第九キュン 水瀬のいない星見風寮
五月の大型連休初日の朝、俺は玄関先で水瀬を見送っていた。
「水瀬先輩は、今日から合宿ですか?」
すずが尋ねると、水瀬は玄関でスニーカーを履きながら答えた。
「うん。部活の合宿があるから、数日だけ寮空けるね」
「合宿って、テニス部の?」
「そう。連休中ずっとってわけじゃないけど」
水瀬はリュックを背負い直しながら、少し名残惜しそうにリビングを振り返った。
「みんな、私がいない間もちゃんとやっていけそう?」
「なんだよそれ、俺が心配されてるみたいじゃないか」
「実際心配だし」
軽口を叩き合ってから、水瀬は秋月先生の車で駅まで送ってもらうことになった。
☆
「小松さんは、実家帰らないんですか?」
「あ……私は、今回はいいです」
俺が尋ねると、すずは小さく首を振った。理由を深く聞くのは違う気がして、それ以上触れなかった。
「有馬先輩は?」
奏はのんびりとキャンバスを取り出しながら答えた。
「今、コンクール用の作品制作中でね。締め切りが連休明けだから、帰るタイミングじゃないの」
「白峯は」
「私は、この連休を使って、これまでのデータをまとめる時間に充てるつもりよ。人が少ない方が、集中して作業できるわ」
「理由がそれぞれ違いすぎて逆に面白いな」
俺がそう言うと、奏がくすくす笑った。
☆
連休初日、寮は普段よりずっと静かだった。
いつもなら誰かの声が飛び交っているリビングも、今日は物音がまばらにしか響かない。
「なんか、変な感じですね」
すずが、いつもより静かなリビングを見回しながら呟いた。
「人数少ないと、こんなに変わるもんなんだな」
「私は、静かな方が好きですけど」
「すずちゃんらしい感想」
奏がスケッチブックを片手に、リビングの隅に腰を下ろす。
☆
昼過ぎ、俺は昼食の準備をしながら、今日は何を作ろうかと考えていた。
「四人分だけだと、量、少なめでいいのか」
「私はいつも通りでいいよ」
「私も、あまり食べられないので、少なめで」
すずが控えめに答える。
「量産型カレーでも作るか」
鍋を火にかけながら、俺はふと、いつもより台所が広く感じることに気づいた。
水瀬がいると、必ずどこかで口を挟んでくる。それがないだけで、こんなに違うものかと思った。
☆
昼食を終えた後、理央がタブレット片手にリビングへやってきた。
「せっかくだから、今日は近所を少し歩いてみない?」
「珍しいな、白峯がそんな提案するの」
「研究のためよ。人数が少ない環境での感情反応データを取りたいの」
「結局データかよ」
「他に理由が必要?」
理央はいつも通りの真顔で言い切ったが、その口調のどこかに、少しだけ弾んだ気配があった。
☆
午後、四人で近所の商店街を歩くことになった。
連休中の商店街は、いつもよりのんびりした空気に包まれている。
「あ、この和菓子屋さん、久しぶりに来ました」
すずが、通りかかった店先で足を止めた。
「気になるなら入ってみるか」
「あ……はい」
店に入ると、すずは楽しそうに団子の種類を見比べていた。
「亮太郎くん、これ食べてみて」
奏が試食用の団子を、俺の口元にひょいと差し出した。
「え、いや、自分で食べます」
「いいから、味見」
断る間もなく、団子が口の中に押し込まれる。
「……美味しいですけど、これ絶対必要なかったですよね、この渡し方」
「たまにはいいでしょ」
奏はいたずらっぽく笑っていた。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。一・四キュン』
「あ、鳴ったわね」
理央がすかさずタブレットを確認する。
「先輩、狙ってやってません?」
「狙ってないよ、ただの気まぐれ」
その言い方が、逆に怪しかった。
☆
商店街を歩いているうちに、すずが突然、小さな声を上げた。
「あ、あそこ」
視線の先には、『喫茶こもれび』と書かれた古い看板があった。
「あの店、気になるのか」
「昔、家族でこの街に来た時に、入ったことがあって……まだあったんですね」
すずの声には、懐かしさが滲んでいた。
「じゃあ、入ってみるか」
「え、でも」
「せっかくだし。今日はゆっくりできる日だろ」
少し迷った様子だったが、すずは小さく頷いた。
☆
喫茶こもれびの中は、昔ながらの雰囲気で統一されていた。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの木目をやわらかく照らしている。
「懐かしい感じ、しますね」
すずが店内をゆっくり見回しながら呟いた。
「そんなに前に来たの?」
俺が聞くと、すずは少し考えるように視線を上げた。
「小学生の頃だったと思います。家族でこの辺りに遊びに来て、その時に」
「じゃあ、この街に来たことはあったんだな」
「はい。だから、高校を選ぶ時も、少しだけ安心だったんです」
「安心?」
「まったく知らない街じゃなかったから」
すずは窓の外の商店街に目を向けた。
「実家からは遠いですけど、ここなら知ってる場所が少しあるって思えて。それで、この学校を選ぶ理由の一つにはなりました」
「なるほどな」
「でも、寮に入るのはやっぱり怖かったですけど」
すずは少しだけ笑った。
「すずちゃんの実家って、どんな感じなの?」
奏が興味深そうに尋ねると、すずは少し考えてから答えた。
「その……あんまり、賑やかな家じゃなくて。だから、この寮に来て、みんなでご飯食べたりするの、最初はすごく戸惑いました」
「今は?」
「今は……嬉しい、です」
小さな声だったが、はっきりとした言葉だった。
その一言に、理央がすかさずタブレットを覗き込んだ。
「今の発言、発電量、地味に高いわね」
「わ、私、変なこと言いましたか」
「変じゃないわ。むしろ、率直な感情表現として、興味深いデータよ」
「分析やめてください……」
すずが恥ずかしそうに俯く様子に、俺と奏は思わず笑ってしまった。
☆
喫茶店を出た頃には、夕方に差し掛かっていた。
商店街の明かりが、少しずつ灯り始めている。
「そういえば、水瀬先輩、今頃合宿でどうしてるかな」
すずがふと思い出したように呟いた。
「テニス部の合宿だから、今頃走らされてるんじゃないか」
「想像すると、ちょっと面白いですね」
「水瀬先輩がいないと、なんか寮、静かですよね」
すずの言葉に、俺は密かに同意していた。
☆
寮に戻ると、夕食の準備の時間になっていた。
「今日は、四人だけだから、いつもより早く終わりそうだな」
「私、洗い物手伝うわ」
理央が珍しく自分から申し出てきた。
「珍しいな、自分から手伝うなんて」
「効率的な作業分担を考えているだけよ」
「それ、手伝いたいってことでいいんだよな」
「否定はしないわ」
☆
夕食の席は、いつもより静かだったが、その静けさには不思議と居心地の良さがあった。
「明日はどうする?」
「私は、引き続き作品制作かな」
「私は、データ整理の続き」
「私も、その、部屋で本読んだりして過ごそうかと」
それぞれの予定を聞きながら、俺は少し考えて言った。
「じゃあ明日は、みんなで映画でも見るか。せっかくの連休だし」
「珍しく、あなたから提案するのね」
「たまにはいいだろ」
「賛成」
奏がすぐに手を挙げ、すずも小さく頷いた。
☆
翌日、リビングには即席の映画上映会の準備が整っていた。
「これ、何のジャンル見るの?」
「有馬先輩の趣味に合わせようかと思って、恋愛映画にしてみました」
「あら、亮太郎くんの選書、意外と乙女なんだね」
「選書じゃなくて映画選びです。あと、からかわないでください」
照れ隠しに言い返す俺を見て、すずがくすっと笑った。
☆
映画が進むにつれ、リビングの空気は次第に和んでいった。
クライマックスの告白シーンで、すずが思わず両手で口元を覆う。
「わ、私、こういうシーン、なんか、緊張しちゃいます」
「すずちゃん、感情移入しすぎ」
奏が笑いながら言うと、すずは慌てて首を振った。
「あ、す、すみません」
その様子を見ていた理央が、ふと真剣な表情でタブレットを確認した。
「今の反応、発電量、いつもより高めね」
「え、私、発電してたんですか?」
「フィクションの登場人物への感情移入でも、実際の反応が出るのは興味深いデータだわ」
「分析対象にしないでください……」
☆
映画が終わる頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「なんか、今日一日、すごく穏やかでしたね」
すずがぽつりと言った。
「水瀬がいないと、なんかバランスが違うけど、これはこれで、悪くないな」
俺がそう言うと、奏が少し意味深に笑った。
「亮太郎くん、ひよりちゃんのこと、結構気にかけてるよね」
「べつに、普通に気にかけてるだけです」
「その『普通に』が、ちょっと気になるところなんだけどな」
からかうような口調に、俺は思わず言葉に詰まった。
☆
その夜、俺は洗い物をしながら、この二日間のことを振り返っていた。
四人だけの寮は、いつもより静かで、いつもより落ち着いていた。
それでも、賑やかな寮の日常に、確かに慣れてしまっている自分に気づいた。
水瀬がいないこの二日間、リビングの空気にはどこか物足りなさがあった。
☆
連休三日目の夜、寮のグループチャットに、水瀬から一通のメッセージが届いた。
『合宿、思ったよりハードだった。明日帰るね。みんな元気?』
短い文面だったが、いつもの水瀬らしい調子が伝わってくる。
「元気だよって、返しとくか」
俺がそう呟くと、奏が横から画面を覗き込んできた。
「亮太郎くん、返信早いね」
「べつに、普通の速度です」
「へえ」
からかうような視線を向けられ、俺はそれ以上何も言えなかった。
☆
窓の外には、五月の柔らかな夜風が吹いていた。
寮の照明は、いつもより少し静かに灯っている。
ひより一人いないだけで、これほど寮の雰囲気が変わるのだと、俺は改めて実感していた。それと同時に、この寮の賑やかさが、いつの間にか自分にとって当たり前のものになっていることにも、気づかされていた。
「早く、戻ってこないかな」




