表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
PR
46/95

新潟県高校駅伝その6 雨に濡れて

 信乃が言った通り雨はすぐに降り出した。降り始めから大粒だったためか、すぐに本降りになることは予想できた。天気予報では正午すぎから雨だという予報だったのに今は11時にもなっていない。予報が少し早まったんだな。

 ウィンドブレーカーを着ていた俺だったが濡れちゃいけないと思い肩掛けバッグから折り畳み傘を取り出して広げた。新品のパリッとした傘の感覚に心地よさを覚える一方、天候の変化には危機感を感じ始めていた。

 この弥彦のコースはだだっ広い田園のなかにあるだけあって風をダイレクトに受けるのが特徴だ。そのため平坦かつ直線のコースなのに毎年記録は低調気味になる。都大路とか北信越駅伝ではタイムがグッと上がることもしばしばだが、それは逆にこのコースが「本気が出しにくい」コースだということも意味している。

 しかもそれに加えて雨が降られたらペース感覚は鈍るだろうな。距離表示もない、建物もないこのコースじゃ頼れるのは自分自身が身がいてきた感覚だけだ。

「初心者には難しいレースになってきたみたいですね……」

 信乃にも、このレースの厳しさはわかっていたようだった。やはり生徒副会長を経験し、かつ学業スポーツともに常にトップクラスの成績を収めてきた信乃は分析力がある。ただ、

「冷静な分析をしてるみたいだが弱気になってるんだな、信乃」

「無理もないです。一人で走ってきた分、タイムと人と競り合うことはあまり得意じゃないです」

 信乃は駅伝部に来る前の夏休み期間中、月間500kmを走ったと入部当時話していた。でもそれは距離走だったりジョグだったり、タイムを追ったり人に勝つ走りではなかったんだろう。信乃の顔ににじみ出る自信のなさがそれを物語っていた。

「3km区間なので少しは集中して走れるのかもしれませんね……」

 いつもはキリッとした眼差しで漣や顧問である俺自身にまで噛みついている信乃だけど今だけは弱気だった。こんな信乃、めったに見たことがないぞ。

 とりあえず何か元気づけるっていうか、自身を取り戻させるようなこと言わなくちゃいけないのはわかってるけど、こういうの完璧超人系女子って意外とデリケートでちょっとのことを引きずったりすることもあるのは教員としての短く太い経験で何となく理解してる。でもやっぱりここで顧問として、いや一人の男として何か言って元気づけてやるべきなんじゃないのか!? あぁもう、でも「信乃は田んぼ道走るの慣れてるだろうから、今日も大丈夫だよ☆」なんて気安くいったら今ここでぶっ飛ばされても反論できないぞ。

 そんな俺の心配もまったく

「とりあえず今はやるしかないんです。嘘つきになんて、なりたくない」

 信乃はそう言いながら俺の前を立ち去り、中継地点横の控所へと向かった。どこか意味深長げな雰囲気をしていたが、俺はそのことについて深入りはしなかった。


 信乃が中継地点付近の人混みに消えていくとすぐに先頭ランナーが入ってきた。先頭は未だに岸部高校で、そこに100mくらいの差をつけて暁月高校、さらにその100m後方に涼風が走るかたちになっている。やっぱり、3区になっても岸部も暁月には実力者が揃っている。涼風も涼風で10分を少し上回るくらいでは走れているのだろうが、なかなか簡単に先頭には追い付けない。

 岸部高校の選手は折からの雨に髪の毛をべったり濡らしながらラストスパートをかける。確か、栃岡徹夜事前リサーチによれば、九十九里可奈子という選手だったな彼女は。九十九里は3000mの自己ベストが9分50秒ながらも中学のころから駅伝だけは強かったみたいだ。暁月の追随を許さない速さ、さすがだ。

 一方中継所に目をやると、岸部高校の次の4区の選手がボアコートをそそくさと脱いでコース上に移動する。

「可奈子、ラストだよ! ファイト!」

 彼女はそう叫ぶと、その場に2度3度ジャンプをした。ショートボブ、というかおかっぱ頭の彼女の身長はとても低い。なんか京子みたいに全然中学生で通用しそう、というか小学生みたいだ。

 とうとう岸部高校の3区の選手、九十九里選手が中継所まであと100mまで迫った。彼女の姿が徐々に鮮明になってきた。黒いユニフォームに、赤い文字で書かれた「岸部高校」の文字。そのユニフォームを目にしただけで俺は危機感を再認識した。彼女たちは、強い。

 九十九里選手はおかっぱ頭で、背はすごく小さいように見えた。まるで小学生に見えるのは4区の選手とほぼ同じ……ん? てか、ほぼっていうか瓜二つ。まるでそっくり同じ人みたいじゃないか。え、ひょっとしたら4区の選手って、

『岸部高校、3区の九十九里選手が4区の九十九里選手へとタスキを渡しました!』

 姉妹パターンか!? しかもここまでそっくりってことは双子の可能性もあるじゃねーか。常盤姉妹といい、長距離やる人って双子が意外と多かったりするのか? てかアナウンスももうちょい気を遣えよ! 絶対に聞いてた人は関係者以外全員「!?」ってなってるだろ!

 頭の中で驚きと同時に猛烈なツッコミをしていた俺だったが、忘れずに通過タイムをメモ帳に記入していく。

 そして黄色のユニフォームの暁月高校が岸部高校に14秒差で襷リレーをすると、いよいよ涼風が中継地点へとやってきた。待ち構えているのは、ユニフォーム姿になって長い美脚が露わになったモデル体型の信乃。俺の周辺で俺と同じように観戦したり記録をとっている女子高生たちは「何あのモデル体型!?」「うらやましい……」などという声が聞こえている。

 涼風は中継所の50m手前でもう一段階ギアを上げた。動きは少し固いが、彼女としては最大限のスピードだ。その勢いのまま、中継ラインへと突っ込んでいく。

 彼女の顔は本気で、真剣そのもの。普段のきゃぴきゃぴした涼風の姿はどこにもなかった。今は本能むき出しの、アスリートの涼風。

 涼風はそのまま倒れこむように信乃に襷を渡し、信乃の背中をトンとたたいた。信乃はそれをくみ取ると、勢いよく弥彦路へと駆けていった。

 手元のストップウォッチでは涼風のタイムは10分11秒。彼女の実力からすればもっといけたのだろうが、稲穂や他校の選手を見る限りはこの程度のタイムでも納得するしかないのかもしれないな。予想より早く天気は悪くなってきて、今じゃ本降り目前みたいなかんじだし。

 他の学校もそれ相応にタイムが落ちているのだから、涼風も順当に頑張ったといえる。先頭までは40秒にまで開いてしまったが……信乃と京子の快走次第では、逆転は十分に可能な位置にある。本格的に焦りが出てき始めてはいるものの、勝算は十分にある。各都道府県の1位しか出ることのできない都大路、もちろん新潟でも1位にならなければならないのだが、その蓋然性はまだ残っている。

 走り終わった涼風は膝に手をついて呼吸を整えてからゆっくりとコースを去った。もう明るく振る舞う余裕もないくらいに追い込んだのだろう。俺は駆け寄って、彼女に「お疲れ様」と言ってあげたい気分だった。

 でも……それは今の俺にはできなかった。中継所が走り終わった選手でごった返していたのもあったが、これからすぐやって来る「彼女」にここで確実に会わないといけないからだ。

 俺がコースから目を離して後ろを振り返る。サンビレッジ横に設置された召集所から、選手が徐々に中継所脇の選手控所へと移動してきているのだ。そのぞろぞろと移動する一段の中央やや後方に、彼女の姿はあった。

「おい、京子!」

 俺はそう元気よく言いながら京子のもとに駆け寄る。京子の周辺で一緒に移動する選手まで俺のほうを向いていたが、そんなことはお構いなしだ。

「あわわわわ、栃岡先生ぇ……」

 ちょっと緊張気味の京子だったが、春の県大会とかほどではない。あの時は俺が話しかけても終始、沈黙(サイレント)を貫いているほどの緊張だったが、今は俺こと栃岡先生を認識出来ている。

「今、第三中継地点では、トップは岸部、その次に暁月、二ノ丸は三番手だ。それぞれ20秒差くらいだから、先頭とは40秒差くらいかな。なかなか先頭との差が縮まらなくてな」

「そ、そうですか……でも、まだ逆転は可能な距離ですね」

 京子はあきらかな作り笑顔だったが、俺に微笑みかけてくれた。それがほんのちょっと安心したというか、嬉しかった。

「ただ、前を行く高校も手ごわいぞ。岸部は3000mを9分20秒台に肉薄したベストを持つ藤沢、それに暁月はあの寺門がいる。暁月とのラスト勝負は避けたいから序盤からハイペースでいけるところまでいってくれ」

 ハイペース、と思わず口走ってしまったが、彼女たちには「駅伝では最初の1キロは絶対に飛ばすな」と前々から言ってきてある。箱根駅伝とかに比べたら高校駅伝の距離なんて半分以下だけど、最初の1キロなんてレースの半分も占めていない。大事なのはそのあとなんだ。まぁ、漣は今回で痛いほどわかってくれたんだと思うが……京子ならまず大丈夫だ。

「信乃なら、ハマれば先頭と20秒差くらいにまでは回復できるだろう。京子、京子はまだ5000mのトラックレースはやったことがないけど、きっと3分20秒ペースなら5キロを押せるはずだ。キツイとは思うけど、これが最後の賭けだ」

 俺は力強くそう言うと、京子は深くうなづいてくれた。低身長の京子は俺を見上げるように、そのつぶらな瞳で俺に訴えかけるように口走った。

「栃岡先生、きっと、一番で還ってき――――」

 そう言いかけたとき、沿道でコースの様子をトランシーバーで聞いていたどこかの高校の父兄が叫んだ。

『二ノ丸高校の選手が1キロ地点で転倒したって!?』

 その声に周囲の観客や高校生が動揺する。すぐにその父兄は速報を周囲に伝える。

『膝から血を流しながら、ジョグのようなスピードで走り続けてるって。中継所(ここ)までたどり着けるのかなぁ……』

 京子の口からは声が出なくなった。

 俺も耳を疑った。

「どういう……どういうことだよ…………」

 おろおろしていた俺の手から、差していた傘がするりと落ちた。

 いよいよ本降りになってきた雨が俺の服を、額を濡らしていく。

 信じられない、その一言に尽きた。

 目の前にいる京子にかける言葉すら見つからない。

 雨は俺と、そして京子の髪をもぐっしょりと濡らしていた。

「京子…… 信乃は…… タイム差は……」

 言葉が単語でしか出てこない。

 それくらい俺は動揺していた。

 これじゃ都大路は



 絶望的だ。



 一秒を削り出さなくてはいけないこの駅伝で、一度でもジョギングのようなスピードに落とせるほど二ノ丸高校は強くない。それは京子にも分かっているはずだ。

 京子は、着ているウィンドブレーカーの色が変わってしまうくらいに全身を雨で濡らしていた。

 頬からも雨水が滴り落ちる。

 おでこに巻いた「二ノ丸高校」の文字を俺は見たくなかった。

 「都大路に出る」という二ノ丸高校の目標が、少しずつ霞んでいくのが分かった。

 信乃がペースを落としている間に、岸部や暁月はどんどん先に行くんだろう。

 後方を走る村松東は二ノ丸のことを抜き去ってしまうかもしれない。

 他の選手が見えなくなってしまうような、そんな不安に駆られた。

 さっきまでの勢いは一気に消沈してしまった。

 そんな気分だった。

 俺は、今ここで顧問として何が出来るのだろう。

 俺には彼女の襷を受け取ることなどできない。

 俺はただ、言葉で励まし、行動で訴えることしかできない。

 無力だ。

 練習中やレース前は付きっきりでいられるのに、試合中は指をくわえて待つことしかできない。

 信乃は今、どんな気分だろうか。

 きっと彼女の性格だから、申し訳ないとか思ってるんだろうな。

 それでも、せめてでも思って襷をつなごうとゴールへと向かうのはさすが信乃だ。

 そんな健気な彼女に俺は何が出来るんだろうか。

 俺には答えがなかった。

「――――栃岡先生、」

 俺と京子のうちでできていた沈黙は、京子が破った。

「キツくなって、きましたね……」

 京子は残念そうな微笑みを浮かべた。

 俺は彼女の微笑みに合わせることも、微笑む以外の反応をとることもできなかった。

「でも栃岡先生の言った通り最初から3分20秒でいきます。落ちる前には落とすのでラストスパートもきくと思いますよ」

 京子は何も言えない俺とは対照的に、京子はレースプランについてすらすらと語っていく。

「京子……」

 思わず俺は呟く。

 京子は俺の言いたいことを察してくれたように、やさしく微笑んだ。

「だってまだ、間に合う可能性はゼロじゃないですよ。私が16分中盤で走って、他の選手がお腹を下して20分かかれば、3分差でも大丈夫なくらいです」

 俺はそれを聞いて思わず苦笑いをする。

「そんなに差がつくとは、考えにくいな」

「でも、まだ間に合う可能性が1%でもあるなら……いえ、それより低くても……都大路に出れるかもしれないのなら、私は走りたいんです。それが私の高校駅伝だから」

 京子は入部したときから、ずっと一生懸命に一人で走ってきた。漣が入ってくる以前のことは何も聞いてないが、やる気のない先輩部員をよそに走っていたのかもしれないし、もしくは最初から本当に一人だけの部員だったのかもしれない。都大路はおろか、高校駅伝に出れる可能性すらなかったといっても過言ではない。

 でも今、京子と俺はこうして都大路を目指せる位置にまできている。蓋然性がゼロじゃないと思って走り続けてきたんだな、京子は。

「それに、卒業後も『私はずっと都大路を目指してました』って胸張って言いたいんです。だからレース中に折れることなんて、できません」

 京子はもう一度やさしく微笑むと、「終わったら一緒に写真撮りましょう、栃岡先生」と言って中継所へと消えていった。俺は「あぁ」と言い返すことしかできなかった。


 数分後、先頭ランナーである岸部高校の九十九里選手が、昨日二ノ丸高校といざこざがあった藤沢選手へと襷をつないだ。そして、第3中継地点とほぼ同じの20秒差で暁月高校の選手が寺門選手へと襷をつなぐ。

 俺はコースのはるか遠く、北原橋のほうを目を細めて眺めてみると、そこには高身長の選手が明らかにアンバランスな走りをして向かってきていた。信乃だ。まだ500mくらいあるのだろうか。ゆっくりだが、確実に中継ラインへと向かっている。

 ゆっくりでいい。だけど、なるべく早く襷をつないでくれ、信乃。お前には急に駅伝部に入ってもらって、色々と世話焼かせて、助かってばかりだった。今回もサクラがけがをして、信乃がいなければ本当に出場すら出来なかったんだ。本当に、本当に本当に感謝している。だから最後、その襷をつないでほしいんだ。

 そうしてその2分後、信乃は中継所へとたどり着いた。思っていたよりも速かったが、それ以上に彼女の膝からは生々しい傷跡が見えていた。雨と混ざった血がしたたり落ち、白いシューズは真っ赤に染まっていた。信乃、痛いだろうな。終わったら救護室直行だろう。

 稲穂といい、今回の二ノ丸高校は出血した選手が多いな。まったく彌彦神社のおみくじにはそんなの一言も書いてなかったぞ。神様は、ちょっと気まぐれだな。

 信乃は辛そうな顔を浮かべながら、なんとか襷を京子に渡した。

「ごめん……」

 信乃は力なさげにそう言う。京子はそれを確認すると、中継所から元気よく駆け出した。

 俺のストップウォッチでは信乃のタイムは13分4秒。先頭の岸部高校とは3分さどころか4分も差が開いてしまった。それでも……京子は先頭に立てることを信じて、最終区5kmを走り出した。

 絶望的なタイム差だし、普通の人は先頭に立とうなんて冗談でも口にしないかもしれない。

 それでも、それが京子の信じた高校駅伝なら、最後まで勝負をしてほしい。

 まだ雨に濡れていた俺は、立ち尽くしながらそう思うしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ