第十一話 柔らかな隠し事
階下から怒鳴り声と共に激しい足音が近づいてくる。息を潜めたジェシカの心臓は激しく音を立て、外に聞こえてしまわないか心配になるほどだった。
(やっちゃった……。ガーヴィスさんごめんなさい!)
くしゃみの波をやり過ごしたと思い、すっかり油断していたのだ。不意に鼻先を撫でて行った風に抗うことすらできず、ジェシカの口から大きなくしゃみが飛び出した。
きっとガーヴィスは怒っているだろう。せっかくミレーユを引き留めていたのに、ジェシカのせいで台無しになってしまったのだから。
その時、激しい音を立ててオリヴィアの部屋の扉が開いた。同時にミレーユの怒鳴り声が部屋中に響く。
「出て来なさい! いったいどこに隠れているの!」
荒々しい足音を立てながらミレーユは部屋中を歩き回り、クローゼットの扉を勢いよく開けた。しかしそこには空洞が広がるばかり。
「くっ……平民ごときが馬鹿にして……!」
ミレーユの荒々しい息遣いが、静まり返った部屋に響く。
焦燥に突き動かされるように次々物を動かしていくミレーユは、乱れた髪を気にも留めず部屋を見回した。
そしてわずかにずれたベッドカバーに目を留めた。鋭い視線が突き刺さる。
「――ここね!」
怒りに満ちた声とともに、ミレーユは勢いよくベッドに詰め寄った。次の瞬間、ベッドカバーごと掛布を乱暴に引き剥がす。
しかし――現れたのは、しわひとつない真っさらなシーツだけだった。
「いない?」
ミレーユが困惑したような声を漏らす。
(お願い、諦めて早く戻って……)
こんな時間がいつまでも続いたら心臓が持たない。ジェシカは必死に願ったものの、ミレーユにその思いは届かなかった。
「なら、こっちは!」
その声に鼓動が跳ね上がる。
ミレーユは床に這いつくばり、ベッド下を覗き込んだ。暗がりに必死に目を凝らしているが、そこにジェシカの姿はなかった。
「あの探偵、いったいどこに……!」
体を起こしたミレーユの顔には怒りがありありと浮かんでいた。なぜそこまでオリヴィアの部屋を見られたくなかったのか。ジェシカにはその理由がわからない。
そこにガーヴィスが焦った様子でやって来た。
「ミレーユ殿、私は誰も連れて来ておりません!」
「嘘おっしゃい! ならあのくしゃみの声はいったい誰だったの――」
そこで突然ミレーユの動きがぴたりと止まった。顔がみるみる青ざめていく。
「……まさか、お嬢様が……? そうだわ、きっとお嬢様の亡霊だわ――」
ミレーユは自分の肩を抱き、ガタガタと震え始めた。
その間もミレーユの視線はベッド横の窓に釘付けになっている。
「もう、全部なくなったのに……! どうして、あなたはもうこの世にはいないのよ!」
「ミ、ミレーユ殿?」
ミレーユは亡霊の幻にすっかり囚われているようだった。青い顔で目を見開いたまま、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
ガーヴィスは誰もいない空間に話しかけ始めたミレーユに戸惑うしかないようだ。呼びかけにも答えないミレーユを見て、視線を忙しく彷徨わせている。異様な光景にジェシカが姿を現そうかと悩んだ時だった。
「――ガーヴィス様、ミレーユ先生、どうなさいましたか?」
そこに現れたのはドーナだった。急いだ足音と共にやって来たドーナは、虚空に話しかけるミレーユの姿を見るとわずかに驚いたような顔を見せた。だがすぐに側に座り込むと、優しく彼女の肩をさすり始める。
「驚かせてしまいましたね。実はミレーユ先生もお嬢様の件以来、このように調子を崩すことがありまして……」
「そ、そうか……」
「ガーヴィス様、私はこのまま先生をお部屋にお連れいたしますね。お見送りができず申し訳ございません」
「ああ……こちらこそ大変な時にすまなかった」
そう言ってドーナはミレーユの体を支えるように部屋を去っていった。
ドーナの言葉は暗に「もう帰ってほしい」と告げていた。二人の背中を見送るガーヴィスの背後に立つと、ジェシカはそっと声をかけた。
「ミレーユ先生、いったいどうしたんでしょうね」
「――っ、お前……っ、一体どこに」
弾かれたように振り返ったガーヴィスは、驚きつつもジェシカの顔を見てわずかにホッとした顔を見せた。
「普通にテラスの隅に隠れていましたよ」
そう言ってジェシカはテラスを指した。大きな窓から見えるテラスには隠れる場所などないように見える。しかしそこが盲点なのだ。
「初めはベッド下に逃げ込んだんですけど、それじゃあ見つけてくださいと言っているようなものだと思いまして……」
隠れられる場所があるのなら、人はまずそこを一番に探すだろう。つまり狭い所や暗い所、視界から隠されている場所だ。
「視界の開けたテラスなんて、隠れようと思わないじゃないですか。うまく視界から外れれば、見つかるまで時間がかかるはずですから」
窓際の壁にぴったりとくっつくように立っていたジェシカは、「まさか明るい場所に隠れるわけがない」という思い込みと、ミレーユの混乱に助けられた結果となった。
「それよりもくしゃみが続かなくて良かったです。せっかく引き付けてくれていたのに、すみませんでした……」
頭を下げるジェシカにガーヴィスはやれやれと言ったように大きなため息をついた。
「まったく、こんな思いをするならお前の提案に乗らなきゃよかった。心臓がいくつあっても足りない」
「ほんっとうにごめんなさい! あ……でもこんなものを見つけましたよ」
ジェシカはそう言ってごそごそと小さな紙袋を取り出した。
「ベッド下にこれが落ちていたんです」
慎重に中身を取り出すと、出てきたのはかぎ針、そして編みかけの白い毛糸だった。小さな筒状のものが、まだ毛糸玉に繋がった状態で残されている。
「編み物?」
「靴下だな」
「え?」
手の中を覗き込むなり呟いたガーヴィスに、ジェシカは思わず驚きの目を向ける。
「よくわかりましたね」
「義姉上が出産前に何足も編んでいたからな。実家に帰る度に増えていたから良く覚えている」
「じゃあこれ……赤ちゃん用、ってことですか?」
ジェシカの言葉にガーヴィスがハッとした顔をした。揺れる瞳と視線がぶつかる。
「……もし、これがオリヴィアさんの物だったら」
「おい……それって。じゃあ体調不良だったというのは……」
さすがにガーヴィスも察したようだ。無言のまま視線が交錯する。もしこの予想が合っているとしたら、状況はもっと複雑かもしれない……。
(さぁ、どうしたものかしらね……)
ジェシカはガーヴィスと顔を見合わせたまま、しばらく動くことができなかった。
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