第二キュン ときめき一回、電球三十分
その夜七時過ぎ、俺は星見風寮の残りの住人たちと顔を合わせた。
そして自己紹介が一通り終わった五分後。
なぜか俺は、人生で一番くだらない会議に参加させられていた。
「では本日の議題です。テレビか、電子レンジか、ドライヤーか。今の発電量では、同時使用はできません。どれか一つだけです」
ホワイトボードの前で真顔になっているのは、俺と同じ二年生の白峯理央だった。
肩までの黒髪に細いフレームの眼鏡。自己紹介では「よろしく」と一言しか言わなかったのに、今は完全に会議の進行役になっている。
「なんでそんな真剣なんだよ」
「生活インフラの問題よ。真剣に決めるべきでしょう」
理屈は分かるような、分からないような。
窓の外はすっかり日が落ちていて、リビングの照明が頼りなく橙色に灯っている。今夜の発電量では、この明るさを保つだけでも精一杯らしい。
ソファには、女子生徒が二人増えていた。
一人は絵の具の匂いをまとった、ゆったりした空気の先輩。茶色がかった、長めの柔らかな髪。少し垂れ気味の目が特徴的だった。
「私はドライヤー票かな。髪、乾かさないと風邪ひいちゃうし」
有馬奏。三年生で美術科らしい。柔らかな色合いのワンピースを着ていて、その袖にまで、乾ききらない絵の具の跡が薄く残っている。話す時の身振りがゆったりしていて、こちらの時間の流れまで少し緩やかになるような、そんな空気をまとっていた。
もう一人は、リビングの隅で膝を抱えるようにして座っていた小柄な女の子だった。肩より少し長い黒髪を低い位置で結び、前髪の隙間から大きな目が覗いている。
「わ、私は……その、テレビが……何か音がしてないと、ちょっと寂しいので」
小松すず。数日前に入寮したばかりの一年生。声が小さくて、最後まで聞き取るのに少し時間がかかる。
自己紹介のときも、俺とはほとんど目を合わせなかった。
俺が少し視線を向けると、すずは反射的に目を伏せ、わずかに奏の方へ身を寄せる。
そりゃそうだよな。
昨日まで女子だけだった寮に、いきなり知らない男子が管理人として住み始めたのだ。警戒される方が普通だ。俺は特別目立つ顔でもないし、背も平均より少し低い。少なくとも、威圧感のある見た目ではないと思うんだけど。
窓際の薄暗がりに紛れるように座る姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように控えめだった。
「ドライヤーはお風呂上がりに使うから、それまではテレビをつけたままで大丈夫ね。電子レンジ派はゼロ、と」
理央がホワイトボードに丸をつけていく。ペン先の音が、静かなリビングに小さく響いた。
「待って。電子レンジやドライヤー使う時だけテレビ消せばよくない? ほんの数分だけなんだし」
水瀬が立ち上がって主張した。
「運用が煩雑になるわ」
理央が真顔で答えた。
すずはどこか申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
「あと、炊飯器も、同時使用は無理そうよ」
理央は付け加える。
「電子レンジも炊飯器も使えないってなると、夕飯どうするの?」
水瀬が突っ込んだ。
「それは寺坂くんが工夫して何か作ればいいんじゃない」
奏がのんびりと言う。
「はい?」
「管理人さんだもんね」
「それとこれとは話が別だろ」
言いながらも、結局俺は台所に立っていた。台所の窓越しに、隣家の庭木の影が暗がりにぼんやりと浮かんでいた。包丁の音、鍋の音。五人分の夕飯を作るのは初めてで、勝手が分からず何度も冷蔵庫を開けたり閉めたりした。
冷蔵庫の中身は、思っていたよりも整理されていた。恐らく理央が、几帳面に管理しているのだろう。
野菜室には、使いかけの人参と玉ねぎが、律儀に断面をラップで包まれて並んでいる。
「野菜炒めと味噌汁でいいか」
「いいんじゃない?」
水瀬が言う。
「この食材、普段どうしてるんだ?」
「有馬先輩が帰りに買ってきてくれることが多いよ。あと、秋月先生がたまに差し入れしてくれる」
「管理人がいない間も、それで回してたのか」
「まあね。理央が在庫はだいたい把握してるし。去年くらいからそんな感じ。澄恵さんに、あんまり無理させないようにって思って」
「そうか」
ばあちゃん、世話好きだし、寮生たちに心配されるくらいいろいろ張り切ってたんだろうな。
俺は包丁を手に取った。
まな板の上で人参を刻む音が、リビングから聞こえる賑やかな声と重なって、なんとも落ち着かない気分になる。今までは、家族三人分の夕食をたまに作るくらいだった。五人分――しかも俺以外は全員女子という状況は、想像していた以上に緊張するものだった。
結局、野菜炒めと味噌汁に加えて、鍋で炊いたご飯も用意した。
「有馬先輩、髪に絵の具ついてますよ」
配膳の途中、ふと目についた。奏の左耳のあたり、絵の具が乾いて固まっている。スケッチでもしていたのだろうか、白と薄紫が入り混じった小さな斑点だった。
「あ、ほんと?」
奏はのんびりした調子で自分の髪を触るが、位置がずれている。
「そこじゃないです。ちょっと動かないでください」
俺は指先で、髪についた絵の具を軽く払い落とした。
その瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。二・二キュン』
壁際のモニターが光る。
「……これで、給湯器は使えそうね」
理央が表示を確認しながら言った。
「……え」
奏が珍しく、少しだけ驚いた顔をした。余裕のある表情の下に、ほんの一瞬だけ、素の戸惑いが覗いた気がした。
「今の、なんで発電したんですか?」
理央がすかさずメモを取り始める。
「接触を伴う世話焼き行動、かつ髪という個人的な部位への接近。データとして興味深いわ」
「分析やめろ」
「亮太郎くんって、優しいね」
奏はそう言って、いつもの穏やかな笑みに戻った。
その一言だけで、何も測定されていないはずなのに、リビングの空気が少し変わった気がした。
☆
「小松さん、これ温かいから」
夕食の後、リビングで寒そうにしていたすずに、俺は湯気の立つほうじ茶を差し出した。
「あ……」
すずはすぐには手を伸ばさなかった。
俺とカップを交互に見て、少しだけ迷ったように視線を泳がせる。
「いらなかった?」
「ち、違います」
慌てて首を振ってから、すずはようやく両手でカップを受け取った。
「……ありがとう、ございます」
まだ俺との距離を測りかねているような硬さは残っていた。
それでも、カップの温かさに触れた指先だけが、少しほっとしたように緩んだ。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。一・八キュン』
「またか」
水瀬が、げんなりした声を出した。
「ちょっと待って。普通の親切で発電するの反則じゃない?」
「反則って言われても」
「だって、寺坂が優しくするたびに電気つくなら、もう何やっても発電するじゃん」
「それは、まあ……」
言い返せなかった。実際、俺は特別なことをしたつもりはない。髪についた絵の具を取っただけ。温かい飲み物を渡しただけ。
それだけで発電するというのが、正直よく分からない。
「水瀬先輩は、発電しないんですか?」
すずが小さな声で聞いた。
水瀬は一瞬言葉に詰まって、それから早口になった。
「し、しないし。私はそういうの慣れてないだけだから」
「玄関先で三・七キュン出した人が何言ってるの」
理央が容赦なく突っ込む。
「あれは事故! 不可抗力!」
水瀬が顔を赤くして立ち上がった。
「事故で三・七キュンも出るなら、もう事故起こし放題ね」
「起こしてないから!」
賑やかなやり取りを、奏が茶を飲みながら眺めている。湯呑みから立ち上る湯気が、奏のゆったりとした横顔を柔らかくぼかしていた。
「なんか、いいね。こういうの」
誰に向けたでもない呟きだった。
すずが、その言葉に小さく頷いていた。頷いたその拍子に、結んだ髪がふわりと揺れて、リビングの照明を淡く反射した。
☆
食器を片付けながら、俺はさっきのモニターの数字を思い出していた。
奏の髪の絵の具、二・二キュン。
すずへのほうじ茶、一・八キュン。
水瀬にぶつかられた玄関先、三・七キュン。
共通しているのは、俺が何かを狙ったわけじゃないということだ。ただ普通に、目の前で困っていることを片付けただけ。
それなのに、電気がつく。
「なあ、白峯」
「何」
「これ、俺が何もしなくても発電するようになる方法とかないのか」
理央は少し考えてから、首を横に振った。
「ないでしょうね。発電量と一番強く相関しているのは、あなたの行動そのものだから」
「つまり」
「あなたが何もしなければ、寮は本当に真っ暗になる」
俺は思わず天井を見上げた。
豆電球ひとつぶんの明かりが、廊下の奥でぼんやり灯っている。橙色の、ひどく頼りない明るさだった。
この電気の一つ一つが、誰かのちょっとした感情でできているのだと思うと、妙な責任みたいなものを感じた。
水瀬がまだ何か文句を言っている声が、台所まで聞こえてくる。
「絶対おかしいって。普通に生活してるだけで発電するとか、心臓に悪すぎるでしょ」
「じゃあ、心臓が動くたびに発電すればいいのに」
奏が笑いながら言った言葉に、水瀬がまた声を裏返らせる。
「そういう問題じゃないから!」
その声を聞きながら、俺は洗い物を続けた。
入寮初日にしては、あまりにも濃い一日だった気がする。感情変換技術だとか、キュンだとか、発電量だとか、朝までの自分なら絶対に信じなかったような単語が、今はもう、当たり前のようにリビングの空気に馴染んでいる。
窓の外は、もうすっかり夜になっている。
寮の灯りは、今のところ、まだ持ちこたえているらしい。
豆電球ほどの明かりでも、消えずに灯り続けているというだけで、なんだか少しだけ安心できる気がした。
「寺坂くんのおかげで、今日の電気問題はなんとかなったわ。これでお風呂にも入れる。ありがとう」
夕食の片付けが終わると、寮生たちはまとまって風呂へ向かった。
「いや、礼を言われるほどのことじゃないと思うけど」
一度に五、六人程度が入れる大浴場が備えられていて、寮生みんなで一緒に入ることも多いそうだ。俺はもちろん風呂場に近づくわけにもいかず、リビングのソファで一人、適当にテレビを眺めていた。
知らない番組の笑い声だけが、妙に大きく聞こえる。
☆
「……本当に大丈夫なのかな」
風呂上がり、水瀬は廊下の奥で髪を乾かしながら、小さく呟いた。
「何が?」
奏が尋ねる。
「寺坂のこと。男子を女子寮の管理人にするって、やっぱり変じゃない?」
「でも、今のところ普通じゃない?」
「初日だからでしょ」
水瀬はまだ納得していない様子だった。
理央はタオルで髪を拭きながら、淡々と口を開く。
「少なくとも、勝手に風呂場を覗きに来るような人ではなさそうね」
「基準そこなの?」
「重要でしょう」
奏がくすりと笑った。
「私は、別に気にならないかな。ご飯も作ってくれたし」
「有馬先輩、そこだけで信用するの早くないですか?」
水瀬が呆れたように言う。
少し離れたところでは、すずが黙ったまま髪を乾かしていた。
「すずちゃんは?」
水瀬に声をかけられ、すずは一瞬だけ肩を揺らした。
「え……」
「寺坂が管理人なの、平気?」
すずはすぐには答えなかった。
「……まだ、ちょっと分からないです」
小さな声だった。
「ほら、やっぱり」
「初日なんだから、分からなくて普通じゃない?」
奏が穏やかに言う。
「まあ、そうだけど」
水瀬はドライヤーのスイッチを切った。
「私は、しばらく警戒しながら様子見るから」
「それでいいんじゃない」
理央が短く答える。
☆
そんな話がされているとも知らず、俺はリビングでテレビを眺めていた。
俺に割り当てられた部屋は、もともと空き部屋だったらしい。女子寮に男子を入れる以上、なるべく寮生たちの部屋から離した方がいいということで、廊下のいちばん奥が俺の管理人室になった。
隣も空き部屋で、向かいは物置になっている。水瀬たちの部屋とは少し距離があった。
入寮初日の夜は、思っていた以上に静かに更けていった。




