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公爵閣下のご依頼は花の香りと共に  作者: 青戸部ラン


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第二十一話 小さな靴下

本日最終話まで12時、19時と投稿します。どうぞ最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

 その日、ジェシカはシューゼノクト公爵家に用意された部屋で、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 バルコニーの手すりに止まっていた鳥が数羽飛び立ち、公爵家の外周を囲む木々の中に消えていく。きっとあの中のどれかがラインハルトの懐中時計を盗んだ犯人……犯鳥なのかもしれない。そんなことを考えていると部屋の扉が叩かれた。


「は——」

「おい、準備はできたか?」


 返事をする前に扉が開く。現れたのはガーヴィスだ。最近ようやく雰囲気が和らいだと思ったら、今日の彼は眉間にしわが寄っている。


「……できましたけど、なんというかこう、女性の部屋を訪ねるにあたっての気遣いみたいなものはないんですかね?」

「ないが、何か問題があったか?」

「いや……ないですね」

「ならもう出発だ」

「は、はーい!」


 ジェシカは急かされるように部屋から飛び出した。

 今日はしばらく過ごした公爵家を発ち、王都四区の事務所に戻る日だった。



 アウスタット伯爵家での事件から約一ヵ月。ジェシカは公爵家で療養生活を送りながら、事件の顛末を聞く日々を過ごしていた。

 

 まずドーナ。彼女は重傷を負いながらも一命を取り留めた。しかし意識は回復していないらしく、違法薬物「幻花香」の取引ルート解明にはまだ時間がかかりそうだ。

 

 騎士団に身柄を拘束されたミレーユは、薬物の離脱症状である幻覚が激しく会話が成り立たない日が増えているらしい。当面は厳重な管理のもとで療養と取り調べを受けることになったという。だが彼女の犯した罪は重く、いずれ厳しい判決が下されるはずだとラインハルトが話していた。


 そして——リズモンド伯爵家次男、ダニエルについてだ。彼は実家であるリズモンド伯爵家の違法取引に関与していなかったことが明らかとなり、昨日釈放されていた。アウスタット伯爵家の事件に関しても、彼が何かを問われることはなかったようだ。


「そういえばダニエルさんはどうでした? 昨日の釈放にはガーヴィスさんも立ち会ったんですよね?」


 廊下を大股で歩くガーヴィスを小走りで追いかけながら、ジェシカは尋ねた。


「元気そうだった。あと『自分は実家にとって濡れ衣を着せる相手とも思われていないようだ』と言っていたが、俺はきっと違うと思う」

「と言うと?」

「……いや、やめよう。忘れてくれ」

「えぇー困りますよ」


 とは言ってみたものの、ジェシカにもダニエルが巻き込まれずに済んだ理由は何となくわかる気がした。きっとラインハルトがダニエルの事情やオリヴィアへの想いを組んで、何かしら動いたのだろう。


 もっともリズモンド伯爵家そのものは、もう誰にもどうすることもできない所まで落ちていた。

 莫大な借金を抱え、事業を立て直そうと裏社会に手を出してしまったことが、結果として取り返しのつかない破滅への一歩だったのだ。リズモンド伯爵家当主と長男の罪は重く、爵位剥奪と家名の取り潰しは確定的だった。

 関連業者たちも一斉に摘発される大事件となり、「幻花香」の危険性が広く知られるようになったのは不幸中の幸いといえるだろう。


「母君の実家を頼りに地方へ向かうそうだ。平民として出直すことになるし、背負った傷は消えないだろうがな……」


 ガーヴィスの言葉にジェシカはうまく返事ができなかった。

 愛する人も、帰る場所も、すべてを失ってしまったダニエル。けれど彼がいつかその痛みを抱えながらも前を向ける日が来ることを、ジェシカはそっと祈った。



 その後、ガーヴィスと馬車に乗り込んだジェシカは、ふと車窓から外を眺めた。青く澄んだ空は、今ここにいない彼の瞳の色によく似ていた。


(閣下はちゃんと渡せたかしらね……)


 アウスタット伯爵家に向かったラインハルトに思いを馳せつつ、ジェシカは動きだした馬車の揺れに身を任せたのだった。


 §


 アウスタット伯爵家の廊下は、いつもと変わらず静かだった。けれど甘い花の香りはもう残っていない。庭に咲き誇っていた花々も伯爵の命で刈り取らせたと、新たに雇われた使用人が教えてくれた。


 階段を上り、ベルウィッタの部屋にたどり着いたラインハルトは使用人を下がらせた。

 静かに深呼吸をしたのち、ラインハルトはノックすべく手を持ち上げた。しかし扉の直前でぴたりと動きを止めてしまう。


 事件の後、ベルウィッタは騎士団の聴取を通じてドーナの所業を知らされていた。さらには信用していた家庭教師が娘に手をかけた事実に、相当参っているようだと聞いている。

 そうと知っていたのに、ラインハルトはアウスタット伯爵家での騒動以来、ベルウィッタには会えずにいた。自分の知らない姉の姿を知り、情けないことにどんな顔をして会えばいいのかわからなくなっていたのだ。


 幼い頃の記憶がふと浮かぶ。

 両親の葬儀を終え、大きな屋敷に一人残されたラインハルトをそっと包んでくれた温かい手。

 「大丈夫、姉さまたちがいるわよ」と言ってくれた優しい声。

 あの温もりも、あの優しさも、全部幻だったのだろうか。

 愛した娘の頬を張り、「公爵家の血筋」に拘っていたという姉の姿をラインハルトはどうしても信じることができずにいた。


「入らないのか?」

「——っ!」


 背後からふいに声をかけられ、ラインハルトは弾かれたように振り返った。

 そこに立っていたのはアウスタット伯爵ルーカスだった。穏やかな雰囲気は普段と変わりないが、額に張り付いた髪ややつれた頬に疲れがにじみ出ている。


「義兄上……王城での聴取が続いていると聞いていましたが」

「ああ、ちょうど終わって帰ってきたところだ。同じことを何度も聞かれるのは疲れるものだね」


 そう言ってルーカスは疲れた顔で力なく笑った。

 ルーカスが領地から王都に戻ってきたのはドーナとミレーユが収監された三日後だった。オリヴィアの死そのものを追及されることはなかったものの、幻花香が絡んだ事件ということで、ドーナとミレーユ、そしてダニエルについて何度も王城に呼び出され、詳しく事情聴取が行われていた。


「……ベルには会いづらいかな?」

「……少し」

「大丈夫、私もだ」


 昔からルーカスの前では何となく本音が漏れがちだった。そんなラインハルトに苦笑いを向け、ルーカスは扉の前に立った。ノックの音が静かな廊下に響いた。


「私だ。入ってもいいかな」

「……はい」


 部屋の中からかすかな返事が聞こえた。

 扉を開けると部屋の中は薄暗かった。半分だけカーテンの引かれた窓が、かろうじて外の光を取り込んでいた。

 

 ベルウィッタはベッドの上に体を起こしていた。記憶の中の彼女はいつも凛として、令嬢の手本のような女性だった。しかし今、無造作に結わえられた髪は肩に流れ、化粧っけのない顔は実際の年齢よりもはるかに年上に見えた。


「あなた……それにラインハルトまで」

「ちょうどそこで会ってね。ベル、具合はどうだい?」

「……ええ、おかげさまで」


 ルーカスの問いかけにベルウィッタは静かに答えた。そしてなぜラインハルトが訪ねてきたのか、察せないほど彼女は鈍くなかった。

 ベッド横の椅子を差し、二人に座るよう促した。


「二人ともどうぞおかけになって。ラインハルトは私に何か話があるのでしょう?」

「察しが良いね。さすが姉上だ」

「ふふ……そうかしら」

 

 ラインハルトの言葉にベルウィッタは口元だけ笑って見せた。しかしきつく組まれた手元は、これからされるであろう話への緊張が現れているようだった。


「オリヴィアとダニエルの話がしたかったんだ」


 そう切り出すと細い肩がびくっと揺れた。横に座るルーカスもまた、ピリッと緊張を纏う気配がした。ラインハルトもまた、自分の唇がカラカラに乾いていることに気づいた。


 あの日——オリヴィアの死以降、二人としっかり話すことはなかった。あれほど温かさを感じていた二人から、今は張りつめた緊張感しか感じない。変わってしまった虚しさを胸に押し込め、ラインハルトは唇を開いた。


「まずミレーユなのだけど、彼女は重罰は免れないらしい。ドーナもいずれ同じ道を辿るでしょう」

「そう……」

「あとダニエルは母方の実家を頼って、この地を離れると聞いています」

「そうなの……」


 それを聞いたベルウィッタはしばらく黙り込んだ。やがてぽつりと呟く。


「私は何を見ていたのかしら」


 誰に向けるでもない言葉がベルウィッタの手元に落ちる。


「私はオリヴィアと誰よりも長く一緒にいたのよ。それこそお腹にいた頃からあの子を愛していたからこそ、全部あの子のためだと思っていたの。公爵家の血を引く者として恥ずかしくない立ち居振る舞いを、恥ずかしくない教養を……そして恥ずかしくない幸せな結婚相手を——そう思っていたのに。全部間違っていたわ……」


 ベルウィッタは悔しそうに唇を噛んだ。握りしめていた手が小さく震えている。そんな彼女を見つめながらルーカスが声を絞り出した。


「ベル……君だけのせいじゃない。私も同じだ……私は君に——」


 そう言いかけ、ルーカスは口を閉ざしてしまった。再び沈黙が落ちる。しかし彼が何を言いかけたのか、ラインハルトには予想がついていた。


(ジェシカ、君はすごいよ。僕は真実と向き合うのは怖いな……)


 そう思うと途端に胸の中の紙袋がずんと重さを増した気がした。このままルーカスのように口を閉ざせば、ベルウィッタの悲しみはこれ以上深まらないかもしれない。けれどそれはオリヴィアの存在を——彼女が守ろうとしたものを、もう一度なかったことにすることだ。


 ラインハルトは手の汗をぬぐい、懐からゆっくりと紙袋を取り出した。


「……実は、ダニエルから預かってきたものがあるんだ。オリヴィアと共に眠らせてほしいと」

「オリヴィアと?」


 ラインハルトは怪訝そうなベルウィッタの手に小さな紙袋を乗せた。ベルウィッタはおそるおそる袋を開き、中にあるものを取り出す。

 そこに入っていたのは白い毛糸だった。かぎ針と、そして毛糸につながったまま編みかけの小さな筒。

 はじめベルウィッタは怪訝な顔で見つめていたが、みるみる驚愕に目が見開かれていった。


「こ、これ……まさかあの子……」


 それが何のために編まれていたものなのか、母であるベルウィッタはすぐにわかったようだ。


「これはオリヴィアの部屋に隠されていたそうです。誰の目にも届かない所でひっそりと編んでいたのでしょう」

「そんな……じゃあ体調を崩していたというのは、全部——」


 ベルウィッタの瞳が見開かれたまま、ゆっくりとルーカスを映す。


「あなた……あなたは知っていたの?」

「ベル、落ち着いて聞いてほしい——」

「あなたはこのことを知っていて、私に隠していたの!? あの子は妊娠していたのね!?」


 もはや絶叫だった。ベルウィッタは飛び起きるとルーカスにつかみかかった。


「どうして! あの子はどうしてこんな恥ずかしい真似を……! あの男ね! ダニエルがたぶらかしたのね!」

「……聞いてくれ、ベルウィッタ」


 しかしルーカスは幼い子に言い聞かせるように、ゆっくりと静かに語り始めた。


「二人は真剣だったよ。私に打ち明けてくれたのはダニエルだ。叱りもしたが、最後には認めた。二人に必ず幸せになれと伝えて——」

「幸せになんかなれるわけないでしょう! こんなの公爵家の恥——」

「姉上、それは違う」


 ラインハルトの声に二人の視線が同時にこちらを向いた。


「オリヴィアは恥じゃない」


 以前、自分がダニエルにぶつけた言葉が棘のように胸の奥に刺さり、ズキズキと痛んでいる。彼らのしたことは貴族としては間違っている。だからこそオリヴィアはラインハルトに相談しなかった……できなかったのだ。


「どうしてあの子に伝えなかったんだろう。オリヴィアは、僕のかわいい姪だった……大事な家族だったんだ」


 絞り出した声は自分の物とは思えないほど掠れていた。


「……ベル、すまない。私がもっと早く君と話し合うべきだった。公爵家の血筋である以前に、オリヴィアは私たちの娘なんだよ」

「そんな——」


 続くルーカスの言葉に、ベルウィッタは何か言い返そうとした。しかし、すぐにハッと手にしたままの毛糸に視線を落とした。


「そうよ私は……あの子の母親だったのに。あの子だって、こんなに……小さかったのに——」


 震える声は途中で途切れた。肩が揺れ、小さく背中が丸まっていく。


「オリヴィア……オリヴィア……っぅぁぁあっ!」

「私がいる。ベル、済まなかった。二人で一緒に抱えていこう」


 どちらともない嗚咽が部屋に満ちていく。

 ラインハルトは何も言わず、寄り添う二人から離れ、窓辺へ向かった。もうここからはラインハルトが足を踏み入れる領域ではない。


 半分引かれたカーテンをそっと開けると、窓から植木の刈り取られた庭が見えた。揺れる木々が見下ろす空っぽの花壇は寂しくも、新たな種が蒔かれる日をじっと待っているかのようだった。

 空は青く、雲一つない。


(ジェシカたちはもう向かっているかな……)


 ラインハルトはあのにぎやかな栗毛が無性に恋しくなった。

お読みいただきありがとうございます。

次話は本日29日12時投稿予定です。

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