第三キュン 今日から俺は、ときめき発電係です
翌朝。朝食を終えた頃、秋月先生が寮にやってきて、リビングのテーブルに一枚の紙を置いた。
「管理人業務内容、確認しといてね」
秋月先生が、コーヒー片手に言う。湯気の向こうで、いつものパーカー姿が朝日にぼんやり滲んでいた。
掃除。食事の準備。設備点検。ここまでは至って普通だ。
問題は、その下に小さく書かれた一文だった。
「住人の情緒を適度に刺激すること……?」
「そう。まあ簡単に言うと、発電のために女の子たちをときめかせる係」
「聞いてないですよ、こんなの」
「今言った」
秋月先生は昨日とまったく同じ返し方をした。どうやらこの人は、そういう決め台詞を使い回すタイプらしい。
「無理です。俺、そういうの得意じゃないですし」
「でも今のところ、あなたが一番発電させてるんだよね」
痛いところを突かれて、俺は言葉に詰まった。
「べつに俺は普通にしてるだけです」
「それでいいの。普通にしてるだけで発電するなら、それを仕事にすればいいだけの話」
「仕事にする話じゃないでしょ、それ」
断固拒否するつもりだった。
☆
秋月先生が帰ったあと、今度は水瀬がリビングのテーブルに紙を広げた。
「じゃあ、寺坂がここで暮らすなら、先にルール決めとこう」
「ルール?」
「女子寮なんだから当然でしょ」
水瀬は指を折りながら、一つずつ挙げていく。
「まず、寮生の部屋には勝手に入らない」
「入らないよ」
「お風呂を使ってる時間は、浴室の近くに来ない」
「行かないって」
「お風呂に入る順番は、寺坂くんが最後」
「その方が後片付けや掃除に便利だから助かる」
昨日は使っていいのか分からず入らなかったけど、これで正式に使用許可が下りたらしい。
「洗濯物は基本、それぞれ自分でやる。取り込みも自分で」
「それは助かる」
「そこ、助かるって言うところ?」
水瀬がじろりと睨んでくる。
「いや、さすがに女子の洗濯物まで管理するのは俺も困るし」
「……まあ、それはそう」
少し離れたところで聞いていたすずが、小さく頷いた。
「郵便物も各自で管理する。私たち宛てのを、寺坂が勝手に見るのは禁止」
「見る気ないって」
「トイレを使う時は必ず鍵をかける」
「それも分かってる」
「あと、理央にも、有馬先輩にも、すずちゃんにも注意勧告」
「私たちにも?」
奏が首を傾げる。
「お風呂から上がったあと、寺坂が来る前みたいに、バスタオル巻いただけでリビングに出てこないこと」
水瀬は寮生たちにも険しい表情を向けた。
すずはすぐに小さく頷いた。
「了解したわ」
理央も淡々と答える。
「亮太郎くん、つい癖でうっかりそういうことしちゃったらごめんね」
奏はそう言って微笑んだ。
「有馬先輩は『うっかり』で済ませないでください」
俺、めちゃくちゃ警戒されてないか。
「あと、何か困ったことがあったら、無理に寺坂に頼まなくてもいいからね」
「私に言ってもいいしね」
奏が穏やかに付け加える。
「設備関係なら、私でも対応できるものはあるわ」
理央も淡々と続けた。
「なんか、俺が管理人なのに、管理される側になってないか?」
「最初はそれくらいでちょうどいいの」
水瀬はきっぱりと言い切った。
結局、その日の午前中は、そんな細かなルールを決めるだけでかなり時間を使った。
☆
「管理人さん、お風呂のお湯、あと三十分でぬるくなるって」
夕方、すずが不安そうな顔でリビングに入ってきた。
「は?」
「給湯設備が、発電量不足で稼働率下がってるみたい」
理央がタブレットの画面を見せてくる。数字が赤く点滅していた。
「今日中にあと四キュン稼がないと、夜のお風呂が水風呂になるわ」
「水風呂って、四月にきついだろ」
「きついでしょうね」
他人事のように理央が言う。窓の外はもう夕方に差し掛かっていて、部屋の隅々まで橙色の光が伸びていた。
水瀬が台所からひょっこり顔を出した。
「じゃあ寺坂、頑張って発電させてよ。あんたが原因なんだから」
「原因って言い方やめろ」
文句を言いながらも、俺は結局、リビングのソファに座り直していた。
冷たい風呂に入りたくないというのは、割と切実な理由だった。窓の外で、夕暮れの風に揺れる木の影が、レースのカーテン越しに薄く映り込んでいる。
「じゃあさっそくだけど」
理央がホワイトボードを持ち出してくる。まだ懲りていないらしい。
「効率的ときめき実験、フェーズ2を開始するわ」
「フェーズ2って、1があったのか」
「あなたが知らないだけよ」
理央はマーカーで箇条書きを始めた。手首を返すたびに、マーカーのキャップがカチカチと小さな音を立てる。
壁ドン。頭ぽんぽん。急な距離の詰め方。
どれも、少女漫画やドラマで見たことのある単語ばかりだった。
「これ、狙ってやる時点で駄目な気がするんだけど」
「データを取らないと分からないわ」
「管理人の仕事内容に壁ドンってある?」
「ないけど、試してみる?」
理央が真顔で聞いてくる。冗談なのか本気なのか、表情からは全く読み取れない。
「試さなくていいです」
「発電量、あと四キュン足りないままだけど」
「……分かったよ、やればいいんだろ」
俺はソファから立ち上がりながら、小さくため息をついた。
☆
最初の実験台は水瀬だった。
「じゃあ水瀬さん、そこの壁の前に立ってください」
「なんで私」
「サンプルとして最も反応データが豊富だからよ」
「やだ、それ嫌な理由」
文句を言いながらも、水瀬は渋々壁際に立った。壁紙の白と、夕暮れの薄暗がりが重なって、水瀬の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がって見える。
俺は理央に指示された通り、壁に手をつく。
「……えっと」
「早く」
「いや、これ台詞とか言うのか?」
「言わなくていいわ。反応を見るだけだから」
俺は仕方なく、壁に手をついたまま水瀬を見た。
水瀬は完全に真顔だった。
「……ねえ、これ何がしたいの?」
「俺に聞くなよ」
モニターの数字は動かなかった。
「ゼロね」
理央が淡々と記録する。
「次、頭ぽんぽんいくわよ」
「まだやるのか」
☆
次はすずが対象になった。
「小松さん、頭を撫でられるのは苦手?」
「あ……えっと、大丈夫、です」
すずが小さく頷く。
俺はおそるおそる手を伸ばして、すずの頭に軽く触れた。
すずの髪は、思っていたよりも柔らかかった。窓から差し込む残照が、その髪の先端をうっすらと金色に染めている。
「……」
すずは固まったまま動かない。
モニターも動かない。
「これも駄目ね」
理央が首を振る。
「なんか、すみません」
すずが小さな声で謝った。謝る理由がどこにもないのに。
☆
最後は奏が名乗り出た。
「私も一応試してみようか」
「先輩がやると変な感じになりそうなんですけど」
「大丈夫、私は動じないから」
言葉通り、奏は俺が近づいても目を合わせたまま笑っていた。絵の具の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。
「亮太郎くん、緊張してる?」
「してないです」
「してるみたいに見えるけど」
からかうような口調に調子を狂わされているうちに、実験は終わっていた。
モニターの数字は、結局一度も動かなかった。
「全部ゼロ……」
理央が珍しく、少しだけ肩を落とした。
「狙って作るものじゃないってこと、証明されたわね」
「それ、最初から言おうとしただろ俺」
時計を見ると、もう夜の九時を過ぎている。窓の外は完全に暗くなっていて、リビングの照明だけが、頼りなく部屋を照らしていた。風呂の給湯設備は、まだぎりぎり動いているらしいが時間の問題だった。
「はあ……」
台所の椅子に座り込んだ水瀬が、大きく息をついていた。実験に付き合わされて、それなりに疲れているらしい。
俺は特に何も考えず、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。ガラスのコップに、麦茶の茶色い液体が音を立てて満ちていく。
「ほら、お疲れ」
水瀬の前にコップを置く。
「……あ、ありがとう」
水瀬が顔を上げて、少しだけ驚いたような表情をした。
次の瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。四・五キュン』
モニターの数字が跳ね上がる。
理央が弾かれたようにタブレットを覗き込んだ。
「今の、実験より高い数値が出てるわ」
「え?」
水瀬が自分の顔を両手で覆う。耳まで赤くなっているのが指の隙間から見えた。
「な、なんで今ので……」
「私にも分からないわ。ただの飲み物の受け渡しよ」
理央が真面目な顔で首をひねる。
「壁ドンも頭ぽんぽんも駄目で、麦茶が一番効くってどういうことよ」
「知らないよそんなの」
俺も同じくらい困惑していた。
狙って何かをしたわけじゃない。ただ疲れていそうな相手に、当たり前のことをしただけだ。
台所の窓の外には、住宅街の明かりがぽつぽつと灯っている。遠くの誰かの家の窓明かりが、この寮の発電とは無関係に、ただ静かに灯っているのが、なんだか不思議に思えた。
「……ねえ、理央」
水瀬が顔を覆ったまま、くぐもった声で言う。
「なに」
「今日のこと、記録に残さないでもらえる?」
「無理よ。研究データだから」
「理央おおおおお!」
結局、水瀬の悲鳴だけがリビングに響いて、その日の実験は幕を閉じた。
☆
浴室から、少し遅れて聞こえてきた水瀬の声には、心底安堵したような響きがあった。
「ぬるくない、ちゃんとお湯だ……」
その呟きに、俺は密かに安堵していた。
風呂のお湯は、なんとか通常運転に戻ったらしい。
☆
そのあと俺が風呂に入ったとき、脱衣場の籠に、寮生たちの洗濯物らしい普段着や下着類が積まれているのが目に入った。俺は即座に視線を逸らした。
「洗濯物は基本、それぞれ自分でやる。取り込みも自分で」
このルールは絶対破っちゃいけない。
その夜、戸締りの確認を終えた俺は、しばらくリビングに一人残っていた。
壁のモニターには、今日一日の発電量の記録が、まだ小さく表示されたままになっている。
実験で狙った反応は、結局何一つ拾えなかった。それなのに、何気ない麦茶一杯で、目標値をあっさり超えてしまった。「情緒を適度に刺激すること」なんて業務内容を、俺はきっとこれからも、うまくこなせる気がしない。
それでも、これくらいの何気なさなら、続けられるかもしれないと、そんなことを思った。
自分の部屋に戻ってしばらくすると、スマホが鳴った。
秋月先生からだった。
「そういえば、この実験、学園から定期的に成果を見られてるからね」
「成果?」
「発電量とか、生活への影響とか。実証実験なんだから、ずっと無条件で続けられるわけじゃないってこと」
「それ、今さら言います?」
「今言った」
またその返しかよ。
――ずっと無条件で続けられるわけじゃない。
その言葉だけが、妙に耳に残った。




