fight or flight!
新人戦の地区予選以来、サクラは部活にも学校にも現れていない。
それくらい、彼女のケガは重傷だった。
今は信乃が来てくれたから無理して走る必要はないものの、やっぱり心の傷は大きい。
部活を終えて帰宅した俺は、心配になってサクラに電話することにした。
煮込み料理をしながら、新調したスマートフォンを片手に、だが。
「オゥ、センセイですか! どうしたんデスか?」
「あぁ久しぶり。しばらく話さなかったら心配になっちゃってな。今、時間あるか?」
サクラは予想以上にいつも通りだった。
不安でダウンしてるんじゃないかと思っていたのは杞憂だった。なんだか拍子抜けしてしまった。
「実はな、歌和村っていう生徒会の副会長が駅伝部に入ってくれたんだ」
「イナホから聞きマシタ! 本当にラッキーです!」
「うん。運動部じゃないみたいなんだけど、もう涼風よりも早く走れててさ。これなら、サクラが無理しなくても、県大会は突破できるかもしれないぞ」
「そうデスか……」
急に声のトーンが下がってしまう。
「どうした?」
「ワタシはもう……駅伝部には……イラナイんデスか?」
サクラらしくない、途切れ途切れの、哀愁が混じったような声だった。
「ワタシは、ミヤコ先輩みたいにミンナを支えられマセン。イナホみたいに、ミンナを明るくできマセン」
深刻そうに言葉を連ねるサクラに気づき、ガスを止めた。
台所の椅子に腰かける。
「ワタシができるのは速く走るコトだけでシタ。でももう走れない…… じゃあワタシは、いる意味がないんデスよね」
サクラは大きくため息をついた。疲れたような、悲しそうなため息だ。
外からは虫の鳴き声だけが聞こえる。
二人をつなぐスマホに流れるのは、沈黙だけ。
話を聞くだけにしようとおもっていたけど、さすがに耐え切れなくなってきた。
「バカやろう……」
「えっ……」
「自分の存在意義なんて決めつけんなよ」
自分の存在意義。
辛くて、やめたくて、逃げたかった大学時代。
関係者からは「早熟」なんて言われたりした。それはもちろん俺の耳に届いていた。
でももしかしたら、チームメイトにも聞こえていたんじゃないかな。
気づいてたはずなのに、誰も言及したり、俺が走れないことに嫌味なんて言わなかった。
なんでだろうな。
「デモ、走るコトができナクなったら、ナニをすれば……良いんデスか?」
片言な日本語でサクラは尋ねる。
「知らん」
「ホワァ⁉」
よく海外ドラマで見るアメリカ人のリアクションだ。電話越しとはいえ、生で聞くのは初めてだ。
「いや、知らんて」
「ソレはムセキニンじゃないデスか!」
「無責任も何も、そんなことまで面倒見れんわ。自分で考えろ。あ・た・ま・を・つ・か・え! 日本語わかるんだろ?」
腹ペコなのも相まって半ギレ口調になっている。
「センセイ…………」
「あん?」
「センセイって………………オモシロイです!」
……………………え?
「とってもとっても、ワンダフルです! 感動シマシタ!」
なんだよそういう意味かよ。一瞬だけど変人に思われちゃったのかとビビっちまったじゃねーか。
「お、おう」
「これなら安心シテ、アメリカに帰れます」
「おーそうかそうか。そりゃあよか…………ええええええええええええ⁉」
度胆を抜かれたとはまさにこのことだ。
椅子にグテッと座っていた俺の背筋は一瞬にして凍りついた。
汗がダラダラと出る残暑の熱帯夜に、氷点下三百度の俺がいる。そんな温度は存在しないが、そんくらいぞっとする。
「帰るって……どうして! そうか留学生だったから!」
「いや、そうですけど」
「ダメだ! 帰っちゃダメだ! ずっとここにいてくれ!」
「え、いや、その、だから! そういう意味じゃないんです!」
稲穂クラスの轟音が、スマホに流れる。
あまりに音が大きすぎたので音が割れているが、これが体育館に設備されているような大型スピーカーだったらどうなっていたか…………また背筋が凍る。
あれ、もしかして越平家でホームステイしているうちに、稲穂の声のデカさが伝染したのか…… それしか考えられないが。
でも今は声のデカさなんてどーでもいい。
「じゃあ、どういうことなんだ?」
「留学のキカンは今年度ですケド、一時キタクってコトで!」
「一時帰宅? なんでまたそんな飛行機代がかかることを」
「ミミがイタイですネ…… 実は、ワタシのファザーはドクターなのです!」
「フェザーがボクサー?」
「意味分からないデス! 聞きマチガエにしては狙ってマスよね⁉」
やっぱりバレたか。
「んで、どうでもいいから、詳しく聞かせてくれよ」
「釈然としないデスね…… ウェル、この間のケガは、中学の時に痛めマシタ。練習のし過ぎデス」
サクラは中学の時に全国大会に出たと言っていたが、この時に脚を痛めていたのか。「古傷」の意味もようやく分かった。
「ファザーは、誰よりもワタシを見てて、ワタシのカラダにも詳しいデス」
「なんかエロい」
「黙っててくだサイ! ダカラ、ファザーのところに行けば、ワタシのケガも早く治るかもしれまセン!」
「おぉ!」
神の福音だろうか。サクラのケガは全治三か月だが、うまくいけば都大路には間に合うかもしれない。
信乃の伸びも考慮に入れなくてはいけないが、順当に復調すればサクラが走っても問題ないだろう。
「行っても……いいデスか?」
「オフコース!」
「ワオ! では明日の朝の便で行きマス!」
支度早すぎるだろ。これは俺が拒否しても行くつもりだったな。
「ミンナに挨拶できないのが申し訳ないデス……」
「気にすんな。メールでも送っておけばいいだろ」
「そうデスね。永遠に別れるわけではないですし」
電話越しでわかるはずもないが、声のトーンからサクラは笑っているように思えた。




