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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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43/95

新潟県高校駅伝その3 スタート

 ――――――あと少しだ。

 俺は残り1kmの標識を確認すると意識的にスピードを上げる。

 第86回箱根駅伝の予選会、大学最後になるかもしれない試合を俺は全力で駆けていた。

 エネルギーが枯渇し始めている両脚。焼けるように暴れ狂う心臓。体は狂いそうだったがかばう余裕などどこにもなかった。

 時間がなかった。インカレポイントで他大にアドバンテージを許してしまっている我らが古豪・名英大学は予選会の走りにかけるしかなかったのだ。

 10月中旬にも関わらず照り付ける太陽は学生ランナー達をあざ笑うかのようだった。暑い秋だった。

 昭和記念公園の外周を走った後、公園内のゴールへと向かう予選会のコースは選手のスパートにやる気を与える。走れば走るほどゴールに近づく実感がある。手を伸ばせば届くかもしれないゴールがそこにはあるのだ。

 次のコーナーを左に曲がればゴールが見える。

 そこは残り500mくらいだっただろうか。時計を確認したかったが時間の無駄だと思った。今の俺の使命は一刻も早くフィニッシュすることだ。決してタイム通りに走ることではない。

 ―――――ゴールが見えた。

 選手がなだれ込むあの一線。それを確認してもう一段階ギアを上げる。大丈夫だ。あと100mくらいなら持つ。

 思う存分倒れこんでやろうじゃないか。どうせ明英が予選会を通っても俺はメンバーには選ばれまい。この予選会だって12人目の選手として出ているくらいだ。センスのある選手は他にもたくさんいる。

 いろいろな思いが頭の中を駆け巡る。

 どうか……

 俺たちを箱根に――――――

 フィニッシュラインに倒れこもうとしたその時だ。俺を罵倒する女の子の声が聞こえた。

「栃岡先生、おそーいです! 早くメニュー教えてよ。アップも出来ないでしょ!」

 その少女は前方からまっすぐ、俺へと向かって走ってくる。そして手を握りしめて拳を作っている。

 ――――――え? え?

 なんで箱根の予選会を走っているはずなのに、練習メニューの催促をされているんだ俺は。

 混乱してしまった俺は立ち止まり辺りを見回す。

 見るとそこは秋の昭和公園……ではなく桜の咲き誇る並木。そしてグラウンドに田んぼ。母校二ノ丸高校の風景だった。来ている服はランシャツランパンではなくスーツ。

「な、ちょ、タイムスリップしちゃったのか!?」

 大混乱する俺をよそに、その少女は話を続ける。

「オトトイはジョグって言ってたノに昨日になってインターバルやるってイイダシテ、今日の朝にはペース走とか言ったり、もういい加減にしてください!!!!」

「あ、え、っと、ごめん……」

 その子の顔を見るより先に頭を下げてしまった。

 なんなんだこの状況。さっきまで全力で走っていたはずなのにどうしてこんな状況になったんだ。もしかして異次元の世界に来てしまったのか?

 ひたすら自問自答を繰り返す。しかしそんな俺を見て気の毒に思ったのだろうか。「彼女」はそっと優しく俺の頭に手を置く。

 そして撫でた。優しく、ゆっくりと。俺のことを受け止めてくれる、そんな気がした。

「でも走ってきてくれたんだヨネ? ありがと。 じゃ、練習はじめましょう!!!!」

 優しい一言一言を耳にした俺は思い出した。

 そうだったよ。俺は……



「もうランナーじゃなくて、教師だったんだな」

 目覚めた瞬間、自分がそう言ってるのが分かった。

 俺は県高校駅伝の前泊の宿で眠っていた。寝言だったのか、それとも意識的に言ったのか。よくわからなかった。

 俺は起き上がる。布団から出ると、部屋は薄暗いだけでなくちょっと寒かった。

「でもそういえば、この夢、すっかり見なくなってたな」

 布団をたたみながらそう言った。「この夢」とは俺が箱根駅伝予選会で走る夢だ。だいたいいつもは走り終わって、結果発表を聞き、後輩の河田に泣きつくところで夢が終わるんだった。

 でも今回は終わり方が全然違った。走っててるときはいつもと同じだけど、終わり方は全く違う。なんで二ノ丸高校駅伝部が出てくるんだよ。

「しかも夢でしゃべってたの、誰だったっけ?」

 覚えてなかった。「彼女」が誰だったのかを。京子のような漣のような涼風のような稲穂のようなサクラのような信乃のような、はてまた朝陽のような話し方だったよな。うーん、誰でも良いっちゃ良いのかもしれないけど、ちょっと気になるなぁ。

 洗面台の前に立ち、お湯が出るのを待ちながら物思いに耽っていた。

 ……まぁ、考えたところで分かんねぇよな。夢の中のことって見てるときはすごく鮮明だけど起きて思い返すときにはもうぼやけてしまっていることがほとんどだ。

「まぁ、顔でも洗うかな」

 昨日の夜のうちに鏡の前に置いておいた洗顔フォームに手を伸ばす。だがその一瞬、鏡に映る自分の顔を見た俺は自分自身に絶句というか絶望することとなった。

「う、なんだこの頭……」

 いつもクセっけな髪であることは重々承知のつもりだが今日はネタになるくらいにレベルが違った。そう、寝ぐせが立っていたのだ。いや「立っていた」というよりは「爆発していた」という方が正しいだろうか。某カードゲームのエジプト王との二重人格を持つ主人公とか、「気」を溜めることによって第二第三の段階へと進化する実は宇宙人だった主人公の髪型みたいになっていた。熟語で表すなら「硬化」みたいな感じだ。

 ……自分でもこの例えは意味が分からない。やべ、朝から何言ってんだろ。

 それくらい俺の今の髪型は混沌としていた。

「大浴場にいって髪だけでも洗ってこないとみんなに爆笑されるぞ……」

 すぐさま蛇口のお湯を止める。朝食の集合時間まではまだ時間があったが、頭のあまりの暴走っぷりに絶望していたこともあって大浴場へと急いで向かった。


 浴場に着いた俺は服を脱がず浴場へ向かう。この宿は2つ大浴場があって日替わりで男女用に分かれるのだがこの時間は片方ずつ清掃をすることになっている。だから男女共用になってしまうので、仕方なくこの時間は足湯と着衣での洗顔のみしかできない。だから俺は普通の服装のまま浴場へと向かったのだが、これが後に功を奏することになる。

 弥彦村は新潟県有数の名湯地でもある。そのため浴場は24時間源泉流しっぱなしの使い放題。朝風呂が出来る宿はたくさんあるけど、午前中から温泉に浸かれるのは観光客にとっても便利なのかな。まぁ朝風呂出来ないのはちょっと不便だよなと思いつつも髭剃りセット持ちながら浴場のドアを開ける。

 ―――――ガラガラガラガラガラ……

 湿気でぬれたドアをスライドさせて中に入る。

 浴場にはほとんど人がいなかった。というか、一人しかいなかった。その人は入口に一番近い蛇口に服を着たまま立ちながら脚にシャワーをかけていた。

 ちゃんと下も履いてる。ハーフパンツを太腿の上までまくり上げている。脚は結構細いから子供みたいな体型だけど筋肉量のバランスは悪くない。太腿が膝下よりも少し太いのは強いキックが出来る証拠。そして負荷に耐えられるだけの関節は発達している。足の甲とふくらはぎ、腿の前に血管が浮き出ているのは、身体を絞れていて調子がいい証拠。

「―――――あの、さ。ジロジロ見られるの気持ち悪いんだけど」

 どこかで聞いたような、いや、さっき夢の中で聞いた声だった。

 「彼女」の顔を見た俺は安堵感に包まれていた。大丈夫。今回はセーフだ。「夏合宿の京子との一件」という大事件に比べればこんなものはただの出来事に過ぎない。

「聞いてんの? 少女好きロリコン教師ー!」

 日曜日の朝に大音量で宣伝する選挙カーに対するかのごとく軽蔑の目で漣は俺を見る。

「悪かった。悪かった。セーフ。今回は、セーフ!」

「は? 何がセーフなの? ちょっと朝から不快なんだけど」

 漣はそう吐き捨てながらシャワーを脚にかけ続ける。まったく、試合の朝までこの調子かよ。

「―――それはそうと」

 蛇口を捻る音と共にシャワーが止まった。

「あの、そ、その、とっても言いにくいんだけど……」

 漣はうつむきながら顔を真っ赤にする。明らかに様子が変わった漣を疑問に思い、下を向く彼女の顔を覗き込む。

 と、次の瞬間、

「その頭、なんな―――――あははははははは!!」

 赤い顔をして口に手を当てる漣。しかし彼女の笑いは俺にダイレクトに伝わっていた。鼻水が出そうになっているのか時々鼻をすすりながら、俺の顔を指さして笑いに笑う。

「ちょ、カオスすぎでしょ、さすがに…… どんな頭して公共のお風呂場に来てんの!! あははは、あはははははは!!!」

 すげーむかつく。このボンバーヘアーを直すために朝から大浴場に来たんだろ。温かいお湯で何度も洗ってリンスをつければ余裕だと思ってわざわざここに来たんだけど。

 でも、確かにこの頭は笑っちゃうよな…… この頭でサンビレッジ弥彦に入ったら間違いなく他校の選手を笑わせて集中を切らす。それに二ノ丸高校の優勝が決まって集合写真を撮るときにこんな頭をしてたんじゃあ一生の恥だ。

 今回の駅伝は二ノ丸高校の第二のスタートであると同時に、俺の競技人生の再スタートなんだ。こんな髪型で写真に写るとか言語道断だ。

「まぁこれから頑張って戻すよ……」

 俺は立ったままシャワーを手に取り髪をサッと濡らし、シャンプーを大量につけて頭を洗い始めた。

 漣も再びシャワーのお湯を出すと、さっきまでやっていたように再び脚を温め始めた。それを確認した俺は口を開く。

「そういえばさ、漣もどうしてシャワーで脚を温めてるんだ?」

 ちょっと気になってたことだ。足湯みたいなかんじで浸かっておけば温まるのも早いし、どうしてそっちにしないのか。それはここに来た時から疑問だった。

「うーん、と。ウォーミングアップの代わりみたいなかんじ? 走って温まるのも悪くないんだけど、やっぱり寒い中走るのはストレス溜まるじゃん」

「めんどくさいだけか」

「ちょ、それだけじゃないし! あたしが走る1区って長いから、試合前に走ってエネルギー使いたくないなって思って。お風呂に脚だけ浸かるのもよかったんだけど、ちょっと温度高すぎるんだよね」

 頭を洗いながら漣を見る。漣は得意げな顔をしていた。夏休みの自由研究の発表をする小学生のような純真な得意顔だ。

 ―――――1区のこと、長距離のことについて、自分なりに考えてくれてるんだな。

 そう思うと、俺の心の中であの疑問が浮かんだ。それは彼女の今までの競技とかかわることだ。

「あのさ。もしかして、全区間で最長の6kmの1区、漣はやりたくなかった?」

 漣の表情から得意顔は消えた。一瞬のうちに真剣な表情に変わっていたのが分かった。

「それってどういう意味?」

 真面目な態度になっている漣に気付いた俺は髪を洗う手を止めた。大量の泡が頭についていながら。

「漣はずっと800mの選手だった。駅伝を走ることはわかっていたみたいだけど、それは短い区間での話だと思ってたんじゃないかな。でも前の記録会でいきなり1区を走れって言われて。戸惑った表情をしているのは分かってたけど聞くのがちょっと怖かったんだ」

 新潟県強化記録会が終わったミーティングで俺は区間の発表をした。おそらく駅伝部全員が納得するオーダーだったと思うが、それは漣の1区6kmの挑戦を除いての話だろう。確かにタイムもチームの中では上位だったし走りも悪くない。戦略的にも漣を1区に置くことは間違っていないはずだ。

 でもそれが顧問の俺の一存で決まったことであるならば話は違う。しかもいきなり言われたこと。ショックを受けている漣のことは確かに目に入っていたが、しばらく様子を見ようと思って彼女のフォローをしていなかったのは事実だ。

 しばらく続いた沈黙の後、漣は、そっと、口を開く。

「そりゃあ、びっくりしたよ。最初は。いきなり1区なんて言うんだもん」

 怒ってしまったのかと不安になったが彼女の顔を見るとそれは杞憂だと分かった。漣は予想とは裏腹に笑顔だった。

「でも栃岡センセーの話を聞いてると、それもそーだなって思って。うまく乗せられちゃったね」

 俺が詐欺師みたいな言い方だなそれ。

 駅伝に出ることが決まった5月くらいから過去のデータとか映像を検証しながら二ノ丸高校が勝てるように作戦を立ててきた結果だぞ。まったく少しは感謝し―――

「でも、ありがと!」

 漣は明るく、そして無邪気にパッと笑いだした。

 今までに見たことがないような笑顔。いつも毒舌ばかりで優しい表情なんて滅多に見せない漣、だからこそ引き込まれるものがあった。

 頭を駆け巡っていた言葉を見失った。それは一瞬のことだったが、そんな感覚に襲われることは経験したことがなかった俺は戸惑った。

「中学ぶりに長距離に挑戦して、自分の心の中で吹っ切れたものがある気がしたんだ」

 漣は中学時代のことを持ち出した。それは全国の中学生ランナーの憧れの舞台である全中駅伝に出ていた頃のことか。

 上級生の暁月高校の寺門由梨、そして同学年で二ノ丸高校新生徒会長の吉村千春と同じ中学で漣は「長距離」の選手だった。今のように800m専門の中距離選手ではなく、だ。

 全中駅伝に出場出来るほどの力があれば高校でも長距離ランナーとして十分やっていけるはずだ。でも、漣は違った。彼女は800m専門の中距離ランナーとなることを選んだ。その理由は知らなかった。漣は全中駅伝に出ていたと知ったのは割と最近のことだったし、聞いてもどうせまともな返答はないと思っていたからだ。

「それに、今まで京子先輩とか、みんなに迷惑かけてきた。今回ぐらいは作戦通りに思う存分走ってみるのも悪くないって思うんだ」

 漣はシャワーを止めた。そしてしゃがんで、頭が泡だらけになっている俺に目線を合わせながら言った。

「いつまでもぼやっとヒトの脚なんて見てないでよバーカ。早く行こっ、変態ロリコン教師!」

 ニヒヒ、と言わんばかりに綺麗な歯並びの前歯を見せた。ムカつくけど、なんか憎めない。

 人って、弱いところを一度知っちゃえば誰だって打ち解けあえるのかな。出会った最初は漣だって俺だって、どこかしらバリアを張っていたのかもしれない。でも一瞬だけ、ほんの少しでも心の奥のところに触れてしまえば誰だって愛し合える。そうなんだろうな、きっと。



 なんとか髪を整えた俺は駅伝部のみんなと朝食を済ませ、スタート・ゴール地点のサンビレッジ弥彦へと到着した。ここに来るまでにメンバー全員の様子を注視していたが…… やっぱり昨日と同じで稲穂はちょっと声のボリュームというか張りがない感じがする。元気があっても空元気っていうか、どことなく全部乗っかってこない気がするな。まぁ、本番になったら一気に爆発してくれるだろう。そう思うしかない。

 あとのみんなは全く問題ないようだ。京子はちょっと緊張気味だけど、それでも以前と比べたら全然マシだ。かれこれ新潟ロングディスタンスのときから試合の前はけっこう落ち着くようになったから俺としては一応安心している。

 漣は浴場で見た時と同じでいい顔をしている。1区というだけあって襷をずっと肩にかけたままでいる。あれ、忘れたりしたら大惨事だもんなぁ…… まぁ勉強と違って陸上に関してはおっちょこちょいなことはしないと思うし、大丈夫だろう。

 信乃は落ち着いている。というか、あれはあれはいつも通りなんだろうけど。鏡見て髪を整えるのはいつものことだから事細かに言うつもりはないけどきっと堅実な走りをしてくれるだろう。

 涼風はいつも通りだ。いつも通り携帯でよく分からん画像を見てひとりでヘラヘラ笑っている。ま、ほっといたほうがいいだろうこの子は……

 メンバー全員の状態を見て真っ先に思ったことは、誰一人として大きな怪我や故障を抱えていないことだ。他の高校を見ると朝から松葉杖ついた子がいてちょっと胸が痛くなるが二ノ丸高校は全員無傷だ。女子5人だけのチームで(サクラは欠いてしまったとはいえ)エントリー全員がほぼ万全の状態で臨めるのはめったにない。

 俺はよその駅伝強豪校みたいに女子でも1日20km超を走らせる練習をやらせてこなかった。多くても20kmいくかいかないかくらいだ。都大路に出たいのは山々だけど怪我したら元も子もないし、それに何より高校生で燃え尽きる(バーンアウト)なんてしてほしくなかった。ここまでの急成長を見れば一目瞭然だけど駅伝部のみんなにはかなり才能がある。少なくとも俺は、それを自分の手で紡ぎ取るようなことはしたくなかった。

 その考え方のおかげかどうかは別として、まずは高校駅伝のスタートラインに立てたことが一安心。まだまだ夢の途中なんだ。都大路を決めて駅伝部の廃部を阻止しなければいけない。生徒会長の吉村だって、今必死に二ノ丸高校の部活動全部のために頑張っている。俺たちが学校運営側のことを感動させられれば、きっと部活動が消えていくこの馬鹿げた現実は変わるはずだ。


 サンビレッジの体育館内には徐々に人が増えてきた。ほとんどは高校生で、おそらく応援の生徒だろう。駅伝部ももう少し実績があれば、陸上部の生徒に来てもらえたんだけどな。ま、今のままじゃ厳しいよな。

「うっわー、人めっちゃ多いし…… 入口すっごい混んでる」

 ボアコートにタスキをかけた漣は不安そうに入口のほうを見る。彼女の頭には黒地に「二ノ丸高校」の赤字が入ったハチマキ。高校生らしいそのハチマキは朝陽のお手製だったな。ホント、マメなやつだ。

「なぁーにビビってんだよ。1区の招集、早く行けよ」

 怖気づく漣をあざ笑うかのように言ってやった。

「う、うるさい! ビビッてないし!」

 漣は案の定の反応をして顔を少し赤らめる。予想通りのリアクション。

 それを見て安心した俺はまじめな顔で言う。

「漣、最初は絶対に飛ばすなよ。ずっと我慢して岸部高校の横越、そして暁月高校の今泉についていくんだ。スローペースになると思うし、どうせこのひたすらまっすぐのコースじゃ速いペースを維持するのは難しい」

 漣もキリッと真面目な顔になる。

「勝負は最後の最後。それまでは我慢ってことでいい?」

 俺はうっすらと笑みを浮かべた。

「その作戦で。区間賞も狙えるけど、もつれても区間3位までには入るんだ」

 漣はそれを確認すると、「新潟県高校駅伝」の文字が入った黄色の襷を片手に丸めた。そして「あれ、やんなきゃ」と言ってマットでストレッチをしていた残りのメンバーを立たせた。

「円陣、組もっ! ほら、他の部活よくやってんじゃん、あれ!」

 みんなすぐに立ち上がって円になっていたくらいノリノリだったので正直驚いた。やる気満々じゃねーか。

 やるのはいいけど、他校の迷惑になっちゃだめだ。

「いいけど、あんまりうるさくすん……」

 俺の注意を遮るように涼風が言った。

「栃岡先生もやるの! 吉川先生は救護でいないんだから、今のうち!」

 今のうちってどういう意味だよ! そしてなぜ顧問である俺まで円陣に参加しなきゃならん。

 ってか、周りの高校けっこう見てるし! うわ、はずっ!

「いぃーじゃん、ほら!」

 涼風は強引に俺の首に手を回し、それに合わせて逆サイドから信乃の手が伸びてきてがっちりガード。あ、これはもう退けないね。

「あぁ、もうさっさとやれよ……」

 呆れ顔でみんなに諭したが効果はなかった。

「え、栃岡先生がやるんじゃないんですか?」

 京子はナチュラルに聞き返してくる。むちゃくちゃじゃねーか、この一連の流れ!

 まぁでも…… 俺が高校の時、二ノ丸のキャプテンだった頃は確かに俺が最初に声をあげてたな。二ノ丸高校として仲間と肩を組む機会なんてもうないと思っていただけあって、冷静に考えればこの機会はすごくありがたいはずだった。

 そう考えれば…… ま、いっか。

「よっしゃ、いくぞ!」

 漣や稲穂はマジかよってリアクションをする。

「え、うそ!」

「マジですか!? 栃岡先生マジですか!?」

 お前らがやれって言ったんだろ! もう後には退けないよ。

「二ノ丸高校、みんなで都大路行くぞ! ファイ、」

「「「「「オーーー!!!!!」」」」」



 ――――――30分後

『1区の選手がスタートラインに立ちました。選手紹介はスタート後、アナウンスにて行います』

 明らかに手抜きな選手紹介をすると宣言するアナウンスが曇天の弥彦路に鳴り響く。

 円陣のほとぼりが冷めてきたころ、俺は1人で駅伝のスタートラインに立っていた。朝陽は救護班で本部待機、ほかのメンバーはウォーミングアップに出かけている。つまり二ノ丸高校を応援するのは俺1人。連覇を狙う暁月高校とか初都大路を狙う岸部高校とかはけっこうな人数がいるから余計に寂しい。

『30秒前!』

 アナウンスがカウントダウンを始めた。選手は皆、寒そうにランパンランシャツを着ながらペチペチを腿を叩く。漣はアームウォーマーと手袋とどちらかといえば重装備だが、それでも気温が10度ちょっとの今日は寒そうだ。降水確率が高かったり天気も落ち着いていないが、それでも俺はこれから始まる闘いが楽しみでならなかった。

『10秒前!』

 オンユアマーク、と審判の声に合わせて選手はいっせいに「お願いします」と声を合わせてスタートラインにつく。

 スタートを待つ数秒の時間は言葉で言い表せないくらいに微妙で、そして緊張感に包まれている。不安と興奮、恐怖と希望…… 心を駆け巡る色んな思いが一瞬のうちにランナーを襲う。

 自分に自信があってもなくてもこの数秒間は魂をえぐられるような時間だ。何気ない日常の世界と全力で走る非日常の世界、この数秒はその2つのちょうど中間なのだ。

 その境界を解き放つ爆音が、ついに鳴り響いた―――――!

『スタートしました。新潟県高校駅伝女子の部、総勢23チームでのスタートです!』

 漣はどこまでも続く平野の弥彦路の境界線(ホライズン)へと駆けていった。

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