涼風争奪戦
県新人があと数日に迫ったこの日、俺はいつもと変わらず授業をこなしていた。俺の担当科目は公民の政治・経済だ。ちなみに社会科系の教員採用は難関中の難関。教員免許がとりやすい大学・学部が多いだけあって受かるのは天文学的な確率といわれている。
そんな難関な試験に俺みたいなバカが受かったのは校長のおかげ。つまり一種のコネだ。
ゆえに俺のことを心底嫌っている教員が多少なりとも存在する。教員が好き嫌いもない善人の集まりだと思ったら大間違い。けっこう内部で派閥があったりするのだ。教務室は口論の戦場となりうる。
「やぁ栃岡くん。今日の授業はどうだったのかね?」
不気味な笑顔で話しかけてきたのは体操部顧問で国語教師、花方だ。ちなみに下の名前は龍吾。このヤクザみたいな名前とマッチするかのように外見もヤクザみたいだ。高身長なのもあるから余計そう見えるのだろうか。
年中アロハシャツと色付きメガネをかけていて、生徒から陰で「先生みたいな中年ヤンキー」と呼ばれている。生徒からの認識はもはや先生じゃない。ちなみに朝陽情報だ。
「まぁ良かったんじゃないですかね」
「ほうそうか。でも聞くところによると君の担当しているクラスでは赤点が一人もいないみたいじゃないか。本当にちゃんと採点しているのかね?」
なんかいちいち癪に障る言い方だ。ちなみにこの花方、数少ない体操部員二年生の涼風を駅伝部にとられてしまったことが非常に気に入っていないらしく、ことあるごとに俺に愚痴を言ってくる、嫌な人。
「いいえ、授業をやってるんで当然ですよ」
「そうか…………まぁ頑張りたまえ」
「はーい! ありがとうございます!」
なんだ良い人じゃん。今までただのヤクザだと思っていたけど、印象が変わった。俺はスキップしそうなくらい浮ついた心で教務室を後にして六限の授業に向かった。
「あのやろう…………見てろよ…………」
花方の恐ろしい計画を知る由もなく……
そう、事件は放課後に起こった。
九月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いて砂漠のような灼熱のグラウンドに駅伝部は集合した。ちなみに今日はトラックで練習しない。暑いっていうのもあるが、第一に体育祭の予行練習やらなんやらでトラックと芝生フィールドが立ち入り禁止になっているからだ。こちとて大会間近だから使わせてほしいのは山々だが、「ポイント練習のような重要な練習でない限りダメです」という信乃の言葉の前に立ちはだかる余地はなく、しぶしぶトラックでは練習できなくなってしまった。まぁ、しゃあないな。
ということで集合時間の四時になった。グラウンドに体育祭実行委員が集まり始めていると同時に、グラウンドのゴールライン付近に駅伝部員が集まってきた。県新人三日前、駅伝も一か月と少しまで迫ったこの時期だ。みんな緊張感のある顔をしている。
でもこの面子で唯一緊張感のないのが涼風なんだよな。いつも「きゃぴーん!」を初めとする意味不明な言葉を日替わりでグラウンドに響かせながら登場する。それはポイント練習の日もそうなので、前人の京子もさすがに参った表情をする。今日はジョギングだけなので心配はないが……やっぱりなんだが嫌な気分だ。
炎天下の中、背中を汗が滴る。やっぱり暑いな。
「あれ、今日はスクイズボトルに水入れるの、稲穂の番じゃなかったっけ?」
駅伝部では日替わりで用具の準備を行う。みんながあまりに率先してやりすぎるのに涼風一人がやらないからそうしたのだが。
「そ、そんなことありません! …………自分は…………自分は‼」
「あーもう、分かったよ! 声のボリュームを下げろ!」
最近、稲穂の声が再びデカくなった。そしてそれと同調するように稲穂の練習のタイムも上がってきている。
「す、すみません! でも自分じゃないです! 多分、涼風先輩です!」
「涼風ぇ? あの子ったら、とうとう部活までサボるようになったのね…………」
京子が敏感に反応した。
「でも、おかしいね…………涼風さん、どんなにめんどくさがってても、部活をサボるなんて一度もなかったのに」
そうなのだ。実際、涼風は今のところ皆勤なのだ。
そもそも自分から志願した入部だ。当然と言えば当然なのだが、体操部にいたころはサボりの常連だったらしい。だから部活を無断で来ないのは、ある意味信じられない。
「まぁとりあえず今日は俺がボトルを作っとくから、先に練習を始めててくれよ。漣も遅れてるだけかもしれないし」
「「「「はい」」」」
時間にも限りがあるので仕方なく俺がボトルに水を入れることにした。
二の丸高校の設備は部分的にリッチで部分的に不便だ。
リッチな部分としては専用のオールウェザートラックがあることだ。新潟県の高校で所有しているのはウチの高校だけらしく、ちょっとした名物になっている。
しかし、不便な部分が勿論ある。水がまさにその例。グラウンドに蛇口があるのだが、なんか変な味がする。噂によれば井戸水らしく、飲んだものは三日でトイレに八十回行くほどの体調不良に襲われるらしい。学校七不思議の一つだ。俺が在学中の時もこの噂が流れていたくらいなので、学校側にはいい加減何とかしてほしい。
そんな水なので、アイシングとに清掃にしか使えない。だからグラウンドで活動する部活は体育館脇の蛇口からわざわざ汲んでこなければならない。正直、これが結構めんどくさい。涼風がサボるのも…………ちょっと分かる気がする。
だからこそ率先してやる京子たちには拍手を送らなければいけないのだと思っていると、いつの間にか体育館に到着していた。
体育館からはバスケットボールがダムダムと床を振動させて音を響かせる。今、体育館を使用している部活は男子バスケ部と女子バレー部、体操部しかいない。俺の高校時代はそれもっとほかの部活があったのだが、多くの部活が潰された。そう、教頭の強引な改革のせいだ。部活の規模を縮小させることで大学の進学実績を上げようという間違った考えのせいで、罪のない多くの生徒が部活で好きなスポーツをできていない。
今、体育館で部活をしている部活も、数年後にはあといくつが残っているのだろうか。
少なくとも駅伝部は信乃が教頭の娘ということで、ある意味で大きなチャンスを与えられている。絶対に都大路に出て、駅伝部を存続させなければ。
そう思いながらスクイズボトルのフタを開けて、水を入れ始めた。その時だ。「聞こえてくるはずもない声」が体育館から聞こえてきた。
「あーもー! うっせーんだよ! 手ぇ放せよ! このアロハ野郎!」
…………?
この聞き覚えのある攻撃的な声は…………?
「黙れ! いいからあんな駅伝部なんて辞めて体操部に入れ! 常盤!」
ん? 常盤?
漣…………いや、涼風だ!
双子で声がよく似ているので聞き分けるのに時間がかかったが、聞こえてきたのは涼風の声だ。そして花方も。
「なんで体育館にいるんだ…………?」
体育館の外にまで聞こえてきた大音量の怒鳴り声のせいか、体育館が一気に静かになる。バスケットボールをつく音も聞こえなくなった。
とにかく様子を見ようと俺は体育館の外の小窓から中を覗き込んだ。
思った通り中には涼風がいた。放課後すぐに捕まったのか制服姿だ。
「あいつ…………何やってるんだっ!」
突然、心の中に芽生えた感情に動かされた。俺の良いところであり、悪いところだ。
気が付いた頃には体育館の入口のドアを開けていた。あまりに勢いよくドアを開いたのでスライドドアがレールから外れて倒れた。床が割れるんじゃないというくらいの轟音に体育館にいた全員が振り向く。
「なんだあのポロシャツの人…………」
「あ、政経の栃岡先生じゃない? 駅伝部顧問の」
「あー、そっかそれだ。どうしたのかな?」
…………なんかザワザワ聞こえるな。
って、えぇい! そんなことは今はどうでも良い! 涼風を助けるんだ!
「す、涼風えええぇ、助けに来たぞおおお!」
体操部は俺が開いたドアの対角線上の角にいたが、しっかりと聞こえたようで涼風は振り向いてくれた。よかった。
体育館の生徒はそれを聞いてか、より一層ザワザワし始める。
「助けに来たって……あぁ、涼風ちゃん、元体操部だもんね」
「栃岡先生、やるじゃん」
「いーぞいーぞ! かっこいい!」
俺は生徒の大声援をバックに受けながら涼風のもとへ向かう。
そして十メートルちょっとのところまで近づいた。表情が良く見える位置だ。
さっきはあれだけ強気に叫んでいた涼風だが目は潤んでいた。初めて見る表情に、少し戸惑う。
「涼風…………」
「せ、センセー? どうして?」
「なかなか来ないから心配してたんだよ。みんな、待ってるよ」
「みんなぁ…………」
涼風は手で顔を覆った。
いつもは健気で明るそうにしてるけど、やっぱり怖かったんだな。
肩の力が抜けた気持ちになりながら歩み寄る。
「おい、ちょっと待てよ」
俺の肩に何かが当たった。
目を落としてそれを見るーーーー竹刀の先端だ。
「栃岡、お前いい加減にしろよ」
声の主は花方だった。恐ろしい顔で上から睨み付ける。
「いい加減も何も、生徒の意見を尊重しない先生が何を?」
「俺はな、駅伝部が気に食わないんだよ。潰れかけのくせにメンバー集まってきて…………体操部の気持ちも考えろっ」
「いやそれは先生の指導法に明らかな問題があるからでーー」
「黙れ!」
花岡は竹刀で床を強くたたいた。
体育館の空気が凍る。
「俺だってお前だって、強くなる練習をやらせている。なのに駅伝部だけがメンバーを集め、強くなっていく…………それが許せねぇんだよ!」
花方は竹刀を振り上げた。
そして最高点に達すると、加速度をつけて俺の頭上に落ちてくる。
ヤバい。ここは逃げだ。
俺は後ろにステップを踏み、間一髪でよける。
竹刀をすかした花方が不本意そうにこちらを向く。
「よけやがって…………!」
頭に血が上ったのか、茹でダコのように顔を真っ赤にしながら花方は突進してくる。
俺も素直に食らうわけにはいかず、体育館を逃げ回る。
一般生徒の間をくぐり抜けながら…………いつしか昼休みの小学生の鬼ごっこのようになってしまった。
この花方、意外と足が速いしバテない? もしかしてトレーニングしてるのかな? と思うのもつかの間。相手は竹刀という強力な戦闘兵器を持っているので、気を抜かずに逃げ回る。
「はぁはぁ……」
「はぁはぁ……」
『ガンバレー』
『逃げろ! 栃岡先生!』
俺と花方の呼吸と、生徒が応援する声が聞こえる。
かれこれ逃げ回って十分弱が経った。そろそろ結構キツい。
ていうか、これ、いつになったら終わるんだ? 体育館を逃げ回るだけじゃ埒があかない。
他の教員を呼んでくるように生徒に頼むのも手だが………このヒートアップっぷりじゃ聞く耳を持ってくれないだろう。
まぁ走っていればそのうち花方は倒れるだろう。消耗戦だ。
そう思って走り続けていた…………
ーーしかし、思うようにいかないことが世の中だ。
「⁉」
突然、俺の脚に何かが絡まった。
右足をとられて転ぶ。
幸い、受け身が上手くいったので手足を打つことはなったが…………
仰向けに寝転んだ視線の先には、あの男が現れた。
「よぉ、栃岡。鬼ごっこ楽しかったぜ。まぁお前がボールネットに脚を取られるまでは、な」
花方がいうことに気づいて足元を見ると、緑色のボールネットが足に絡まっているのが分かった。
「これ絡まるし、滑りやすいですよね…………」
「ほぉ。そんな余裕こいたことを言えるものいつまでかなぁ? あ?」
花方は竹刀を振りかざした。
俺は足にネットがあって身動きが取れない。
「ここまでか…………」
「ごふぁああああああ」
‼
どす低い叫び声と共に、花方が横に倒れた。
「えっ? えっ?」
わけも分からず戸惑う俺。
花方が倒れたままうずくまっているのを確認すると、絡まったネットを解きながら起き上がろうとした。
床に手をついたその時、目の前に細い手が現れた。
「センセー、大丈夫?」
顔を上げる。
「涼風!」
「花方、ムカつくから蹴り飛ばした。えへ!」
涼風はそう言いながらとびっきりの笑顔を見せる。
「行動と表情のギャップがすさまじいな」
「細かいことは気にしない! いーからいーから、早く立って」
かたじけなくも涼風の手を取って立ち上がった。
顔を見合わせる。瞳は透き通った蒼色で、もう潤んではいない。
「ありがとう……」
「ううん、私の方こそ。先生がいなかったら、私、どうなっていたかわかんないし」
「そうだな。体操部に戻られたら駅伝どころじゃないもんな」
「先生、じゃあお礼のチューね」
涼風は背伸びをして、その可愛らしい顔を俺の顔に近づけてくる。
「うわ、ちょ、お前!」
「いーじゃんいーじゃん。昔から物語のハッピーエンドはこうでしょう?」
後ずさりをした俺の後ろには、壁。
しかも涼風の顔はもう俺の首元まで近づいている。俺の胸元に手を当て、目を閉じて、その唇を突き出す。
制汗剤の甘い香りがふわっと鼻に触れる。
俺、実は女子とこんなに近づいたの、初めてなんだ。
十歳差はいえども女性の身体が近づけば、恋ってわけじゃないがドキドキで心臓がはちきれそうになる。
うっわ、もうダメだ…………
「おい、教員同士のケンカが起こっているのはここかぁ⁉」
「うっわ、ドアが壊れてるじゃないか」
「君たち退きなさい!」
半壊した入口から、先輩教師達の声が聞こえた。ケンカを聞きつけてやってきたのだろう。
さっきまでヒートアップしてケンカをガン見していた生徒達が急に動き……逃げ始める。
涼風と接近していたので動くこともできず、その様子を見ることしかできなかった。
そしてついに、教師団の冷え切った視線が重なり合った二つの身体に向けられる。
えっ…………
っこれは、俗に言う、死亡フラグってやつですよね?
「「「栃岡ああああああああああああああああああああ‼」」」
教員三人の怒鳴り声が体育館に響いた。
その後、俺は一週間の自宅謹慎となった。




