第八話 月夜の約束
二日目ともなると、さすがに公爵邸の雰囲気にも慣れて来る。
夜の公爵邸は静寂に包まれていた。等間隔で置かれたランプが柔らかく明かりを灯す廊下を抜け、ジェシカは大きなガラス扉を開く。そこは公爵邸の裏庭だった。
石造りのベンチに腰を下ろすと、気持ちの良い風が頬を撫でて行く。雲の無い空には月が冴え冴えと輝き、小さな泉の水面に映って揺れていた。
ふう、と息をつくと昼間のダニエルとの面会が頭をよぎる。
ダニエルの証言は他の人から聞いた話と同じだった。新たにわかったことは部屋の窓が開いていたということ。そしてオリヴィアの死因を決定したのはアウスタット伯爵、その人だということ……。
(オリヴィアさんは自ら命を絶ったという説も、ダニエルさんの手によって殺されたという説も、今のところどちらも捨てきれない。けど何かおかしいのよね。みんながそれぞれに、何かを隠しているような……)
もし殺害されたというなら、抵抗する声や物音を誰か聞いていてもおかしくない。
(それに領地の仕事が忙しいからと言って、ろくに調査をしないまま埋葬したアウスタット伯爵も、どこか変――)
ラインハルトのことだ、きっと伯爵にも「もっと詳しく調べるべきだ」と言ったはずだ。けれど伯爵はその声を退けたことになる。
だが違和感しか残らない。伯爵の行動はもちろん、そこでおとなしく退いたラインハルトにも……。
考えを巡らせていると、不意に静寂を破る声が聞こえた。
「僕もいいかな?」
「おわっ!」
突然の声にジェシカは飛び上がる。声の主に想像はつくが、不意打ちは心臓に悪い。激しく音を立てる心臓を押さえながらジェシカはゆっくりと振り返った。
「ごめん、驚かせたね」
そこに立っていたのは予想通りラインハルトだった。
くつろいだシャツ姿のラインハルトは笑いながらジェシカの隣に腰を下ろした。
「眠れない?」
まるで子どもに問いかけるような優しい声でラインハルトの青い瞳が覗き込んでくる。けれどいつものように面白がる眼差しではなく、本当に心配しているようだった。ジェシカは少し驚きながら素直に答えることにした。
「いえ、少し頭の中を整理しようと思いまして」
「それなら僕も付き合うよ」
そう言って髪をかき上げるラインハルトからは爽やかな石鹸の香りがした。しかしその横顔はどことなく疲れて見える。実際のところ彼の方が眠れなかったんじゃ……そんな疑問を飲み込みつつ、ジェシカは頷いた。
「……思ったんですけど、今回の事件、不自然なことが多すぎます」
静かな夜の空気の中、ジェシカは空を見上げた。
「まず、閣下が疑っているダニエルさんです。ダニエルさんの証言は一貫して『何も見ていない』。その発言の信ぴょう性は一旦置いておくとして、もしダニエルさんとオリヴィアさんの間に何かがあったのなら悲鳴や争う物音を聞いた者がいてもおかしくないはずです」
ジェシカはベンチの手すりに手を置くと、ざらざらとした石の感触をなぞった。
「けれどドーナさんはそのことに関して何も言っていなかった。もし何か聞こえていたなら、すぐに動いているはずです」
しゃべり続けるジェシカの言葉をラインハルトは何も言わずにジッと聞いていた。
「それに他にも気になることがあります。ダニエルさんが本当にオリヴィアさんを殺害するつもりだったなら、わざわざこんな怪しまれる方法を取るでしょうか? 彼にとって一番得をする方法は、結婚してからオリヴィアさんを殺害すること。そうすれば少なくとも経済的には安泰です。仮に意中の相手がいたとしても、殺人を犯してしまえばその後の生活は破綻するだけです。けどオリヴィアさんが死んだのは結婚前。ダニエルさんに何の得があるのでしょう?」
一気に話し終えたジェシカはラインハルトの横顔を見た。眉を寄せていたラインハルトは静かに息をつき、低く呟いた。
「君はやけにダニエルを庇うね……」
「いいえ。庇っているのではなく、ダニエルさんが犯人だと判断するだけの情報が足りないというだけです。閣下もそれはお気づきだったのでは? だから私に依頼なさったのではないですか?」
「……っ」
ジェシカの言葉にラインハルトは一瞬言葉に詰まったように見えたが、すぐに自嘲するように微笑んだ。
「はは……まいったね。うん、君の好きに推理してもらって構わないよ」
ラインハルトは短く息をつき、夜空を見上げた。
「かわいい赤ちゃんだったんだ、オリヴィアは……」
ぽつりと呟く彼の声には、どこか遠い記憶を懐かしむ響きがあった。
「姉上は両親が亡くなってから僕をとても心配していたんだ。義兄上も温かい人でね、本当の兄のようだった。誕生会や季節の行事には必ず声をかけてくれて、両親のいない寂しさを埋めてくれた」
空を見上げたままラインハルトは目を細めた。
「オリヴィアはそんな優しい二人の間に生まれた子だった。僕の事を兄のように慕ってくれて、本当にかわいかったんだ」
静かに目を閉じた彼は、夜風を感じるようにゆっくりと息を吸う。それは今にも夜闇に溶けて消えてしまいそうな儚い横顔だった。
「家族を失う悲しさはよく知ってる。だからこそ彼女の死の真相を突き止めたいんだ……でも、果たしてそれが姉上や義兄上のためになるのかわからなくなってきたよ」
ラインハルトはそう言って力なく笑った。
その言葉に、ジェシカの胸がちくりと痛む。
ああ、この人は恐れているのだと思った。オリヴィアの死の真相を探ることによって、大切な人たちが傷つくのではないか……と。
(だから伯爵を追うのを止めたのね……)
——真実を知ることが、必ずしも救いになるとは限らない。
帰ってこない父に何が起こっているのかを知ることが、ジェシカの救いになるとは限らないことはよくわかっている。
(でも、私は父さんの代わりに探偵事務所を守ると決めた――)
ジェシカはぎゅっと拳に力を込めた。
「明日、またアウスタット伯爵邸を調べさせてもらっても良いでしょうか?」
「え……」
ラインハルトを見つめながら、ジェシカは静かに問いかける。小さな声を上げたラインハルトは驚いたように瞬いた。
「……なんだか弱気ですね。まだ依頼は解決していないんですよ」
その言葉はまるで、自分自身に言い聞かせるようだと思いながら、ジェシカは笑顔を作った。
しばらく呆然とジェシカの顔を見つめていたラインハルトは、次の瞬間ホッとしたように表情を緩めた。
「ああ、そうだね。さすがは僕が見込んだ探偵さんだ。でも、明日は急に用事が入ってしまっていたんだ。同行はガーヴィスに頼んでいいかな」
「え゙……」
思わず声が出た。
ガーヴィス……嫌いではないし、悪い人間じゃないのもわかる。けれど、何かとジェシカに当たりが強い彼と一緒に行動するとなると気が重い。
言葉に詰まったジェシカを見て、ラインハルトは困ったように微笑んだ。
「ジェシカは彼が苦手?」
「あ、まあ……いや……」
さすがに今回は正直に「はい」とは言いづらい。とはいえガーヴィスだってこんな町娘がラインハルトの側をうろちょろしていたら、神経質になっても仕方ないだろう。
もごもごと答えを濁していると、ラインハルトがくくくっ、と肩を揺らした。
「わかった。彼には少し優しくするように伝えておくよ」
「ぜひお願いします!」
ジェシカが勢いよく頭を下げると、ラインハルトは今度こそ声を上げて笑い始めた。
「あはは! 任せておいてよ。……それにしても、屋敷の中にこうして話せる相手がいるっていいね」
ふと漏れたその言葉に、ジェシカは目を瞬かせた。
「ガーヴィスさんは?」
「ガーヴィスには僕の護衛やら側近としての役割があるからね。話し相手の役目まで担わせたら悪いよ」
ラインハルトはどこか寂しげに笑う。淡々とした口調だったが、その言葉の裏には高い身分を持つ者としての孤独が滲んでいるような気がした。たしかにガーヴィスの厳格な態度の裏には、主君としてのラインハルトを支えようとする意志が見え隠れする。だからこそ、ラインハルトもガーヴィスを「話し相手」としてではなく、あくまで「側近」として扱おうとするのだろう。
(貴族の世界はよくわからないけど、この人も色々気を遣って生きてるのね……)
きっとそれは少し寂しい。けれどラインハルトとガーヴィスの間に深い信頼関係が築かれているのも、こういった気遣いがあってこそなのかもしれない。
どちらともなく沈黙が落ちる。やがて思い出したようにジェシカはラインハルトに尋ねた。
「あの、そういえばどうして私を選んでくださったんですか? 探偵は他にもいるのに……」
「飛んで来たビラを見て、だけど?」
「いいえ、そうではなくて。以前、馬車の中で閣下が仰っていましたよね。『君以外に依頼するつもりはなかったから』って」
ジェシカがじっと見つめると、ラインハルトは目を細めて微笑んだ。
「よく覚えているね」
「気になりますから」
「そうだなぁ……」
ラインハルトは夜空を見上げ、しばしの沈黙の後、口を開いた。
「全部解決したら教えてあげるよ」
月明かりに照らされたラインハルトの横顔は心から楽しそうで、けれど少しだけ意地悪そうに見えた。
お読みいただきありがとうございます。
次話は明日20日朝7時更新予定です。




