第二十四キュン 先輩、絵をやめようと思ったことありますか?
六月十日を過ぎ、奏が応募していたコンクールの結果発表の日がやってきた。
「今日だったよな、確か」
朝食の席で俺が尋ねると、奏はいつも通りの飄々とした調子で頷いた。
「うん、午後に発表されるみたい」
「緊張してないんですか?」
「してるよ、めちゃくちゃ」
言葉とは裏腹に、奏の表情はいつも通り穏やかだった。
☆
その日の午後、学校から帰った奏は、しばらく自室にこもっていた。
「先輩、結果、どうだったんでしょうか?」
すずが心配そうに、閉じた奏の部屋のドアを見つめている。
「聞きに行った方がいいのか、放っておいた方がいいのか、迷うな」
「私も、迷います」
☆
夕方近く、奏はようやくリビングに姿を見せた。
「あ、みんな」
いつも通りの声色だったが、その目は、少し赤くなっているように見えた。
「先輩、結果は」
水瀬が控えめに尋ねる。
「落選」
奏は、あっさりとした調子でそう答えた。
「そう、ですか」
すずが、それ以上何と言えばいいか分からない様子で俯く。
「まあ、こういうこともあるよね」
奏はいつも通りの笑顔を作っていたが、その笑顔には、いつもより力がなかった。
☆
その夜、夕食の席は、いつもより静かだった。
誰もがどこか奏の様子を気にしながらも、うかつに触れることができずにいた。
「今日は、先に休むね」
夕食を終えると、奏はそう言って、早々に自室へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、リビングに残った俺たちは、なんとも言えない空気に包まれていた。
「大丈夫でしょうか、有馬先輩」
すずが、心配そうに呟く。
「あの様子だと、大丈夫じゃないと思うけど」
水瀬も、深刻な表情で頷いた。
☆
その夜遅く、俺は麦茶を飲みに台所へ向かう途中、奏の部屋の前を通りかかった。
ドアの隙間から、微かな明かりが漏れている。
「先輩、起きてますか?」
声をかけると、少し間があってから返事があった。
「……うん、起きてる」
部屋に入ると、奏は机の前に座り、真っ白なキャンバスをぼんやりと見つめていた。
「何か描いてるんですか?」
「描こうとしてるんだけど、全然手が動かなくて」
奏はそう言って、小さく苦笑いを浮かべた。
「今日、つらかったですよね」
「まあ、それなりに」
奏はいつも通りの軽い調子で答えようとしたが、その声は、どこか無理をしているように聞こえた。
そのとき、部屋の外から、控えめなノックの音が聞こえた。
「あの、私です」
すずの声だった。
「すずちゃん? どうしたの」
奏がドアを開けると、すずが小さな紙袋を手に立っていた。
「これ、その、お夜食にでもと思って」
紙袋の中には、簡単な焼き菓子が入っていた。
「わざわざ作ってくれたの」
「いえ、その、たいしたものじゃないんですけど」
すずは、いつもより緊張した様子で、部屋に入ってきた。
「すずちゃんも、座って」
奏に促され、すずはおずおずとベッドの端に腰を下ろした。
俺は、二人のやり取りを見守りながら、部屋の隅に立っていた。
「有馬先輩」
しばらくの沈黙の後、すずがぽつりと口を開いた。
「先輩は、絵をやめようと思ったこと、ありますか?」
その問いに、奏は少し驚いたように目を見開いた。
「……なんで、急にそんなこと聞くの」
「その、私も最近、色々考えることがあって。頑張ってることが、うまくいかない時、続ける意味って何なんだろうって」
すずの声は、いつもより真剣だった。
奏はしばらく黙り込んでから、冷静に答え始めた。
「正直に言うと、何度もある」
「そう、なんですか」
「特に、今日みたいに結果が出なかった時は、いつも思う。もう、こんな辛い思いするくらいなら、やめた方が楽なんじゃないかって」
「それでも、続けてるのは」
すずが、身を乗り出すようにして尋ねる。
「なんでですか?」
奏は、机の上の真っ白なキャンバスに目を向けながら、しばらく考え込んだ。
「たぶん、やめるっていう選択肢が、私には結局、選べないからだと思う」
「選べない、というのは」
「絵を描くことが、つらいことも含めて、私の一部になってるから。やめたら、自分の何かが欠けるような気がして、それが怖いの」
奏の言葉は、いつもの軽い調子とは違って、どこか重みがあった。
「先輩でも、そんな風に思うことがあるんですね」
「みんな、そうだと思うよ。頑張ってることほど、うまくいかない時はつらいものだから」
「すずちゃんは、何か、続けるかどうか悩んでることあるの?」
奏がふと尋ねると、すずは少し考えてから答えた。
「その……ここでの生活、というか。みんなといっしょにいること自体が、私にとっては、まだ少し怖い時があって」
「怖いって」
「せっかく居場所ができたと思っても、それがいつか、なくなってしまうんじゃないかって」
すずの言葉には、これまであまり見せなかった、率直な不安が滲んでいた。
「そっか」
奏は、優しくすずの言葉を受け止めるように頷いた。
「すずちゃんにとって、この寮での日々が、ちゃんと大事なものになってるってことだよね」
「はい……」
「だったら、それを大事にする気持ちがある限り、簡単に手放さなくていいと思う」
奏の言葉に、すずはゆっくりと頷いた。
「先輩も、絵を、手放さなくていいと思います」
すずの控えめな一言に、奏は少し驚いたような表情を見せた。
「すずちゃんが、そんな風に言ってくれるとは思わなかった」
「私、下手だから、うまく励ませないんですけど」
「じゅうぶんだよ。ちゃんと伝わってる」
奏は小さく微笑んだ。
その様子を見ていた俺は、少し離れた場所から声をかけた。
「先輩、あの絵、どうするんですか?」
「あの絵って?」
「コンクールに出したやつ」
「ああ……」
奏は、少し複雑な表情を見せた。
「結果は残念だったけど、あの絵自体は、自分でも、結構気に入ってるんだよね」
「じゃあ、いいんじゃないですか」
「いいって」
「結果がどうであれ、先輩自身が納得できる絵が描けたなら、それでいいんじゃないですか。俺は絵のことよくわかんないですけど、そのくらいは分かります」
奏は、しばらく俺の言葉を噛み締めるように黙っていた。
「亮太郎くん、前にも似たようなこと言ってたよね」
「言いましたっけ」
「言ってた。怖いって思うのは、本気で向き合ってる証拠だって」
「そのときと、今も、同じことしか言えないですけど」
俺がそう言うと、奏は小さく笑った。
「じゃあ、その言葉、今回も信じてみようかな」
奏の声には、少しずつ、いつもの調子が戻り始めていた。
「明日から、また新しい絵、描いてみようと思う」
「それがいいと思います」
「あの、私も、先輩の絵、また見たいです」
すずが、はにかみながらそう付け加えた。
「じゃあ、次描けたら、真っ先にすずちゃんに見せるね」
「約束ですよ」
「うん、約束」
その瞬間だった。
――ピコン。
壁の外にある予備モニターが、微かに光った。
「あ、今の」
すずが小さく声を上げる。
「発電したみたいだな」
俺がそう言うと、奏はいたずらっぽく笑った。
「すずちゃんの、今の一言が効いたのかもね」
「わ、私、変なこと言いましたか」
「変じゃないよ、すごく嬉しかった」
☆
その夜、三人でしばらく他愛のない話を続けた。
結果は残念だったけれど、奏の表情には、少しずつ元の穏やかさが戻ってきていた。
「そろそろ、みんな寝ようか」
奏がそう言うと、すずは小さく頷いて、部屋を出る準備をした。
「先輩、また辛くなったら、いつでも言ってくださいね」
「うん、ありがとう、すずちゃん」
部屋を出る前、すずは俺の方を振り返った。
「寺坂先輩も、いつも、ちゃんと言葉をくれますよね」
「そんな、たいしたこと言ってないけどな」
「ううん、たいしたことです」
すずは、そう言って、小さく笑った。
☆
三人が部屋を出た後、俺は一人、廊下に立ち尽くしていた。
奏の絵への向き合い方、すずの寮への向き合い方。
それぞれが抱えている不安や迷いは違っても、根っこにある「大切なものを手放したくない」という気持ちは、どこか共通しているように感じられた。
その気持ちは、今の俺にも、少しだけ分かる気がした。




