新潟県高校駅伝その7 最期(フィニッシュ)
「ごめんなさい。私のせいで――――」
中継所脇の選手控所に横たわる信乃が、ボソッとそう言った。口惜しそうな彼女の口からは、都大路出場を絶望的にしてしまったことへの謝罪の念があふれていた。
「しょうがない。コースだって滑りやすかったんだ」
彼女の膝の傷口の手当てをしていた俺は、残念そうにしている信乃の顔を見ることができなかった。駅伝部に入ってから―――いや、駅伝部に入る以前から頑張って走りこんできたのに、自分の失速がチームに大打撃を与えた。それはかつて自分もしでかした箱根駅伝予選会での失速を思い出させた。
箱根駅伝は、大学生ランナーはもちろん日本で長距離をやるランナーなら誰もが憧れる舞台だ。しかし現に予選会で本選出場を目指す選手にとっては単なる「夢」ではなく「目標」。叶えたいのではなく、叶えなければならない目標だ。
だから県高校駅伝は、箱根駅伝の予選会とちょっと似ているのかもしれない。どれだけ個人の順位がよくてもチームが本選に出られないのなら無意味だ。学連選抜なんてのもあるけれど、それはそれで話が別だ。
俺には信乃の、そのやるせない気持ちが痛いほどよくわかっていた。
「まだ、終わったわけじゃない。京子がこの差をひっくり返して先頭に立ってくれる可能性だってあるんだぞ?」
自分でもどこまで本気だったのか分からない。でも今は、信乃にはそう言うことしかできなかった。
「そんなこと……言ったって……っ」
すると信乃は着ていたボアコートの裾で顔を覆った。まるで俺にその顔を見せないようだった。
今までプライド高く行動してきただけでなく、それに見合う努力もしてきた信乃だ。それがたった、ほんの数分前の走りで打ち砕かれてしまった。駅伝部のみんなに見せる顔がないと思っていることぐらい簡単に分かった。
でも……
それでも……
「まだ、レースは終わっていないんだ」
まだ顔を上げない信乃に向かって俺は毅然とした口調で告げる。
「俺たちの高校駅伝はまだ終わっていないんだ。京子は……京子はまだ、都大路に出れることを信じて走っている。申し訳ないと思うより、今はまだ都大路を信じていたって思っていいんじゃないのか」
信乃に同情したい気持ちはもちろんあった。できれば今ここで彼女の苦痛や悲しみをすべて取り除いてあげたい気持ちだった。
でも、それはまだ早い。都大路を信じて京子は必死に走っている。都大路はもう絶望的になったが、そういう問題ではない。出れるか出れないかではなく、出れると思わなかったか思えなかったなんだ。京子も言っていた。「胸を張って『都大路を目指してました』と言いたい」と。そのためには、最後の最後まで都大路に出れることを信じ続けなきゃいけないんだ。
ボアコートに顔を押し付けたままでいた信乃はすっと顔を上げた。色白で清楚感漂う顔は、今は真っ赤になっていた。目も涙ぐんでいるかのようにうるうるしてる。
「……分かり……ました」
きっと涙は押し殺したのだろう。あふれだしそうな涙を気にするようなそぶりも見せず必死に平素を装うとする。強い子だよ、信乃は。
信乃はもう少しそっとしておいたほうがいいと思ったので、俺は選手控所に信乃を置いてけぼりにしたまま沿道に戻った。先頭のゴールが近づてくるだけあって人が増えていたコースだったが運よくすぐに朝陽を見つけることができた。
合流した俺たちは、興奮気味にレースについて話せる雰囲気ではなかった。朝陽は都大路が絶望的になってしまったことについてショックを受けているように思えたが、それでも俺が京子や信乃とのやりとりを説明したら少し納得してくれたように見えた。最後の最後まで都大路を目指す、その方針で俺たちも覚悟を決めることが駅伝部の最期に相応しいのかと思うと妙に腑に落ちた。
「京子ちゃんは本当に強い子ね」
「そもそも1年生のときからずっと駅伝部で1人で走り続けていたからな。都大路が夢の舞台だったとはいえ、いったいどこからそんなやる気がわいてくるのか」
それは不思議で不思議でたまらないことだった。初めて京子と会った時も、県選手権のときに目の前で泣かれたときも思ったことだったが、なぜ京子はここまで都大路にこだわり続けられるのか俺には分からなかった。
「きっとこだわる理由があるんじゃないかな、何か特別な思い入れが。そうじゃなきゃここまで頑張ることなんてできない」
なんだかんだ言って、京子の心の奥底にある競技に対する気持ちを垣間見ることは少なかったな。父親の件だって、夏休み明けまで漣ですら知らなかったくらいだ。
俺はもっと京子の、いや京子だけじゃなく駅伝メンバー全員の心に寄り添えたのではなかっただろうと思った。もしそれが出来ていれば県駅伝の結末は――――いや、そんなこと考えるのやめよう。今は都大路を信じる、そう決めたんだ。ifとか「たられば」なんてのは終わってからで十分すぎる。
そうこうしていると先頭ランナーの姿がコースの彼方に見えた。残り1km地点の北原橋に見えるその姿は―――黒いユニフォーム。そう、岸部高校だった。
第4中継地点、4区から5区への襷を2位の暁月高校と30秒差のトップで繋いだので岸部高校にはもともとかなり余裕があった。が、それ以上にアンカーが自己ベスト9分31秒の藤沢だ。いくら800mで国体に出た寺門が出走したとはいえ彼女は中距離選手。駅伝に向けた練習は満足に積めていないのは明らかだった。ラスト1kmをひた走る岸部高校の勝利はもはや確定だ。
沿道からは歓声があがる。北原橋を渡ってから数十秒経ってもなお、未だに2番手の暁月高校が姿を見せないだけあってゴール(に模様替えした中継所)はもはや岸部高校優勝ムードだ。俺と朝陽のすぐ横にいた岸部高校の男子生徒はニコニコしながら満足げな表情を浮かべてしまっている。彼らもまた女子チームと同様に都大路を目指している選手なのだろうか、と少し思ってしまった。
俺は手元の時計で岸部高校のゴールタイムを気にしつつも、コースのかなたを目を凝らして見ていた。やっぱり、京子がどれぐらいのタイムで来るのか気になっていたのだ。もしも京子が本当に16分台中盤で走るようなことがあれば、そろそろ姿が見えてもおかしくはない。暁月高校の選手はさっき北原橋に姿を現したばかりなのでもう少し時間はかかるかもしれないが、俺は京子の登場が待ちきれずにいた。
岸部高校の選手が残り400mほどの位置に来た。沿道の声援が、一段と大きくなる。このコースをもしも京子が走っていて、二ノ丸高校の選手と俺がこんな瞬間を味わえていたらと思うと羨ましくてしょうがなった。
弱いけれども冷たい雨が降り続ける彌彦路に、晴れやかな顔の岸部高校・藤沢選手を見た俺は自然と二ノ丸高校のみんなの姿を重ねてみてしまった。
もっと、俺は出来ることがあったんじゃなかったかな。
コースを見てられず俯きかけた俺だったが、その刹那に朝陽が俺の肩を叩いた。
「見て、ラスト1km、京子ちゃん来た!」
その声にガバッと顔を上げる。目を凝らしてコースの彼方を見る。
そこにはエメラルド色のユニフォームをした、ほんとうに豆粒のように小さい京子の姿が見えた。
とっさに俺はストップウォッチのラップボタンを押して画面を見た。4kmの通過は―――――13分18秒だった。え?
俺は自分の目を疑った。もう一度、時計をよく見る。でもやっぱりタイムは、13分18秒だった。
「え、ちょ、マジで速くね?」
岸部高校がいつの間にかゴールしていたのをよそに、俺は驚きのあまり声を漏らした。
確かに、確かにだ。俺は京子に「3分20秒ペースでいけ」と指示していたが……それはぶっちゃけ内心行けるかどうか分かんないけどハマることを信じきって言っただけであったので、本当にそんなタイムで来るとは思いもよらなかった。
沿道の観衆も京子の姿に気付いたらしかった。
『あれ、あれって二ノ丸高校だよね、周回遅れとかじゃないよね』
『いくらなんでも速すぎない!?』
『16分中盤は出るぞ……』
周辺は驚きのムードになっていたが正直、俺もかなり驚嘆していた。京子、完全にハマった走りをしているな。
「ハマった」という表現は覚醒モードというかそんな感じの状態を表す表現だと俺は思っているが、まさしくそれがぴったりだ。だいたい今、全国規模で見ても5kmを16分中盤で走れる選手がどれだけいる? そして更に、今年の春にようやく初めて10分を切ったばっかりだった選手はそのうちのどれほどいるだろうか。京子はまさしく言葉通り急成長している。
岸部高校に引き続き暁月高校もゴールしていったが、そんなことはもうどうでもよかった。ここまで来たら京子がこの最後の舞台である県高校駅伝の最終区でどれだけの走りを出来るか見届けてやろうと思った。
「京子、頑張れ!」
コースはまだ声援に溢れていたので俺の声は数百メートル先の京子に届くのは厳しかったし、それに俺はありきたりなことしか叫ぶことしか出来なかったが……それくらいに高揚していた。
まさしく二ノ丸高校駅伝部の最期に相応しい走りだ。俺や大森が全国区で走っていた時代やそれ以前の輝かしい歴史、それからの元気のなかった時期、そして今の俺たちの夢の終わりに相応しい走りだった。100点満点、パーフェクトな走りだ。
いよいよ京子の顔がくっきりと見える位置にまできた。残りは100mといったところか。彼女は眉間にしわを寄せながら、それでも顎が引けた力強い走りをしている。コンパクトにまとまったフォームをしている京子だが、そのストライドは春よりもずっと広くなっていたように思えた。
「「京子先輩、ラスト―!!」」
沿道から聞き覚えのある声が聞こえた。漣、いや涼風……? あ、2つ同じ声が重なってるから一緒に叫んでるのかあの姉妹は。
「京子先輩、ラストです!! ファイトです!!」
それに半分重なるようにして稲穂の声が聞こえる。人間拡声器という言葉がぴったりな稲穂の声はどこにいたって分かるほどだ。
「京子さん、ラストです!!」
稲穂の声に続くように信乃の声も聞こえた。いつものようにキリッとした顔になっていた信乃の声が聞こえると妙に安心した。
二ノ丸高校駅伝部で繋いできた襷、それを京子が今、終わらせる。
役員たちがご丁寧にゴールテープを用意してくれた。それに向かって京子は表情を変えずに突き進んでいき、ついにそこに達する。
ゴールテープに飛び込む瞬間、京子は短距離選手のように薄い胸を突き出すようにフィニッシュの姿勢になる。
その瞬間、俺は自分が言ったあの言葉を思い出した。新潟ロングディスタンスのときにみんなに話していた、あのことだ。
フィニッシュするときは全力で駆け抜けろ。
京子のそのフィニッシュの姿勢は、彼女自身が最後まで頑張りぬいたその証明だったように思えた。
思わず俺はほくそ笑んでしまった。
――――これで、良かったのかな。




