第十三話 闇の調香店
ガッ――!
重い衝撃と共に、世界がぐわんと回った。
「……ッ!」
ドッと自分の体が床に倒れ込む音と同時に、体中に鋭い痛みが走る。衝撃を受けた後頭部と、床に打ちつけられた体がズキズキと痛み、動けない。
(何、今の……私いったい――)
手を伸ばそうにも重い泥がまとわりついたようで動けない。しかし冷たい床のおかげで意識は徐々にはっきりしてくる。
(そうか、私襲われたんだわ……。この店、何が――)
その時、頭の上の床がぎし、と軋んだ。
「なんだお前? 客じゃなさそうだな」
低くしゃがれた声に寒気が走る。そうしていると足下からもう一人の声が聞こえた。
「だからいっただろ、あの女がつけられてたんだよ。あーあ、王城務めの高給取りだからって生かしておいたのが間違いだったな。今さら消しても遅かったか」
若い男の声だ。
“消す”――その言葉の意味するところをジェシカはすぐに理解した。
(この人たち、まさか彼女を……)
ジェシカの脳裏にずぶ濡れのメイドの姿が蘇る。彼女はもうこの世にいないかもしれない――そう思った瞬間、全身が冷たくなった。
今すぐこの場を逃げ出さなければ、メイドと同じ目に遭ってしまう。ジェシカの頭は危険を告げるが、体がまるで自分のものではなくなったように動かない。必死に手を動かそうとしているとぶちぶちっと髪が引きちぎれる感覚と共に、頭が強引に引き上げられた。
「――うっ……!」
頭皮に焼けるような痛みが走る。視界が揺れる中、しゃがれた男の声がねばつくような薄ら笑いと共に鼓膜に響く。
「お、こいつなかなか悪くないぜ。売っちまうか?」
その言葉に吐き気を催すほどの猛烈な嫌悪感がジェシカを襲った。顔を近づけた男の甘ったるい息には腐った肉のような悪臭が混ざり、思わず顔を背けたくなるほどだった。
「……汚い、手で……触んないで」
「ひひひっ、こいつは気が強いこった」
辛うじて絞り出した声に、男は愉快そうに笑った。そしてもう一人の男に声をかける。
「あんた、気の強い女が好きだったろ? どうだ、連れて行くか?」
「……へえ、どうしようかな」
そう言いながら若い男が強引に顎を持ち上げ、顔を覗き込んできた。定まらない視界に暗い室内。顔をしっかり見ることができないことを悔しく思いながらも、ジェシカは必死に男を睨みつけた。
「――くっ!」
「……ふふ、確かにいいね」
顎を掴む男の指にギリっと力がこもる。
暗がりの中でも伝わる氷のような視線。それはジェシカが初めて出会う種類の悪意だった。
「お嬢さん、名前は? どうしてここに来たんだい? 薬が欲しいわけじゃなさそうだし」
「薬? ……あんたたち……どうしてあの人を殺したの?」
絞り出したジェシカの問いに、男の目が鈍く光る。
「どうして、って……俺たちの邪魔にしかならないからに決まってるじゃないか」
それはまるであざ笑うかのような答えだった。きっとこの男たちは人の命を何とも思っていない。今、この瞬間にもジェシカの直感は「早く逃げろ」と告げて来る。ここで捕まれば、ラインハルトの依頼も途中で投げ出すことになる。それどころかもう二度と生きてあの事務所に帰れないかもしれない。
(私、探偵としてあそこで父さんを待つって決めたのに――)
こみ上げる悔しさに鼻の奥が痛む。
きつく奥歯を噛んだ、その時だった。
「――っ!」
パッとジェシカの顎を押さえていた手が離れた。と、同時に――
「そいつから手を離せ!」
「な……っ!?」
鋭い怒声が空気を切り裂いた。ガーヴィスの声だ。
次の瞬間、ジェシカの髪を掴んでいた男の手が急に離れる。いや、離れたのではない。吹き飛んだような勢いだった。
「――ぐあッ!」
鈍い音と共に潰れた蛙のような声をあげて男の体が飛んでいく。ガーヴィスの拳が、迷いなく男の頬を打ち抜いたのだ。重い衝撃に耐えきれず、男は横倒しに転がっていった。
(助かった……)
ガーヴィスが馬車の中にジェシカの姿が無い事に気が付き探しに来てくれたのだ。ジェシカの髪を掴んでいたしゃがれ声の男は気を失ってしまったのか、動く気配もなかった。
ほっとしたのも束の間、暗がりの奥から若い男の声が聞こえて来た。
「あーあ、時間切れか。じゃあね、お嬢さん。またどこかで」
軽やかに言い放つ声が遠ざかっていく。その声は仲間を見捨てるのが当然かのような気軽さがあった。それにまるで自分は逃げ切れると確信しているような余裕さえ感じられる。
その時、店の裏手からドカドカといくつもの足音が聞こえて来た。その声の中には「死んでいます」と焦ったように報告する声も混ざっている。
やはりあのメイドは男たちの手によって命を絶たれていたのだろう。彼女にどんな事情があったのかはわからない。けれどどんな命であっても簡単に奪われて良いはずがない。
(こんなこと、絶対に……。あの男、今追いかければまだ間に合うはずなのに――)
しかし体が動かない。さらにはガーヴィスの到着で緊張が解けたせいもあるのか、意識が薄れ始めた時だ。
「――ジェシカ!」
轟くような声が闇を切り裂いた。その声にジェシカの意識が引き戻される。
(この声は……)
「ラインハルト様!」
ガーヴィスの声が響く。
次の瞬間、部屋の奥から荒々しい複数の足音と同時に駆け込んできたのはラインハルトだった。
「ジェシカ! ガーヴィスまで、どうしてこんなところに……?!」
そこでようやく部屋に明かりが灯された。
薄目を開けて見るといつも冷静な彼が、今は肩で息をして焦った様子を見せている。ラインハルトは迷わずジェシカのもとへしゃがみ込み、そっと額に手を触れた。冷たい手はわずかに震えている。
「……僕がわかる?」
額に触れた手と同じように震えた声。
にじんだ視界の向こうには眉を下げ、心配そうにのぞき込むラインハルトの姿があった。口を動かそうとしたものの、唇からは息が漏れるだけ。しかしそれでもラインハルトは返答と受け取ったらしい。
「良かった……」
ラインハルトは安堵の声を漏らした。しかしその声はまだわずかに震えている。
次の瞬間、ジェシカは浮遊感に襲われた。気づけばラインハルトがジェシカを抱き上げていたのだ。
「うちに運ぼう」
ラインハルトの腕は見た目よりも力強くジェシカの体を抱えている。雨で濡れた体を包む温もりも、近くに聞こえる息遣いも確かに現実だ。そう自覚すると突然強い睡魔が襲って来た。
しかし意識が朦朧とすればするほど、これまで手に入れた情報が鮮明な輪郭を持って浮かび上がってくる。
(普段は閉まっているのに、その時だけは開けられていたベッド横の窓。不自然に物の少ない部屋。私を襲った男が口にした“薬”という言葉。そして命を絶たれたメイドと同じ香りをまとわせたミレーユ先生……)
オリヴィアはきっと生きていたかった。
だってオリヴィアは——
もう少しですべてが一本の線で繋がるはず。けれどどうしても頭が動かない。
(もう、限界ね……目が覚めたら、必ず解き明かしてみせる)
心地よい揺れに身を任せ、ジェシカの意識は深い闇の中に沈んで行った。
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次話は明日25日朝7時更新予定です。




