第十六話 淑女の仮面
※本日二話投稿しています。ご注意ください。
初めて彼女に会った時、ダニエルはその瞳の奥に宿した影が気になっていた。
オリヴィア・アウスタット伯爵令嬢。公爵家出身の母と、周囲からの信頼厚い父の間に一人娘として生まれ、何不自由なく大切に育てられた美しい少女。
一方、ダニエルは公にされていないが野心家の父が妾に産ませた子だ。正妻に引き取られこそしたものの、その扱いは推して知るべしである。名のある貴族に婿入りさせ、父が社交界での影響力を広げる材料にするためだけの存在だった。
ダニエルが十六歳になった年、まだ十四歳のオリヴィアとの婚約が決まった。公爵家の血筋とアウスタット伯爵が築いてきた地位。ダニエルの父リズモンド伯爵が何としても手に入れたかった縁だった。
ダニエルははじめ、冷めた思いで婚約者を見ていた。彼女の母アウスタット伯爵夫人は気位が高いと評判で、その娘であるオリヴィアもまた、似た人物なのだろうと思っていたからだ。
『私、お相手がダニエル様で本当に良かったと思っているのよ。だってダニエル様は私をただの子どもと思っているでしょう?』
『そ、そんなことないよ。オリヴィアは立派な淑女じゃないか』
『……違うの。ダニエル様にはそう思っていてほしいの』
『?』
時折、オリヴィアは要領を得ない会話をすることがあった。そんな時、彼女の瞳の奥には初めて会った時のような暗い影が差しているのだった。
いつも明るい彼女がなぜ……。
その理由に気づいたのは、婚約から半年ほど経った頃だ。
それはダニエルがアウスタット伯爵家を訪れた時のことだった。
いつもなら応接室に向かうはずが、なぜか焦った様子のドーナによって庭のガゼボに通されたのだ。オリヴィアは花粉のせいでくしゃみが止まらなくなるからと、外は避けていたはずなのに……。
そんな気分の日もあるだろうと、その時は特段不思議に思わなかった。開いた窓から夫人の怒鳴り声が聞こえてくるまでは——
『言ったはずよ、オリヴィア。公爵家の血を引くあなたがカップを鳴らすような粗相をするなんて許されないと!』
『も、申し訳ございません……お許しください、お母様』
『いいえ、許せないわ。私の娘でありながらシューゼノクト公爵家の名に恥じる行動をとるなんて! だからあんな成金伯爵家の男と結婚する羽目になるのですよ!』
『ダニエル様のことを悪く言うのは止めて!』
『お黙りなさい!』
次の瞬間、乾いた破裂音が響いた。続いてすすり上げるようなオリヴィアの声が聞こえてくる。ダニエルは居ても立っても居られず、立ち上がった。しかし……
『——ダニエル様! お嬢様のためにも、どうか聞かなかったことにしてくださいませ!』
『ドーナ……!』
ドーナが追いすがるように引き止める。なぜだ、ダニエルは戸惑いながらも足を止めた。すると今度はアウスタット伯爵の声が聞こえてきた。
『ベルウィッタ、もう止めないか。オリヴィアはよく励んでいる。それにここはアウスタット伯爵家だ、シューゼノクト公爵家とは違う』
『あなたには関係ないことです。まあ所詮は伯爵家ですものね……公爵家の血統と品位を保つ苦労など、お分かりにならないでしょうけど』
何ということだ。ダニエルは血がにじむほど拳を強く握りしめていた。
『まさかこんな思いで過ごしていたなんて……』
そこでようやくダニエルは気づいた。彼女の求めていたものは、ただ純粋に彼女を一人の人間として見てくれる存在だったことに。
その後、ダニエルの前に現れたオリヴィアはいつもと同じ笑顔を浮かべていた。赤くにじんだ目元を隠し、完璧な淑女として——
§
ダニエルの告白を聞いたラインハルトは声を失った。
「そんな……信じられない。姉上が——」
あんなに優しく自分を気遣ってくれた姉が周囲を見下しながら生きていたなんて……。
そして孤独だった自分を温かく迎えてくれた家族が、まさかそれほど歪んだ均衡の上に成り立っていたとは想像もできない。
ダニエルは困惑するラインハルトを鼻で笑うように続けた。
「信じるも信じないも勝手にどうぞ。けど俺はそんなオリヴィアを放っておけなかった。少しでも自由に、ただのオリヴィアとして生きてほしかっただけなんだ」
交渉の材料として育てられたダニエル。そして血統に縛られて育ったオリヴィア。完璧な淑女の仮面の下に孤独を隠した彼女を、ダニエルはただの『オリヴィア』として愛した。境遇は違えど孤独を抱える二人が密かに愛を深め、一線を越えるまでに時間はかからなかった。
母親たちの目を盗んで重ねる逢瀬は、二人にとっては唯一の救いでもあった。
「けれど半年ほど前から、俺の周りに良からぬ噂が立ち始めた」
「なるほど、それが女性関係の噂か」
難しい顔でガーヴィスが口を開く。ダニエルは静かに頷いた。
「おかしな話だ。俺はほとんどの時間をオリヴィアと過ごしていたのに。少し調べればすぐに嘘だとわかる……それなのに、それなのに夫人は——!」
ダニエルはそこまで語ると悔しそうに唇を噛みしめ、拳を床に打ち付けた。
「夫人は俺たちの婚約を解消すると言い出したんだ! 『公爵家の名に傷をつけるから』の一点張りで、全然話を聞いてくれなかった。あの日も……オリヴィアが身を投げた日も『書類にサインをさせたいからオリヴィアを部屋から連れだすように』と命じられて……」
ぽたり、と床に水滴が落ちる。
ダニエルの目から次から次へと涙が落ち、床に染みを作っていく。それはまるで言葉にならない悔しさが零れ落ちているようだった。
「伯爵はこのまま結婚させるべきだと夫人を必死に説得してくれたんだ……。今思えば、伯爵は俺たちの関係が進んでいたことに気づいていたのかもしれない。そんな時に彼女の妊娠がわかって、そこからは話したとおりです……」
そこまで話すとダニエルは大きく息を吐き、肩を落とした。
「伯爵は妊娠の痕跡が夫人に見つかってはならないとオリヴィアを急いで埋葬してくれたんだ。事件になれば調べられてしまう、それは彼女も望んでいないだろうからと言って……」
ダニエルは握りしめていた紙袋を思い出したかのように取り出した。
「オリヴィアは恐ろしかったんだろう。完璧な淑女であることが求められるあの屋敷で、秘密を抱えながら生きるのは。でも、命を絶つほど追い詰められていたなんて気づけなかった!」
くしゃくしゃになった紙袋を手に、ダニエルは床に額を打ち付けた。
「幸せにしてやれなかった! 俺のせいで、オリヴィアも子どもも——」
獣のように叫ぶダニエルを前に、ラインハルトは自分の手が汗でびっしょり濡れていることに気づいた。
ここまでの話は全てダニエルの虚言の可能性だってある。けれどもう彼を疑う気持ちは湧いてこなかった。
(僕は何を見ていたのだろう……)
そこにある優しさと温かさを何も疑わずに与えられるまま受け取っていた。気づけなかったのではない。気づこうとしなかったのだ。
自分の無知さが、無神経さがたまらなく恐ろしく、悔しかった。あまりの不甲斐なさに一瞬、思考を止めて立ちすくみそうになる。
(こんな僕を見たらジェシカはなんて言うかな)
ラインハルトが思い出したのはあの歯に衣着せぬ探偵の少女だった。あの夜、彼女に言われた言葉がよみがえる。
——なんだか弱気ですね。まだ依頼は解決していないんですよ。
(そうだ依頼は、オリヴィアの死の真相はまだ解決していない)
依頼といえば……とラインハルトは思い出す。数日前、目覚めたジェシカからされた頼み事。
——王都の古物商を当たってほしいのです。ここ最近、若い女性の好みそうなものがまとめて持ち込まれた店があるかどうかを知りたいので。
今、ジェシカはアウスタット伯爵邸に向かっている。
その目的は家庭教師のミレーユだ。彼女から香っていた甘い香り。それは王都に蔓延している薬物と同じものだった。ジェシカは彼女がオリヴィアの私物を勝手に売り、薬物購入費用に充てていたと睨んでいた。そしてオリヴィアの死にも関わっているかもしれない、と——
その証言を得るためにメイド長のドーナを訪ね、アウスタット伯爵家に向かっていた。
……だが、本当にそうだろうか。
「待て……」
ラインハルトの声が室内に静かに落ちた。ガーヴィスとダニエルの視線がラインハルトに吸い寄せられる。
あの日……ジェシカに初めて会った日、ラインハルトが彼女を試す意味で問いかけた懐中時計のありか。結局犯人は鳥だったが、その時彼女は何と言った?
(彼女は、一番疑われるのは部屋で控えていたガーヴィスだと言った。けれど僕らはその可能性を考えることはなかった。なぜ……?)
それは長年培ってきたガーヴィスへの無意識の信頼があったからだ。
(ミレーユ先生を疑ったのは僕たちが彼女を信頼せず、警戒しているからこそだ。だが完全に『信頼されている』存在ならどうだ?)
ラインハルトの背筋に冷たい汗が流れた。
ジェシカが気づくほど物の減った部屋に他の誰も気づかなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。あの家でオリヴィアの部屋への立ち入りを許され、あの部屋を管理していたのは——
「ダニエル……オリヴィアの妊娠を知っているのは他に誰がいる?」
「え……」
突然の問いかけにダニエルは驚いたように瞬いた。
「私は伯爵にしか話していません。けれどオリヴィアはミレーユ先生とドーナには気づかれてしまったと……」
その言葉を聞いた瞬間、すべての違和感がつながる。
信頼の陰に潜む罠になぜ気づけなかったのだろう。
「まずい……! ジェシカが危ない!」
「——ラインハルト様!?」
ガーヴィスが止める間もなく、ラインハルトは部屋を飛び出していた。
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