第七キュン この寮、ときめき禁止にした方がよくない?
その日の夕食どき、水瀬はいつになく真剣な顔でテーブルに手をついていた。
「宣言します」
「なんだよ急に」
「学校では、寺坂と距離を取ります」
唐突な発言に、リビングにいた全員が水瀬を見た。夕食の湯気が、水瀬の真剣な表情をうっすらとぼかしている。
「距離って、具体的には」
「必要以上に話しかけない。廊下ですれ違ってもお互い無視する。以上」
理央がタブレットを構えたまま首をかしげた。
「理由を聞いてもいいかしら」
「あれ以上変な噂立てられたくないの」
水瀬の言い分は分からなくもなかった。
「まあ、それも一つの手だな」
俺としても、あれ以上騒がれるのは正直勘弁してほしかった。
「決まりね。明日から学校では他人モード」
水瀬が満足げに頷いた。その表情には、これで一つ問題が片付いたという、確かな安堵の色が見えた。
☆
翌朝の教室。朝日が窓から差し込み、机の並びに長い影を落としている。水瀬は宣言通り、必要最低限のやり取りしかしてこなかった。
「おはよう、水瀬」
「おはよう」
それだけ。以前なら何か一言余計な軽口が続いていたはずなのに、今日はそこで会話が終わる。
☆
昼休みも、水瀬は理央や他のクラスメイトと過ごしていて、俺のほうを見ることもほとんどなかった。
教室の隅で弁当を広げながら、水瀬は普段通りに笑っているように見えた。それでも、こちらに向けられる視線の数は、いつもよりずっと少なかった。
――べつに、それでいいはずだった。
誤解を避けるための距離。理にかなった判断だ。
☆
なのに、放課後になる頃には、なんだか妙な違和感が胸の奥に残っていた。
誰かと話しているようで、じつは誰とも深く言葉を交わしていないような、そんな薄い一日だった気がする。窓の外の空が、次第にオレンジ色に染まり始めていた。
☆
「今日、大人しかったな」
帰り道、水瀬にそう声をかけると、少し驚いたように振り返った。
「約束通りでしょ。学校では他人モード」
「まあ、そうだけど」
言葉を濁したまま、俺たちは並んで歩いた。通学路の街路樹が、風に揺れて小さくざわめいている。
寮の門をくぐる頃には、日はすっかり傾いていて、玄関の明かりがぼんやり灯っていた。
「ただいま」
水瀬が扉を開けた瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。四・八キュン』
「……は?」
水瀬が固まる。
「なんで今の……」
「私にも分からないんだけど!」
リビングから理央が飛び出してきた。
「今日一日のログ、確認したわ。学校では発電量ほぼゼロ。でも寮に帰ってきた瞬間、いきなり跳ね上がってる」
「いや、待って、それ何も変なことしてないよ? ただいまって言っただけで」
「そこが興味深い点よ」
理央が研究用のタブレットの画面を俺たちに向ける。折れ線グラフが、学校にいる間はほとんど平坦で、寮の玄関に入った瞬間だけ急角度で跳ね上がっていた。グラフの角度は、これまで見た中でも一際鋭かった。
「接触頻度を減らした結果、感情強度が上がった可能性があるわ」
理央が淡々と分析結果を告げる。
「分析しないで!」
水瀬が顔を真っ赤にして叫んだ。
「理論的に説明すると、抑制された感情は解放された瞬間に、より強い反応として現れる傾向がある。つまり、学校で我慢した分、寮に帰ってきたときに――」
「もう黙って!」
水瀬が理央の口を両手で塞ぐ勢いで詰め寄った。
「先輩たちも聞いてます? これ絶対おかしいですよね?」
助けを求めるように振り返った先には、ソファでくつろぐ奏と、隅で本を読んでいたすずがいた。窓から差し込む夕方の光が、二人の横顔を柔らかく照らしている。
「私は面白いと思うけど」
奏がのんびりと笑う。
「わ、私も、なんだか、微笑ましいです……」
すずまで小さく頷いている。
「味方いない……」
水瀬がその場にしゃがみこんだ。膝を抱えた背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
☆
夕食後、片付けを終えた俺は、一人で洗い物をしながら今日一日を振り返っていた。
蛇口から流れる水の音だけが、静かな台所に規則正しく響いている。
学校での距離。寮での大発電。理央の理屈が正しいのかどうかは分からないが、一つだけはっきりしていることがあった。
水瀬と話さない一日は、思っていたより長く感じた、ということだ。
「……べつに、そんなの当たり前だろ」
同じ寮に住んでいて、話さない方が不自然なだけだ。それだけのこと。
自分に言い聞かせるように呟いた声は、誰にも届かないまま台所の水音にかき消えた。
洗い終えた皿を、水切りかごに丁寧に並べながら、俺はしばらくその作業に没頭していた。
☆
その夜遅く、水瀬が台所に麦茶を飲みに来た。
廊下の照明が落とされていて、台所だけがぼんやりと明るい。
「まだ起きてたの?」
「片付けが長引いた」
水瀬はコップに麦茶を注ぎながら、少し気まずそうにこちらを見た。
「学校での宣言、明日からどうする?」
「どうするって」
「続けるべきだとは思うんだけど」
水瀬の声が、いつもより小さかった。
「今日みたいなことが毎日起きるなら、正直、あんまり意味ない気がしてきた」
「まあ、確かに」
「でも」
水瀬はコップを両手で持ったまま、視線を落とした。冷たいコップの表面に、指先がうっすらと結露を残していた。
「距離取ってる方が、なんか、私は落ち着かないっていうか」
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
「……それ、どういう」
「な、なんでもない!」
水瀬は麦茶を一気に飲み干すと、逃げるように自分の部屋へ向かった。
残された俺は、しばらく台所に立ち尽くしていた。
壁のモニターには、今日一日の総発電量が表示されている。
これまでで一番高い数字。
寮の明かりは、今夜も静かに灯っていた。
その光の分だけ、何かが少しずつ変わり始めているような気がした。
☆
翌朝、水瀬は普段通りの調子でリビングに現れた。
「おはよう」
「おはよう」
昨夜のことなど、まるでなかったかのような、いつも通りのやり取り。
それでも、朝食の席で目が合った瞬間、水瀬がほんの一瞬、視線を逸らしたのを、俺は見逃さなかった。




