第二十五キュン 後輩との距離が少し縮まりました
六月半ば、寮の廊下に夏の気配が漂い始めていた。
窓を開けると、蝉の声には少し早いものの、湿った風がカーテンを揺らしている。
「小松、最近だいぶ喋るようになったな」
夕食の片付けをしながら声をかけると、すずは小さく頷いた。
「あ……そう、でしょうか」
「入寮した頃と比べたら、全然違うと思うけど」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいです」
すずは照れたように俯いたが、以前のように会話を避ける様子はもうなかった。
☆
その日の夕方、リビングでは恒例になりつつある勉強会が開かれていた。
「小松さん、この漢字の書き取り、間違ってるわよ」
理央が容赦なく指摘する。
「あ、本当だ……」
すずが慌てて消しゴムで直している横で、俺は洗い物を終えてリビングに戻った。
「小松、お疲れ。これ飲んで」
冷たい麦茶をコップに注いで差し出す。
「ありがとうございます、寺坂先輩」
すずは両手でコップを受け取り、小さく頭を下げた。
その瞬間だった。
すずが何かを言いかけて、途中で止まった。
「どうした?」
「あ、いえ、その」
すずは少し視線を泳がせてから、意を決したように顔を上げた。
「あの、寺坂先輩――じゃなくて」
言い直そうとする様子に、リビングにいた全員が思わず注目した。
「亮太郎先輩」
小さな、けれどはっきりとした声だった。
一瞬、リビングが静まり返る。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。一・九キュン』
壁のモニターが光った。
「え、今の」
水瀬が真っ先に反応した。
「名前呼びだけで一・九キュン!?」
「若いっていいねえ」
奏がのんびりと笑いながら茶々を入れる。
「先輩も高校生でしょうが!」
水瀬が即座に突っ込んだ。
「私は先輩だけどね、精神年齢的には」
「意味わかんない」
その一連のやり取りの中で、すず本人だけが取り残されたように顔を真っ赤にしていた。
「あ、あの、変なことしちゃいましたか、私」
「いや、全然変じゃないよ」
俺はできるだけ自然に答えたつもりだったが、内心では少し驚いていた。
これまで「寺坂先輩」としか呼ばれたことがなかった分、その変化は思っていたより大きな意味を持って響いた。
「亮太郎先輩、って呼んでも、大丈夫でしたか」
すずが不安げに聞いてくる。
「もちろん。全然構わない」
答えると、すずはほっとしたように小さく笑った。
「よかった……」
「これ、絶対記念すべき瞬間だよね」
水瀬がタブレットを覗き込みながら言う。
「なんの記念だよ」
「すずちゃんの成長記録的な」
「すずちゃん、これから普通に亮太郎先輩って呼べそう?」
奏が興味深そうに聞くと、すずは少し考えてから頷いた。
「はい……たぶん、大丈夫だと思います」
「じゃあ試しに、もう一回呼んでみて」
「え、今ですか」
「今」
奏に促され、すずはおずおずと俺の方を見た。
「亮太郎先輩」
二回目は、少しだけスムーズだった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。一・二キュン』
「あ、二回目はさっきより数値低いわね」
理央が冷静に分析する。
「初回のインパクトが一番強かったってことか」
「そういうことでしょうね」
「なんか、分析されるとちょっと寂しいです……」
すずが小さく肩を落とした。
「じゃあ、ひよりちゃんも亮太郎くんのこと、名前で呼んであげたら?」
奏が楽しそうに言う。
「そっ、そんなの……呼べるわけないでしょ」
水瀬はそう言って、慌てたように俯いた。
「……」
なんとなく、俺まで気まずくなって視線を逸らす。
その時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
「ただいま」
聞き覚えのある声に、俺は思わず玄関先へ駆け寄った。
「……ばあちゃん?」
「なによ、その顔。幽霊でも見たみたいに」
扉を開けると、そこに立っていたのは、しばらく療養していた祖母だった。
杖もついていない。歩き方にも、療養中だと聞いていた頃のような不自由さは感じられなかった。
「腰、もういいのか?」
「ほとんどね。無理すると怒られるけど、普通に生活する分には問題ないわ」
「じゃあ……」
俺は思わず、リビングを見回した。
祖母の腰が治った。
ということは、本来なら俺がここにいる理由も――。
「えっ」
ひよりが俺と祖母を交互に見た。
「寺坂って……澄恵さんの、孫」
「そうだよ」
俺はさらりと答える。
「ええっ!?」
今度は、すずまで声を上げた。
「亮太郎先輩、前の管理人さんのお孫さんだったんですか?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてません」
すずが珍しく即答した。
「だから急に管理人を任されたのね」
理央が納得したように頷く。
「家族経営みたいなものだったんだ」
水瀬が呟いた。
「べつに家族経営じゃない」
俺が否定すると、祖母が楽しそうに笑った。
「でも、私が腰を痛めなかったら、この子がここに来ることもなかったでしょうね」
「それは、まあ」
ひよりが少し考えるように俺を見る。
「澄恵さん、私が入寮してすぐに腰を痛めちゃったので……どんな管理人さんだったんですか?」
「亮太郎くんより厳しかったよ。朝寝坊したら普通に起こしに来るし、共有スペース散らかしてたらすぐ注意されたし」
すずが質問すると、奏が即答した。
「当然でしょう。寮なんだから」
祖母は胸を張った。
「亮太郎先輩は、あんまり怒らないです」
すずがぽつりと言う。
「代わりに、ご飯作ってくれたり、困ってるとすぐ気づいてくれます」
「へえ」
祖母が俺を見る。
「ずいぶん違う管理人になったのね」
「比較しないでくれ」
「褒めてるのよ」
ひよりがくすっと笑った。
「でも、確かに。最初は男子が管理人ってどうなのって思ったけど」
「思ってたんだな」
「当たり前でしょ」
ひよりはそう言ってから、少しだけ声を柔らかくした。
「今は、もう寺坂が管理人なのが普通だけど」
一瞬、言葉が出なかった。
祖母はそのやり取りを見て、何か納得したように小さく頷いた。
「思ったより、ちゃんとやってるじゃない」
「思ったよりってなんだよ」
「あなたのことよ」
祖母は笑った。
「だから、もう少し任せてみようかなと思って」
「俺に?」
「嫌なら戻るけど」
そう言われて、すぐには答えられなかった。
最初は、ばあちゃんの代わりだった。
戻ってくるまでの、ほんの短い間だけ。そのつもりだった。
でも今は。
「……いや」
俺は首を振った。
「もう少し、俺にやらせて」
祖母は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「そう言うと思った。じゃあ、私はそろそろ帰るわね」
「夕飯、食べていかないのか?」
「今日はいいわ。今度ゆっくりいただく」
祖母はそう言って、玄関へ向かった。
「亮太郎」
「ん?」
「ちゃんとやりなさいよ、管理人さん」
「分かってるよ」
祖母は満足そうに笑って、星見風寮をあとにした。
☆
夕食の席、すずは以前より積極的に会話に加わるようになっていた。
「今日の勉強会、すごく分かりやすかったです、理央先輩」
「先輩じゃなくて理央でいいわ」
「あ、はい……理央さん」
「さんもべつにいらないけど、まあいいわ」
二人のやり取りを見ながら、水瀬が満足げに頷いていた。
「すずちゃん、本当にしっかりしてきたよね」
「水瀬先輩のおかげもあります」
「私、たいしたことしてないけど」
「いえ、みなさんのおかげです」
すずの言葉に、リビング全体が温かい空気に包まれていた。
☆
その夜、俺は自分の部屋で今日のことを振り返っていた。
「亮太郎先輩、か」
声に出してみると、なんだか妙にくすぐったい響きがした。
入寮当初、リビングにほとんど顔を出さなかったすずが、今では自分から呼び方を変えるほどに変わった。
俺が何かたいしたことをしたわけじゃない。それでも、この寮で毎日飯を作って、声をかけてきた時間も、少しくらいは役に立っていたのかもしれない。




