新潟ロングディスタンス ①開戦
前にも言ったが新潟ロングディスタンスは不思議な大会だ。毎年、絶対に好条件に恵まれる。それを知ってか新潟県全域、そしてそれだけにとどまらず日本全国から記録を狙うランナーが足を運ぶ。ニチヤクもそうだが実業団対抗駅伝や世界大会を目指す選手も数多く出る。
だから数年前、というか俺が高校生のときから「記録をもっと出せるように」とペースメーカーがつくことになった。まさかそれが県陸協と「おかね」のお付き合いだったとは……うーん、陸上にも大人の世界っていうのがあるんだな。
そして俺がそのペースメーカーをやることになるとは高校生の頃は考えもしなかった。偶然ってのもあるもんだな。今日は自分が高校のときに感じたようなペースメーカーへの「信頼感」を裏切らないような、そんな走りをしたいものだ。
「センセー、さっきから何でそんなマジな顔してんのー?」
行き車中、助手席に座った涼風(さっきまで爆睡)が不思議そうに尋ねる。
「いやちょっと、今日のペースメーカーのことを考えてたらな」
「そんな顔、おねーちゃんに見られたら笑われちゃうよ?」
「そんなに変な顔をしてたのか俺は……まぁ、今はいなくてよかったよ」
栃岡車には現在、俺と涼風だけが乗っている。あとのメンバーは朝陽の車に便乗している。どうしてこんなにアンバランスな組み合わせになったかって言えば、それは「栃岡先生はお荷物だから仲間と一緒にしとけばいいよね!」という朝陽のクレイジーな一言により栃岡車は俺と荷物だけという構成になり、それから助手席だけは空いていたので漣の一言によりじゃんけんで負けた一名が「お荷物」の烙印を押されて俺の助手席に座る、という後から考えれば意味不明な流れによってこうなった。結果的に見ればやかましい涼風がお荷物ポジションという納得できる展開なのだが京子や漣、稲穂はなんか釈然としない表情だった。まぁ鬼神☆朝陽と同じ車に乗るというのが嫌だったんだろう。その点、信乃は大人だなぁ。
「あとちょっとしたら北陸電力スタジアムに着くぞ。インター下りたらすぐだ」
「そういえばこの競技場、来るの初めてかも!」
涼風はキラキラした目をしながら近づいてくる白いスタジアムを見つめる。
「涼風は県総体が終わってから駅伝部に入ったもんな」
県総体、という単語を口にしたとき、ちょっと引っかかるものがあった。そういえばあれからここに来るのは初めてだっけな。京子も俺も漣も稲穂も、みんな苦い思いをした大会だ。
それだけに、リベンジの気持は強い。
「そういえばそうだね! この間のサッカーの試合では見たんだけどねー」
「ここでサッカーの試合とかあったのか?」
「先週あったじゃん! 日本対韓国の試合!! PKまで持ち込んで日本が勝った、すごいいい試合だったじゃん。なんで知らないの?」
涼風はここぞとばかりに集中砲火を浴びせてくる。
「せ、先週は忙しかったんだよ。過去のみんなの練習や大会のタイムから考えて、どういう練習をしたらいいのかとか、本当に悩みは尽きなかったんだから!」
スタジアムに近づいていた車を直前のショッピングモールへと進ませた。
「――――それって、今に始まった悩みじゃなくない?」
「まぁな悩みは尽きないさ」
「駅伝オタク!!」
涼風が笑顔でからかってくる。
「光栄さ!! タローズでコーヒー買ってくる!!」
期待通りの反応かどうかは知らないがある程度ノって返すと俺は運転席のドアを開けた。
「意味わっかんな。――――――――――でも、ありがとね」
スタジアムに到着してからすぐに朝陽たちと合流できた。そこから駅伝部はスタジアムの観客席一段目の外側にビニールシートを敷いて荷物を置く。
「ただの記録会なのにだいぶお金が周っているようですね……」
信乃は神妙な顔でコーヒーをすする俺に聞く。
「まぁな。なにせ日本陸連が共催、スポンサーまでたくさんついているんだ」
「そんなに有名な選手が大勢来るとは、少し驚きです」
トラックには第一種目に出場する小学生達がウォーミングアップを開始している。信乃はそれを珍しいものを見るような目で見ているが、まぁお嬢様にとっては小学生のうちから陸上をやるなんてことはちょっと珍しいのかもしれない。野球やサッカーに比べたらマイナースポーツだもんな
「有名選手だけじゃない。スカウトの監督、テレビ、その他マスコミもたくさん来ているんだ」
「スカウトって、大学のですか?」
「大学もそうだけど、高校もかな。あと実業団」
「じじじじじじ実業団んんんん!?」
信乃の声がいきなりビブラートした。な、ちょ、どうなってるんだ。
「おいどうしたんだ、信乃!」
「どどどどどどどんなチームが来るんでしょうか!?」
「そりゃあ色んなチームが来るだろうけど、ニチヤクとか?」
「ニチヤクだってえええええええええええええええ!?」
発狂したかのような奇声をあげた信乃に、周辺の中高学生の注目が集まる。いつもはクールでおしとやかな生徒会副会長・歌和村信乃の面影はそこにはなかった。
「し、信乃さんどうしたの?」
その異変に気付いた京子がとっさに反応する。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ」
「し、信乃さん!! 落ちついてぇ!」
小さな京子は背の高い信乃のお腹にぎゅーっと抱きついて涙を浮かべている。
「ああもう地獄絵図だなこりゃ」
係員が来る前に何とか収拾つけないとだ。レースに出る前に出場停止になりかねないぞ。
「いつもは他人から『落ち着け』っていわれてる京子先輩が今は落ち着けを言うなんて、おかしいと思わざると得ない……」
漣が隣で苦虫を百匹くらい噛んだような顔をしている。漣も漣で事あるごとに信乃に論破されてきた身だ。こうして感情を取り乱している信乃を見るのはまさに「度肝を抜かれた」ということなんだろうか………
朝陽の援護もあり一〇分ほどで収拾をつけると、もうスタート二時間前だった。落ち着きを取り戻した選手達はビニールシートの上でストレッチをしたり、音楽を聴いて和んでいたり、補食を口にしたりしている。
今がチャンスだな。俺はそう思い、ビニールシートに立った。
「みんな、聞いてほしい」
選手達はみなやっていたことを止め、俺に注目してくれた。
「今日のレースは知っての通り大事なレースだ。結果次第で駅伝のエントリー区間、作戦の立て方が変ってくる。ある意味プレッシャーのかかる記録会だと思う」
みんな緊張した面持ちで話を聞いてくれている。それでいい。それが戦いに行く前の戦士の顔だ。
「だけどそれはみんな同じ。どこの学校だってそうだ。実際、うちの高校はまだ緩い。岸辺高校や暁月高校みたいな強豪は、今日のレースの結果が悪いと県高校駅伝に出られない選手だっているだろう。君達はまだ恵まれている」
九月の穏やかな風―――記録を狙えそうな優しい風が頬を掠める。
「でもそれに甘んじちゃいけない。今日は二ノ丸高校の全員が十分を切りたい。信乃、涼風、漣、お前らの頑張り次第でそれが叶うか叶わないかなんだ」
三人は頷いた。それを確認して俺も頷き返す。
「そして京子、稲穂。二人はもう十分をきっているけど、それに安住してほしくない。できれば九分三〇秒台くらいは軽々と出して、あとのみんなに余裕を与えてもらいたい。いいな?」
二人は頷いた。
これで準備は整った。
「新潟の駅伝の強豪は俺たちが県高校駅伝の脅威だなんて思っちゃいない。だからこそ、だ。ここで不意打ちを食らわせりゃあ大きな誤算になる。こっちにだって勝機はあるんだ。だからーーーー」
緩やかな風はーーーーー止んだ!
「心臓がぶっ壊れるまで、走りきってくれ!」
選手達を送り出してから、俺と朝陽はスタンドで休憩していた。
「翔があんな演説が出来るほど饒舌だなんて知らなかった」
朝陽はおやつのポッキーを口から離してフぅーとタバコの煙の吹くような真似をした。女子力を見せたいのかオヤジ臭さを露呈させたいのかどっちだよ。
「選手を本気モードにさせるのも指導者の役目かなって思ってさ。ちょっとね」
「ふーん、」
そう言ってポッキーを口にくわえると朝陽は遠い目をした。昔を思い出すような、そんな顔だ。
「どうしたんだよ、そんな顔して」
「翔の高校の頃を思い出してさ。あの頃はいつも情熱的っていうか、熱かったなーって思ってた。それが今でも変っていなくてちょっと安心した」
「俺ってそんなに熱かったのか? 例えばいつよ」
「八年前のこの大会が一番思い出に残ってるかな。ちょうど振った六ヶ月前」
あぁーあの時ね! ってポロっと出てしまうそうだったが頑張って押さえ込んだ。なんかそう言ったら自分が振られたことをしっかりと覚えていつまでも忘れないイタい人―みたいに思われそうだったからだ。
「あの大会、初めてペースメーカーが導入された新潟ロングディスタンス。ちょっと興味あったから観に来てみたんだけど、翔がすごくってさ」
「自己ベストを出したんだよ。一四分〇三秒の大会記録で、留学生以外の大会記録として今でも残っている」
「そのレース、ペースメーカーにピッタリついていった翔の姿が忘れられなくてさ。翔のペースが落ちるとペースメーカーのランナーが励ましてくれて、その繰り返しが観客を沸かせて。観ていた私もちょっと感動しちゃった」
朝陽は食べかけのポッキーを一気に食べた。
そういえばそんなこともあったな。あの年はチームメイトの怪我が多くて、少しでもみんなにラクをさせたいと思って走った。もう無我夢中で走って自己ベスト更新、大学関係者や実業団の監督からも声がかけられた大会だ。そのレースが生涯の自己ベストだったわけだ。
「そろそろ女子三千メートルのレースが始まるみたいね。翔、もっとコースに近づきましょう。翔の声もみんなに届かないよ?」
「そうだな。あのペースメーカーみたいに隣で励ますことは出来ないけど、声くらいなら出せるよな。よし、まずは信乃と涼風だな!」
トラックに現れた二〇人ほどの選手のなか、彼女達はいた。一人は一七〇センチほどの高身長でスラリとしたモデル体型の信乃だ。つい最近まで生徒会オンリーだったとは思えない急成長ぶりで、今日のレースもどうなるか楽しみだ。そしてもう一人は六月まで体操部だった涼風だ。体操部らしい柔らかい走りは見ていて惚れ惚れする。経験の浅さがどう出るかは分からないが、そこは思い切りの良さでカバーしてもらいたい。
「この組の目標タイムは九分五十秒から一〇分、一〇分切りを狙う組ってところね」
「さっきの組もそんなタイム設定だったけど実際に十分を切ったのは二〇人中三人だけだ。記録会なのにみんなけん制しあっちゃ意味ないだろう」
「まぁまぁ怒らなくてもいいじゃない。二人ならやってくれるわ」
場内のアナウンスで選手がスタートラインに着く。
そして静寂の後、号砲が鳴った。選手達は勢いよくスタートしていく。
二人は集団のやや後方に位置付けて、最初の二百メートルを三九秒で通過した。
「最初にしてはちょっとまったりかもね」
「まぁな。信乃も涼風も初心者だから勝手が分からないんだろう。でも信乃はタイム計算がちゃんとできるから、心配ないだろう」
「え、じゃあ涼風ちゃんは?」
「補習を食らいまくったあの漣と双子だからな。脳が似通っているから………」
「さりげなくヒドいこと言ってるー!! 教員失格だー!!」
「うるせぇ! ほら、四〇〇メートルの通過!」
――――ピッ、ピッ
信乃、涼風の順番に四〇〇メートルを通過していった。
「七九秒か。信乃のやつ、もしかしてこのままイーブンペースで行く気なんじゃないだろうな?」
「後半が上がるにしても、涼風ちゃんにはピッタリ付いてもらわないとね」
「よし、それなら」
俺はスタンドの観客席のイスを二つ使ってその上に立ちあがり、口をメガホンの形にした。
「………翔、何やってんの?」
「決まってんだろ」
息を大きく吸って、叫んだ。
「ホラ信乃!! そこからペースを上げていくくらいの気持ちじゃないと一〇分は切れないぞ! そして涼風ぇ!! 信乃から絶対に離れるんじゃないぞ!!」
思い切り良く叫んだのもつかの間。すぐに係員に注意されることとなった。
「ったく、高校教師が何やってんだか。前に妙高合宿で拡声器使って苦情が来た時のことを思い出すわ」
「それ言うなよ………結構傷ついたんだから………」
「あ、次、二〇〇〇メートルの通過!」
スプリットタイムは信乃は六分三五秒で涼風は六分四一秒だ。信乃は盛り返してきたが涼風は離れてきてしまっている。涼風にはここでもうひと踏ん張りしてもらわないと、一〇分きりは不可能だ。
「なんとか頑張ってほしいな………」
先頭争いをする信乃と対照的に涼風はあまりペースが上がらない。
ついにラスト一周になった。信乃を含む先頭集団のペースが一段と速くなる。先頭は信乃と暁月高校の二選手、そして村松東高の計四人だ。このまま走れば、とりあえず一〇分は切れそうだ。あとは勝負――――初レースの信乃だ。勝ち負けには充分に拘ってほしい。
第二集団から少し離れた位置で涼風もラスト一周に差し掛かる。第二集団が一〇分を切れるか切れないかの境目だから、まずは追いつきたい。
「あぁもう、どきどきさせやがって!」
正直、涼風はもう少し余裕をもってラスト一周にさしかかれると思っていた。普段からあれだけの練習量をさせていれば、一〇分切りは充分に可能だと考えていた。
でもとにかく今は祈るしかない。
信乃は残り二〇〇メートルに差し掛かり、一気にペースを上げる。周りの三選手はあっという間に離されると食らいつくことも出来ず、信乃はそのままゴール。
電光掲示板のタイムは「九分五十三秒四三」を示していた。初めてにしては上出来のタイムだ。俺はちょっと安心すると、トラックに視線を戻した。
涼風は残り三十メートルの位置にいた。一〇分まではあと六秒。
「間に合うか………一?」
涼風は電光掲示板の示すタイムが、九分から一〇分に変る瞬間ギリギリにゴールインした。
「これは………どうなんだ?」
朝陽にそっと問い掛ける。
「私もわかんない。ストップウォットは一〇分代だけど、押し間違えてることもあるし………」
微妙だ。微妙な雰囲気だ。
「とにかく、ちょっと安心した。自己ベスト、一気に二〇秒くらい更新しちゃったんだもん」
「そうだな………」
実際、涼風は急成長している。県新人のときのタイムが一〇分二〇秒台だったから、「大ベスト」と言っても過言ではない。
ただ……
「一〇分切ってるかが問題だな」
「そこよね。切ってればいいんだけど………」
これはもうコンマ以下の世界なんだろうが、そこはやっぱりこだわりたい。体操部をやめた涼風の、いつもはあんなにユルい雰囲気を出してる涼風の、本気の、本気のチャレンジだったんだから。
「結果が出るのは二〇分後だから、それまでは辛抱ね」
「そうなっちゃうな。それまでに漣のレースが終わっちゃよ」
「漣ちゃんはちゃんと一〇分切れるといいけど……」
自信満々で臨んだ新潟ロングディスタンスの幸先は、あまり悪いとまではいかなかった。けれども、もっと余裕をもって一〇分を切れると思っていただけあって、若干の不安が混じっていた。




