第八キュン 先輩の朝は、発電効率が悪すぎる
四月も終わりに近づいたある朝、俺はいつもより早くリビングに降りていた。
寮の朝は基本的に静かだ。すずは物音を立てないタイプだし、水瀬はぎりぎりまで寝ているタイプ、理央は決まった時間にきっちり起きてくる。
その中で唯一、予測不能なのが奏だった。
「先輩、まだ寝てるのか」
台所で朝食の準備をしながら時計を見ると、すでに登校時間まで一時間を切っている。奏の部屋のドアを軽くノックしてみたが、返事はなかった。
「有馬先輩、起きてますか?」
もう一度、少し強めにノックする。それでも反応はない。
仕方なく、俺はドアをそっと開けた。
「失礼します」
部屋の中は絵の具の匂いが充満していて、床のあちこちにスケッチブックが散らばっている。ベッドの上には、布団にくるまったまま動かない奏の姿があった。
「先輩、朝ですよ。学校――」
「……ん」
奏が寝返りを打った拍子に、腕が俺の方に伸びてきた。
「え、ちょっと」
次の瞬間、奏は寝ぼけたまま俺の腕を抱き枕代わりに引き寄せた。
「……もうちょっとだけ」
「いや、先輩、これは、あの」
完全に寝ぼけている。声をかけても目を覚ます気配がない。腕を引こうにも、思ったより強い力で抱きしめられていて動けなかった。
「先輩、本当に起きてください」
少し声を張ると、奏がようやくうっすら目を開けた。
「……あれ」
俺の顔を見て、ゆっくりと状況を理解していく。
「……ごめん、寝ぼけてた」
「ですよね」
奏は起き上がりながら、いつもの調子でくすくす笑った。
「亮太郎くん、腕、気持ちよかったよ」
「それ言わなくていいです」
特に照れる様子もなく言ってのける奏に、俺のほうが変に恥ずかしくなった。
☆
朝食の時間、奏はいつも通りのんびりした様子でテーブルについていた。
「昨日、徹夜で絵を描いてたんですか」
「うん。コンクールの締め切りが近くて」
「無理しすぎじゃないですか」
「大丈夫、慣れてるから」
言葉とは裏腹に、目の下には薄っすらと隈が見えている。俺は台所に戻ると、いつもより少し丁寧に卵焼きを焼いた。
「先輩、これ食べて元気出してください」
できたての卵焼きを奏の前に置く。
「わざわざ私の分だけ?」
「疲れてそうだったんで」
何気なく言ったつもりだった。
奏はしばらく卵焼きを見つめてから、いつもより少しだけゆっくりと箸をつけた。
「……美味しい」
ぽつりと呟く声が、普段の余裕のある口調と少し違って聞こえた。
「亮太郎くんって、こういうところ、ずるいよね」
「ずるいって、何がですか?」
「ん――ナイショ」
そう言って奏は、いつもより少しだけ頬を染めていた。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。三・三キュン』
壁のモニターが光る。
「あら」
台所の隅でコーヒーを淹れていた理央が、すかさずタブレットを取り出した。
「有馬先輩の発電、久しぶりに数値出たわね」
「うるさいなあ、理央ちゃんは」
奏は照れくさそうに、けれど普段通りの笑みでごまかしていた。
その一部始終を、少し離れた席で見ていたのが水瀬だった。
「……」
水瀬は自分の朝食に箸をつけながら、なぜか奏と俺のやり取りをじっと見つめていた。
「水瀬、どうかしたか」
「べ、べつに何も」
目をそらしながら答える水瀬の様子が、いつもと少し違って見えた。
朝食を終えて片付けをしていると、壁のモニターがまた小さく音を立てた。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。二・九キュン』
「……は?」
俺は思わず声を出した。
今、何もしていない。奏に卵焼きを渡したのはさっきの話で、今は皿を洗っているだけだ。
「白峯、今の何」
「水瀬さんの発電よ」
理央がタブレットを覗きながら答える。
「水瀬? でも今、何も特別なことしてないぞ」
「そうね。あなたは何もしてない」
理央は考え込むように顎に手を当てた。
「可能性としては――嫉妬」
「は?」
水瀬が飲みかけていた麦茶を思い切り噴き出しかけた。
「な、なに言ってんの理央!」
「感情反応としての嫉妬が、ときめきと似た信号を示すことはじゅうぶんあり得るわ。データ上、有馬先輩へのあなたの態度に反応した可能性が高い」
「そんなわけないでしょ!」
水瀬が声を裏返らせながら立ち上がる。
「私はべつに、寺坂が有馬先輩に優しくしてたのなんて、気にも――」
言いかけて、自分の発言のおかしさに気づいたのか、水瀬は途中で口をつぐんだ。
「気にも、なに」
「な、なんでもない!」
水瀬は逃げるように自分の部屋へ向かおうとして、途中で振り返った。
「これ絶対、記録に残さないでよね」
「無理よ。研究データだから」
「またそれ!」
☆
その日の学校帰り、水瀬はいつもより無口だった。
「今朝の件、まだ気にしてるのか」
「全然気にしてない」
「嘘つけ」
「本当に気にしてないから」
水瀬は前を向いたまま、少し早足で歩いていく。
「ただ」
しばらくしてから、水瀬がぽつりと続けた。
「有馬先輩みたいに、余裕のある感じって、私には無理だなって思っただけ」
「余裕って」
「なんでもすぐ笑って流せて、恥ずかしがることもなくて。ああいうの、私、苦手だから」
水瀬の声には、いつもの強気な調子とは違う、少し弱った響きがあった。
「べつに、水瀬は水瀬のままでいいと思うけどな」
深く考えずに出た言葉だったが、水瀬は一瞬足を止めた。
「……そういうこと、普通に言わないでよ」
振り返らずに歩き出した水瀬の耳は、夕日のせいだけではなく赤く染まっているように見えた。




