第四キュン 恋愛マニュアルで発電できますか?
土曜日の朝。リビングのテーブルには、少女漫画とドラマのディスクが山のように積まれていた。
「なんだこれ」
「資料よ」
理央が涼しい顔でタブレットを操作している。
「昨日までの実験結果を踏まえて、パターンを再検証することにしたわ」
「昨日、狙って作るものじゃないって結論出たばかりだろ」
「結論は仮説の一つに過ぎないわ。既存の恋愛作品には、統計的に有効なパターンが蓄積されている可能性がある」
言っていることは分からなくもないが、テーブルの上の少女漫画の量が完全に理央の趣味を超えている気がした。
「白峯、これ全部読んだのか」
「三日で」
「三日で読める量じゃないだろ」
「効率的に読めば可能よ」
水瀬が奥の部屋から出てきて、テーブルを見るなり顔をしかめた。
「まーた変なこと始めるつもり?」
「発電効率向上のための再現実験よ」
「再現実験て」
水瀬が一枚の漫画の表紙を手に取る。
「これ、壁ドンのシーンに付箋貼ってあるじゃん」
「重要な資料だからよ」
☆
昼食後、リビングは即席の実験会場に変わっていた。
「では第一項目、壁ドン。昨日の失敗を踏まえて、条件を変えてみるわ」
「昨日と何が違うんだよ」
「今日は、台詞をつける」
「台詞って」
理央がタブレットを見ながら読み上げる。
「『逃がさない』とか、『俺の目、見ろよ』とか」
「無理。絶対言えない」
「言わないと発電しないでしょ」
「発電しなくていいから」
押し問答の末、俺は結局壁に手をついた。
「……逃がさない」
棒読みもいいところの声が出た。
目の前に立たされた水瀬は、口をあんぐり開けたまま俺を見ている。
「……何それ」
「悪い」
「いや、悪いっていうか、その、なんか、すごい、演技力……」
最後まで言い終わる前に、水瀬が吹き出した。
「無理、笑う」
「笑うなよ、恥ずかしいんだから」
モニターの数字はぴくりとも動かなかった。
「発電量ゼロね」
理央が淡々と記録する。
「むしろ笑いすぎて発電マイナスになりそう」
☆
次に試したのは頭ぽんぽんだった。
対象は今回もすず。
「小松さん、リラックスして」
「は、はい」
俺はすずの頭に軽く手を乗せた。
「頑張ってるな」
台詞込みでやってみたが、すずは相変わらず固まったままだった。
「……あの、これ、いつまで続きますか?」
「もう終わっていいよ」
理央が言った。数値はやはり動かない。
最後に試したのが、一番難易度が高そうなものだった。
「これは対象を変えるわ。次は水瀬さん」
「またか」
水瀬がうんざりした顔をする。
「寺坂くんに、いつもと違う呼び方をさせるわ」
「いつもと違う呼び方って」
「水瀬、じゃなくて――ひより、って呼んでみて」
理央がタブレットから顔を上げずに言った。
「は?」
俺と水瀬の声がそろった。
「なんで下の名前」
「漫画のデータでは、突然の名前呼びが感情変化に強く作用する事例が多い。試す価値はあるわ」
「無理だろそんなの、いきなり」
俺は思わず抵抗した。
「じゃあ、いきなりでなくても構わないわ。何かのついでで自然に呼べば」
「ハードル下げてるようで下げてない」
水瀬は腕を組んで、明らかに身構えていた。
「べ、べつに呼びたければ呼べばいいけど。私は動じないから」
その言い方が、逆に緊張している証拠のように見えた。
「じゃあ、その、水瀬――」
「なによ、言いかけて」
「いや、なんでもない」
結局その日はそれ以上何も起きず、実験は終了になった。
☆
昼下がり、片付けをしていると、理央が集めた漫画やディスクをまとめて棚に戻す作業が残っていた。
「これ全部持ってきたの白峯だろ。自分で片付けろよ」
「今、別の実験のログをまとめてるから無理よ」
仕方なく俺一人で作業をしていると、水瀬がやってきた。
「理央が持ってきたんだから理央が片付ければいいのに」
「俺もそう言った」
「……でも、寺坂一人でやらせるのもなんか違うし、私も手伝うよ。さすがに悪いし」
二人で本を積み上げながら、なんとなく無言の時間が続いた。
窓の外はもう夕方で、オレンジ色の光がリビングの床に長く伸びている。
「今日の実験、結局全部失敗だったね」
水瀬がぽつりと言った。
「だな」
「理央、また明日も変な実験考えてきそう」
「たぶんな」
軽く笑い合いながら本を積み終えたところで、俺は水瀬が抱えていた最後の一冊がずり落ちそうになっているのに気づいた。
「危ない」
咄嗟に手を伸ばして支える。
「あ、ありがと――」
「いや、大丈夫か、ひより」
言った瞬間、自分でも一瞬遅れて気づいた。
――ひより、と呼んでいた。
水瀬、じゃなくて。
無意識に、下の名前で。
「……」
水瀬が本を抱えたまま固まっている。
俺も何も言えずに固まっていた。
数秒の沈黙。
次の瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。五・一キュン』
これまでで一番高い数字が、モニターに浮かび上がる。
「……今の」
台所から理央が飛んできた。
「今、五・一キュン出たわよ。何をしたの?」
「いや、俺はべつに何も」
言いながら水瀬を見ると、耳どころか首まで真っ赤になっていた。
「ちょっと、水瀬さん?」
「な、なんでもないから!」
水瀬は本を抱えたまま、逃げるように自分の部屋へ駆けていった。
残された俺と理央の間に、微妙な空気が流れる。
「今のは、確実に名前呼びの効果ね」
理央がタブレットに何かを打ち込んでいる。
「いや、狙ったわけじゃないんだけどな」
「狙ってないから発電したのよ。狙うと発電しない。狙わないと発電する。これは重要な発見だわ」
理央がぶつぶつと分析を始める横で、俺はまだ、自分がさっき何と呼んだのかを思い返していた。
ひより。
特別な意味なんてなかったはずだった。
ただ自然に、口から出ただけで。
それなのに、廊下の奥からはまだ、水瀬の部屋のドアが閉まる音の余韻が残っていた。
俺はしばらく、そのまま立ち尽くしていた。




