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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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新潟ロングディスタンス ②芽生えた不安

「あ、漣ちゃんが出てきた!」

 高校女子三〇〇〇メートルは四組目、漣が出場する組になった。彼女は他の大勢の選手を共にバックストレートの流しを行っている。

 駅伝部の五人は信乃と涼風が三組目、漣が四組目、そして京子と稲穂が五組目、という具合だ。この番組編成は目標タイムごとに区切られている。

新潟ロングディスタンスは全国からレベルの高い学校・選手が数多くやってくるので、目標タイムの申請が一〇秒違っただけでも組が二つ違う、なんてこともよくある。漣には京子や稲穂と同じ組で走ってもらいたかったが……思うようにもいかないもんだな。

「漣ちゃんの目標タイムは何秒で申請したの?」

 朝陽はそう尋ねるとペットボトルのポカリを口にした。

「九分四十五秒だったかな」

「それって、京子ちゃんと稲穂ちゃん、サクラちゃんのベストよりも速いんじゃない?」

 そう言って朝陽は俺に顔を近づけてきた。急に近づいてきた朝陽の顔に思わず俺はたじろぐ。

「そ、そうだけどな。でもでも、実際アイツは最近すごくいい練習が出来てるし、しかも中学の時の実績を考えて、そ、それくらいのタイムを出せてもおかしくないんじゃないかなって、ね?」

「中学、ね」

 朝陽は顔を遠ざけてくれたので少しホッとした。

急に上がった心拍数も正常にもどる。さっきまで高鳴っていた胸の鼓動も落ち着く。

「全中駅伝に出たんなら、三〇〇〇メートルで一〇分を軽々切るくらいの力があってもおかしくはないはずだ」

「―――でも、じゃあなんで漣ちゃんは高校で中距離なの? それだけのタイムがあって、しかも伸びしろもまだまだあるんだから、長距離をやってもよかったかもしれないのに」

 そう言われて急にあの日のことを思い出した。漣が部活終わりに競技場から逃亡したあの日のことだ。

 現生徒会長で漣と中学からの友達、吉村との会話が鮮明に脳によぎる。


「だから高校では八〇〇メートルなのかも……」


 急いでいたのでその言葉の意味をよく理解するヒマもなかったが、今になって考えてみれば不思議だ。スカウトの声くらいかかる選手が、どうして長距離を辞めることになったのか。

 このレースが終わったら、帰り道にでも漣に聞いてみることにしようか。

『それでは、高校女子三〇〇〇メートル、四組目のスタートです』

 場内アナウンスが鳴った。俺は取り留めのない考え事をやめて、ストップウォッチを手にとる。

 すぐに号砲は鳴った。さっきの組と同様に選手達は勢いよくスタートする。

 スタートして・・・・・・

 ――――え?

 なんか一人だけ、スタートが圧倒的に速い選手がいないか? 最初の一〇〇メートルを一六秒くらいで通過したぞ?

 その選手は他の選手の追随を許すことなくダントツでホームストレートにやってきた。

 彼女のランパンは黒、ランシャツはエメラルドグリーンで中心には白色でーーー

『先頭は二ノ丸高校、常盤さん。最初の二〇〇メートルを三三秒で通過しました』

 …………………あのアホ。八〇〇メートルのレースと勘違いしたか?

『あの子すごーい!』

『このまま行けば高校記録じゃん!!』

『県新人チャンピョンはよっぽど八〇〇メートルが好きなんだね…………』

『がんばれー。あはははは』

 漣の快走、いや爆走はスタンドの観客の注目をいい意味でも悪い意味でも集めていた。「二の丸高校」という、新潟県の女子長距離界にとってはほぼ無名の高校というだけあるから尚更そうなのかもしれないが…………顧問としては、ちょっといい気分ではない。

 彼女は一周目を七〇秒で通過するに留まらず、一〇〇〇メートルも三分三秒で通過した。

このタイムは破格のスピードだ。漣の一〇〇〇メートルのベストが三分をギリギリ切るくらいということを考えればそのことはすぐにわかる。

おいおい途中でへばって棄権したりしないよな? 体調不良とか女性特有の悩みで途中棄権とかならまだ分かるが「飛ばしすぎてバテて棄権しましたテヘペロ」なんて言ったら殴り飛ばすぞ。そこは女生徒とはいえ手加減なしでいくぞ。

「漣ちゃん、大丈夫かしら?」

 朝陽も苦い顔をしている。多分、朝陽も俺と同じ気持ちなんだろう。

「あのまま三〇〇〇メートルいくのは厳しいだろうな。でもそこは、全中駅伝出場者のポテンシャルを発揮してほしいな」

 専門種目が八〇〇メートルの漣がこんな暴走をしているのは気が気でしょうがないが、ただ唯一の望みは彼女が中学時代に長距離選手として活躍していたことだ。もともとの素質があるんならなんとか走り切れるはずだが…………

『先頭は二の丸高校、漣選手。中間の一五〇〇メートルは四分四二秒での通過です!』

 場内アナウンスが元気よく漣のラップを紹介した。タイムだけ聞けばとてつもなく良いペースのように聞こえる。でも実際のところ、この五〇〇メートルは一分三十九秒もかかっている。一〇〇〇メートル換算で三分一八秒。正真正銘の「ガタ落ち」だ。

「あーあ、見てらんねぇよ…………」

「一回は一〇〇メートルくらいは離れた後ろとの差ももう半分以下になってるわ。ぐんぐん差が縮まっている…………」

 俺たちは深い、深いため息をついた。

 漣のペースはその後も下落の一途をたどり、二〇〇〇メートルの通過は六分二八秒だった。最初のペースを考えれば完全な失速と言えるだろう。

 漣の走りからはいつもの歯切れの良いリズムはなくなっている。一歩一歩が重たく、まるで早朝にジョギングをしすぎたおじさんのようなダレ方だ。もはや遠くから見たら誰も彼女のことを女子高生だと思う者はおるまい。あれはもうゾンビだ。

 残り一周半に差し掛かったそのとき、とうとう後方の二位集団が漣に追いついた。彼女たちのピッチは漣とは全く異なり「活き活き」している。三人ほどの集団だがみんな同じリズムで走っているあたり、彼女達は記録の出し方を知っているといえるだろう。

 漣は彼女達に追いつかれてようやく存在に気づいた。そして今までとはスピードを切り替え、彼女達についていこうとする。すぐに離れるのかと思いきや後退することなく、最後の一周にたどり着いた。

 ホームストレートにきた集団の構成は先頭から岸部高校、石川の星城高校、頚城大付属、そして漣だ。岸部高校は最終組に五人もエントリーしているのにこの組でもトップ選手がいるなんてちょっと驚いてしまった。漣には少なくとも組で一着になってほしいところだが…… あんな死にそうな漣じゃあ、ちょっと厳しいかもしれない。なんせ先頭集団に接近するのがやっとな感じの走りだから。

 「漣は一〇分を切ってもらえりゃとりあえず合格だろう」と俺は高を括っていた。しかし…………その幻想は痛快にぶち壊されることとなる。

 ラスト二〇〇メートルに集団が差し掛かったその時、異変が起きた。集団の最後尾で死にそうな走りをしていた漣のペースが突如上がった。集団の三人は呆気にとられる間もなく漣において行かれている。

 「電光石火」という言葉がある。中二くさい言葉だとは思うが、この漣の反撃はまさにその中二ワードが相応しい。そう思わざるを得なかった。

 漣は般若のような形相でホームストレートを駆け抜けるとそのままゴール。フィニッシュラインを駆け抜けた直後にそのまま倒れこんでしまった。

 だけど自分のゴールタイムーーー電光掲示板に映った数字を見て、漣は飛び上がった。


 九分四二秒。


 北信越大会の決勝クラスのタイムだ。

「すごい……!」

 正直、ここまで走れるとは思わなかった。悪くとも一〇分を切るくらいだろうという予想を大きく裏切る快走だった。

 漣は満足したのか飛び上がったそのままトラックの外に出てしまった。まったく、さっきまでの死にっぷりはどこへやら…………

「ま、これはこれですごいじゃないか。京子や稲穂と並んだな」

「駅伝では一区も見えてきたんじゃない? 短い区間じゃもったいなさそう!」

 朝陽はウキウキしながらラップタイムをノートに記入する。

「それはみんなで決めることだぞ?」

「分かってるって。でも、一度は大ケガを負った漣ちゃんがあんなにいいタイムを出すなんて、なんか、ちょっと………………」

 朝陽が言葉を詰まらせたのでどうしたのかと思い顔を確認する。すると、朝陽の目はウルウルと震えており、そしてどことなく赤かった。そう、朝陽は涙ぐんでいたのだった。

「な、ちょ、なんで泣いてるんだよ!」

「漣ちゃんね、県大会が終わってからね、私のところによく来てくれて。いろいろと、相談したの………… それである時、部活を止めたい、なんて言ったりして」

 朝陽の口からは思いもよらぬ言葉が次々と出てくる。主顧問の俺でさえ全く知らなかったことだ。

「でもあいつ、あんなに元気そうにしてたじゃんか」

「翔の前ではね!」

 急に声が大きくなった。トラックではまだ競技が続いており歓声も大きいのだがそれはハッキリと聞こえていた。

「『他の選手にスパイクで踏まれるような混戦になったのは自分のせいだから、もっと強くなりたい』って漣ちゃんはいつも………… 普通の女の子なら焦っちゃうところなのに、よく耐えたよね……………… 本当に、いい子」

 とうとう朝陽は顔を抑えた。呼吸を乱すことなく、静かに、そっと。

 俺は何も言えなかった。朝陽に対してもだったが、何より漣に対して申し訳なかったのだ。そんな思いもつゆ知らず、俺はいつも楽観視ばかりで、親身になってやれなくて………… 漣が悩みを打ち明けられなかったのは、もしかしたら俺の態度に問題があったのかもしれない。そう思うとただただ申し訳なかった。




 数分後、女子三〇〇〇メートルの最終組になった。この組には京子、稲穂が出場する。目標タイムが最も速い組だ。その組には岸部高校は五人、暁月高校は三人といったところ。その他の県内「準」強豪校は各校二人ずつくらいというところだろうか。総勢一八人のこの組の結果は県高校駅伝の結果に大きく反映されるといえるだろう。

控室から出てきた選手たちはバックストレートで流しをし始めた。その様子は他の組とそれほど違いがない。でもある一点、大きく異なるところがあった。緊張感、だ。他の組では見られなかった重圧(プレッシャー)がこの組にはある。それは県総体の決勝を思い出させるものだった。

 県総体。この単語が脳裏に浮かんだとき、ちょっと後ろめたい気持ちになった。

 あの時、京子にもっとしてやれることはなかっただろうか? それはあの日以来、俺がずっと悩み続けていたことだ。

 もしもあの日、京子がベストパフォーマンスを発揮して北信越大会に進出していれば………… もしもあの日、笑顔の京子を見れたなら………… 今頃は受験勉強を押してまで駅伝を走る、なんて言わなかったかもしれない。

俺のせいで彼女の今後の人生すら変えてしまいかねない。もしも今日のレースもまた失速してしまうなんてことがあったら京子は本当に立ち直れなくなるかもしれない。

「翔、そんな暗い顔してどうしたの?」

 ノートにラップタイムを書き終えた朝陽が顔を覗き込むように聞いてきた。

「ちょっと、な。京子の心配性は大丈夫かなって」

 思っていることを悟られたくなかったので朝陽から視線を逸らす。

「京子ちゃんなら大丈夫よ。朝だって信乃ちゃんが取り乱したとき、落ち着かせられるくらい余裕があったんだし。それにーーー」

 信乃はバックストレートで歩く京子を指さした。

「ほら、京子ちゃん、笑ってる。どんなことがあったのかは分からないけど幸せそうなの」

 目を凝らしてよく見ると確かに京子は笑っているように見えた。それはテレビを見ているときのような「笑わされている」笑い方ではない。何かを感じ取って、そして、その中の何かに気づいたときのような笑い方だった。

「何があったんだろうな…………」

「知らない。県総体の時みたいにガチガチじゃないんなら、それでいいんじゃない?」

「かもな。よし、俺たちはラップを取るとしようか」

 スポーツウォッチをタイム測定モードにしてスタートに備えた。


『それでは高校女子三〇〇〇メートル、最終組のスタートです』

 アナウンスがスタジアムに鳴り響く。それくらい場内は静まり返っていた。

 そしてーー紙雷管が炸裂する音が聞こえた。走り始める選手たちの勢いはすさまじく京子と稲穂の姿を見失う。

 一瞬、不安になった。彼女達は強豪相手に押されて転んでしまったのではないだろうか? 縁石の内側に入って失格になったりしていないだろうか?

 だがそんな不安はすぐに打ち消された。

 スタートしてから二〇秒後、ホームストレートを駆け抜ける大集団の中に彼女たちの姿はあった。先頭に出るとまではいかなくとも集団の真ん中あたりで堅実な走りをしている。

 それでいい。県トップの連中についていけばペースダウンは時間の問題だ。手堅く順位をキープしていけば確実に自己ベストは出る。

 先頭集団は最初の二〇〇メートルを三五秒で通過した。さっきの漣とまではいかなくともかなりのハイペースだ。先頭を形成するのは黒色のユニフォームの岸部高校四人、暁月高校二人、そして他県の選手が二人といったところだ。岸部高校は五〇〇〇メートルで北信越高校記録を持っている横越を先頭にキレのある走りをしている。

 それを追いかけるように第二集団が形成されており、そこに稲穂や京子もいる。先頭集団とまではいかなくともいい走りをしている。

 最初の周回を先頭集団は七二秒、第二集団は七四秒で通過した。二の丸高校の二人はほぼ並んだ状態で四〇〇メートルを通過。時計を押す。

「最終組の先頭集団、やっぱり速いな」

 朝陽に語り掛けるわけでもないが思わず口から出てしまった。それくらいこのレースは圧巻なのだ。春の県総体の決勝レースよりも遥かに速い。それは俺の想像以上の速さだった。

「どこの高校も夏休み中に頑張ったのね。見ててそう思う」

 朝陽もそれを感じていたようだった。高校のころから陸上に触れる機会が多かった朝陽だ。感じないわけもないのだろう。


 一〇〇〇メートルを通過したころには、先頭集団は流れに乗ってきたのか後方との差をぐんぐんと広げていった。決してペースが上がって来たわけではないのだが後方集団も疲れたのだ。第二集団のペースは一周七八秒ほどになっていた。

 稲穂と京子はその中でじっくりと走っている。二人とも特に表情を変えることなく、冷静な印象すら受けた。心配していた京子も落ち着いたいい走りをしている。集団の中でひときわ背が低いもののピッチは軽やかだ。

 一五〇〇メートルの中間点の通過になった。先頭集団は相変わらずペースを落とさず四分四二秒での通過だ。正直、かなり速い。

 その数秒後に京子たち第二集団も中間点を通過。四分五一秒だ。こっちもこっちでかなり速いのだが…………

「先頭集団が強すぎる!」

 それに尽きる。先頭を走る横越だけでなく岸部高校は三人もいる。暁月高校もセカンドエースの今泉を含め二人が追う展開。「二強」と言われ高い今年の県高校駅伝のエースたちが鎬を削る。

 一か月後の県高校駅伝大会ではこんなチームたちと戦うのかと思うと少し不安になった。うちの高校は誰も先頭争いに加われていないじゃないか、と。そう思うと冷や汗が出てきた。

 考え事をしていたらいつの間にか先頭集団は残り一周になっていた。横越と今泉がデッドヒートを繰り広げ、それを数名の選手が追いかける展開。スタジアム内の熱気も最高潮に達しようとしており二強の戦いに誰しもが注目していた。

 先頭争いも気になったが俺は後方へと目をやった。稲穂が第二集団を引っ張り、京子がその集団の中ほどに位置する形だ。二人ともガックリとペースダウンするようなことなかったので安心した。

 でもなんだろう。この物足りない感じは。この歯がゆいような気持ちは。

『先頭は岸部高校、横越さん。残り二〇〇メートルです』

 場内アナウンスにつられてコーナーを見ると、そこには県トップのエースの姿があった。京子のような鋭いピッチに漣やサクラや信乃のようなダイナミックさ、そして稲穂や涼風のような柔らかさを兼ね備えた走り。その走りを目の前にして、


 あの子にはスキがない。


 その一言を認識すると全身が震えた。

 こんな選手と戦わなくてはいけないのか、都大路に行くには。

 その「究極の走り」をした彼女はゴールラインを力いっぱいに駆け抜けた。タイムは九分一二秒。ランキングから考えれば全国トップクラスだ。

「新潟からこんな選手が生まれるなんて…………」

 以前から分かっていたが新潟は長距離ランナーが育ちにくい環境だ。冬は豪雪、夏も高原に行かなければ意外と暑い。この地域は自然環境が厳しい。

 だけど最近はその現状が変わっているみたいだ。岸部高校も暁月高校も私立で部活に力を入れてるみたいでお金が多い。二の丸高校とは大違いだ。

 環境を言い訳にするわけではないけど………… 不利な状況が生じてしまうのは避けられない。

 『第二集団もゴールに向かいます。その先頭は越平さん、二の丸高校です!』

 稲穂がフィニッシュラインにたどり着いた。タイムは九分三八秒。京子も続いてゴールして九分四〇をギリギリ切ったくらいだろうか。

 二人とも大幅な自己ベストだったので嬉しい気持ちはあった。でも素直に喜べない自分がいる。

 今日のレースの「圧倒的な負け」を認識できないほど、陸上に関して初心者ではなかった。


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