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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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19/95

稲穂の異変

 合宿は終わってから1週間以上が過ぎた。今日はお盆休み前の最後の練習だ。

 まだ気温が低い午前7時。陸上競技場に駅伝部は集合した。合宿の前は目をこすりながら集合する時刻だったが、今はもう違う。部員たちはみんなキリっとした顔でストレッチをする。

 部員たちはあの日から変わった。前もやる気はあったんだけど今はなんというか、「殺気立った」様子だ。格段に意識が違う。みんなもみんななりに危機感を持ったんだろう。このままじゃ勝てない、もっと速くなりたいと。そうだったらいいなと思う。

「今日はお盆前最後の練習だからスピード練習、1000mを3本やろう。休みの前に速い走りをやってフォームを整えるんだ」

 部員たちの声には明らかに張りが出ていた。稲穂のような大きい声とは違う、シャキッとした声だ。監督としてもやる気が出てくる。

「京子とサクラと稲穂は3分10秒で来い。漣と涼風はできる限り遅れないようにな」

「私だってもうちゃんと走れるし」

 2年生で部員歴も長いのに遅い選手に見られている漣は心穏やかではないようだ。

「いやまぁ、ケガ明けてから1カ月も経ってないじゃないか。合宿だってようやく走れてたみたいだし」

「私をなめないでよね」

 とはいえ漣は確かに順調に復調している。双子の妹の涼風がいるからなのか、後輩の稲穂とサクラが頑張っているからなのか、未だにスパイクで踏まれたことが悔しいのか……その気合がどこから来るのかはまだわからない。

 でも理由なんてどうだっていい。俺は、漣が前みたいに「漣らしく」生き生きと威張って姿を見るのが、何よりうれしかった。

「稲穂も3分10秒で走れるよな」

「えっ、あ、はい。了解、です」

 急に聞いたせいか稲穂は戸惑った表情をしていた。

「どうした。もっと速くか?」

「いいえ……そんなんじゃないです」

 声もいつものような張りはなく、なんか言いたいことがあるような顔だ。

「疲れてるのか?」

「そ、それはないです! いけます!」

 稲穂は最近ちょっとおかしい。

 普通の人とは違う、ことは前から気づいていたが、最近は特にテンションが違う気がする。

 前まで漣のことを「姉貴」と呼んでいたのもやめた。サクラと楽しく話すこともあまり見ない。

「倒れてからじゃ遅いんだから、無理はするなよ」

「はい……」

 こうなっては俺もこう言うことしかできない。

 朝で気温が低いくせに眩しい日差しに苛つきながら部員たちにウォーミングアップを始めさせた。


 四十分後、トラックの千メートルのスタート位置に集合した。

「じゃあさっき言った設定で走るぞ。位置について――」

「先生!」

 スタートしようとしたその時、稲穂が声をあげた。

 俺も含めた全員の身体が前に倒れそうになる。

「おい稲穂、どうしたんだよ」

「あ、いや、ごめんなさい」

「稲穂さん、どうしたの? なんか今日変だよ?」

「なんでもないです。早く始めてください」

「イナホ」

 サクラが話しかけたと思ったその時、頬を叩く音が聞こえた。

 もしやと思い稲穂を見ると幼い彼女の頬は赤くなっていた。

 一瞬何が起こったのかわからなかった。

 でもサクラが話し始めたことでやっと理解できた。

「体調がワルイなら、ムリしないでレンシュウはやめるベキデス。ワタシは分かる。一つ屋根の下に暮らしているから」

 やっぱり稲穂は体調が悪かったのだ。ホームステイをしているサクラはそのことを一番よくわかっていたようだ。

「最近のイナホは、ナンダカ落ち着きがナイです。合宿がオワッテからなんて特にソウ思いマス」

 静かな朝の陸上競技場ではサクラの激しい声だけが聞こえる。

 もう練習どころではない。

 胸がキリキリ痛い。

「私だって……私だって、頑張ろうと思ったんです。京子先輩が勉強せずに頑張って、姉貴もケガを乗り越えて頑張って、涼風先輩も初心者なのに頑張ってて……でも私はタイムが伸びてなくて……今日だって体調悪かったけど、頑張ろうと思ったんです」

 いつもの大声出して必死に走る姿とは大違いだ。今の稲穂は、責任感に押しつぶされそうだ。涙を抑えながら言葉をしぼりだす。

 稲穂は春の地区大会からほとんどタイムが伸びていなかった。県大会のときも自己ベストじゃなかったし、県選手権でも格下の相手に甘んじた。中学で速かった選手ゆえの伸び悩みだ。本人も辛いんだ。

 でも俺も顧問だ。こんな状況はなんとかせねばならん。

 部員の練習のタイム取りは朝陽に任せて、稲穂をつれてトラックを出る。

 しばらく歩いて学校の保健室にやってきた。夏休み中はほとんど人が来ない場所だ。ここならじっくり話ができる。

 クーラーをつけて稲穂を座らせると熱中症患者用のスポーツドリンクを出した。もちろん朝陽には許可をとっていない。

「先生ごめんなさい。こんなところまで来ちゃって」

 稲穂はうつむいて申し訳なさそうにしている。

「気にすんなって」

「私、ダメですね。自分のことしか考えられなくて、直球勝負で」

「そういうところがお前の長所なんだろ? 俺は悪いことじゃないと思うよ」

「でも」

「たーだ、今回は焦りすぎ。速くなりたいのも分かるけど、今は焦っちゃダメだ」

「はい……」

 沈黙が訪れると、クーラーの温度が低すぎることに気付く。風邪を引いたらまずいと思い立ち上がって設定温度を直した。

「先生、私、どうしたらいいか分かんないです。速くなりたいのに、走れば走るほど遅くなるような気がするんです。走るのが辛いです」

「走るのが辛いんじゃないだろ。お前が勝手に勘違いしてるだけだ」

 スポーツドリンクを一口飲んだ。

「走るのは楽しいぜ。だから駅伝部のみんなは頑張れるんだ。お前も走るのが楽しいから、駅伝を始めたんだろ?」

「……はい。私は小さい頃から浮いた人間だったので、自然と一人遊びが好きになって、そしたら一人で走ることも楽しくなって」

 稲穂にとっては走ることは遊びの一種だったのかと思い恐ろしくなった。

「先生、やっぱり私、走りたいです。今からでも陸上競技場に行って練習したいです」

「だからダメだって。そういうところが『焦ってる』んだよ」

 ハッとした顔をした稲穂は小さく縮こまった。

「走るなよ」

「え?」

「走るの、禁止」

 温度設定を挙げたはずのクーラ―からは相変わらず冷たい風が吹き続ける。

 稲穂はキョトンとした顔で俺を見ていた。

「そんな、禁止なんて」

「走れば走るほど遅くなるんだろ。じゃあ走らなきゃいい」

「でもそれじゃなんだか遅れるような気がします……」

 無理はないよな。ボロボロになるまで走っていたような子だ。

 それがいきなり走ることを禁止されるなんて、ピアニストからピアノを奪うような残酷なことだ。

「お盆休みが終わるまでだ。それまで、我慢」

「一週間くらい、ですね……」

「そんくらい必要だろ。今のお前じゃもっと休ませてやりたいけど」

「…………」

 稲穂はまだうつむいている。

沈黙が走る。

 俺は稲穂の両肩にそっと手を置いた。

 稲穂は顔をあげた。

「お前にとって最高の練習だ。これならサクラにも勝てるんじゃないか?」

 傷つけないようにそっと微笑んだ。

 思っていることを当てられたのか、稲穂は顔を赤らめた。年頃の女の子らしい表情だ。

 その表情に満足した俺は調子に乗った。

「じゃあ稲穂の練習は、一週間休養。いいな」

「はい!」

 耳がやられた。

 正直、調子に乗りすぎた。


 ――ガラッ

 突然、保健室の戸が開いた。そこにいたのは似合わないピンクのTシャツを着た朝陽だった。

「あら、やっぱりここにいたのね」

「悪いな。ここしかなくってな」

「稲穂ちゃんは落ちついた?」

 朝陽が視線を送ると、稲穂は更に顔を赤らめた。

「まぁそんなところだよ」

 やれやれと思いながらコップに入ったスポーツドリンクをすする。

「ところで、翔」

「ん?」

「ここはどういう場所だか分かる?」

「保健室。お前バカじゃないの?」

 朝陽はため息を一つついてストップウォッチを机に置いた。

「ごめんなさい。聞き方が悪かったわね。じゃあスポーツドリンクはどういう飲み物?」

「おいしい飲みも――あっ」

 しまった。スポーツドリンクをタダ飲みしているのがフツーにばれた。

 俺も迂闊だった。こんなところを自尊心の強い朝陽に見られたら必然的に保健室の番人としての怒りの鉄槌を食らうべき運命になる。

「ごめんなさい」

「もう遅い」

「いやん」

「調子に乗るな」

 朝陽は救急箱に入っていたハサミを俺に投げつけた。間一髪で頭部への直撃を回避した俺はそれ以来朝陽が怖くなってしまった。

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