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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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21/95

口付け厳禁

 1週間ほどのお盆休みも幕を閉じた。京子の家の1件からは特に事件も事故も起こらずに実家でのんびりとしていたのであんまり記憶はない。仕事もこれといってないし、退屈なお盆休みだった。

 だから部員達の顔を見れる部活が恋しくなった。不思議なもんだよな。耳を塞ぎたくなるように騒々しい部員達に囲まれて殺意が芽生えることすらあったのに、こうして離れてみると恋しくなる。

 やっぱり高校教師になって正解だったなぁ。


 しみじみした思いに耽っていると競技場に部員達が戻ってきて体操を始めた。彼女達は学校近くのスキー場にジョグに行ってきたのだ。いわゆる「クロスカントリー走」というやつだ。

 夏場のスキー場なんてハイキングの客しか来ないから芝生を刈って長距離の練習場として一般開放されている、というところだ。俺の高校時代にはこんな練習コースはなかったので本当にありがたい。

 クロスカントリーコースは脚に優しいし、小刻みなアップダウンは心肺機能を高めてくれる。まさに長距離ランナーにとってはこれ以上ない練習場所だ。「妙高高原にわざわざ行く必要もなかったんじゃなーい!?」と涼風に言われたのはちょっと痛かったが……ま、同じコースばかり走ってちゃつまらないしな! うん!

 俺も最初は彼女達と一緒に走ってというか先導して走っていたのだが一足早く競技場へと戻って来た。給水のボトルなどを用意しておくためだ。

 熱中症が気になるところだが、開始時間を早めただけあって今はまだ午前8時。全然涼しいほうだ。

 彼女達は競技場に戻ってくると談笑しながら集合場所へと歩いてきた。今日は軽めの練習だけあって選手の表情も明るい。この夏はもう少し追い込んでから疲労抜きのシーズンに入ろうと思っているから、このくらいの余裕度はあってほしかった。

「お疲れ」

 俺は選手に水道水の入ったスクイズボトルを手渡す。

 胃腸を冷やさないための常温水道水でも彼女達にとってはオアシスだ。涼風は天を見上げてスクイズボトルに入った水を飲む。

「キャッハー! うんめー!」

 そのオヤジ臭い様子を見た駅伝部そして俺は少し引いてしまった。思わず後ずさりをしてしまう。

「え、どうしたの?」

「涼風、なんだその仕事終わりにビールを一気飲みするサラリーマンみたいな声は」

「だってチョーうまいじゃん!」

 涼風は誇らしげにスクイズボトルを掲げる。

「いいけど、感情表現が甚だしいぞそれじゃあ………… とにかく残りの人に渡せ。みんな喉カラカラなんだぞ」

「ちぇー。こんなボトルを一個しか替えないなんて貧相な予算よね」

 んなこと言っても毎月2000円の徴収は堪えてるはずだ。とくに常盤家は漣と涼風という2名を抱えているので特に負担は大きいだろう。

「じゃあお前らの部費をもっと巻き上げていいんだぞ」

「むーりぽ!」

 涼風は俺を見てあっかんべーをした。


 1リットルはあろうかという大きなボトルを部員達は回し飲みしていく。その姿はやっぱり高校生って感じだな。

 でもスクイズボトルは部活の物。当然、口付けは厳禁だ。だからみんな唇から浮かせてボトルを握って水を飲むわけだが口に狙いが定まらず、顔にかかったり服がぬれたりすることもある。

「あがああああああああ!」

 ……まぁー、こういうこともあるよね。口から照準が逸れたスクイズボトルの水は漣の身体に思いっきりかかってしまった。

「漣さん、大丈夫?」

「おねーちゃん……あははははははは!」

「姉貴いいいいいいいいいい!」

「ワオ! サザナミ、大丈夫ですカ!?」

 誤って大量の水を自分の顔にかけてしまった漣のもとに部員全員が一斉に駆け寄る。

「ちょっと……サイアク……」

 漣のTシャツは汗と水道水でぐっしょりになっている。

 そして……黒い影が胸部に、黒いラインが両肩にくっきりと見えてしまっている。

 ――――ゴクリ

 やべぇ……見えてるよ。

 高校生のころは誰もが妄想したであろうこの手のラッ――いや、不幸が大人になってから訪れるとなんでこんなに胸が熱く鼓動するのだろうか……

 入部初日や合宿での京子の事件とはまた違った恐怖が俺を襲う。強烈に胃痛がするような感覚になる。悪魔が背中に舞い降りた、そんな表現が適当だろう。

「大丈夫だって。すぐに制服に着替えれば平気だから」

「ジャア、早くブカツは終わり二シマショウ」

「そ、そうだね。漣さんのためにも早く部活をって、先生…………え?」

 部員達は俺のことを見て口をぽっかり開けている。いったいどうしたっていうんだ。俺の顔に何かおかしいところでもあるのか。

「ど、どうしたんだ」

「お、お鼻から血がドボドボと……」

 慌てて鼻に手をやるとそこには熱い液体が流れているのが分かった。それに少し触れて視界に入れてみる。

 ―――――血。

 それを認識した時、火照った顔は一瞬にして南極の末端へと変わる。

「ティッシュ貰ってきます」

 猛ダッシュでその場を立ち去った。


 十数分後、競技場に戻ってくると、未だに全員が集合場所にいた。

 あぁどうしよう。また変態に返り咲いてしまうよ。女子高生の下着が見えたくらいで欲情する変態なんだと罵られるんだうわぁ。

 隠すことのできない羞恥と崖っぷちに立たされた恐怖心に苛まれながらも、なんとか平素を装って部員たちの前に立つ。

「おー、送れてスマンな。漣は更衣室か?」

「そーだけど。今は制服に着替えてる。ふあーあぁ……」

 涼風が練習に疲れてあくびをしながら答えた。

 その穏やかな表情を見て安心したのもつかの間、すぐに強襲(アサルト)を受けることになる。

「ねぇ、お姉ちゃんの見て興奮したの?」

「なっ!」

 心臓を突き刺されたような衝撃をくらい、思わず後ずさりをする。心中がバレバレなその行動を見て涼風は嬉しそうだ。

「やっぱりそうなんだー。先生もオトコなんだねー」

「そ、そういう誤解は……!」

 俺は必死に否定した。しかし、

「目が泳いでるゾ」

「う……」

 4人の視線が一挙に俺に集まる。ってか京子! この前の合宿でお前は加害者でもあったくせにこっちを見るな!

 涼風はしたり顔をする。

 聞こえるのはセミの鳴き声だけ。視界に入るのは冷たい視線だけ。

「まさか本当にロリコンだったとはねー」

「ロ、ロリコンじゃない!」

「現にJKの下着を目にして興奮してるんだよ? これは動かぬ証拠!」

 穴があったら入りたい。いや、むしろそのまま窒息死したい。

 春先、陸上部顧問の嘉川が「気を付けろ」と言ってくれたことの意味が分かった。女子高生という生き物はその欲望のままに男を吊し上げるのだ。もう俺には泣く以外の選択肢はなかった。


 絶望の淵に立たされ……いや、しゃがみ込んでいると「容疑者」は帰って来た。

「みんな、まだ終わってなかったの?」

 制服姿に身を包んだ漣が更衣室から出てきたのだ。ブラウスに灰色を基調としたチェックのミニスカート姿の女子高生スタイルでいる。

 漣は不思議そうに俺を見つめる。

「センセー、出血は大丈夫?」

 この質問は俺を現実の世界へと引き戻してくれる気がした。

「うん、全員いるよ」

「『出欠』じゃなくて『出血』! どんだけ動揺してんだよ!」

 こ、言葉が出ないな。ただの勘違いだったなんて。

 漣は深くため息をつくと京子に指示を出す。

「いいよ。もー終わりにしよーよ。京子先輩?」

「え、あ、はい。気を付け! ありがとうございました!」

 部員達は大きなあいさつをすると更衣室へと向かっていった。

 俺はガックリとうなだれた。結局、一番ダメな後に引きずっちゃう系の終わり方をしてしまった。

 ……死にたい。今なら死ねる。目の前に鋭利な刃物があれば喜んで飛びついていき喉仏を切り裂くことが出来るだろう。

 漣は缶のスポドリを飲みながら俺のそばにしゃがんだ。

「セーンセ、そんなに凹まないでよ!」

「…………」

 気遣ってくれるのは嬉しいが明るいテンションが逆に辛い。

「ウチ、あんまり気にしてないからね?」

「お前が気にしてるしてない以前に俺の尊厳に関わる重大な問題だぞ」

 これからこの「変態キャラで生きていかないといけないんだぞ俺は。それがどれだけ辛いことか、笑っているだけのお前ら女子高生に分かってたまるものか。

「もうたっくさん事件起こしてるじゃん。合宿のときだってそう」

 はっと思い、漣と目を合わせる。

「お前知ってたのかよ」

「うん。私、見ちゃったもん。京子先輩が男風呂から出てきたところ」

 思わず漣の細い手を取り、涙ながらに見つめる。

「先生?」

 漣は頬を赤らませる。

「お前、いいやつだな!」

 涙ながらにそう言った。漣の優しさで俺の贖罪を―――――

 しかし漣は無情だった。

「おまわりさーん、この人でーす」

「わああああああああやめろおおおおおおおお!」

 涙も枯れそうなくらいに叫んだ。

 無慈悲という言葉がピッタリだよそんな悪行。優しさを見せておいて裏切るだなんて……

「嘘。先生にはそんなことしないって。あの日だって、もう変態扱いしないって言ったじゃん」

「あの日?」

「ほら、県大会の前、二人で練習したじゃん。暗い中」

 「あの日」と言われてもさっぱりわからなかった俺だが、イライラしたような口調で説明されてようやく思い出した。

 ――――――あの日。

 真っ暗の中、漣の練習に付き添ったんだっけ。初夏らしくひんやりした空気の中でやった200mのインターバル。タイムは納得いかなかったけど、妙な気持ちに包まれた、あの日。

「たしかお前の成績の悪さも知った気がする」

「そんなことは忘れてよ…… けっこう傷ついたんだから……」

 彼女は苦虫を噛んだような顔をする。

「でもなんで俺のことを変態扱いしないことにしたんだよ。なぁ」

 漣の目に語りかけるように話したが、逆にそっぽを向かれる。

「り、理由なんてどうでもいいだろ!」

「いやダメだ。その思考プロセスを理解しない限りには俺は素直に現実を受け止められない」

 そうだ。これ以上裏切られてたまるか。また罠の可能性もあるからな。

「そんなこと……」

「どうしたー。言えない理由でもあるのかよー」

 一気に形勢逆転だ。楽しい。これぞ悦楽だ。さっきまで得意顔で罵っていた奴の困り顔を見ることほど楽しいことなんてない。

「ほーらほーら、言ってみろよ」

「い、言えるわけないだろ!」

 漣の顔は真っ赤になる一方だ。困ってる困ってる。

「なんでかなー。あ、ひょっとして!」

「ちょ、先生――」

「俺の機嫌をとろうとしていたな!」

 会心の一撃を食らわせた。どうせそういうことなんだろう? そうやって俺にスキを作らせてまたネタにして楽しむんだろう。

 しかしリアクションは予想外だった。漣の顔は赤色から通常の肌色に戻る。まるで興が冷めたように。

「もう…………サイアク……」

 彼女はいきなり立ち上がると俺の手を制して更衣室の方へ向かった。

「え? どうしたの?」

「サイアクって言ってるじゃん」

 ボソッと言うと一瞥も与えずスタスタ歩こうとする。

「だからなんでって……待てよっ」

 座ってもいられなくなって追いかける。

 呼び止めても振り向いてくれず、漣は頭をかきむしるだけ。

「おい、ちょ、待てよ……」

 ついに漣は立ち止まることなく更衣室に入ってしまった。

 これ以上追いかけるとまた変態になる俺はどうすることもできない。

「なんなんだよ一体……」

 そろそろ日差しが強くなってくる、そんな朝のことだった。

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