新潟ロングディスタンス ③一般男子招待5000m
「ふぅ…………」
スタジアムの立派なサブトラックでウォーミングアップをしていた。もちろん駅伝部の生徒たちではない。俺がだ。そう、この後に控えた一般男子招待五〇〇〇メートルのウォーミングアップ中だ。
でも気分は全然上がってこない。なんつーか、むしろクーリングダウンって感じだ。それくらいあの三〇〇〇メートルのレースはショッキングだった。どんなに試合が近づいてきても全然気持ちは盛り上がらない。
サングラスを外して顔の汗をふき取る。曇り空とはいえ、一気に明るくなった視界にはウォーミングアップ中の選手の姿が数多く目に入る。実業団選手と大学生が半々くらいというところだろうか。
俺はトラック脇に置いたリュックからプログラムを取り出すと今日のペースメイクの設定タイムを確認した。
「一四分〇〇秒、かぁ…………」
大森から聞かされたタイムに間違いがないことが分かると再び憂鬱になる。
一四分〇〇秒といえば完全なエリートランナーの域だ。大学でそこそこ速い選手でもなかなかたどり着けない領域。俺もかつては高校トップクラスと言えどもその頃のベストよりも速いタイムだ。果たしてただの高校教師はこのペースでどこまで走れるのだろうか? 普段はそこそこ走っているけど、冷静に考えると自信を失ってしまう。思わずため息をつく。
「栃岡先生…………」
そのとき聞きなれた声…………いや、いつも聞いているけど聞きなれない声がした。
ってどういうことだよって自分で自分にツッコミを入れてみたが、本当にこの声色は聞きなれない。
「栃岡せんせええええええいぃぃぃぃいいい」
次の瞬間、そいつは俺の腹にダイブしてきた。
「ぬほぉう⁉」
そのまま俺は芝生の上に倒れる。「栃岡先生」と「ぬほぉう」という奇声のせいか単にその状況がヤバいのかは分からないが周りの選手の注目が俺に集まる。
「や、やめろよ! 漣‼」
「おねーちゃんじゃない! 双子の妹の涼風! いまさら説明いらないでしょ‼」
漣……と瓜二つの妹、この涼風は涙ながらにツッコミを入れる。
なんか悔しいな。でも、
「お前どうしたんだよ。こんなところで」
根本的な話題に触れた。
涼風は俺の腹部に食い込ませた頭を上げる。その目はうるうると揺れていた。
「タイムが10分01秒だった……10分切れなかったよぉ……」
力いっぱい言葉を絞り出すと再び俺のお腹に頭をくいこませた。
「涼風……」
センチメンタルな気持ちになった。俺がもう少し神経を集中させて指導に当たっていれば軽々と10分を切っていたかもしれないのだ。
責任は顧問である俺に所在がある。
「ごめんな…… もっとちゃんと練習を――――」
「栃岡先生はちゃんと14分切って走って! 駅伝部のレースの結果なんて忘れてていいから!」
俺の言葉を遮るようにして涼風は顔を上げて言う。
「え、あぁ。まぁ選手がベストを出せるように頑張るけど」
「あたし、マジで応援してるから! スタンドで見てるね!」
そう言うとサブトラックからそそくさといなくなってしまった。「俺が14分切ることなんてそんなに大事じゃないだろ」ってツッコもうとしたけど間に合わなかった。
ウォーミングアップを終えた俺は招集所へとやってきていた。ここはスタンドの下で普段は立ち入り禁止エリアになっている。陸上の大会の時だけ解放となるのだ。
役員である村松東高校の赤寺先生からゼッケンをもらい、そばにあったベンチに腰を下ろす。
周りの選手の様子を確認した俺はゼッケンを自分のユニフォームに装着した。「二ノ丸高校」と書かれたユニフォームは大森が用意してくれた特注品らしい。駅伝部のユニフォームと違って黒を基調としたデザインはシャープで気に入った。
「二ノ丸高校っていう所属で出るのも、もうないと思っていたけど…………」
ふと、高校時代のことを思い出す。最後の試合は都大路だったっけな。たしか俺は1区10キロで、八戸学院の留学生と競り合ったんだっけな。
またこのユニフォームで走ることになるとは思わなかったなぁ…………
「それじゃ、準備のできた選手から移動してくださいな」
中年女性である赤寺先生独特の麗しい声を聞いた選手たちは続々とスタート位置の方へと移動し始める。おっと、いけね。早くゼッケンをつけないとだ。
新調したユニフォームに用意しておいたゼッケン留めでゼッケンをつけると、俺もスタート位置へと向かった。
『それでは注目の男子5000m、選手の紹介です!』
場内にアナウンスが響き渡る。俺の復帰戦の狼煙が上がる。
続々と紹介されていく選手の中には知っている名前も多かった。高校時代からの友人で実業団で競技を続けている者、大学駅伝で注目されつつある成長株………… 俺みたいなただの高校教師が、いったいこんな場所に並んでていいんだろうか? と思ってしまうほどの豪華メンバーだ
『18レーン、栃岡くん。二ノ丸高校』
一番外側のレーン、俺の名前が呼ばれた。
その瞬間、顔を下へと俯かせてしまった。そう、怖かったのだ。ここは俺の地元の競技場。昔から俺を知る人も多いだろう。その人達に今の俺を見られるのが怖かった。
稲穂に言われたことだが、確かに俺は昔のトラウマなんて気にしちゃいないほど陸上を愛している。
でも、それでもだ。輝かしい高校時代と真っ暗だった大学時代と、そして今。その3つを比べられてああでもないこうでもないと言われるのは嫌だ。
だから下を向いていた。俺が知らないような人に知ってるような口を聞かれて、それで自分が傷ついて。そんなことに耐えられるわけ――――
『誰あの人? 高校生?』
た、耐えられるわけ――――
『それにしてはオッサンじゃん』
お、おっさんだと?
「オイこら! 誰がおっさんだこのクソ高校せ――――」
『高校の先生でもやってるのかな? それにしてもあんな選手が新潟にいるとはしらなかったわー』
スターと脇のスタンドから失礼な言葉の羅列が聞こえてくる。
『昔速かったのかな? それにしてもあんな選手知らないや』
言葉が出なかった。寺社の大きな鐘の音が頭を駆け巡るような気持ちだ。
普通の人ならこれは「ショック」としてあらわされるのかもしれない。まぁ俺もそんなような気持ちなんだが、ちょっと違う。
笑顔だったのだ、俺は。自分の過去を否定されたことによって何か吹っ切れた思いがした。
「栃岡くん! 暴言は慎みなさいな!」
トラックの脇にいた赤寺先生が注意してきた。神出鬼没だなこの人は。
俺は彼女にそっと微笑みかける。そしてスタンドに向かって、笑いながら言った。
「ありがとな! これで思いっきり走れるぜ!」
高校生たちはキョトンとした後にハァ?というリアクションをしたが、そんなことはもうどうでもいい。
行けるところまでやってみるか!
俺はもう完全に吹っ切れていた。
数分後、ようやくスタートの準備が終わった。アナウンスが一言詫びる。
『スタートが遅れて申し訳ございませんでした。それでは始めます。オンユアマーク』
選手は一斉にスタートラインンに着く。俺も時計をタイム計測モードにする。
バン! という炸裂音が耳に入ったその瞬間、目の前はすでにランナーで埋め尽くされていた。早い。スタートの反応がこれほどまでに違うのは「慣れ」なのだろうか。しばらくレースから遠ざかっていた俺は「しまった」と思うばかりだ。
でもまだスタートだ。落ち着いて入ったと思えば十分だ。自分でそう言い聞かせると、彼らを追おうと駆けだした。
最初の200mは32秒。高校女子とは比べものにならない速い。昨日1000mよりも少し早いペースだ。とはいえ全然余裕はある。今日は体がよく動く。
「栃岡せんせーい、ファイトー!」
ゴール地点を過ぎた曲走路で俺を呼ぶ声が聞こえた。圧倒的な声のデカさから考えて稲穂だろうか。
大集団の内側にポケットされていた俺はスタンドの様子を見る余裕はなかった。でも声を認識したことで確かな力になった。いける。
ポケットされたまま集団は5000m14分ペースで進む。ペースメーカーをポケットしていいことなんて何もないだろと呆れてしまったが、リズムを作っていけるのは好都合だ。
そろそろ2000mに到達しようとしていた。このあたりから力のない選手は離れ始める。ここからはプロランナーの世界だ。大学生ランナー、無名の実業団選手は脱落していく。
その選手を一人、また一人とかわしていく。時計のラップは六七秒前後で進んでいる。14分ペースだ。まだ余裕のある俺は脱落しそうな選手を励ます。高校時代の新潟ロングディスタンスを思い出しながら。
一人、辛そうに喘ぎながら走るランナーがいた。これは関東の大学のユニフォームだ。
「桂城大学の子、まだダレるのは早いよ! もう少し粘ってみよう!」
伴走しながら、ポンと背中を叩く。
「はい! 後ろに付かせてください!」
彼はそう言うと俺の後ろにピッタリ付く。
「よぉーし、その走りだ。いいぞ!」
後ろに誰かがいる状態で走るのはあまり好きじゃないが、ワガママは言えない。今はペースメーカーなのだから。
その後も俺たちは何人のランナーを抜き、いつの間にか三番手に位置していた。先頭は山梨の朱雀学院の黒人留学生、ゲブレセラシエくん。二番手は安田木工所のエース、三田。そして三番手は俺と桂城大学の四年生、高倉くんだ。
ゲブレセラシエくんは一年生ながらいい走りをしている。彼のように海外からやってくる留学生はその国のエリートランナーだ。当然、日本の高校生よりは桁違いに速い。彼の出身国、エチオピアならなおさらのことだ。
彼の刻むラップタイムは平均すると67秒だが、一周ごとのペースはバラバラだ。ペースを上げて疲れたら落ち、三田に追いつかれたらまた上げる。なんともワイルドな走り方だ。こんな子がちゃんとペースを守れるようになったら大化けするだろうな。
って彼の今後を期待している場合じゃない。上がり下がりするペースに付いていくじゃなく自分でペースを作らなきゃだ。高倉くんの応援に必死になるあまりそれを忘れていた。
俺は一度深呼吸をすると、徐々に前に出た。
『二ノ丸高校の栃岡くん、3000mを過ぎたここで前に出ました! 1周67秒のペースに戻せるでしょうか』
アナウンスが興奮交じりにレースの状況を解説する。ったく、ペースメーカーなら当然だっての。
先頭に立った時、スタジアムの歓声がすさまじいことに気づく。四方八方から聞こえる歓声に、自分はサーカスのスターになった気分になる。
心臓がはちきれそうなくらい鼓動する。熱い血が体中に回る。もう、何年も忘れていた感覚だ。
「楽しい………!」
レース中であることも忘れてそう呟いてしまった。
不思議なことに全然辛いとか、苦しいだとか思わない。むしろその逆だ。もっと、もっと来い。この押し寄せる大波を体中で抱き留めたい、そんな気持ちだ。
全身で喜びを噛み締めてるときに、稲穂の言葉を思い出す。
『走るのが怖いだなんて、言わないでください』
稲穂、まったくその通りだよ。こんなに楽しくて、ワクワクが止まらない。怖いなんて感情はないんだ。
前に夏にオーバーワークの稲穂が「走るのが楽しくない」なんて言ってたのを思い出す。あの時は俺が稲穂を諭したけど……今は稲穂に助けられた。
面白いものだな。駅伝選手には、ランナーには、分からないことが多すぎる。
俺は落ちてきた集団を引っ張ろうと、よし、と気合いを入れた。
「――――ハァ、ハァ、ンハァ、ハァ……ハァ…………ハァ、」
乾いた呼吸が1つ、俺の背中から離れていく。
「三田さん!」
後ろを振り向くと、安田木工所の三田選手が辛そうな顔をしながらフェードしていってるのが分かった。
「三田さん、もうちょっと頑張りましょう! 13分台に行けますよ!」
三田選手は歯を食いしばり、必死に食らいつこうとする。しかしその努力もむなしく、ピッチは緩やかに遅くなっていく。
ここで前に出たのがいけなかったのか? 彼のベストは一四分一桁だが、今回の記録会でそれを更新することは十分にできたはずだ。
走りながら唇を噛んだ。自分の役目が果たせなかった戒めにはならないが。
『三田選手、栃岡選手のペースアップには付いていけませんでした。先頭集団、残るは3人! 離れた三田選手もまだチャンスはあります!』
とにかく、彼ら2人だけでも13分台を出せるように引っ張ってやらなきゃだ。太腿を軽く叩いてから、彼らに語り掛けるように言った。
「二人とも…………、俺から絶対に離れちゃダメだ。ここまで何のために走ってきたんだよ! 離れちゃもったいないだろ!」
ゲブレセラシエくんはそっと頷いた。反応ができるということは、彼にはまだ余裕があるのだろう。
「高倉くん、キミは4年生だ! 5000mで記録を狙えるのは最後かもしれない。だったら頑張ってみようじゃないか!」
彼は特に反応もせず……いや、返事をする余裕がないのかもしれないな。それくらいに喘いでいた。
レースは4000m、残り1000mに差し掛かった。その瞬にゲブレセラシエくんが一気に前に出る。さっきまでとは一段階上の回転だ。
(そんなに余裕があるならもっと早く出ろよ!)
ツッコもうと思ったが、俺には声を出せる余裕はなかった。心臓の鼓動が肺の動きまで圧迫しているような感覚だ。
必死についてきている高倉くんも余裕がなさそうだ。何回も顔を上げては下ろす動作を繰り返す。顔を上にあげれば気道が確保できる、からなのかな?
っにしてもゲブレセラシエくんは速いな。あっという間に3秒も差がついちゃったよ。残りはもう600m。ゴールはもうすぐだ。
「高倉くん、もうゴールは近い。まだ動かせるぞ! 上げていこう!」
最後の力を振り絞って声をかける。というのもペースメーカーはフィニッシュラインを駆け抜けてはいけない、つまり記録を残してはいけないからだ。高倉くんも頑張れば14分を切れそうだし俺の役目もこのへんで終わりかな――――
そう思い、残り1周の鐘の音を聞く。久しぶりに本当にキツかったな、なんて今日のレースを振り返りもしながらラスト1周にさしかかる。
だがしかし、その時スタンドから意味不明な叫び声が聞こえた。
「栃岡先生ラスト、ファイト! 自己ベスト出ますよ!」
稲穂の声だ。振り向くと、二の丸高校の選手全員が同じようなことを言ってるみたいだ。あいつらは俺がペースメーカーだってことを知らないのか? 俺は大森からペースメーカーをやれって言われ―――
「栃岡ぁー! そのまま落とさないでフィニッシュしろぉー!」
ってアレ? なんで大森も応援しちゃってるわけ? 一体どういうことなんだ?
バックストレートに差し掛かりながらも訳が分からす立ち止まることができないでいる。ペースメーカーならこのあたりでやめてもいいんだけどな……
ん、待てよ?
俺ってもしかしてペースメーカーじゃないんじゃないか?
『先頭はゲブレセラシエくん、それを追いますのは二ノ丸高校栃岡くん、桂城大学の高倉くん』
アナウンスは俺がゲブレセラシエくんを「追っている」とか言ってるけど、普通はペースメーカーって追う人じゃないだろ。むしろ追われる方だろ。
これは大森に騙されたな。金で釣って人をレースに出させるなんて…………
もうムカついた。どうせならこのレース、1位でゴールしてやる。
残り200mに差し掛かった時、一気にギアチェンジをした。前のゲブレセラシエくんに追いつこうと。
『栃岡選手、一気にペースを上げました! 前を走るゲブレセラシエくんとの差は見る見るうちに縮まっていきます。どこにこんな余裕があったのでしょうか!』
へっ。今までペースメーカーだと思って走ってたんだからそれなりの余裕はあったわ。
頭の中でアナウンスをディスりながら最後の直線に入る。ゲブレセラシエくんとの差はもう無いに等しかった。
『栃岡選手、ゲブレセラシエ選手を交わしてフィニッシュへと向かいます』
もう少しだ。
歯を食いしばってゴールに向かう。周回遅れの選手はいないがゴールは並んだコーンを隔ててスタンド側になっている。迷うことなく向かう。
フィニッシュするときにポーズはとらない。そんなことするくらいなら少しでも早くゴールを駆け抜けた方がいい。
駅伝部のみんなに話さなくちゃいけないことが増えたな。




