第二十七キュン 監査役をときめかせたら負け
神崎さんの監査は、翌日から本格的に始まった。
俺が神崎さんの部屋の前を通りかかったとき、かわいい動物のぬいぐるみがちらっと見えてしまったことは、黙っておこう。
「まず、日々の生活動線を確認させてください」
神崎さんはメモ帳片手に、寮の隅々まで記録を取っていく。
「寺坂さん、これは何のための行動ですか」
「いや、普通に朝食の準備をしてるだけですけど」
「意図的な感情誘発行為ではないことを確認しました」
「わざわざ確認しなくても分かるでしょ、それ」
☆
その日一日、俺は神崎さんを試すつもりは全くなかったが、理央だけは別だった。
「せっかくの機会だから、実験してみましょう」
「なんの実験だよ」
「神崎さんが、感情反応を示すかどうかの検証よ」
「監査役に実験するのやめろ。本人の同意は?」
「反応を知られたら条件が変わるでしょう」
「研究倫理どこ行った」
止める間もなく、理央は神崎さんにさりげなく近づいていった。
「神崎さん、寺坂くんが淹れたコーヒー、どうぞ」
「ありがとうございます」
神崎さんはコップを受け取り、一口飲んだ。
「……普通のコーヒーですね」
モニターは静かなままだった。
「次、これはどうかしら」
理央が今度は、俺に神崎さんの荷物を運ぶよう指示した。
「重そうですね、持ちます」
「あ、いえ、自分で運べますので」
「遠慮しなくていいですよ」
俺が荷物を持ち上げると、神崎さんは少し戸惑ったような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「職務上の配慮ですね。ありがとうございます」
その一言で片付けられ、モニターは反応しなかった。
「全然発電しないわね」
理央が残念そうに呟く。
「当たり前だろ、監査対象を実験材料にするなよ」
俺は理央を軽く睨んだが、本人は特に反省する様子もなかった。
☆
その日の夕食後、神崎さんはリビングの隅に設けた臨時の資料置き場で、書類を整理していた。
「神崎さん、まだ仕事してるんですか」
「監査業務は、時間内に終わらせる必要がありますので」
黙々と作業を続ける神崎さんの様子を見て、俺はふと思い出したことがあった。
「そういえば、飲み物、何か持ってきましょうか」
「結構です」
「じゃあ、これだけ置いときますね」
俺はキッチンに戻り、少し考えてからカップにお茶を淹れた。
神崎さんが普段何を飲んでいるかは知らなかったが、昨日、夕食の席でさりげなく「甘いものより、渋いお茶の方が好きです」と言っていたのを思い出し、濃いめのほうじ茶を用意した。
「どうぞ」
資料置き場に戻り、カップを差し出す。
「ありがとうございます……あ」
神崎さんは一口飲んで、わずかに目を見開いた。
「これ、私の好みの濃さですね」
「前に言ってたので、覚えてました」
「……」
神崎さんは珍しく、言葉に詰まったような様子を見せた。
次の瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。三・二キュン』
「……え」
神崎さんが自分の手元とモニターを交互に見る。
誰よりも早く駆けつけたのは理央だった。
「今の、神崎さんの反応ね」
「違います」
「違うと言っても、数値がはっきり出ていますが」
「これは、その」
神崎さんは明らかに動揺していた。
「故障です」
きっぱりと言い切ったその表情は、これまでの毅然とした態度とは違って、どこか焦りが見えた。
「その言い訳、私が先に使ったわ」
いつの間にか部屋に入ってきていた理央が、真顔で言い放った。
「先に使ったって、どういうことですか」
「以前、私も似たような状況で同じ台詞を使ったの。だから、その気持ちはよく分かるわ」
「気持ちなど分かりません。これは純粋な機器の不具合です」
「不具合にしては、随分ピンポイントなタイミングね」
理央の指摘に、神崎さんはますます表情を硬くした。
「神崎さん、もしかして照れてます?」
水瀬が興味津々の顔で覗き込んでくる。
「照れておりません」
「顔、赤いですけど」
「気温の問題です」
「今夜、そんなに暑くないと思いますけど」
「体調管理は個人の裁量です」
「言い訳まで理央と同じじゃん」
「同じではありません」
この寮に来ると、真面目な人ほど機械の故障を疑うらしい。
全く噛み合わない反論を繰り返す神崎さんに、リビングにいた全員がなんとも言えない表情を浮かべた。
「あの」
俺は少し気まずくなって、話を変えることにした。
「監査、まだ続くんですか?」
「……続けます。今日の一件は、あくまで機器の誤作動として処理します」
「神崎さんがそう言うなら、それでいいですけど」
神崎さんはカップを手に持ったまま、しばらく黙り込んでいた。
「その、お茶、美味しかったです」
小さく付け加えられた一言に、俺は少し驚いた。
「それはよかったです」
「監査には、無関係の発言ですが」
「分かってます」
☆
その夜、資料置き場を離れた神崎さんを見送りながら、俺は今日の出来事を振り返っていた。
規則を重視する生徒会役員としての顔と、ふとした瞬間に見せる素の反応。
その落差が、思っていたよりずっと人間らしく感じられた。
「神崎さん、思ったより手強くないかもな」
誰にともなく呟いた声に、隣にいた水瀬が意外そうな顔をした。
「なにその感想」
「いや、なんとなく」
窓の外には、初夏の夜空が広がっている。
寮の照明は、今夜もいつも通り灯っていたが、その光の中に、新しい変化の兆しが確かに混ざり始めていた。




