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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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32/95

暗闇

 二十分弱のジョギングを終えた俺はバックストレートに立っていた。そう、彼女たちが前日練習をしたように、俺も千メートルを一本走るのだ。

 時刻はもう六時を過ぎており空には星が輝き始めている。グラウンドには人がほとんどいない。

 俺はジャージを脱ぐとTシャツ短パン姿になった。いつも部活の指導が終わってから二十キロくらいは走っているので、このくらいの道具はいつも持っている。

 深呼吸を一回し、スキップをしてからバックストレートの流しを始めた。ジャージを脱いで身軽な格好になったので心地いい風が体中を包む、

 気持ちいい。

 その一言が脳裏をよぎる。

 ジョギングで移動するとスタートラインについた。

 そしてーーーー自分の心の中で掛け声をする。


 位置についてーーーー


 数秒を自分の中で数えると勢いよく俺はスタートをした。

 それと同タイミングで腕時計のスタートボタンを押し、ちゃんと動いているか確認する。

 最初の二百メートルの通過は三十五秒。久しぶりのスピード感ある走りなのに全くキツくはない。それくらいに俺の体がこの瞬間を楽しんでいた。もう、スキップをしているかのような陽気な気持だった。

 一周目の通過は六十八秒だった。さっきよりもペースが上がっているのか? 無理しない程度にしとかないと。

 二周目のラップは六十七秒だった。こんな余裕度で軽い走りが出来るなんて、自分でも驚いている。

 ラストの直線に差し掛かる。リズムよくピッチを刻む。

 そしてゴール。タイムは二分四十八秒だった。久しぶりにしては良かったんじゃないかな? 息を整えながらそのままダウンのジョギングに入る。

 競技場にはもう誰もいなくなっていた。たったの数分でこんなにも人がいなくなるものなのかと思うとちょっとおかしくなった。

 と、おかしいと笑えたのもそこまでだった。

 ――――ガシャン、

 何かのスイッチが切れたかのような音がしたと同時にあたりが一気に暗くなった。って、競技場の水銀灯が落とされたのか!?

 マジで勘弁してくれ。この競技場、田んぼに囲まれているため競技場の電気が消えると本当に真っ暗になってしまう。あるのは月夜の光だけーーーーなのに、今日は曇り空で星明りが見えない。

 俺はジョギングの足を止め、携帯電話を探そうと駅伝部の集合場所に向かった。こう暗くちゃトラックの縁石や段差に気付かず躓いてしまうと思ったからだ。

 真っ暗とはいえ薄っすらながらに周辺の状況がわかるまでに目が慣れてきた。俺のリュックは白のエナメルなのでこれだけ暗くてもある程度は分かる。

 ジョギング、というか駆け足気味でリュックの近くに向かう。

 と、そのとき、俺の懐に飛び込んでくる何かがあった。いや、飛び込んでくるというか俺がそれに突進していったのかこれは? ともかくその何かにバランスを崩された俺は、ジョギングの勢い余って覆い被さるように倒れてしまった。

 鼻を強打してしまい鼻からは鼻水――じゃないな。もっと熱いものが流れ出ている。お気に入りのTシャツを汚すまいととっさにあお向けになる。

 姿勢を安定させるとようやく一安心した。これで鼻血のせいで汚れるリスクはうんと減った。

 でも俺は一体何にぶつかったのだろうか? 俺の背中の下に敷いてあるそれの輪郭を掴もうとさすってみる。

 なんか、メロンパンくらいの大きさの柔らかい突起がある。握れるくらいの大きさだがなんか盛り上がりに欠ける。

「なんだこのちっさいの………… 何だかわかんないよ………」

 そこから手を上に動かす。

 三十センチくらい動かすと何か潤った柔らかいものに触れた。それは梅干しのように小さく、何かの生き物なんじゃないかと思ってしまった。

「まさかコレは新種の生物なのか!?」

「………と………と………と………」

 その小さい生き物は動き始めて何か言い始めた。

 コレは………このパターンは………

 マズいパターンだな。

「『お前』、誰だ?」

 恐る恐る勇気を出して聞いてみた。

「私………です…………稲穂…………です…………」

 …………oh

「なんでこんなところにいるんだ?」

「だって、いや、その、それはわはははははは」

 稲穂は小さな体をガクガクと震わせている。

「お願い! そこから大きな声を出さないで! 俺の鼓膜が破れーーー」

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」


「いった………」

「栃岡先生、大丈夫ですか!?」

「お願い。今は大きな声を出さないで。もう片方の耳も変になりそうだから」

 俺は右耳を押さえながら左手のジャスチャーを加えて稲穂に叫ぶことがないように懇願していた。

「ごめんなさい……」

 稲穂はスマートフォンをライトモードに設定して倒れる俺を照らしながらションボリしていた。

 もちろん、俺はその様子を止まらない鼻血と共に仰向けで見上げているわけだが。

「それにしたって稲穂はどうしてこんな暗闇のトラックにいたんだよ」

「はい。練習が終わって帰宅していたのですが、途中で競技場に時計を忘れたことに気付いて慌てて戻ったんです。そしたら水銀灯は消えてるし何も見えないし栃岡先生は走ってるし……」

「だったらそのスマホライトで照らしてくれればぶつからずに済んだのに」

「後ろを向いていたんです! そしたら栃岡先生が背後から突進してきて私の胸を掴んで『小さい』なんて言うので……地区新人のときもそうでしたけど、そんなに私の胸が小さいのをディスって何が楽しいんですか!?」

 稲穂は涙ぐんでいるようだった。何でだよ。何でこんなことになっちまったんだよ。どうして俺はこう定期的に教え子との変態疑惑騒動に巻き込まれるんだよ。

「長距離ランナーは脂肪燃焼が盛んだから胸が小さい、なんてフォローは通じませんからね!」

 いやそんな下手なフォローするつもりなんてないから。それって自分でそういって自分で納得したいだけだろ。

「悪かったって……」

「それにしたって、栃岡先生もどうしてこんなに一生懸命走っていたんですか? 明日は新潟ロングディスタンスだっていうのに」

「それはだな」

 稲穂に俺がペースメーカーをする話をした。

「まぁほんのちょっと走ったらあとは途中棄権するつもりだから。みんなが帰る時間はそんなに遅くならないよ」

 俺は微笑み混じりで稲穂にそう言うと「お金ももらえるし、楽勝だよな」と付け加えた。俺はもうただの高校教師だし選手としての陸上にはもう興味がないのでそう言っただけだった。

 しかしーーーー稲穂の表情が急に強張った。

「どうしてーーー」

 声のトーンが明らかに低い。

「どうして、ギリギリまで一生懸命に走らないんですか?」

 稲穂は俺がペースメーカーを担っているのに数周でレースを投げようとしていることを気にかけているようだった。

「どうしてって、こんなの元々俺の役目じゃないし、それに無理に走ってペースを守れなかったらダメだろ」

「そういうことじゃないです! なんで最初から数周でやめよう、なんて言ってるのかって聞いてるんです! そんなの栃岡先生らしくありません!」

 さっきまでの俺の忠告を無視して感情のままに稲穂は叫び始めた。俺は慌てて耳を塞ぐ。

 だがしかし、稲穂は俺の腕を掴み動きを遮る。耳を塞げなくなった俺は稲穂の大声を裸の耳で受け止めていた。

「栃岡先生は駅伝が、長距離が大好きじゃないですか! 授業の合間や放課後にこっそり走ってることだって知ってます。なのにどうして! どうしてそんな中途半端なことしか出来ないんですか!?」

 俺は防戦一方だった。それは言い返すことが出来ないから。俺がずっと気になっていたことを口に出せなかったから。

 でも次に出た言葉にはさすがの俺も黙ってはいられなかった。

「栃岡先生は昔スゴイ選手だったから、みんなの前に出て遅いタイムを出すのが恥ずかしいんですか?」

 稲穂は両手を腰に当てながら、あたかも説教するかのような体勢だ。

 彼女はかなり熱が入っているんだと思う。ぶっちゃけこんなに激しい稲穂を見るのは初めてだ。いつもはなんつーか、陸上にパワーが向いているけど、今はそのベクトルは俺に向かっていた。

「恥ずかしくはないんだ………ただ、」

 俺もこのまま黙っちゃいられない、と思い口を開く。

「怖いんだ。もう一度、自分が選手として走るのが」

「――――怖い?」




 稲穂たち駅伝部も知っているように俺は以前、全国屈指のスーパーランナーだった。インターハイ、高校駅伝、都道府県対抗駅伝、国際クロカン………大きな大会では毎回のように入賞していた。一時は「百年に一人の神童」と県陸協関係者からも囁かれた。新潟はあまり長距離のスター選手が生まれにくいだけあって期待の意味もあったのかもしれない。

 でも期待は重圧へと変った。大学に入ってからは環境の変化、「駅伝絶対主義」のチームのあり方、そして相次ぐ怪我や故障。結果は出なかった。一年生の関東インカレでデビュー戦は飾ったもののその後は最悪。結局、大学駅伝には一回も出れずに四年生の秋―――そう、箱根駅伝予選会を迎えた。

 俺が所属する明英大は古豪ながらも近年は苦戦していた。事実、毎年は箱根駅伝ではシード圏を行き来していた。とはいえ「本戦出場」は絶対叶うものだ。そうやって、OBや関係者、ファンからは期待された。

 それゆえに「失敗できない」雰囲気がチームに流れた。何をするにしても「失敗できない」その姿勢がいけなかった。思い切りよく練習が出来なかったと思えば追い込みきれなかったり……どことなく「嫌な」雰囲気が出来上がっていた。

 そして予選会当日。不安は現実のものとなった。わずか数秒差での予選敗退はチームの、そして箱根駅伝予選会の歴史に深く刻まれることとなった。

 途絶えた歴史。破れたページは見つからない。周りからの冷たい視線は箱根駅伝予選会のシーズンになる度に俺に降りかかることとなった。


「っとまぁ、こんなカンジかな」

 稲穂の帰りが遅くなることを心配した俺は、彼女を家まで送ることにした。助手席に座る稲穂は俺の話を(珍しく)大人しく聞いていた。

「でも、そうなると一つ気になることがあるんです」

 田んぼ道の信号が赤に変った。車はエコドライブに則って穏やかに静止する。

「栃岡先生はどうして今、こんなに陸上、駅伝が好きでいられるんですか? 普通だったらもう縁を切っちゃってもおかしくないと思います」

 稲穂はポケットから携帯電話を取り出した。折りたたみ式のガラケーだ。

「私はそういう経験がないからよく分かりませんけど、女子なら昔好きだった彼氏に振られたりヒドいことされたら、一生縁を切っちゃいます。携帯に残っている写真とか、メール、アドレスまで全部消しちゃう友達もいます」

「お前って意外とガールズトークするんだな」

「べ、別にいいじゃないですか! ていうかそこツッコまないでくださいよ!」

 こういう反応をするあたり、稲穂も健全な女子高生だってことだな。

「吉川先生は栃岡先生に昔イタい付き合い方されましたけど、今はとっても仲がいいじゃないですか。あれって本当は栃岡先生のことが憎くて振ったわけじゃないと思うんです。だから……」

 うっわ、さりげなく失礼なこと言われたな今。でも、

「俺は普通の人とは比べ物にならないくらい、陸上が好きってことか」

「はい」

 稲穂は携帯電話を閉じて、膝の上に乗っけたエナメルバッグにぎゅーっともたれかかった。

「だから、『走るのが怖い』なんて………言わないでください」

 いつもの稲穂からしたら考えられないくらいに小さな声だった。でも同時に、いつもじゃ考えられないくらいの力を持っていた。

「栃岡先生は自分に嘘をついてます。本当は陸上が、駅伝が大好きなんです。だから授業の合間や放課後に時間を見つけて走ってるし、だからこそ駅伝部の顧問をやってるんです」

 俺は何も言い返せずに稲穂のいうことをただただ聞いていた。言い返すことなどできなかったのだ。なんか稲穂の言ってることが、図星のような気がして――――

「あ、信号が変りましたよ。先生!」

 稲穂は笑顔だった。

「明日は栃岡先生が頑張るので、私たちも頑張れそうです! 京子先輩もきっと大丈夫ですって!」

 その笑顔に一瞬だけ心を許してもいい気分になった。そう、こんなか弱い女子高生にいつしか安心感を覚えてしまっていたのだ。

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