信乃の葛藤
目の前で今にも泣きそうな顔で立つ少女に、俺はただただ驚いている。
「お、おい。信乃、どうしたんだよ? 京子達とミーティングをしていたんじゃないのか?」
「そうなんですが…………私は気づいてしまいました。私には駅伝を走る資格なんてありません」
信乃の息づかいからして、必死に涙をこらえているという様子が伝わってきていた。何がどうしてこんなに泣きそうになっているんだ信乃は? 状況がつかめなさすぎる。
「ひょっとして、漣にディスられて―――」
「いいえ、漣さんにディスられる覚えはありません」
今にも泣きそうなはずなのに、秒速で漣ではないと否定するあたり筋金入りの負けず嫌いなんだな。
じゃあ何が原因なんだ? さっきまで話し合いをしてたから、そこが原因だと思うが……でもとにかく、冷え込みつつある夜のトラックでは信乃が風邪を引きかねないから早く移動したい。ていうか俺も練習後で寒い。
「と、とにかく職員室に行こう。そこで話の続きだ。もう他の教員たちは帰ってるから話もしやすい」
「えぇ!? え、あ、はい。まぁいいと思いますよ…………」
信乃はよっぽど人に聞かれたくない事情でもあるんだろうか、少し戸惑っていた様子だった。
俺はジャージから一応スーツに着替えた後、職員室前に待たせていた信乃を職員室の中に入れた。職員室にはもう誰もおらず、明かりだけがついている状態だった。
自分のデスクに俺は腰を下ろし、信乃は隣の先輩教師の椅子に座らせる。いつも定時で帰ってる教員だし大丈夫だろう。
さてと、もう7時半だし早く話を片付けるとするか。
「で、どうしたんだ、信乃」
目の前にいる信乃はブレザーの内側にカーディガンを着ていた。10月も下旬になると新潟の夜はかなり冷えるが、こんな格好で帰らずにいたのだろうか。
「はい。単刀直入に言いますと、私にはみんなのために駅伝を走る資格なんてないと思います」
最近の高校生ランナーは自分が走る資格についてまで考えるのかと思ってしまったが、それは信乃特有のことなのだと思って話を聞くことにする。
「走る資格ってどういうことだ?」
「そもそも私が走り始めたのは婚約者のためなのです。北信越駅伝を目前としてお互いのことを信じあわなければならない今、そんなきっかけで走り始めた私には走る資格なんてないと思ったのです」
え、信乃ってもともと婚約者のために走り始めたの? その割には8月の月間走行距離600㎞とか言ってるし距離踏み過ぎじゃないかな。
うん、まぁトレーニング内容のことはどうでもいいや。
「そ、そうか。俺は信乃が大森監督のために走り始めただなんて知らなかったよ」
「はい? 大森監督? なんで今、大森監督の話題が出てくるんですか?」
「いやだって、信乃の婚約者って大森監督でしょ?」
「何言ってるですか先生、私の婚約者はニチヤクのプレイングコーチの河田さんですよ。先生とは大学時代からの仲じゃないですか、今さら言わせないで下さい」
「ええええええぇぇぇぇぇえええ!!!!???? 河田なの!!?!?!?!?!!」
俺は信乃の婚約者はてっきり大森だと完全に思いこんでいたのに、違ったんだな。すまねぇ大森、俺の頭のなかで結婚して幸せになった想像はなかったことにしてくれ。
にしても河田、嘘だろ。同じ明英大学の1個下の後輩で3年間一緒に陸上をした仲だけど、女子高生の嫁をもらう伏線なんて何もなかったはずだ。まぁお前性格いいし、頭いいし、俺より速いし、なによりイケメンだしモテるのは分かるけどさ。よりによって人の部活の生徒と婚約だって!?
「河田なの、ってなんですか、河田なのって。これから生涯の伴侶となる人に向かってなんてことを」
「いやいやいや、そもそも信乃と河田が接点あったっていうのがビビるし、それに婚約まで話が言ってたらビビるよ」
「あ、いえ、それは家庭の事情というもので―――」
その瞬間、この学校で一番会話したくない人物が話に割り込んできた。
「その通りだ。全く、人の家庭の事情にずけずけと入り込んでくるとは、教員失格ではないかね栃岡君」
歌和村教頭だった。保護者会での闊達な演説を背景として、進学重視の無理やりな改革を進めて部活動をつぶしまくっている元凶。そして、元生徒会副会長の歌和村信乃の父親である。
でも教頭には毎日腹が立っている俺だ。防戦一方になるわけにもいかない。
「いえ、家庭環境との相乗効果による教育を考えるならば、やはり家庭の理解も必要だと思いますよ」
「そうか、しかしこの子の父親である私が難色を示し、さらに教頭である私が教育的観点から批判をしているのだよ」
俺とお互い様なのかもしれないが、ああ言えばこう言うんだな教頭は。もうちょっと口喧嘩してみるか。
そう思った矢先、信乃が立ち上がりヒステリックな声で叫んだ。
「お父様! 今は私が栃岡先生と相談してるんです! お父様は割り込んでこないでください!」
めったに逆上なんてしない信乃にビビったと同時に、今時マンガじゃないのにお父様って呼ぶ高校生が本当にいるんだなと驚く。
歌和村教頭も歌和村教頭で、穏やかだった口調が一変する。
「信乃、明日は模擬試験の2日目だというのに、のんきに人生相談なんてしてる場合じゃないだろう! 部活なんてやらずに、立派な嫁入りができるように準備しなさいとあれほど言ったじゃないか!」
「お父様は放っておいて下さい! お父様だって家のあるべき姿を追い求めるあまり、家庭を顧みなかった結果お母様がああなって―――――」
その時、歌和村教頭の顔が急変する。実の娘に向けるとは思えないような形相で信乃を見る。
「そのことは口外するなと、言っただろう。信乃」
「あ、その、ご、ごめんなさい」
信乃の顔もしまったと言わんばかりに一気に青ざめた。触れてはいけないタブーに触れてしまった、そんな顔だ。
「とにかく早く帰りなさい。私はこれから東京で学会だ。家に帰ったら、掃除もしておきなさい」
「はい、お父様………」
歌和村教頭はトレンチコートを羽織り、そそくさと職員室を後にした。かなり速足で移動するあたり仕事の余裕がないのか、それとも別の原因があるのだろうか。
俺と信乃を取り残した職員室はシーンと静まり返る。広々とした教室では沈黙はより大きく感じる。
「見苦しいものをお見せしてしまいましたね、先生。いつも頑張っている先生にあんな態度しかとれない父で恥ずかしいです」
信乃はとても申し訳なさそうに、俯きながら職員室の椅子に腰を下ろす。
「いや、高校生の信乃のことだ。両親とケンカするときだってあるよ。俺だって、今でも思い出すのが恥ずかしいこともあるぞ」
「先生がそう言うと、ちょっと落ち着きます」
職員室にきてから初めて信乃が微笑んだ。
「お父様は多分このまま東京に向かわれたのでしょう。物理学の学会なので、明日の夜まで帰ってきません。だからこれから…………人生相談、させてください」
「まぁ家で待ってる家族を心配させない程度にな、って言おうと思ったけど、どうやら事情は複雑そうだな」
「ええ。母は自宅にはいるのですが、父と大変仲が悪くて家庭内別居みたいなものです。元々家は広いので、父と母で別の住居に住んでます」
ちょっと待て、どんだけ家の敷地が広いんだよ。家庭内別居って普通は同じ住居にいて会話がないことを言うのに、なんてスケールの大きい話なんだ。
「父と母は別々の住居に住んでいますが、私はどちらに入ることも出来ず…………今は私も1人暮らしみたいなものです」
「まだ住居あったのかよ…………信乃の家は貴族か何かなのか…………」
「説明不足でしたね。歌和村家は明治時代に華族として存在していた家のうち、特別な爵位を与えられた家なんです。だから代々、家のきまりも厳しいので同じ旧華族の者でないと婚約ができないのです」
「リアルに貴族だった!? えっと、じゃあつまり、旧華族のうちで年頃だったのが河田、というわけだな」
「先生、ご名答です」
最初、信乃からお嫁に行くって聞いたときはなんて古風な結婚観なんだろうかと思ったが、古風なのは結婚観だけとかそういう問題ではなかった。華族なんて言葉、日本史以外で初めて聞いたよ。
「さすがに私も、河田さんには会ったこともなかったので正直どうなるかと思いましたが…………新潟ロングディスタンスでお会いしたときは素敵なお方だと記憶しました。将来の結婚相手の気持ちを知るために長距離を始めたので、話題も弾んだのです」
さりげなく話していたが、信乃は婚約者河田のことを理解したいあまり長距離を始めたということか。なんで敬謙な花嫁なんだ。
「駅伝部に入ったのは本当に偶然でした。二ノ丸高校にサクラさんが来たとき、最初に出会った生徒が私だったので仲は良かったのです。サクラさんが駅伝をはしれないとき、走るのは私しかいないと思いました。元々、父の学校改革を変えたかったので駅伝部には活躍してほしかったですし」
「そして今、そんな駅伝部に入った自分を疑いつつあるってことか」
信乃は苦虫を噛んだような顔で、俺の顔から目を背ける。
「またまたご名答です、先生」
単純に婚約者である河田に近づきたくて始めた長距離。本来の目的である河田と距離を縮めることについては果たしつつある一方で、ひょんなことから巻き込まれた駅伝部に果たすべき責任について悩んでいる。偶然に偶然が重なってしまったとしか言いようがないな。
もちろん信乃にとって河田は最愛の人である。でもそう思うことで、今頑張らなくちゃいけない駅伝部に対して申し訳なく思ってしまう。私は本当にこれでいいのか?という疑問に苦しむことになったのだろう。
県駅伝での転倒による信乃の精神ショックも大きい。完璧主義な信乃だ。いくらサクラの代役として駅伝部に入ったからといって、京子に体力テストの長距離で負けたことは悔しかったに違いない。そういう抜け目のないようにしたいという気持ちがあることで、自分で自分を苦しめているんだ、信乃は。
「サクラさんも復帰したことですし、私は抜けるべき立場にいるのかなと思ってます。元々彼女たちで始めた駅伝部です。一致団結して、都大路を目指す方がよっぽど―――」
「信乃」
「は、はい? どうしたんですか?」
「本当にそれでいいのか?」
「それでいいって…………しょうがないですよ。元々、こんな性格の私です。部活でみんなと協力するよりも、生徒会みたいに一歩置かれた立場でみんなのために働くのが合ってたんですよ。そうすればみんなが笑顔になれるし――――」
「違うんだよ、みんなが笑顔になる前に、まず信乃が笑顔になってないじゃないか!」
信乃はとても利他的な子だ。プライドが高く、負けず嫌いだが、それはすべて他の人のことを思ってのことだ。そんな気持ちがなければこの時期に駅伝部になんて入ることは思いつきもしなかっただろう。ましてや、襷なんてつなげなかった。
「本当に自分がいなければいいなんて思ってるのか!? 信乃が不本意で駅伝部をやめることで、どれだけみんながガッカリすると思ってるんだよ!」
「そ、それは……それは…………」
俯きながら、信乃は必死に言葉を出そうとしている。
「でも…………でも、私には分からないんですよ! 自分で自己矛盾をして、それでもなおみんなの役に立ちたいだなんて思ってる私がどうすればいいかなんて…………考えただけで胸が張り裂けそうなんです」
心の叫びだった。それを聞いた俺はすぐに何かを応えられるわけでもなく、俺まで黙ってしまった。
言葉が出なくなると、職員室の静寂が俺たちを襲う。もうじき冬を迎える寒空の夜では虫の鳴き声も、喧騒も、そして部活動をする音も何も聞こえない。
―――――ガッガッガッガッガッ
何も聞こえない。
―――――ガッガッガッガッガッッガッガッ
何か足音っぽいのが聞こえてきたけど、何も聞こえないはずだ。
―――――ガッガッガッガッガッッガッガッガッガッガッッガッガッ
あれ? 何か職員室に近づいてきてね?
次の瞬間、職員室のドアが一気に前回に開けられた。そして部屋いっぱいに拡声器の声が鳴り響く。
「せ、せんせー!!!!! 大変です!!!!!!」
うっわ耳が痛い。この声色……というか声の大きさだけで誰か分かるぞ。
「い、稲穂!! 職員室で大きな声を出すんじゃない!!」
「すみません!!!!!!!!」
セミロングの髪をわたわたと靡かせながら何度も頭を下げる。ってか返事も大音量じゃないか!
「とにかく!!! 大変なんです!!!!! 信乃先輩が荷物も持たずに突然部室を出ていって、ケータイにも家にもかけても連絡がいかなくて!!!! つまり行方不明で!!!」
「信乃ならここにいるけど?」
俺はキョトンとした顔で隣に座る信乃を指さす。
「え? ええええ? えええええええ!?」
「いや稲穂、驚かれても…………信乃、行方不明者になってたらしいぞ」
俺も状況がよくわかっていないが、信乃はもっと状況がよくわかっていないようだ。
「え、確かに部室は出ていきましたけど、荷物はちゃんと持ってきてますし、それにそそくさ帰っただけで別に逃げ出したわけでもないですが」
らしいぞ、稲穂。
「えええええ………… た、確かに京子先輩も姉貴も『探す必要ないよ~』って言ってましたし、涼風先輩も笑ってるだけだし、サクラも呆れた様子でしたけど…………」
稲穂の顔がどんどん真っ赤になっていく。京子もよく緊張や恥ずかしさで赤面することもあるが、それに負けないくらいの赤面だ。
「あばっばばばばっば………… どどっどどっどどどどどうやら私の勘違いだったみたいですねねねねねねねね」
当たり前だ。
「し、失礼しましたああああああ!!!!!!!!」
そう爆音で叫ぶと、再び稲穂は来た道を逆走して戻っていった。
あの後、部室に戻ったらどれほど笑われるんだろうな。涼風が手をたたきながら爆笑する姿なんて容易に想像できるぞ。
しっかし、あんな稲穂の姿を見たら俺もおかしくなってしまった。やべ、笑いそう―――と思った矢先、俺より先に笑っている先客がいた。
「うふ、ふふふふ、うふふ」
今までほとんど見たことがなかったのだが、信乃が笑顔になっていたのだ。
「うふふふ、なんか……面白いですね」
「だな。稲穂って時々天然なところがある」
「稲穂ちゃん本当にかわいくて大好きです」
へぇ、信乃もたまにはかわいい女の子っぽいこと言うんだな。
よし今なら
「信乃、駅伝部は続けたくなったか?」
「えぇ、はい!」
信乃は勢いよくいい返事をした。
が、次の瞬間。
「あああぁぁぁ……、あの、その、もう少し待ってください。気持ちの整理がまだ、その」
返事できてないじゃないか…………
でもこれならもう答えは分かってるも同然だ。
「明日の放課後は長岡に試走に行くから、ちゃんと準備しておくんだぞ! もちろん、3区4区の合わせて6kmを走るから、そのつもりで」
もう信乃は何も心配することはないだろう。もう何も迷うことなく、北信越駅伝に臨むことが出来る。
俺はそう言いながら鞄を持ち、信乃を置き去りにし、職員室を出ようとした。立つ鳥跡を濁さず!とでも言おうと思ったが、
「先生、職員室および学校設備の戸締りと消灯をしてから帰ってください。陸上競技場の電気も消してくださいね? 校内に残っている生徒も……ちゃんと、家に帰してくださいね」
「あ、はい」
結局俺はこの後、信乃を家まで送っていくことになった。




