパート借りれば、毎日作れるんですけどね…… ほら、新潟市ですし、二ノ丸高校にも近いですし……」
「ん? 京子は実家から通えるのに、なんで一人暮らしするの?」
その瞬間、京子は顔をキューっと真っ赤にさせる。
「え、いやぁ、ち、違うんです! 勘違いです!」
「そ、そうか…… でも顔が赤いぞ。緊張症か、ひょっとして熱が!?」
県総体―――――嫌な記憶が頭に浮かぶ。極限まで緊張して体調不良に陥った京子を出走させてしまった。
もう2度とそんな目には遭わせない。
そう心に強く思った俺は、京子の額に手を伸ばす。
「ひ、ひゃ、栃岡先生!?!?」
額に手を付けたが、そんなに過度な熱はない。強いて言えば微熱程度だろう。
「このくらいなら走れるよ。ただし、違和感があったらすぐに言うんだぞ!」
「はぅう…… わ、分かりましたぁ!」
それから京子はもっと顔を真っ赤にさせながらご飯を一気に食べる。熱がなかったせいか心なしか嬉しそうなんだが……「本当に鈍ッ感なんですから!」と言ってるのは気のせいか?
いつものように京子から始まる誤解に苦戦していた俺たち。しかし、急に背後から気配を感じた。
「朝からハーレムラブコメですか…… この学校は色んな意味でカラーがありますね……」
振り返るとそこには岸部高校のセカンドエース藤澤がいた。
「察するに褒め言葉ではないようだな」
朝っぱらから他校の生徒に、冷静に批判される高校教師24歳。
「まぁ、持ち味があるってことですよ」
「カバーしなくていいよ…… ところで岸部は朝食に集まってるみたいだけど、横越は?」
「あぁ…… あの人はもう既に緊張して動けないので部屋にいます。起きてはいるんですが出てくることはないので、朝食はいつも通りゼリー食ですね」
「患者ですか!? もうスタートまで4時間半だけど!? ていうかいつもそれなの!?」
「多すぎるツッコミは重罪ですよ! まぁそれでもスタートラインに立ちさえすれば走れちゃうんで、不思議な人ですよね……」
「あはは、そうだな」
「栃岡先生も油断し過ぎちゃダメですよー。今日はお互い、いい勝負にしましょ」
藤澤はそう言ってウインクして岸部高校の群れに戻った。すぐ後輩の選手が話しかける。
「もー、藤澤先輩、また他校の人と絡んでるー!」
「もー、また監督に怒られちゃいますよ!?」
見ると、彼女たちは瓜二つだった。
「で、出たー!! ドッペルゲンガーだー!!!」
思わず座布団から立って二人を指さす俺。
「ちょっと、失礼すぎますよ!」
「ちょっと、私たちは双子なんです!」
同じテンポで自分たちの説明をしてくる双子。あ、ひょっとして
「あなたたちが九十九里姉妹ですか?」
「「そうですよ」」
県駅伝のとき、3区4区で粘り強い走りを見せた、岸部高校の九十九里姉妹。姉が可奈子で、妹が奈央子らしい。中継所で見た時はそっくりすぎて腰を抜かしそうになったのをよく覚えている。
漣&涼風の双子は顔こそそっくりなものの違いを出そうしているのか髪型が違う。漣はショートヘアで、涼風はロングヘア。
でもこの九十九里姉妹は髪の毛までそっくり。もう見分けがつかない。
「「今日は全体順位だけじゃなく、区間順位でも負けませんからね!」」
二人いっぺんに宣戦布告されちゃったよ。でも、
「負けなければいいな。でも、君たちに勝つことが目的じゃないから」
「「えっ」」
そうだ、ここで熱くなっちゃいけないんだよ栃岡翔。ただ全力で走って、ひたすら前を狙うことだけが駅伝じゃない。戦略的に戦わなくちゃいけないんだ。
「じゃあ今日は頑張ろうね、二人とも」
爽やかに言い切ると、俺は朝食の残りを食べ進めようと再び座布団に座る。
右隣に座る朝陽が驚きながらも俺に話しかける。
「あら、いつもの翔じゃないみたいね。冷静さを欠いた獣のような目つきじゃない」
「そうか、では今日は鋭い目つきのソクラテスだな。俺は都大路に行くことしか考えていない。確かに岸部はレース展開的に大きく関係しているが外的要因にすぎないだろう。敵ではないさ」
「中二病な言葉が出るってことは調子いいのね、あなたも」
「なに、もうあの頃よりは大人だよ」
そう言いながら味噌汁とグイッと飲む。
「あっつ!!」
朝食を食べた後は速やかに長岡市陸上競技場へと移動した。
ここが駅伝の発着地となる。1区の選手はここでウォーミングアップをしてからスタートする。2~5区の選手はこの競技場から各中継所にバスで輸送、そしてバスで回収という流れ。
だいたいスタートの1時間前くらいからバスの輸送が始まる。それまでに軽く動いておこうと考えている選手が多いのか、スタート2時間前にも関わらず集団でのジョギングをしているチームもある。でも……
「……センセー、あたしたちもウォーミングアップのジョギングとかした方がいいんじゃないの?」
陸上競技場の駐車場脇、芝生のアップ上にブルーシートを敷いて寝転んでいる漣が不安祖な顔で尋ねた。
「いや、むしろ動かない方が得策だと思う。最初の走者の京子までは2時間、漣までは3時間弱もある。今から動いても疲れるだけさ」
「そう…………とは言っても! なんか落ち着かない! 走りたい!」
「やめとくんだ。これから5kmの距離、少なくとも15分以上は全力で走るんだぞ。そのために体力を温存することをしておいた方がいい」
「うぐぐぐぅ…… あーもう!」
そう言いながら漣は防寒用のコートに顔を埋める。
防寒用、といっても今日はそんなものが必要ないくらいいい天気だった。気温は今は8時半だけど正午には20度を超える気温になる。ウインドブレーカーやジャージを着てれば十分に暖かいくらいで、これでは県駅伝よりもずっと暖かい。
これはあくまで経験則だが、暖かいコンディションでのレースは選手のポテンシャルがそのまま反映される試合が多いように感じる。気温が低くなって低体温になるなど泥仕合化することがないからだ。これはうちにとって、有利になるのか不利になるのか……
「せせせせせ、先生! 先生!」
「ヘイ、コーチ! コーチ!」
「うお、ど、どうしたお前ら!?」
考え事をしていると、呼ばれていたのにも気づかなかった。話しかけたのは京子とサクラだ。
「早かった京子から!」
授業さながらの当て方をする、高校教師の俺。
「っそそそそ、そんな大したことじゃないんですけど………… その…… 今日はやっぱり、予定通り、遠慮気味に走った方がいいんでしょうか?」
「そうだな。この暖かいコンディションだし、脱水症状になるのも怖い。先頭集団かその次くらいで積極的に走りながら、各校のエースに負けない走りをしてくれ」
ハッキリ言いきった。こういうとき、自信がない指示をしたり適当なアドバイスをするのは選手に不安を与えかねない。
京子はそれを感じ取ってくれたのか、さっきまでの緊張が嘘のように笑顔になった。
「はい! 頑張ります!」
「よし! んで次はサクラか……」
「ハイ! ウェル、その…… タスキのかけ方ガ、分かりまセン!」
サクラは困り顔をしながら、上目遣いで俺の顔を覗き込む。
「しまった、アメリカでは駅伝なんてないし、そもそも県駅伝のときもサクラはいなかったもんな。分からないのは当然か」
「ソーリーです……」
「いや、いいんだ! 時間もあるし、少しは練習しよう」
第1区走者の京子から襷を受け取る。
俺はお手本を見せようと自分の肩に襷をかける。
「襷は、受け取ったら肩にかける。そして、引っ張って、伸ばした部分をランパンに入れるんだ。やってみな?」
襷を渡されると、俺に介助を受けながら見よう見まねで襷を付けるサクラ。
それを見て、信乃がホッコリする。
「うふふ、サクラさん、まるで着物の着付け体験をする外国人さんみたいですね」
「ウェル、着物はキタこと、あルンですが、タスキはハジメてデス……」
「前に市の交換留学プログラムで会ったときは、桜の着物を着たことがありましたね」
「イエス! タシカ、3年マエです!」
そうかそうか。この2人は二ノ丸高校以前にも関わりがあったのか。信乃は中学生から生徒会関係の仕事をしてたみたいだし、サクラも日本になじみがある。アメリカと交換留学プログラムを作るなんていい仕事するじゃないか市役所。
「あ、そうだ。サクラ、襷を前の走者からもらうときはリレーみたいに助走をつけちゃだめだぞ」
「リアリー!? ワオ、ハチミツですね」
「はつみみ、ね。襷は受け取ってから走らなくちゃいけないし、渡す何百mも前からとっちゃいけない。ロードリレーじゃなくて駅伝だからね」
「ムムム…… ジャパニーズ・カルチャーも難しいデス……」
金髪少女はそばかす混じりの顔を真っ赤にさせる。日本に慣れてきたはずなのに慣れない言葉や習慣、ルールにぶつかってオーバーヒート気味だ。
「とにかく、そんなに気難しく考えないでいこう。襷を投げたりしなけりゃ失格なんてしないしね」
「リョーカイです! ガンバリます!」
いよいよスタートの1時間前になった。2~5区の選手の移動が始まると同時に、1区の選手がアップを始める。
京子の緊張症が心配だった俺は、1区のスタートまでは京子と一緒にいることにした。
県駅伝のときや、新潟ロングディスタンスのときは他のメンバーが一緒にいてくれた。でも今日はスタート位置がそれぞれ異なるタイプの駅伝。なのに監督が乗る車もなければ実況中継もない。
「栃岡先生、ありがとうございます。わざわざ付いてもらって」
顔を紅潮させながらも普通に会話できてる京子と、並んで競技場をジョグする。
「いいんだよ。俺は京子のスタートする直前に、次の2区に移動するから。走ってね」
「ええええええ!?!? 第1中継所までここから6kmあるんですよ!?」
「スタート前に移動するから大丈夫だよ。ケータイで連絡は取り合ってるけど、稲穂や、その次の走者にも全員に声をかけてくる」
「どんだけタフなんですか…… 吉川先生や朱ちゃんもいるのに…… でも、栃岡先生らしいですね」
「ははは、どうも」
多少無理があるサポートの仕方だが、選手のサポートをするにはこの方法が一番だ。走ってる選手をただゴールで待ってるだけだなんて……そんなの居ても立っても居られない。
「栃岡先生がスタート前に来てくれるなら、稲穂ちゃんも安心できると思います。もちろん、私も、ですけどね」
京子に緊張した様子はなかった。ショートボブの髪を揺らしながらリズムよく走る姿はとても軽やかで、まるで北海道の草原をのびやかに走るようだった。
春の大会に出たときなんて、大会の前日からガチガチだったのに。俺がこうやってそばにいてあげるだけで緊張症はほぐれているようだった。
もちろん緊張してないといえばウソだ。昨日だってゼッケンをつけるのにあたふたしたり、今日だって何度もトイレに行っている。
でも、それでも春に比べればはるかにましになっているんだ。根本的な解決には至ってはいないけど。
赤みがかった髪をまくり上げた京子の額には汗が光っていた。ウォーミングアップで速いペースに上げたので、顔もほてっている。
「もう大丈夫です、栃岡先生。あとは、流しを入れて招集所に行って、スタートします。もう第一中継所に移動しちゃってください」
「その様子を見る限り大丈夫そうだな。何かあったら、俺か競技場待機の朝陽にすぐ電話してくれ。文字通り駆け付けるよ」
「ありがとうございます。……先生、最後に、いいですか?」
え、と思ったのもつかの間だった。
俺の3分の2ほどの身長の京子は、俺の右手をグッとつかむ。急につかまれたので何も抵抗できずに体ごと引き寄せられる。
どうしたんだ、という間もなく京子は言葉を振りしぼる。
「今日で、私が走るのは最後かもしれません。とってもとっても、怖くて、怖くてしょうがないんです」
京子の顔は俯いていた。何かをこらえているような、そんな気がした。
「でも、駅伝部のみんな、栃岡先生がいてくれるから、私はスタートラインまで行けそうです。何分何秒かかるか分かりません。だけど、みんなのことを思うだけで、私は走れます」
だから、と京子は続ける。
「都大路に行きましょう。栃岡先生が言ってくれたように、京都まで襷をつなぎます」
夏合宿のとき、当時まだ駅伝に出ることだけが目標だったときに俺が言った言葉だった。覚えててくれたんだな。
「ありがとうな、京子。1区はまかせた」
「ドジはしませんよ、先生。中継所で待っててください」
京子は顔を上げるとペコリとお辞儀をして、流しに出かけてしまった。
遠くなっていく黒いジャージ姿。それを見送って、俺も中継所に駆け出した。




